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見落とされるもの

承前


多摩美術大学美術館で開かれていた「考える葦」展の「吉田哲也(及び若林砂絵子)」について書く筈なのだ。しかしもう少し脱線する。

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保育カレンダー」というのを買ってみた。1ヶ月毎に保育園児の「絵」が、4色フルカラーで印刷されているという「豪華版」であるが、それでも例えば「AKB48オフィシャルカレンダーBOX2012 CHEER UP!〜あなたに笑顔届けます〜」の半分以下の値段である。カレンダーの一枚一枚には、「絵」の「作者」である、保育園児の「人物」や「人生」も丁寧に書かれていて、それを読む事で、その「絵」に対する一層の「理解」が進むかもしれない。


子供の絵というのは、親にとっては「宝物」であろう。後年、子供がすっかり長じた何かの折に、「これはあなたが3歳の時に描いた絵」と、親がクロゼットの奥からそれを引っ張り出して来たとしても、多くの場合、それを見せられた当の子供は「ふ〜ん」だろうが、子供よりも遥かに「人生を共にして来た」感の強い親にとっては、他人から見れば、単に汚らしく見える殴り書きも、それが「良く描けている」か否かに関わらず、何にも代え難い「宝物」である。「保育カレンダー」に載っている、どの他人様の子供の「絵」よりも、自分の子供のそれは、別次元の「宝物」なのだ。


その一方で、子供には子供の「宝物」というものが存在する。それが「トミカトーマス」や、「キュアミューズドール」等といった、玩具メーカー製の誂え商品である事も勿論あるが、しかし例えば、何かの部品であるとか、何かの削り滓であるとか、何かの欠片であるとか、石や木の根であるとかが、彼等の宝箱の中のセンター位置に、大事に仕舞われているというケースは多い。大人の目からすれば、「トミカトーマス」や、「キュアミューズドール」は、市場的な交換価値を持つ「良く出来た『商品』」であるが故に、その価値をそれなりに判らなくもないが、部品や、削り滓や、欠片や、石や木の根の価値は、一向に判らない事が多い。


或る日、それを何かの「間違い」(或いは「教育的配慮」)で捨ててしまったとしたら、十中八九、子供は泣き叫ぶ事であろう。余りの泣き叫び振りに、同じ様な代替物を差し出して、子供を宥(なだ)め賺(すか)そうと試みる事もまたあるだろう。しかしそうする事で、子供が納得する事は少ない。子供にとって、失われてしまったあの部品と、いまここにあるこの部品は全く違う。失われてしまったあの石と、いまここにあるこの石は全く違う。形が違う、色が違う、重さが違う、匂いが違う、味が違う、肌触りが違う、そこから見えてくるものが全く違う。前の部品や石には、橋があった、トンネルがあった、道があった、坂道があった、壁があった、溝があった…。なのにこれには何も無い、何も見えない。どうして大人はその違いが判らないのだろうか。いや判らないのだろう。それは自分にしか見えない。自分以外の誰にも見えないからこそ、これは「宝物」なんだ。


やがて子供は長じる。部品にも、削り滓にも、欠片にも、石や木の根にも、一向に心動かされない大人になる。それらの形、色、重さ、匂い、味、肌触りの違いに目を奪われる事もなく、そこに橋や、トンネルや、道や、坂道や、壁や、溝を見る事の出来る能力も時間も失われる。その代わりに、その主な関心の対象となるのは、「良く出来た『商品』」で覆われた世界だ。そこでは「子供の絵」さえ「商品」化される。そして、或る「商品」が、如何に他よりも「良く出来た『商品』」であるかを、飽きる事無く熱心にお喋りする一方で、「悪い出来の『商品』」を悪しざまに言い、そうした「良く出来た『商品』」を手に入れる事にこそ、人生の時間の大半を費やす。子供の様に、自分で「宝物」を見付ける時間は無くても、手を変え品を変えて与えられる「宝物」で、大人は時間を潰す事が出来る。そしてそれで大人の一生が終わる。

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多摩美術大学美術館の会場内、二階の「吉田哲也」のフロアに入ると、既に一人の紳士がいた。紳士がどういう人物なのかは判らないが、しかし、「美術」に対して「特段」の知識がある様には見えなかった。そういう人の事を、「美術」の世界では「一般人」と呼び習わす。


紳士は「吉田哲也」が少しも「見えていない」様だった。「なまし番線」を曲げただけのものや、微妙に曲げ伸ばしされたものが彫刻台の上に置いてある。「作品がここにある」事を明示する彫刻台の上の作品はまだしも、壁面の作品を紳士は幾つかリアルに見落としていた様に見えた。その彫刻台の作品にしたところで、紳士はそれを「一瞥」しているといった風情だ。それを見ていて、成程「吉田哲也」の「作品」は、「見落とされるもの」だという事が良く判った。これはネガティブな意味で言っているのではない。


