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数日前から話題になっていたネタではあるが、しかし実際、心理としての汚染範囲はこういう事だろう。



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「東北が思ってる汚染範囲」は、「福島県」に汚染範囲を留めておきたい。県境がその持てる能力を最大限に発揮して「放射能」を食い止めている。当然「福島県」と自分達とは一線を画していると認識している。「福島県」と「我々」を「一緒にしてはいけない」であり「一緒にするな」でもある。「東北」の「問題意識」が「高い」人は、(或る歌手の言い方を借りれば)「福島のはね、放射能だから」と言って、その産品を口にする事を拒むだろう。


「関東が思ってる汚染範囲」は、せいぜい「北関東」までに汚染範囲を留めておきたい。地方整備局がその持てる能力を最大限に発揮して「放射能」を食い止めている。であるが故に「円」ではなく、福島第一から東北地方側に汚染範囲を広く取り、関東側には「甘く」するといった、関東に都合良く偏心した楕円の形を持つ。首都圏は汚染の外側にあるし、あらねばならない。当然「東北(及び北関東)」と自分達とは一線を画していると認識している。「東北(及び北関東)」と「我々」を「一緒にしてはいけない」であり「一緒にするな」でもある。「関東」の「問題意識」が「高い」人は、「東北(及び北関東)のはね、放射能だから」と言って、その産品を口にする事を拒むだろう。


「北海道が思ってる汚染範囲」は、津軽海峡がその持てる能力を最大限に発揮して「放射能」を食い止めている。そして本州の東半分はなべて汚染地域である。当然「本州の東半分」と自分達とは一線を画していると認識している。「本州の東半分」と「我々」を「一緒にしてはいけない」であり「一緒にするな」でもある。「北海道」の「問題意識」が「高い」人は、「本州の東半分のはね、放射能だから」と言って、その産品を口にする事を拒むだろう。


「関西が思ってる汚染範囲」は、商用電源周波数50ヘルツと60ヘルツの境でもある、糸魚川静岡構造線から東の「東日本」全体を汚染地域としている。フォッサマグナがその持てる能力を発揮して「放射能」を食い止めている。関ヶ原の怨念がその持てる能力を最大限に発揮して「放射能」を食い止めているとする見方もあり得るだろうがそれはさておき、「汚染真っ只中」の首都圏に留まりつつ、放射能を心配して暮らしている関東人は、関西からしてみたら非理性的存在に見える事もあるだろう。当然「東日本」と自分達とは一線を画していると認識している。「東日本」と「我々」を「一緒にしてはいけない」であり「一緒にするな」でもある。「関西」の「問題意識」が「高い」人は、「東日本のはね、放射能だから」と言って、その産品を口にする事を拒むだろう。


「沖縄が思ってる汚染範囲」は、本州、四国まで汚染側に含まれる。琉球の歴史がその持てる能力を最大限に発揮して「放射能」を食い止めている。九州を除く「本土」と自分達とは一線を画していると認識している。「本土」と「我々」を「一緒にしてはいけない」であり「一緒にするな」でもある。「沖縄」の「問題意識」が「高い」人は、「本土のはね、放射能だから」と言って、その産品を口にする事を拒むだろう。


「海外が思ってる汚染範囲」は「日本」と同義である。「日本」と自分達とは一線を画していると認識している。「日本」と「我々」を「一緒にしてはいけない」であり「一緒にするな」でもある。「海外」の「問題意識」が「高い」人は、「日本のはね、放射能だから」と言って、その産品を口にする事を拒むだろう。


この他にも、「北海道が思ってる汚染範囲」を踏襲しつつ、「茶」等の測定結果等を勘案して、千葉県や埼玉県や神奈川県や静岡県を汚染範囲に足しつつ、且つそこにぽっかりと緑色の東京都だけがあるという「東京が思ってる汚染範囲」というものもあり得るだろう。平将門の結界がその持てる能力を最大限に発揮して「放射能」を食い止めている。線量計は生活のマストアイテムだが、それを持っている事が無意味になる他所に移るところまでは行かない。「東京以外」と自分達とは一線を画していると認識している。「東京以外」と「我々」を「一緒にしてはいけない」であり「一緒にするな」でもある。「東京」の「問題意識」が「高い」人は、「東京以外のはね、放射能だから」と言って、その産品を口にする事を拒むだろう。


東電が思ってる汚染範囲」と「政府が思ってる汚染範囲」は余りに「ネタ」であるという事で割愛する。


自分がどこに属しているのか。赤(アウト)なのか、緑(セーフ)なのか。その嵌入の次第によって、「それ」に対する態度もまた自ずと変わるだろう。「それ」が「これ」になるのか「あれ」になるのか、そして「どれ」という態度もまたあるだろう。


赤と緑の非対称性で構成された同心円。それぞれの緑は、赤に対して「思いを寄せる」立場であると同時に、それぞれの緑は決して赤になってはならないと確信している。そしてそれぞれの緑には「皆で助かろうよ」という言葉が出る余裕もある。赤はそもそもこの非対称にあって、赤としての立場以外の発言、緑に対する発言を封じられているかの様にも感じられる。


空間的な閾値(基準)も、そして恐らく「科学」が後ろ盾となった計量的な閾値(基準)も、それらは常にどちらの側に所属したいかという心理と切り離せない。それは全くのゼロから全くのマックスまでの間にあって、その閾値をそれぞれに調整するのだろう。