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情操

先月は、日中の市中の至る所で子供の姿を見る事が出来た。先月8月の或る日の事、昼下がりの近所の神社で二人組の5年生位の女子小学生を目撃した。夏休みには今でも宿題がある様だ。鳥居越しに本殿が見える場所(公道)に体育館座りした彼女達は、利き手と反対側の下膊にスケッチブックを当て、手の平でそれを支え持っていた。彼女達はそこから「鳥居越しの本殿」を構図にしたスケッチをしているのだろう。彼女達が選択したそのポジションは、スケッチを趣味とする大抵の大人も選択するだろう極めて「王道」的な位置である。


「王道」という語を換言すれば、それは「極めて普通」という事になる。"There's no royal road to learning" の義は、「安直な道を行くな」であり、即ち「ロイヤル・ロード」は「安直である事」を意味する。彼女達は、辛うじて無垢で自由であるとされる「子供」の位置にある年齢だろうが、それでも賽銭箱の中の仄暗く光る五円玉を描くとか、鳥居の上に溜まった鳥の足先を描くとか、スパッタリングな鳥の糞を拡大して描くとか、そういう「王道」的でない事はまずしないだろうし、させてもくれないだろう。子供を評価する者は、往々にして「王道」を行く事を子供に求め、その上で「王道」を外さない範囲で「創造力」を求める。そうした一定のバンド幅を持つ、大人の視野に入る評価基準(評価限界)を、そろそろ彼女達の年齢の子供は見透かし始めている。即ち、大人(教師)にウケる「ツボ」を知り始めている。


先に「宿題」と書いたが、それは恐らくそうであろうという想像に基づいている。彼女達に直接聞いた訳ではないが、「宿題」と想像したのは、女子小学生二人組が、自主的に「スケッチ」をしに行くというケースは極めて稀だろうと思ったからだ。ショッピングや水遊びに連れ立って行くのなら兎も角。


その場を通り過ぎ、スーパーで長めの買い物をし、再び彼女達の前を通り過ぎる。一人の女児は、まだスケッチブックを抱え持って鉛筆を走らせていたが、もう一人の女児は、スケッチブックを足元に降ろしていた。そしてスケッチブックの代わりに手にしていたのはケータイであった。彼女はそのケータイで神社を撮影し始めた。


これなら、ケータイに保存された何枚かの構図から「ベストショット」を、家に帰ってから時間に追われる事無くじっくりと選択出来る。三次元のものを二次元に起こす変換作業も、炎天下の現地でマニュアル作業で行う事無く、冷房の効いた(要節電)家でゆっくりと二次元→二次元に「コピー」すれば良い。何よりも出来た絵は、現地で「観察」したものよりも、「パース」や「ディテール」が「狂う」確率が少なくなり、画面内で破綻する事も少なく、従ってその「見栄え」は良い。その上で、その「コピー」の上に「創造」的「表現」を、ほんの少し加えれば良い。恐らくそれを「見破る」事の出来る教師などいないだろうし、「良く描けている」「良く観察出来ている」という評価を与えられもするだろう。


小学校の学習指導要領(図画工作)から彼女達の年齢の部分を引く。


〔第5学年及び第6学年〕


1 目標
 (1) 造形的な能力を働かせるとともに,自らつくりだす喜びを味わい,様々な表し方や見方に触れ,創造的に表現する態度を育てるようにする。
 (2) 材料などの特徴をとらえ,想像力を働かせて主題の表し方を構想するとともに,美しさなどを考え,創造表現の能力,デザインや創造的な工作の能力を高めるようにする。
 (3) 作品などを進んで鑑賞し,そのよさや美しさなどを感じ取り,感性を高めるとともに,それらを大切にするようにする。


2 内容
 A 表現
  (1) 材料や場所などの特徴をもとに工夫して,楽しい造形活動をするようにする。
   ア 材料や場所などの特徴をもとに発想し,よさや美しさなどを考え,想像力や創造的な技能などを総合的に働かせて楽しく表現すること。
   イ 材料や場所などに進んでかかわり合い,それらをもとに構成したり,つくるものと周囲の様子を考え合わせて表したりしながら造形遊びをすること。
  (2) 見たこと,感じたこと,想像したこと,伝え合いたいことを絵や立体に表現したり,工作に表したりするようにする。
   ア 表したいことを表すために,形や色,材料の特徴や構成の美しさなどの感じ,つくるものの用途などを考えるとともに,表し方を構想し計画して,創造的な技能などを生かして表現すること。
   イ 表したいことに合わせて,前学年までに経験した材料や用具,自分が選んだ材料,糸のこぎりなどの特徴を生かして使い,表現に適した方法などを組み合わせながら,絵や立体に表現したり,工作に表したりすること。
 B 鑑賞
  (1) 作品などを鑑賞し,それらのよさや美しさに親しむようにする。
   ア 自分たちの作品や表し方の変化などに関心をもって見るとともに,表現の意図や特徴をとらえ,見方や感じ方を深めるようにすること。
   イ 我が国や諸外国の親しみのある美術,暮らしの中の作品などのよさや美しさ,表現の意図などに関心をもって鑑賞すること。


