横浜「世界」

承前


「ヨコハマトリエンナーレ2011」サブタイトルの「世界はどこまで知ることができるか?」。最初、この日本語文だけを見て、「世界はどこまで知ることができるか?」は、「世界」が主語であり、従って「『世界』がどこまで「知る」ことができるか?」を意味するという、「神秘主義」にも似た「解釈」を一瞬だけした。試しに「世界はどこまで知ることができるか?」を Google 翻訳に掛けてみたら、 "How the world can know how far?" となった。機械翻訳も自分と同じ「解釈」である。しかし英語の「公式」訳では "How much of the World Can We Know?" となっている。「知る」主体は "We" である。こうして「神秘主義」は、「解釈」の前面から排除された。


次に、では「世界をどこまで知ることができるか?」ではなかったのは何故だろうかと一瞬拘ってみた。しかしここにも大きな鉱脈は発見されそうにもなかったので、助詞の「てにをは」には拘らない事にした。但し、「は」にする事での含意が、「世界はどこまで知ることができるか?」に皆無であるとは言えないだろう。


それよりも「世界はどこまで知ることができるか?」の「世界」が最も厄介だ。「世界」もまた多数の語義がある。「世界 - 内 - 存在」という時の「世界」と、「世界の山ちゃん」や「世界のナベアツ」という時の「世界」は異なる。「世界的アーティスト」の「世界」は、どちらかと言えば「山ちゃん」や「ナベアツ」系であり、「世界に向けて発信」や「世界に通用する」も同様だろう。「国際性」の「国際」も、そうした「世界」の系譜にあるだろうから、「国際的山ちゃん」や「国際的ナベアツ」と換言出来る様な、しかし出来無い様なである。ともあれ、仮に「世界的アーティスト」の「世界」が、「世界 - 内 - 存在」的「世界」であるとしたら、「世界的アーティスト」は、生まれながらにして誰もが妥当するという事になってしまう。果たしてこのサブタイトルの「世界はどこまで知る事ができるか?」には、どれだけの「世界」が含まれているのだろうか。


せ‐かい【世界】
《7が原義》
1
地球上のすべての地域•国家。「—はひとつ」「—をまたにかける」
2
自分が認識している人間社会の全体。人の生活する環境。世間。世の中。「新しい—を開く」「住む—が違う」
3
職業•専門分野、また、世代などの、同類の集まり。「医者の—」「子供の—」
4
ある特定の活動範囲•領域。「学問の—」「芸能の—」「勝負の—」
5
歌舞伎•浄瑠璃で、戯曲の背景となる特定の時代•人物群の類型。義経記太平記など、民衆に親しみのある歴史的事件が世界とされた。
6
自分が自由にできる、ある特定の範囲。「自分の—に閉じこもる」
7
《(梵)lokadhātuの訳。「世」は過去•現在•未来の3世、「界」は東西南北上下をさす》仏語。
(ア) 須弥山(しゅみせん)を中心とした4州の称。これを単位に三千大千世界を数える。
(イ) 一人の仏陀の治める国土。
(ウ) 宇宙のこと。
8
このあたり。あたり一帯。
「—暗がりて」〈竹取〉
9
地方。他郷。
「—にものし給ふとも、忘れで消息し給へ」〈大和•六四〉
10
遊里などの遊興の場。
「京町に何かお—が、おできなすったさうでござりますね」〈洒•通言総籬〉
類 語 (1)万国•万邦•国際社会•内外•中外•四海(しかい)•八紘(はっこう)•宇内(うだい)/(2)人間界•天下•この世•現世•人世•世の中•世間•社会•世•巷間•世上•人中•浮き世/(4)(6)領分•領域•境域•分野•方面


大辞泉


大辞泉には「世界 - 内 - 存在」の「世界」にフィットするものは無さそうだ。そしてどうやら「世界はどこまで知ることができるか?」の「世界」の多くにもそれは言えそうだ。

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「世界はどこまで知ることができるか?」を、人は常に考えているものであろうか。こうしたイベントで「作品」を見る事で、その機会を与えられるという事は当然ある。美術館で、或いはアートスペースで、「作品」に接して「世界」を「知る」。それは「作品」というものの持つ「機能」の一つであるだろう。仮に「作品」を見るビフォーとアフターで、観客に全く「変化」が起きないのであれば、その「作品」の意味が問われ兼ねない。多くの作家もまた、自分の「作品」を見たビフォーとアフターで、観客が「世界」を「知る」ことを、少しでも「広げて」欲しいと考えているだろう。それが少しも変わらないのであれば、「ガッデム」か「ガックシ」かのいずれかになると思われる。そして一旦「世界」が「広がった」は良いものの、それが数分後にリセットされて、ビフォー状態に戻る事があれば、それもまた「ガッデム」か「ガックシ」かのいずれかになるだろう。ヨコトリのサブタイトルを借りれば、 "OUR MAGIC HOUR" には、インサイドとアウトサイドがあるという事になる。


現実的には、美術館やギャラリーを出れば、自動的に頭のリセットボタンが押される様になっている。「はい、『特別な場所』はここでお終い。さあ日常空間の始まり始まり」といった具合にだ。当然その逆もある訳で、美術館やギャラリーに入って行く際には、「はい、日常空間はここでお終い。さあ『特別な場所』の始まり始まり」とリセットを掛ける訳である。"OUR MAGIC HOUR" のインサイドとアウトサイドは、こうして分かたれる。そうした場合、インサイドとしての "OUR MAGIC" であるものは、"HOUR" であり、 "LIFE" ではないという事になる。しかし作家の多くは "HOUR" ではなく "LIFE" であって欲しいと願うものだろう。美術館を出ても、イベントが終わっても、その「作品」の発する「世界はどこまで知ることができるか?」という問いを、観客の "LIFE" の中でこそ継続し続けて欲しいと願うものなのだ。


美術批評は、その記述の範囲を、「展覧会」という "MAGIC HOUR" のインサイドで完結させるものが多い様にも見える。「◯◯の作品を見てからというもの、自分を取り巻く『世界』が全く変わって見える様になってしまった」という批評文には余りお目に掛からない。「展覧会」という "MAGIC HOUR" のインサイドで、作品が良かった、悪かった、失敗だった、成功だった等を書く。それを書くのに、アウトサイドを「使用」する事があったとしても。それは、美術批評の「形式」故なのかもしれない。そして「形式」がそうならば仕方ない。

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ヨコトリの作品は、その全てが「問題作(問題の対象としての作品)」と言えるだろうが、その中でも「問題作」の極北の一つであろうものは、横浜美術館の階段を登り切った、「イヤホンガイド受付」のお姉さん達の背後の「雑然」にあると個人的には思えた。それはまさしく "OUR MAGIC LIFE" 側に位置しているものの様に見えたからだ。


【続く】