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趣味

"There is no accounting for taste."


「趣味を説明する事は出来ない」と訳せるイディオムであり、日本語の「蓼食う虫も好き好き」に相当する。"taste" の義を、「審美眼」や「センス」や「鑑賞力」、或いは「趣味判断(Geschmack)」 などとすれば、より「意味深長」さ、或いは「滋味深長」さが増すというものだろう。

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17年目にして司会者の顔ぶれが変わらざるを得なくなった「開運!なんでも鑑定団」の最大の功績は、「蓼食う虫も好き好き」をすっかり可視化した事だろう。「骨董」から「ガラクタ」まで。「名画」から「メモ帳の走り書き」まで。その一つ一つの「蓼」に、それを好んで食う「虫」がいるというだけではなく、「骨董」も「ガラクタ」も、「名画」も「メモ帳の走り書き」も、計量的比率である「交換価値」に LED 掲示板上に数値変換され、悪い事に/良い事に、その「交換価値」に於いて、「ガラクタ」が「骨董」を、「メモ帳の走り書き」が「名画」を凌駕する事もあり得るという「非合理(非理性)」で因業な世界を、まざまざと善男善女に見せ付けた功績だ。「クレオパトラの鼻糞」が持ち込まれれば、それは「モナ・リザ」よりも高価な価格を付けられるかもしれないという「非合理」。そこでは、全てを統括して価値付ける事の出来る「目利き」など、この世界には存在し得ないという透徹した諦念すらも感じられる。


バラエティ番組「はねるのトびら」のコーナー、「ほぼ100円ショップ」は、一般市場に於ける「交換価値」を下敷きとした企画だが、しかし例えば「100円ショップ商品マニア」や「100円ショップ商品コレクター」なる存在があるとして(あり得るだろう)、「これはザ・ダイソーの店頭に出ていた期間が恐ろしく短かく、扱い店舗も極めて少なかった、世界にも稀な貴重品です」とか、「これがシュリンク包装のまま、保存状態も極めて良く、しかも全色揃っているというのは珍しい」とか何とかで、「100円(税別)」商品が、100万円の値段を付けられたりして、「The・ダイタイソー」の「高額商品」の「交換価値」を遥かに凌ぐ事だってあり得ないとは言えないだろう。要は「貴重価値(≧希少価値)」が見出されるところ、「お宝」の種は尽きまじなのだ。それが他人から見て「お宝」に一向に見えなくても、ある者にとっては何にも代え難い「お宝」だ。「お宝」の世界の根本に "sensus communis(共通感覚)" など無い。結局それが箸袋であろうと、煙草の吸殻であろうと、或いはまた、鰯の頭であろうと、兎の足であろうと、それを「お宝」とする「趣味を説明する事は出来ない」のであり、加えて「気分」と「潮目」に左右されるそうした「趣味判断」の滋味深さは、一筋縄ではいかないものなのである。"taste" の「規定根拠は主観的以外ではあり得ない」し、「対象の表象における主観的な合目的性」が "taste" の「規定根拠をなす」ってのは、まあ「当たっている」と言って良い。

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「悲しいグラフィティアーティストMr.Brainwash」という了解があるとする。否、例のあのバンクシーのフィルムを見たら、そう了解するのが「普通」の人情ではあるだろう。何故ならば、そう思える様にきちんと「作って」あるからであり、それが「正統的」な「ドキュメンタリー」の「作り方」というものだ。「ドキュメンタリー」の功徳の一つは、「それまでに気付かなかった事を、気付かせてくれる」である。"MBW" が「悲しい」存在である事に、その時に初めて「気付いた」人情も多いのではないかと思ったりもするが、それはさておき。曲がりなりにも彼は「成功」し、あれだけの「ファン」が存在し、作品は常に "SOLD OUT" だ。それが、仮に「アート」を「深く」愛する善男善女の少なからぬ者の目から「蓼」に見えたとしても、それに群がる「虫」の数と、それのもたらす「富」と「名声」は桁外れだ。その一事からすれば、彼は「悲しい」どころか、その真反対の位置にあるとすら言える。


一体彼の何が「悲しい」のだろうか。「稚拙」故にであろうか。「無知」故にであろうか。風体の冴えない妻子持ちのオヤジであるが故にであろうか。「美術」への参加の仕方にあるのだろうか。或いはそれらを引っ括めて、身の丈に合わない「地位」を得てしまっている事だろうか。まあ確かにそれは「悲しい」と他人に言わしめるものがあるとも思える。されど、悲しく思うのは他人である。「本人」は「悲しい」に陥るだけの暇が無いかもしれないし、寧ろ「成功」の真っ只中にある己の姿を「悲しい」などと思ったら、「成功」を夢見ていた者の場合に於いては、それは少しばかり変わっているとは言えるだろう。