小学校学習指導要領(平成10年12月告示、15年12月一部改正) 第7節 図画工作
http://www.mext.go.jp/b_menu/shuppan/sonota/990301/03122601/008.htm


その信ずるところによって、こうした「上」からの「学習指導要領」に反発を覚える教師もいる事だろう。しかしここで言われている「創造的」や「想像力」に対しては、異を唱える者は少ないと思われる。「表したいことを表すために,形や色,材料の特徴や構成の美しさなどの感じ,つくるものの用途などを考えるとともに,表し方を構想し計画して,創造的な技能などを生かして表現すること」は、恐らく「真っ白な画用紙(大人の世界で言う「真っ白なキャンバス」)」の段階から始められなければならない。それこそが「学習指導要領」に言うところの「創造」の肝要事であるだろう。そんな「創造」のフィールドを、ケータイ撮影でショートカットするとは何事かと、「心ある」図画工作の教師なら、ケータイの彼女の行為を咎めるかもしれない。


しかし、大人の世界の、しかも美術の、しかもその一番進んでいるとされているエッジな場所では、「真っ白なキャンバス」に「創造的」に描いてみましたなどと言ったが最後、「アホか、お前は」の一言で片付けられる事は必定だろう。そこでは「真っ白なキャンバス」も「創造」も、それは「近代の迷妄」であるとか何とかなのだ。「表したいことを表す」も迷妄であるし、「つくるものの用途などを考える」も迷妄であるし、「表し方を構想し計画して」も場合によっては迷妄であるとそこではされる。それらを疑う事こそが、そこでは制作の条件とされている。


子供の図画工作に於いて、そうした「近代の迷妄」を、敢えて「良し(或いは方便)」とするとしても、例えば「学習指導要領」の「鑑賞」の「我が国や諸外国の親しみのある美術,暮らしの中の作品などのよさや美しさ,表現の意図などに関心をもって鑑賞すること」を意図した校外授業で、「絵なんて写真から起こしても良いんじゃん」な作品を「鑑賞」した場合、どうそれを「指導」に活かすのであろうかと思ったりもする。「これは大人の世界の特殊な話」で済ませるのであろうか。或いは端的に「これは駄目な作品」であり、「君達は真似しちゃ駄目」とするのであろうか。しかしそう答えれば答えたで、「いつから大人の世界に入れば良いの」とか「駄目なものがどうしてここにあるの」などの質問に答えを用意しなくてはならなくなるだろう。


果たしてケータイの彼女はどういう宿題を提出したのであろうか。それを「絵に起こす」事ばかりが想像されるが、しかしその複数の画像をプリントアウトして、それを鋏で切り刻み、糊で台紙に貼り付け、いや最近の小学生は Photoshop が使えるかもしれないから、それをモニタ上で切り貼りして、フィルタやレイヤーの掛け具合などを工夫したりして、それを「図画工作」の宿題として提出したというケースも、全くのゼロでは無いかもしれない。或いは別の子が、歴代プリキュアや歴代仮面ライダーの「キメラ」なハードコピー図画や工作を持ってきたらどうだろう。その時、担当教師はどう対処するべきだろうか。やはり「次からは自分で描きましょうね」になるのだろうか。


「学習指導要領」の冒頭には、図画工作の「目標」が掲げられ、そこには 「表現及び鑑賞の活動を通して,つくりだす喜びを味わうようにするとともに造形的な創造活動の基礎的な能力を育て,豊かな情操を養う」とある。所謂「情操教育」の必要性を説いたものとして読めるのであるが、しかし一方で「鑑賞」の対象になっている作品の作者は、そうしたパッケージングされた「情操教育」の経験が無かったりもする。それでも後代の人々の「鑑賞」に足る作品が作れたりもするという事の証左ではあるだろうが、それはそれ以上の「モア情操」の為に、所謂「情操教育」が必要とされるという事なのか、それとも「情操教育」が別途必要とされなけばならない時代になったという事なのかは判らない。