極めて普通に「見落とさせない作品」というのは、世の中に数多ある。さしずめ「パブリック・アート」なるものは、その極北だろう。それは「見落として貰っては困る作品」であり、「見落とされたら元も子も無い作品」である。「何よりも先に、見て貰わなければ意味が無いだろう」と、半ば苦労人の口を衝いて出る人生訓の様な事を、そうした「見落とさせない作品」は主張している様にも思える。だからこそ、「見落とさせない作品」は、「耳目」を集めようと粉骨砕身し、「商品性」を高めようと努力する。時にそれは巨大であったり、華麗であったり、綺麗であったり、崇高であったり、奇矯であったり、異形であったり、露悪であったりする。ここまでやっているのだから「見落とす」筈が無いだろう。「見落とさせない作品」の多くは、それを見せる対象の「耳目」を、エレメンタリーであると見做している。もう少し踏み込んで言えば、自分以外の「耳目」を値踏みし、どこかで馬鹿にしている。あの紳士はそうしたものこそを、美術館の展示に期待していたのだろう。自分の「耳目」が値踏みされ、馬鹿にされる様なものをこそ、「美術作品」であるとして欲していたのかもしれない。


「吉田哲也」の様な「見落とされるもの」を、それでも「見落とさない」とはどういう事だろうか。或る意味で、「吉田哲也」の様なものは、幾らでも世の中に存在している。「なまし番線」を切って、少しだけ曲げれば、何百本でも「吉田哲也」が出来上がる。「トタン板」を切って、少しだけ変形させれば、何百枚も「吉田哲也」が現れる。それはどうという事の無いものだ。嫌になる程の「日常」だ。しかしそこに、「日常」の中に「宝物」を見付ける能力を有する子供がいれば、もしかしたら、その中のたった一本、一枚を拾い、そこに、他のものとは全く違う何かを感じ、それを自分にとってかけがえの無い「宝物」とするかもしれない。それは、橋なのか、トンネルなのか、道なのか、坂道なのか、壁なのか、溝なのか、或いは全く別の何物なのかは判らないが、いずれにしても、そうした特別の次元を、子供はたった一本、一枚の、何の変哲も無い「なまし番線」や「トタン板」に見付けるかもしれない。要するに紳士は、大方の大人の様に、子供になれる能力をすっかり失っているのだ。仮に紳士にそうした能力が幾らかなりとも残ってさえいれば、「吉田哲也」をもう少し面白く見られる筈だったのにと思うと、紳士の払った入館料300円が極めて残念である。


「美術」に於ける通常の因果律は、作品があり、それを見る事で何かが見え、そこから世界が見えてくるという順番になる。しかし「吉田哲也」的なものの場合は、何かが見える構えがあるからこそ、その一見何の変哲も無いものが作品に見え、そこから世界が見えてくるという因果律の様に思える。観客はそこで篩に掛けられる。「吉田哲也」的なものは、能力の無い者には見えない。只々「見落とす」ばかりだ。但し、そこで必要とされるのは「子供」という能力だ。簡単な事だ。しかしその「子供になる」という簡単こそが、大人にとっては一番困難なのである。その困難を克服出来る大人はそう多くはない。だからこそ、多く「見落とされる」事を厭わない「吉田哲也」は、それだけで極めて「過激」だ。そして、そこだけでも何時でも子供に帰る事が可能になれば、何も「美術」と呼ばれる「良く出来た『商品』」は必要でなくなる。子供の目で周囲を見回せば、世界は既に「宝物」に満ちている。

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カタログの「吉田哲也」の年譜を見る。40歳で終わる彼の生前の展覧会の会場は、「ギャラリーなつか(b.p.含む)」、「ルナミ画廊」、「ときわ画廊」、「西瓜糖」、「藍画廊」等々といったところである。所謂「コマーシャル・ギャラリー」は皆無だ。寧ろそれらは、毀謗の対象である事が多い「貸画廊」ばかりだと言えよう。しかし考えてもみれば、「吉田哲也」を売る事が出来る「コマーシャル・ギャラリー」などあるだろうか。それが出来る実力を有した「コマーシャル・ギャラリー」などあるだろうか。いかにも売れそうな作品を作家に作らせ、それを売るというのではなく、絶対に売れそうにないものを、しかも高い値段で幾つも売ってみせるというのが、恐らく斯界の最上級者という事になるのだろう。

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「吉田哲也」だらけになってしまった。「若林砂絵子」についても書く。やはり心惹かれるのは「最晩年」の「多版刷り」の銅版画だ。通常「多版刷り」は、完成形である「ユニティ」に向けてインテグレートされるものだ。そうした版画の場合、版の一つ一つは、そうした全体性に奉仕するロールの内にある。しかし、この版画は、何時まで経っても、恐らく「完成」などしない。「若林砂絵子」は、恐らく「完成」などというものを全く信じていない。「完成」という「凡庸」極まりないものに陥る事をこそ恐れている。版を重ねれば重ねる程、それは外部を引き込む。「一体何がしたいんだ」。そういう疑問も出て来るだろう。しかしそんなに「何がしたい」が判る事は、重要なものだろうか。逆に問いたい。「一体何がしたいんだ」と問う事で、一体何がしたいんだ。


【了】