パレルゴンショー

承前


2011年11月15日から、2012年1月15日まで、東京国立近代美術館では「ぬぐ絵画―日本のヌード 1880-1945」が開催されているそうだ。


今日も盛んに描かれ続ける、はだかの人物を主題とする絵画。絵といえば、風景や静物とともに、まずは女性のヌードを思い浮かべる方も多いのではないでしょうか。


しかし、はだかの人物を美術作品として描き表し、それを公の場で鑑賞するという風習は、実はフランス、イタリア経由の「異文化」として、明治の半ば、日本に入って来たものでした。以後、これが定着するまで、はだかと絵画をめぐって、描く人(画家)、見る人(鑑賞者)、取り締まる人(警察)の間に多くのやりとりが生じることになりました。


「芸術にエロスは必要か」「芸術かわいせつかを判断するのは誰か」にはじまり、「どんなシチュエーションならはだかを描いても不自然ではないのか」「性器はどこまで描くのか」といった具体的な事柄まで、これまで多くの画家たちが、はだかを表現するのに最適な方法を探ってきました。


今日も広く論じられるこうした問いの原点を、1880年代から1940年代までの代表的な油彩作品約100点によってご紹介します。


http://www.momat.go.jp/Honkan/Undressing_Paintings/


未見である。従って、現時点ではその周囲を、ウロウロと書く事しか出来ない。何時かそれを見る事があれば、展覧会としての同展について書くかもしれない。見なければ、当然書かないだろう。同展特設サイトはこちらだ。


http://www.momat.go.jp/Honkan/Undressing_Paintings/highlight/index.html


極めて意欲的なサイトであると言えよう。少なくとも「新日曜美術館」辺りの安っぽい「解説」よりも、JUN OSON氏による「名作に遠慮なく突っ込みを入れる、切れ味するどいレポート」の方が、遥かに「批評」的に「上質」であると思われる。

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「ぬぐ絵画―日本のヌード 1880-1945」展最終日の1月15日は、嘗て「成人の日」であった。「成人の日」はまた、「成人指定」への公式デビューの日でもある。しかしどうやら、この展覧会は、X指定(X rating)ではない様だ。R指定(Restricted)でも、「親同伴が望ましい(Parental guidance)」でも無い。そうした事は、同展のサイトには一言も書かれていないどころか、「高校生以下および18歳未満、障害者手帳をご提示の方とその付添者(1名)は無料」なのである。全く無条件に(しかもタダで)、未成年者カモ〜ンでウェルカムなのだ。何故に「美術館」だけが、そうした「指定なし」になっていているのかは、このサイトには書かれていない。寧ろそれを書く事こそが、同展に於いては最も重要である気もするのだが、それはさておき。子供同士で「R指定」と言っても良い同展に行っても、誰にも怒られない。「冬休みに(「国立」の)美術館に行って、『ぬぐ絵画』を見ました」と言っても、教員の説諭の対象にはなかなかならないだろうし、少年課に補導もされない。警察が、近美の前で補導の網を広げている訳でもない。


しかしまあ、それはそうだろう。「R指定」の彫像が、堂々と駅前や公園といった街中に立ちまくっている。交番の前にも警察署の前にもそれはあったりする。その前を、高校生、中学生、小学生、幼稚園児が、毎日登校、登園する。そこで「R指定」の彫像を見た子供が補導されたという話を、未だ嘗て聞いた試しが無い。「R指定」の彫像が、通学路に建つ事に反対する、保護者も市民運動も皆無だ。モニュメントの除幕式かなんかで、それなりに功成り名遂げた「お偉いさん」が紐を麗々しく引き、それによって覆いの布が落ちると、そこにジャ〜ンと現れる「R指定」の彫刻という、言わばモンティ・パイソンの様な光景が、日本国中でごく普通に展開されている。「芸術」は素敵で無敵だ(但し「パフォーマンス」の様なナマモノはダメ)。少なくとも世間様は、この程度には「芸術」に理解がある(或いは、問題とするのさえ愚かしいものとして無視している)のだ。


上記「特設サイト」の、「この『はだか』に注目」には、「これは芸術なんだから、いやらしいことを考えるなよ」と書いてあるが、全ての「R指定」の展覧会や、「R指定」のパブリックアートにこそ、それは明示して欲しいところだ。ついでに、アダルトゲームなんかのパッケージにもそれを書けば、きっと警察は御目溢し(おめこぼし)してくれるに違いない。と言うか、実際にそういうケースがあったのだ。これもまた、「芸術」と「猥褻」を巡る話だ。

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前述した様に、1月15日は嘗て「成人の日」であった。しかし同時にその日は「アダルトの日」でもある。今から64年前、アプレ・ゲールな時代の1947年1月15日、東京・新宿の帝都座5階劇場(現新宿マルイ本館)にて行われた、日本初のストリップショーの、第一回公演の最終日を記念して制定されたのが、「アダルトの日」である。


