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横浜「過去」

承前


前回の「記事」から、随分と時間が経ってしまった。あの時は「ヨコハマトリエンナーレ2011」が開幕中であり、今は閉幕してしまっている。


「ヨコハマトリエンナーレ2011」を見たその頃から体調が悪い。不調の原因は判らない。横浜で何かを拾ってきたのかもしれないし、たまたま体調の降下の時期と、シンクロしてしまったのかもしれない。ようやく不調は薄らぎつつあるが、同時に横トリの記憶も薄らぎつつあるのは、恐らく困った事なのだろう。


4日前の夕刻に「ヨコハマトリエンナーレ2011」は終わった。「横浜」の続きを書けなかったのは、偏に体調不良の所為ではあるが、しかし閉幕後の4日間で、「ヨコハマトリエンナーレ2011」はすっかり「過去化」してしまった様にも感じられる。Twitter で検索を掛けても、こと展示に関する囀りは、もう余り引っ掛かってこない。紙媒体の美術雑誌には「展評」というものがあるが、紙のそれは展覧会が終わって数ヶ月後に、ようやく誌面に掲載されるという悠長なものであった。しかし、展覧会を見た直後、或いは文章を纏めるのに数日掛かったとしても、一昔前の時間感覚からすれば「瞬時」に「展評」を公開する事が可能になってくると、「ヨコハマトリエンナーレ2011」について、閉幕後数日経ってから言及するというのは、何とも間が抜けた印象を持たれるのかもしれない。


閉幕までの一週間というもの「終わってしまう。早く行かなくては」という悲鳴にも似た声が、方々から聞こえたりもしたものだった。斯く言う自分もまた、横トリ公式サイトのカウントダウン・ガジェットが、一桁になってから行った口だ。何となくではあるが、開幕直後観覧組に対して、閉幕滑り込み組は、「出遅れ感」を持つ印象があった。「出遅れ」組には、閉幕直前の「尻に火が付いた」状態になるまで「行けなかった」事を「負い目」と思う印象もある。しかし、いずれにしても、それもこれも4日前でお終いになった。終わってしまえば、何時行ったなどという事はどうでも良い話になる。


そうした「駆け込み」が多かったという事になるのだろうか、「ヨコハマトリエンナーレ2011」は、10月16日の20万人越えから20日程で、133,739人を上乗せし、総来場者数が333,739人になったという。


【ご報告:会期中の総来場者数はのべ333,739人となりました】


8月6日に開幕したヨコハマトリエンナーレ2011は、昨日11月6日をもって閉幕いたしました。83日間の会期中のご来場いただいたお客様の総数は、のべ333,739人となりました。皆様のご来場に心から御礼申し上げます。


<会場別来場者人数>
横浜美術館(有料会場)           184,562人
日本郵船海岸通倉庫(有料会場)     118,660人
ヨコハマ創造都市センター・
横浜市環境活動支援センター(無料会場)  30,517人


http://www.yokohamatriennale.jp/news/4559.html


横浜美術館と、日本郵船海岸通倉庫(BankART Studio NYK)と、ヨコハマ創造都市センター・横浜市環境活動支援センターをそれぞれ別立てにして、それを「のべ」とする事で算出された「333,739人」である。即ち、例えば横浜美術館に行った観客が、日本郵船海岸通倉庫やヨコハマ創造都市センター・横浜市環境活動支援センターに全く行かなかった事を前提にしての「33万人」だ。勿論現実的な数字としては「(横浜美術館の)184,562人+α」といったところだろう。すると2005年の山下ふ頭横浜市営3号・4号上屋での「19万人」とほぼ同じという事になる。いずれにしても、こうした数字の出し方を、不誠実とするか否かは意見の分かれるところだろう


入場者数333,739人を「のべ」の上にも「のべ」であるとして、しかしその上で、果たしてこの展覧会の「リピーター」が、どれだけいるものであろうかとも思ったりする。「何回も見に行った」。そういう声は、自分の周囲に限っては無い。「何回も見に行けない」という事はあるだろう。その中には「何回も見に行きたい気持ちはあった」もあり得る。勿論実際に「何回も見に行った」ケースも多いだろうが、その一方で、「何回も見に行く必要性を感じない」という見方もある。


「何回も見たい」展覧会というものは確かにある。「何回も見たい」と思わせる作品も確かにある。「何回も見たい」という事それ自体は、良いとも悪いとも言えないが、一方で現代美術の場合は、「何回も見る」事に対して、余り重きを置かない例が多いという事もある。例えばデュシャンの「泉」は「何回も見たい」ものではない。但し「泉」が「稀有」の存在であるのは、「何回も見たい」と思わせるものではなくても、「何回も語りたい」とされているからだろう。


果たして「ヨコハマトリエンナーレ2011」と、そこにある作品は、「何回も見たい」、或いは「何回も語りたい」ものであっただろうか。そこにあった作品は、コレクション等を別にして、恐らく「二度と見られない」かもしれないものばかりだった筈だ。「ヨコハマトリエンナーレ2011」が、「何回も見たい」「何回も語りたい」ものであったか否か。それを検証する一番手っ取り早い方法は、来る「ヨコハマトリエンナーレ2014」もまた、今回と全く同じ展示にする事だ。その時に、他ならぬ「また同じか」という落胆の声が多く出てくる様であれば、それらは「何回も見たい」「何回も語りたい」ものではないと言えるだろう。


であるならば「ヨコハマトリエンナーレ2011」の「過去化」は仕方がないとも言える。「過去化」とは「何回も見たい」「何回も語りたい」という「反復」を切断する事だからだ。人は何故「また同じか」だと「落胆」するのか。「また同じか」は、「過去」として認識されるものの現前に対する「否定感情」なのだろう。そしてその「否定感情」は、その作品に対して、それを見た時点での自分自身の判断への、ナルシシックな「肯定感情」でもある。こうした「過去化(「歴史」と呼ぶらしい)」と「新ネタ(これも「歴史」と呼ぶらしい)」の更新によって、現代美術は不断の新しさを得ると言える。そしてまた、新しさの登場と入れ違いに不断に古びていくとも言える。となれば、新しいものは、それが出現した瞬間にもう古いのだと言えよう。成程そうしたナルシシックな「過去化」が著しいところでは、「批評」もまた成立し辛い。


因みに自分の場合、「何回も見たい」ものはほぼ無かったものの、「何回も語りたい」と思わせるものはあった。それは前回の記事の最後に、少しだけ触れたものを含めた幾つかになる。これらについては、時期によっては書く事もあるだろう。


【一旦了】