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倫理

またしても Mr.Brainwash から始まってしまうのである。


「悲しいグラフィティアーティスト」という評価の Mr.Brainwash 。 Mr.Brainwash が「悲しい」とされる理由の一つに、「人任せ」を上げる向きも多かったりする。例えば、「初めから終わりまで、全て自分でしなくちゃ駄目」、即ち分業を排した「自画自刻自摺」が基本である、山本鼎から始まる「日本・近代・版画」の様な世界からすれば、「手」によって行われる仕事の「全て」を「人任せ」にするなどもっての外である。それは「悲しい」どころか「明白」に「失格」である。絵具で「自画」する様な世界からも、同じ様な「批判」は聞こえてきそうだ。


しかし「人任せ」が「悲しい」や「失格」であれば、世の中は「悲しいアーティスト」や「失格アーティスト」ばかりになってしまうだろう。例えば「抽象彫刻の大家(たいか)」という存在があるとして、しかし彼等が自らベンダーマシンを扱ったり、ステンレス溶接をしたり、石の平面を取ったり磨いたりするなんて事は、ほぼ金輪際しやしない。彼等・彼女等が貧乏で、そうせざるを得なかった頃を別にして、「功成名を遂げた」今では、簡単なスケッチを描く事と、口を出す事位しかしないというケースは少なくはない。


こちらが現在の「世界」の「大家」の面々である。

http://intuitionkitchenproductions.com/actionfigures/artarmy/


この「世界」最高峰の「大家」達の仕事の多くもまた「人任せ」率は高い。自分が直接手を下し得る僅かなところは別にしても、大部分の「一人では無理」な部分は、当然の如く分業体制になる。「人任せ」でなければ、今日の「世界」で求められるレベルの「大きな仕事」や「多彩な仕事」や「高度な仕事」や「精緻な仕事」が出来ないというのは、現実的には確かな事だ。21世紀初頭のレベルで、「大きく」て「多彩」で「高度」で「精緻」な仕事を、作家本人だけで作れる者など、世界広しと言えど誰も存在する筈が無い。或いはまた、「世界」から求められる(作り手側がそう勝手に思い込む)「作品量」をこなすとするなら、自分だけでやっていては到底間に合わない。全部を本人がやっていたら、短い人生の時間の内に、何千点も何万点も作れないではないか。作品量があってこそ、初めて芸術には儲けというものが出るのだ。であるからして「人任せ」はどうしても必定となってくる。


一体どこの誰が、草間彌生本人や奈良美智本人が、不飽和ポリエステルを含浸したガラスマットに、脱泡ローラーを何分もこすりつけているなどという馬鹿馬鹿しい想像をするだろう。一体どこの誰が、ジェフ・クーンズ本人が、最終原型を自らの手でシコシコ磨いているなどという馬鹿馬鹿しい想像をするだろう。一体どこの誰が、これらの「大家」本人が「自画自刻自摺」で版画を作っているなどという馬鹿馬鹿しい想像をするだろう。寧ろ「大家」の場合、それを「人任せ」にせずに、自分で全部やってしまう事の方が、余程「悲しい」と思われてもしまう事だろう。その点では、分業システムを採用した21世紀の「大家」たらんとする Mr.Brainwash は、少しも「悲しい」とは言えないのである。

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そんな一寸(いっすん)の Mr.Brainwash にも、五分(ごぶ)の "ethic" はあるものだ。バンクシーのフィルムには、その「気紛れ」や「朝令暮改」(いずれも「ワンマン経営者」には決して珍しくない。それで当たれば「是」とされ、当たらなければ「否」とされる)振りに耐えかねて「もう Mr.Brainwash の仕事はしない」と捨て台詞を吐く「食い詰めアーティスト」の言葉が出てくるが、それでも曲がりなりにも彼等は「雇われている」訳ではある。ここが極めて重要であり、この一事だけでも Mr.Brainwash は、多くの非 "ethical" なアーティストの側にはいない。


その時の Mr.Brainwash の求人広告をネット検索するのも面倒臭いから、その報酬がどの程度のものであったのかは判然としないが、しかし少なくとも彼等「食い詰めアーティスト」は「無償」で働いている訳ではないだろう。それまで「食い詰めアーティスト」すら知る事の無かった「無名の人」、 "Mr.Brainwash" の仕事振りに憧れて働きに来た(例えば、 "THIS IS IT" での、Michael Jackson に憧れて世界中からやってきた若いダンサーの様に)というのは考え難いし、また「食い詰めアーティスト」は、何かにつけて「これは勉強だ」とか「これは業務だ(イミフ)」の一言で済ませられてしまう様な、 Mr.Brainwash の部下でも弟子でも教え子でもない。


であるならば、それなりの好条件でなければ、彼等「食い詰め」アーティストが「手伝い」に来る事は無かったと思うのが合理的だ。「食い詰めアーティスト」に対し、それなりの労働報酬を支払うMr.Brainwash 。彼はそれを「自分の事業」を清算して作ったのだ。「食い詰めアーティスト」に「困った時の只働き」をさせる事は無い。それだけでも十分に「倫理」的ではないか。

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"Ethical consumerism" 、「倫理的な消費行動」が「欧米」での新しい消費傾向であるとされている。その「倫理」の中身についての吟味は取り敢えず置くとして、上に書いている "ethic" はこの "Ethical consumerism" に由来している。