「名画アルバム・ヴィナスの誕生」と題された日本初のストリップショーは、所謂「額縁ショー」と呼ばれるものだ。舞台上に巨大な額縁を設置し、その中で下半身を布で隠した上半身裸の女性が、西欧の裸体画のポーズをとりながら、数十秒間じっとしている。歌(中村哲、田千鶴子)と踊りとコントで構成され、全18景の内、12景が、ボッティチェルリの「ヴィーナスの誕生」を模している。


脚本を佐谷功、構成・振付を益田博、ヴィナス役は中村笑子(えみこ。本名松本エミ。29歳)。総合プロデューサーは丸木砂土(マルキ・サド)のペンネームを持ち、エロ小説、エロ紀行の「夜の話・昼の話」「世界艶笑芸術」「女体西部戦線」等の著作を持ち、ゲーテの「ファウスト」「若きエルテルの悲しみ」や、マルキ・ド・サド作品の翻訳紹介を務め、東京宝塚劇場後楽園スタヂアム、帝国劇場、東宝の社長を歴任した秦豊吉(55歳)。額縁ショーのポーズ監修は、東郷青児であった。菊池寛に紹介された阪急社長の小林一三から東京宝塚(東宝)を任され、日劇ダンシングチームを育成した彼が、帝都座5階劇場のこけら落としに、ヌード女性を登場させる事を思い付く。


しかし、女性が動けば「風俗壊乱罪」となり、当局の取り締まりの対象となる為、女性を動きを伴う「踊り子」として登場させる訳にはいかない。そこで、数十秒間動かない半裸の女性、中村笑子を、泰西名画(「芸術」)という方便を以て、額縁の中に嵌め入れる事で、そうした問題を解決しようとした。額縁ショーは、秦が三菱合資会社(後の三菱商事)の商社マンとして、第一次世界大戦後のベルリンに勤務していた時期に見聞した、ルネサンス期の彫像のポーズを模す「生きた大理石像」ストリップショーが原形になっている。但し、「ヴィナスの誕生」の中村笑子は、頑なにブラジャーを取る事を拒んだ為に公演自体は不評であり、それ故に観客の入りは良くはなかった。第一回公演「ヴィナスの誕生」はこうして興行的には余り成功しなかったが、次の第二回公演「ル・パンテオン」では、中村笑子に代わった甲斐美春(19歳)が胸を露出して、これが額縁ショーの興行的大成功をもたらす事になる。


果たしてその額縁が功奏したか、額縁ショーはこの後数ヶ月に渡って、当局との間に大したトラブルもなく上演され続けた。当局は「額縁」という「芸術」を証明するパレルゴンの存在ゆえに、それを犯罪として同定する事は叶わなかったが、一方で連日定員の四倍以上にも膨れ上がった観客の男達は、額縁によって、その興奮が高まる事も、低まる事も無く、それを「対象の完全な表象に含まれるただ周縁的なものでしかなく、本質的な構成要素ではないもの」として看過し、ただ女性の裸体という「純粋な趣味判断のための適切な対象」を見たいだけの欲望が膨らむばかりであった。額縁ショーという仕立ての巧妙さは、「芸術」に手出しを出来無い当局に対しては「これは『芸術』なんだから、いやらしいことは考えていません」と方便する一方で、観客に対しては「これは『芸術』ですが、いやらしいことを目一杯考えて下さい」とする、「周縁的なもの」と「本質的な構成要素」を使い分ける二重性にある。


ただし当局にしたところで、額縁があるからといって、それを「芸術」などと思っていた訳ではない。額縁の中にあるのは、当時の当局の目からすれば、明らかな「猥褻」物件であるにも関わらず、それに対して手出しが出来なかったのは、額縁や台座や美術館という「パレルゴン」に守られた、裸体画や裸体彫刻の群を取り締まらない事との法的整合性を図るが故であろう。


駅前や公園などという公衆空間にあって、人体彫刻が男性器や乳房を露出しても尚、それに対する咎を免れ得、猥褻物とならないのは、ひとえに「パレルゴン」の賜物である。「純粋な趣味判断のための適切な対象」が、まさしくそれでいられるのも、「対象の完全な表象に含まれるただ周縁的なものでしかなく、本質的な構成要素ではないもの」=「パレルゴン」の賜物である。「これは(近代)芸術なんだから、いやらしいことを考えるなよ」の「芸術」を成立させるのは「パレルゴン」である。「パレルゴン」の威光を仰ぎ、自らを去勢する事によって、「そのようなもの」=「芸術」として現前する。従って猥褻か芸術かは、それ自体では永遠に決定不能なのである。


サンクチュアリをもたらしてくれるパレルゴンの内側で、「芸術」として去勢され、「芸術にエロスは必要か」「芸術かわいせつかを判断するのは誰か」「どんなシチュエーションならはだかを描いても不自然ではないのか」「性器はどこまで描くのか」などと、ちまちました者同士向き合って、飽きもせずに100年以上も「今日も広く(狭く)論じられるこうした問い」をちまちま発し、しかもそうしたちまちまは、決定不能性によって永遠に終わる事は無いだろうと思えるその横を、「芸術」というパレルゴンってのは使ってナンボのもんなんだよと、秦豊吉の様な本物の「猥褻」の傑物は、さっさと通り過ぎていくのだった。


【続く】


2006年01月25日初出の文章に加筆修正