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私的複製

承前


汲めど尽きせぬ「位相ー大地」。時と所を問わず、様々な言説のハブになると思わせるところが、美術史に通ずる者をして、「位相ー大地」を「記念碑的作品」と言わしめるところなのかもしれない。そうした「反復」を可能なものとするのが、「歴史的資料」の第一の条件なのだろう。要するに「歴史的資料」というものは、大抵「ネタ元」として「使い出」があるのだ。従って、またしても「それ」から書き始める事にする。

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その前に、「位相ー大地」誕生のエピソードというのは、なかなかに興味深いものがある。


 関根は高校生時代には岡本太郎の著作をバイブルのように読み、多摩美の大学時代は日本美術史や庭園の本に親しみ、京都にもしばしば訪れていた。もともとは油画が専攻科目。斎藤義重の指導を受けた。須磨離宮公園での現代彫刻展に出品することになったのは、68年5月の第8回現代日本美術展に「位相」と題して出品した半立体(レリーフ)作品が事務作業員のミスで絵画部門ではなく立体部門に回され、コンクール賞を受賞。須磨での現代彫刻展への出品作家に選抜されるという偶然が重なってのことだった。関根にとっては思いもかけない展開であり、彫刻は全くの初体験。展覧会が近づき作品集荷の段取りを主催者側に打診されたときも、「現地制作するから結構です」ととっさに返答したもののまだ全くの白紙状態。追いつめられた気持ちのなか、関根が関心を寄せていた位相幾何学や禅、老荘思想などを背景に思い至ったのが「位相−大地」のアイデアであり、その背景に向月台のイメージがあった。


京都新聞
http://www.kyoto-np.co.jp/kp/newfun/contents/sun/art_newworld/art_newworld03.html


偶然に偶然が重なり、68年5月の「現展」出品段階で「平面作家」であった関根伸夫氏は、その5ヶ月後の10月には「彫刻作家」になっている。果たして「事務作業員のミス」が無かったらどうなっていただろうか。窮余の末の「現地制作するから結構です」という一言を発しなかったらどうなっていただろうか。こうした「偶然」のピースが一つでも欠けていたら、「位相ー大地」は、果たしてこの世に実現されていただろうか。こうした事は、どうやら「傑作」と呼ばれるものには多く存在するらしく、例えばあのつげ義春氏の「ねじ式」の場合はこうだ。


 42年(注:昭和42年・1967年)だったか、ぼくはその頃、調布の水木しげる氏の近所のラーメン屋に下宿をしていた。
 二階の四畳半の部屋だったが、窓のすぐ下に屋根があり、布団を干したり昼寝をするには便利な部屋だった。屋根に上ると家主にどなられることもあったが、その屋根の下でウタタ寝をしていて、「ねじ式」のもとになった夢をみたのだった。
 「ねじ式」はあとで、芸術作品だとさわがれたのだが、ラーメン屋の屋根の上でみた夢なのだから、およそ芸術らしくないのだ。
 で、その夢をマンガに描いた動機というのもいいかげんなもので、原稿のしめ切りが迫り、何も描く材料がなく困っていたので、ヤケクソになって描いてしまったものなのだ。
 そんなわけだから、当時、ぼくは夢にはまるで関心がなく、夢を描くことは何ほどの意味もなく、デタラメを描いているような気持ちで「ねじ式」を描いたのだった。だから「メメクラゲ」の「メメ」が「××」の誤植であっても一向に気にしていなかったのである。
 なのに、そんな作品がひとたび芸術というヒョーバンをとってしまうと、いかにも芸術らしくみえるのだから、ホントーに夢みたいな話だ。


小学館文庫 ねじ式 あとがき つげ義春 1976年


今となっては「メメクラゲ」は「メメ」でなければならず、単純な伏字表現(実際そうだったのだろう)に見えてしまう「××クラゲ」では、「メメクラゲ」に到底及ばぬものとして認識されるかもしれない。ともあれ「傑作」になる条件には、「肩の力が抜けている」という事もありそうだ。「肩に力を入れろ」というコーチングは、スポーツの世界では余り見られないが、翻って美術のコーチングの場合は、多くの者がそうするところだと思われる。しかしそうする事で、「傑作」が生まれる事は甚だ蓋然的であり、却ってそれをする事で「傑作」から遠くなる事もあるだろう。勿論、端から「傑作」を物そうと、作家の努力の果てにそれが生まれる事がゼロではないから、当然作家はそれに向けて粉骨砕身するし、それは全く以て誤りではない。しかしいずれにしても、努力をした事で出来上がった「必然」を、遥かに凌駕してしまう「偶然」というものがあり得てしまうというのもまた事実だ。その場合、決断の正否は、事後的に見出される。こういう事は余り書きたくないが、「事務作業員のミス」や「メメクラゲ」の誤植を呼び寄せる様な「運の強さ」というものも、時に作家には必要なのだと言えるだろう。そしてそうした「トラブル」に対処出来るだけの「リカバリー能力」という「実力」も当然必要とされる。確かにそういう例の幾つかを、自分も実際に目撃してきたのではあったが、それはさておき。

