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青梅

三丁目の夕日」の頃、東京の現在の市部は「郡」という名前だった。東京の「郡」は、「北多摩郡」「南多摩郡」「西多摩郡」の三多摩郡に分けられ、それぞれの上に、慣習的な形で「都下」が付いていた。生家でもある実家の住所は、東京オリンピックの年まで「東京都下 北多摩郡…」だった。


当時の北多摩郡は、南多摩郡と共に「地方」からの入植ラッシュだった。斯く言う自分の両親もまた、戦後入植者の一人だ(二人か)。人口増加により、「村」だった所が軒並み「町」になり、「町」だった所が軒並み「市」になった。市制が施行されると「郡」から「独立」する。1970年に北多摩郡最後の「町」だった村山町が武蔵村山市になると、「町」がゼロになった北多摩郡は自動的に消滅した。その1年後の1971年に、南多摩郡は稲城町、多摩町の市制施行に伴い消滅する。西多摩郡のみ、奥多摩町日の出町瑞穂町檜原村という「飛び地」の形で現在も残っている。現在「都下」の名称は、慣習的にも使用されない。


北多摩郡の小学生の遠足の行き先は、南多摩郡か西多摩郡だった。具体的には南多摩郡の高尾山、そして西多摩郡日原鍾乳洞や青梅といったところだ。遠足というものもまた、子供に非日常感を体験させる行事である。「三丁目の夕日」の頃の北多摩郡南多摩郡は、宅地化が急速に進み、田園風景が消滅すると同時に、街並みが「整備」されつつあった。それぞれの新興住宅地には、「丘陵」を想起させる起伏はあるものの、遠足の非日常感を満足させるものまでには至らなかったのだろう。遠足の行き先は、それぞれに昭和30年代にあって、生活圏からは失われつつある「自然」を十分に感じさせるものだった。


青梅には何十年ぶりに行ったのだろう。最後に行ったのは、その小学校の遠足の時である。詳細な記憶は失われているが、恐らく青梅駅で降りて、そこから東青梅駅まで歩いたのではないか。当時の青梅の町の断片的な記憶はまだ辛うじてある。急速にベットタウン化する北多摩郡の子供の目には、既に山間の風景は非日常的に見えた。遠足途中で立ち寄ったのは「青梅鉄道公園」。現在の基準では小規模に感じられる鉄道専門の博覧施設であるが、「三丁目の夕日」の頃は、それでも広大さとコレクションの豊富さを誇っていたし、少なくとも小学生の目には十分以上のものであった。但し、ここに静態保存されている様なものが、ごく普通に東京都内でも現役で煙を吐いて走っていた時代であり、それは恰も、動かないN700の短い編成をわざわざ見に行く様なものだった。当時、SLはまだSLと呼ばれておらず、未だ懐古の対象ではなかった。


今回青梅に赴いたのは、「アートプログラム青梅 2011 9th 『山川の間で』」という、地域回遊型の「芸術祭」を見に行ったからだ。同「芸術祭」の併催は「青梅宿アートフェスティバル」の「昭和歌謡の青梅宿」である。


旧き良き時代の名車は走る<第17回懐古自動車パレード>
落語会の歌の魔術師<昭和モダン歌謡ショー柳亭市馬
昭和の歌姫<越路吹雪ショー>ソワレと新宿紅団
シャンソンと話芸のコラボレーション<白鳥加奈子と源吾朗>
青梅赤塚不二夫会館専属バンド<アッコちゃんズ>
昭和の青春を歌う<あがた森魚
昭和の青梅祭り囃子
青梅から奥多摩への旅情歌を<花田真衣・あゝ奥多摩
昭和のアイドルを歌う<バンディーズキャンディーズトリビュートショー
季節はずれのサンバパレード
昭和の元気な宣伝王<ちんどん歌謡パレード>
手づくりいっぱい市クラフト展
小江戸川越人力車運行
3輪自転車タクシー運行


http://art-fes.omjk.jp/21/21.html


忘却の彼方にあったものの美味しそうなところを適当にピックアップし、それを現在基準で整形し直す事で「懐かしいもの」「旧き良きもの」として復元する。イメージとしての過去であるから、数十年の時間差などは、半ば強引な形で平面的に圧縮され、差異もまた消滅させられる。「三丁目の夕日」は、「カムイ伝」と「まどマギ」を「同じ時代」のものとする様な「全体化」の欲望であるし、実際やがて来る21世紀中盤の「三丁目の夕日」では、それら「カムイ伝」と「まどマギ」は「同じもの」とされるだろう。「時代考証」的にそれはあり得なくても、「三丁目の夕日」的にはそれはあって当然とされる。「懐かしさ化」は、単純なリード・オンリーの「過去化」とは異なる。それは、常にランダム・アクセスや編集可能な「現在」の側にあるものだ。それがレトロのパースペクティブ(懐古の遠近法)というものである。


