読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

開閉

それは何となく響きがかっこ良かった訳であり、だからこそ皆が「そんな作品」を作ろうと思っていた。


ウンベルト・エーコ( Umberto eco )の "Opera aperta" 。邦題「開かれた作品」。もうここでマジックが作動してしまっている。まるで「開かれた作品」の対極に「閉じられた作品」なるものが存在していると思うではないか。


その「序文」。エーコはのっけから釘を差している。


〈開かれた作品〉という概念に、価値論的考察は含まれない。本論文集の意義は、芸術作品を有効な(〈開かれた〉)作品とひどく時代遅れで有効ではない(〈閉された〉)作品とに分けることではない(本書をこのように理解した人も中にはいたが、後で潔く自説の根拠のなさを認めてくれた)。開かれを芸術的メッセージの本質的曖昧性ととらえるなら、それが時代を問わずあらゆる作品が有する常数であるということは、充分に支持されたと思われる。しかしこの本を読んで自分たちの作品を示して、それが〈開かれた作品〉であるかどうかを尋ねられたとしても、その画家や小説家に対しては、断固として挑戦的にこう答えざるをえないであろう。〈開かれた作品〉などというものには今だかつてお目にかかったこともないし、恐らく実際には存在しないであろうと。これは、〈開かれた作品〉という概念が一つの批評範疇ではなく、一つの仮説モデルを表現するものであることを逆説的に示すための一つの例えであった。たとえこの仮説モデルが多数の具体的分析の結果作成されるもので、現代芸術の一つの方向を扱いやすい公式によって指示するのに非常に役に立つものであるとしても。


それでも「開かれた作品」への探求が止む事は無かった。エーコによれば「今だかつてお目にかかったこと」もなければ「実際には存在しない」のにも拘わらずだ。それでも範疇的に「開かれた作品」がどこかで可能であると思い込んで、折角のエーコによる親切な「警告」も無視して、必死に本書を読む当時(数十年前)の知的な美術家達であった。しかし本書を幾ら読んでも「少しも役に立たない」って、それはそうだろう。本書は「開かれた作品」を作る為の指南書でもなければ、それ自体の存在が否定されているのだ。


けれど、どこかに「開かれた作品」があるに違いないと思う可憐なチルチルミチルは、果たして「開かれた作品」の探索の旅に出てしまう。絵画は閉じられている。彫刻も閉じられている。リレーショナルの耐えざる反復によって、その境界は決定不能である(とされる)インスタレーションならば「開かれている」と言えるだろう。同様にパフォーマンスも開かれていると言える。「オフ・ミュージアム」や「オフ・シアター」であれば、即それは「開かれている」。具象的であるものは、それだけで可読の幅を制限するが故に「閉じられている」が、それがアンフォルムなら「開かれている」と言える。そして「開かれた作品」は、基本的に「ネバー・エンディング」である。即ち範疇としての「開かれた作品」は、容易に方法論化が可能であるという事になる。そこでは見出された「お作法」を外さなければ「開かれた作品」の条件は整うと言って良い。


範疇としての「開かれた作品」の立場からすれば、「盆栽」は「閉じられた作品」になるのであろうか。「盆」という「パレルゴン」の上に、どこからどう見ても「樹木」の「ミメーシス(ミニチュア)」である「枝」が刺さっている「だけ」の「盆栽」。その構造は、その全体像が把握可能な外縁を持つ。であるから、これを「開かれた作品」とするには、例えば「盆栽」を使ってパフォーマンスをしたり、「盆」から「枝」をぶっこ抜き、その「枝」を、どこかの街中に設置したり、どこかの山中に植えたりして、「社会」や「環境」に至るまで、その「枝」から同心円で書かれる「外縁」を広げれば、それは「開かれた作品」になるという事かもしれない。しかしそれは果たして「開かれた」事になるのだろうか。


あらゆる芸術作品は、たとえそれが明示的であれ暗示のものであれ、必然性の詩学に従って生産されたとしても、実質的には一連の可能な読みの潜在的に無限な系列へと開かれており、その読みのそれぞれは、ある展望、ある趣味、ある個人的演奏=上演に応じて作品を蘇らせる、ということである。


「開かれた作品」


「作品を蘇らせる」の主体は「作者」ではない。それは「読み」の側の主体に委ねられている。その「読み」を「開く」意志、「開こう」とする意志によって、初めて「作品」は「開かれた作品」となる。「〈開かれた作品〉などというものには今だかつてお目にかかったこともないし、恐らく実際には存在しない」と同時に、本来的に〈閉じられた作品〉などというものにも未だ嘗てお目に掛かった事も、恐らく実際にも存在しない。仮にそれが「閉じられた」と見えるのであれば、それはそこに「開く」主体の存在が不在であるか、その主体が「開く」能力に欠けているか、或いはまた事実上不在にならざるを得ない「作品」であるかだろう。


例えばその「作品」が「社会」や「環境」等に「開かれた作品」(或いは「丸投げ作品」)であった場合、ややもするとそれは、「開く」意志、「開こう」とする意志が、「社会」自体や「環境」自体という、「決定不能」な「外縁」に向き合わねばならず、従って「開く」能動性は、寧ろ逆にそこでスポイルされ、封じられたりもする。即ちそこでは、目の前にあるものを、ただ追認せざるを得ないという形で「閉じられる」事になる。そこに、範疇的「開かれた作品」に往々にして見られる「閉鎖性」があるとも言えるだろう。


それよりはまだしも「盆栽」の方が、「一連の可能な読みの潜在的に無限な系列へと開かれて」いるという意味での「開かれた作品」であるという逆説も、そこでは可能であるかもしれないのだ。