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「位相ー大地」は「再制作」可能な作品であった。即ち「位相ー大地」は、その気になりさえすれば、何回でも大体同じ様に作る事が出来るものだ。そこが「作った本人でさえ二度と作れない」という意味での「記念碑的作品」とは決定的に異なる。「今度の『位相ー大地』は、随分と出来が良いねぇ」などという感想は、こと「位相ー大地」に限っては、ただただ頓珍漢なものでしかないだろう。


加えて、それは誰が作っても、きちんとした手順さえ踏めば、大体同じ様に作る事が出来る。但し、工程のどこかでそれが十分でなかった時には、崩壊してしまう可能性がある事も、この2003年の、和光大学・鷲見和紀郎ゼミでの「再制作」の失敗で証明済みだ。


http://www.pg-web.net/off_the_gallery/tsuchiya/001/01main02.html


因みにそのリポートには「1970年の大阪万博に伴い開催された、万国博美術展(注)で再制作された」とあり、それが事実であるならば、2008年の「多摩川アートラインプロジェクト」の惹句、「四〇年ぶりの再制作」というのは、恐らく何かの「勘違い」なのであろう。


(注)旧国立国際美術館で、1970年3月15日から同年9月13日まで開催された「調和の発見」展。日本最高の178万人の入場者数を誇る。但し、数を誇る同展であるが、その内容に関する記述は驚く程少ない。


とは言え、それなりの土木知識や周到なシミュレーション等が伴えば、「位相ー大地」は誰もが作れるものである。だからこそ「関根伸夫オフィシャル」の形でなくても、「再制作」はそこかしこで行われてきた。但しそれらは「関根伸夫」という固有名詞に関わるものとして、その全てが「関根伸夫」の圏内で成されてきたものだし、実際その「再制作」には、必ず関根伸夫氏の「承認」が必要であっただろう。従って「位相ー大地」は、「誰もが作れる」が「誰もが作れない」という二重性の中にある。


ここから先は、思考実験である。ここに一人の紳士がいたと仮定する。紳士は広大な土地持ちであり、その土地の面積を評するのに、「東京ドーム何杯分」という「度量衡」が使用されたりもする。屋敷の前面には枯山水の立派な庭園があり、また京都・慈照寺銀閣寺)そっくりの石庭もある。或る日、紳士は購読している雑誌で「それ」の図版を目撃する。紳士は「それ」を、自分の広大な邸宅の庭にも欲しいと思った。但し、紳士は「骨董」には興味があっても、同時代の「美術」には全く関心が無いし、それは紳士の視界の全き外にある。その一方で、懇意の骨董屋から「お目が高い」と言われるだけの審美眼を持ち合わせていると紳士は自負している。


雑誌の記事を読むと、「それ」は「美術作品」であるかの様に書かれている。しかし「お目が高い」紳士の頭の中にある「美術作品」の概念からすれば、それは少しも「美術作品」には見えない。紳士にとっての「美術作品」とは、作品上に具現化した、作者の類い希な技術によって価値付けられるものである。即ち紳士にとって、芸術家とは技術上の職能的優位性を持たねばならない。そこからすれば、これのどこが「美術作品」だというのだろうか。これならば建設会社の「土工」にも作れそうだ。実際、雑誌には建設会社の「土工」が作っている図版も載っている。それとも「それ」は、芸術家でなければ作れない、何か特別な技術が必要なのだろうか。いや断じてそんな事は無い。何故ならば、紳士は建設会社の経営者であり、自らも若い時分は数多くの現場で働き、「それ」を作るのには大した技術は必要ないと「見抜いた」からだ。但し、それが「面白い」事だけは、紳士にも判った。紳士の目には、「それ」は、「面白い」形をした「造園」の「作例(サンプル)」の様に映った。


早速紳士は、「作例」に基づいて、自分の会社に「それ」を発注する。見積もりは型枠代と人工(にんく)代、その他を合わせても100万円にも満たない。紳士にとって「それ」は、「造園」の「作例」でしかない為に、「作例」を作った人間に、断りを入れる必要性を感じない。相見積(あいみつ)という頭も無い。こうして「それ」そっくりなものが、紳士の会社の「土工」の手による「内製」で、紳士の邸内に出現する。それは「私的複製」と言えるものかもしれないものの、しかし紳士には複製であるという認識すら無い。


或る日、紳士の邸内でパーティーが催される。そこに娘の友人である美大生がやってくる。美大生は「それ」を見るなり「すごいですね」と紳士に言った。紳士は「すごいだろ」と答える。美大生は「関根伸夫さんに依頼されたんですか?」と問う。紳士は答える。「いや、うちの若い衆に作らせた」。美大生は、紳士の言っている意味が良く判らなかった。紳士は続けた。「雑誌に載っていたこれが面白いと思ってね。それでうちの会社の人間に作らせたんだ」。「関根伸夫さんには?」。「誰だね、関根伸夫って」。「これを作った人ですよ」。「だから、これはうちの若い衆が作ったんだって。話を良く聞きなさい」。「違います。これは関根伸夫さんが作った有名な美術作品なんです」。「こんな誰でも出来る様なもの、美術作品じゃないよ」。「駄目です。これは駄目です。こんなのは認められない。これはあってはならないものだ」。そして美大生は庭に飛び出ると、穴の縁を崩しに掛かった。


【続く】