まあそれでも彼を「悲しい」側に勝手に入れるとして、確かに彼の作品が「悲しい」ものに見える事はある。何よりも、「現代アート」のエッジからすれば、単純に「つまらない」だったり、「まるきり『あれ』ではないか」だったりに思えるものばかりだろう。しかし、例えばあのフィルムで「本物アーティスト」とされた側の作品に、そうした意味での「悲しい」は皆無であろうか。あのフィルムを見ている多くの善男善女は、タイルのインベーダーや、アンドレ・ザ・ジャイアントの顔や、ペイントされたインド象が会場内をのし歩く展覧会を「悲しい」側には決して入れないだろうし、額に弾痕と流れる血のある石膏像のヘルメスを、900万円(7万5千ドル)で気前良くお買い上げしたブラッド・ピットアンジェリーナ・ジョリーの行為を、善男善女の誰も「悲しい」とは思わないだろう。寧ろそれは、彼等の様な「セレブ」に相応しく、「賞賛」されるべき「趣味判断」であるとされる事だろう。そこでは "Warhol style" の "Kate Moss" は「悲しい」の側には無いが、"Warhol style" の "Michael Jackson" は「悲しい」。アートスクールの学生がやれば「悲しい」事になりそうな事でも、「評価」の定まった、或いは「有名」な、又は「注目」の「アーティスト」がやれば、「悲しい」の側に入れられる事はない。それもまた恐らく「趣味判断」なのだ。

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しかし「悲しいグラフィティアーティスト」も「悲しくないグラフィティアーティスト」も、市場では等しく「交換価値」に変換される。その「交換価値」を決定するのに、「お宝」の世界に属する「オークション」も一役買う。但し「お宝」の世界は、その「交換価値」に於いて、「悲しい」かもしれない「吸殻」が、「悲しくない」かもしれない「絵画」を凌駕し得る世界でもある。


「美術」好きは、「美術品」の並ぶオークション会場をしか想像しない。オークションでの落札価格が、「美術」の「作品価値」を、決定とまでは言わないが、補完位はしてくれるとは思っている。だからこそ、アートニュースには、オークションニュースが欠かせない。しかしオークションという存在は、本来「お宝」を巡る「非合理」を前提としている。「20エレのリンネル=1着の上着」という「合理/非合理」な等式が存在する様に、「1枚の絵画=1本の吸殻」という「合理/非合理」もまた成立し得る世界である。それは異なる「お宝」のジャンル間にのみ存するものではなく、「美術」の中に於いても同断であろう。「1枚の Mr.Brainwash =1枚の Banksy 」という「合理/非合理」な等式の可能性や、「1枚の Banksy >1枚の近現代美術の名品」という「合理/非合理」な不等式の可能性に「脅かされる」世界である。それは作品の「価値」を決定付ける「合理」の顔をしているが、実際には極めて「非合理」なのである。そして「非合理」はまた「非理性」であるが、それは「芸術」が恋慕して止まない「非理性」とは、少々趣が異なるものだ。

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オークションに向く「価値」と、そうでない「価値」はある。即ちそれは、オークションによる「価値」付けの限界を示しもする。例えば「伝説的なレースで優勝したレースカー」はオークション向きの「価値」を持つ。「有名人が所有していた車」もまた、オークション向きの「価値」を有する。当然「現時点でリセールバリューが高い車」はオークション向きだ。しかし「車の価値」というものを考えた時、例えば「ハイブリッドカー」や「電気自動車」が持つ「意味」的な「価値」は、オークションの評価方式ではフォローし切れない「価値」ではあるだろう。「自動車史」というものを書くとして、それを「伝説的なレースで優勝したレースカー」や「有名人が所有していた車」や「現時点でリセールバリューが高い車」のみで構成する訳にはいかない。寧ろそれらは「自動車史」の「エピソード」に留めておくのが、良識的な歴史家というものだ。


とは言え「美術」の世界は「リセールバリュー」、「相場」がものを言う世界ではあるし、近年はそこにしか価値付けの根拠が見出せないでいる感もある。「歴史的価値」や「美的価値」を言おうにも、"sensus communis(共通感覚)" が不可能事となり、その効力が事実上失われてしまっている今となっては、「価値」イコール「相場」というエイリアス関係が幅を利かせる。さすれば、右肩上がりの「相場」に於いて、「昨日のガソリンよりも、今日のガソリンは価値がある」であるとか、「昨日の小麦粉よりも、今日の小麦粉は価値がある」であるとか、そういう言い方は十分に可能だ。「昨日の絵画よりも、今日の絵画は価値がある」という断案が、説得性を持つのであれば。


ブラピとアンジーは、"bullet-ridden bust" を一生モノとして購入しただろうか。或いは、近い将来、再び我々は、それをオークションニュースで見る事が出来るのだろうか。その時、二人の邸宅の鍵の掛かった部屋の外の世界の「気分」や「潮目」はどうなっているだろう。