"Ethical consumerism" とは何か。Wikipedia英語版には、


Ethical consumerism is the intentional purchase of products and services that the customer considers to be made ethically. This may mean with minimal harm to or exploitation of humans, animals and/or the natural environment. Ethical consumerism is practiced through 'positive buying' in that ethical products are favoured, or 'moral boycott', that is negative purchasing and company-based purchasing.


http://en.wikipedia.org/wiki/Ethical_consumerism


とある。


日本の Wikipedia では「『環境や社会に配慮した工程・流通で製造された商品を選択し、そうでないものを選択しない』という消費活動である」と、ごく簡単に記されている。そこで重要になってくるのが、英語版 Wikipedia の「humans, animals and/or the natural environment」に対する "exploitation" 、即ち商品生産に於ける「搾取」の問題である。例えば "Ethical consumerism" の一環にある "Ethical Jewelley (倫理的宝飾)" に関する Wikipedia 日本語版の解説には「不当に低賃金な労働や児童労働が存在していない鉱物を使用したジュエリーのことを指す」とある。即ち低賃金労働や児童労働は、それだけで「労働搾取」という「非『倫理』」性であり、従って不買運動の対象に十分に成り得るという訳だ。


そうした「不当に低賃金な労働や児童労働」が問題と成り得る宝石市場に於いて、例えば「これは君達の将来の自立に対して勉強の機会を与えている」であるとか、「労働対価を求める様な資本主義に毒されていない精神は尊い」であるとか、「食えるのは、世界でもたった一握りの選ばれた存在だ」などと発言すれば、それは極めて偽善である事を免れない「非『倫理』」性を帯びる事ではあろうが、しかし一方でそれが「宝石」ではなく「美術」であれば、それは「倫理」性の範囲に留まるどころか、その「倫理」性の中心に据えられたりもする。その意味での「ロワー」な "ethic" は、「アッパー」な "ethic" である「美術」には馴染まないと見做されている。ややもすれば、そこでは「アッパー」な "ethic" は、フェアトレード的「ロワー」な "ethic" を駆逐する。「美術」は「倫理的な消費行動」の外側にあるのだ。

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「美術」というのは良い事に/悪い事に、市場的な対象とされる事と、投機的な対象とされる事と、慈善的な対象とされる事が同居し得る特殊な世界だ。作品を売って生業とする。これがアーティストの基本であると仮定して、その作品はまた投機の対象ともなり、その結果がまたアーティストの価値を高め、再びその作品のプライマリー価格の見直しの適正性を保証する。ここまでが、上のフィギュアが属している世界である。フィギュアの一人は、「大家」になるまでは「粗大ごみで拾ってきたソファーに寝ていた」が、「大家」になってからというもの、「観に行きたいライブや展覧会には新幹線に乗って速攻行く」事や、「ガソリンは二酸化炭素排出の少ないハイオク」にする事や、「好きな作家の作品を買えるようになった」という。「超金持ちになった」とは御本人の談である。ややつましい気もするが。


しかしまたそうではないアーティストという存在も無いではなく、と言うか多く、そうしたアーティストは、市場からも投機からも遠い位置にあるが、慈善の対象にはなり得てはいる。即ちアート・サポートの対象であり、補助金の対象であり、メセナの対象である。基本的に上のフィギュアの「大家」はここには属さない。属していたらそれはそれで問題である。


しかし時にこの3つは重なり合える。一つのケースとして、これらの様々なタイプのアーティストが混在して行われる様な展覧会やアートイベントの場合、仮に、上のフィギュアの「大家」の様な存在が、「無償労働」や「慈善」の力によってその展示を完成させるというケースがあり得てしまうのが「美術」の「奥深さ」である。例えて言えば、学校を出たばかりのバンドと、レディー・ガガレベルの「アーティスト」が、同じ舞台に立つ様なフェスがあったとして、そのフェスもまた、カツカツの予算で運営されていたとして、会場整備や、案内係が「無償労働者」であり、企業から「協賛金」まで集めていた場合、果たしてレディー・ガガレベルの「アーティスト」の様な存在は、そこでどうするべきであろうか。「無償労働者」全員にチョコレートを配る位で良いだろうか。「ドモアリガト」だけで良いだろうか。

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「作品」はそう売れている訳ではないが、しかしどういう訳か、収入は高級外車が買える程には安定して入ってくるという作家も多い。その様な作家の作品制作や展覧会を、多くの「無償労働」者が支えているというケースもまた無いではない。或る作家のケース。作品には「パレルゴン」が必要だが、日本の職人はもとより、中国にそれを発注したところで金は出る。しかし自分の周りにいる人間にそれを頼めば、全て「無料」で上がる。上がる筈だという確信めいたものもある。そして「無償労働」者との交渉の結果、作家は材料費を出す条件だけはしぶしぶ飲んだのだった。


そうした作家の別の一人は、或る日、周りにいる若い人に「無償労働」を切り出した。若い人は「芸術」を学ぶ者である。作家は「学ばせる」という名目でそれを言った。しかし麗しき「伝統」は無残にも破られた。「ふざけるな」の声。思いも寄らなかった展開に作家は狼狽えた。そして思った。「自分はもう若い人に人気が無いのだろうか」。


問題の淵源は、そこでは無いと思うんだが。