記憶の中にある、徒歩しか移動手段を持たなかった小学生時代の昭和30年代の青梅の町と、今回クルマで移動した平成10年代の青梅の町は、全体的な布置関係や、その輪郭は全く変わっていなかったものの、すっかりイメージとしての「懐かしさ」を売り物にする町に変貌していた。「昭和」や「レトロ」の文字が、青梅のそこかしこに見える。そして、その「懐かしさ」の「表層(シュルファス)」を支える「下部構造(シュポール)」としての町自体は、リアルな時間の経過を感じさせるものだった。「懐かしさ」溢れるピカピカの映画看板やピカピカの施設という薄皮一枚と、シャッターが降りて久しい店が同居する旧宿場町。歴史の地層の最上部が「懐かしさ」という逆転の町。「平成」の現実を糊塗する「昭和」の幻想。実在する町の現実的な古色よりも、より古そうに見えるエージング・テクニック。まるで「三丁目の夕日」のオープンセットの如き、コンセプトとしての「懐かしさ」が覆う町を、時々青梅マラソンを目指すと思われる、ランニングウェアに身を包んだ市民ランナーが走り去って行く。「アート」は、この町の「シュルファス」にも、自らを吸着させる「負圧」を見出したのだろう。


この日は、地域で最大規模を誇る回遊型芸術祭である「横浜トリエンナーレ」にも赴く予定だった。午前に青梅、午後に横浜。従って、青梅の三会場(+市内私有地)を巡るルートを「奥」から始め、それから横浜寄りに進んでいくという計画を立てた。しかし結局、この日は時間的に横浜行きは叶わなかったし、今となっては叶わなかった方が良かったと思えたりもする。自分でも良く判らない茫漠とした使命感に燃えて、数を競う様に一日に数十個の作品を見るというのは、それ程に褒められた話ではないかもしれないからだ。


最奥の展覧会場は「吉川英治記念館・草思堂」。青梅の中心部から外れた吉野梅郷・柚木町、都道45号線沿いにそれはある。



最寄り駅は青梅線で青梅から4駅程ある二俣尾。多摩美術大学の近く、八王子市にも柚木の地名はあるが、その両者の風景はどこかしら似通っている。「吉川英治記念館」の斜向かいのセブンイレブン青梅柚木店には、「薪」が一束380円で売られている。崖下の多摩川を訪れるキャンパー相手の商品だ。



「国民文学作家」吉川英治について、改めて多くを語る必要は無いだろう。その吉川英治が、昭和19年3月から終戦を挟んで昭和28年8月まで居としていたのが、この旧西多摩郡吉野村の元養蚕農家の屋敷である。「新・平家物語」の作家には誂え向きのロケーションかもしれないが、彼はその後、執筆活動が再び多忙になると同時に、品川区北品川、渋谷区松濤、港区赤坂という「都会」を転々としている。


都道から土産物屋の横を抜ける。自分の後ろからは、観光バスで搬送されてきた数十名の年配者が続いている。屋敷の入口で入館料500円也を払う。因みにその500円は作家に渡る事はない。この後に行った青梅市立美術館の入館料200円也や、青梅織物工業協同組合施設の入館料200円也もまた同じだ。「ボランティア」なのである。


屋敷の中に入ると、右に蔵と井戸、左に売店。そして正面に吉川英治の生活空間だっただろう母屋がある。母屋の外では地元の菊愛好家だろうか、それぞれの「作品」を競う様に並べていた。母屋を入り、土間に立つ。入口を背にして三面がガラスで覆われている。そのガラス越しに吉川英治の「往時」の「生活振り」を偲ぶ事が出来るという次第だ。正面のガラスの向こうには炉が切られ、その右手前に黒い電話機が一台あり、その内線電話は奥の書斎に繋がっているとの説明書きがある。「往時」の吉川英治と、編集者や家族との遣り取りが、ありありと目に浮かぶ様な設えと言えるだろう。ガラスを隔てて向こう側、即ち「吉川英治」側にあるその電話機は、待受状態のまま永遠に凍り付いている。鳴る事の無い電話。使われる事の無い電話。吉川英治一家が「蒸発」した時から止まった世界。トワイライト・ゾーン。紛う事無き「記念館」の「展示」である。



それから向かって右のガラス越しにテーブルと椅子の「吉川英治」の洋間を見る。次に向かって左のガラス越しに「吉川英治」の畳敷きの和室を見る。そして一旦外に出てガラス戸越しに「吉川英治」の廊下を見て、一番奥の「吉川英治」の和室をガラス越しに覗く。


それら、ガラスの向こうの「吉川英治」の空間には、極めて普通の物があり、極めて普通の事が起きている。それはどこにもある普通であり、どこでも起きている普通である。しかしその普通は不穏だ。「吉川英治」の電話が鳴らない状態で「起きている」ままにされているのと同じく、それは極めて不穏である。


どこにでもある普通。どこでも起きている普通。それは異形よりも異形だと言える。この日は、初っ端に見たその普通で、もうお腹一杯になってしまった。そして以後、その日は生半な異形では、最早満足出来ない身になってしまっていた。


【続く】