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父母

ウルトラの父がいて、ウルトラの母がいる。ウルトラな「人」達は如何なる方法で、次世代に生命を繋いでいくのかは寡聞にして知らないが、しかしなまじ、地球人の頭の中では「有性生殖」を即座に想起させてしまう「父」と「母」の存在が「明らか」になってしまったが為に、「ウルトラの父」「ウルトラの母」御二方の「有性生殖」な行為が同人誌ネタになったりはする。全く以て「父」と「母」は厄介だ。「バカボンのパパ」や「バカボンのママ」も恐らく大変なのだ。口元の緩んだご近所さんから、肘でツンツンされながら、「『パパ』頑張ったね」などと言われている「バカボンのパパ」の姿を想像すると、少々いたたまれなくもなる。とは言え、「バカボンのパパ」は、それを一向に意に介さないだろうとは思うが。ともあれ、仮にウルトラの「人」達が、地球人と全く同じ「有性生殖」であったとしたら、当然の事ながら「ウルトラの祖父」や「ウルトラの祖母」、そして「ウルトラの曽祖父」や「ウルトラの曾祖母」(以下遡及的に続く)というものも存在する訳であり、そこにあっては「家族の系譜」が比較的容易に書けたりはする。


こうした「父母」は判り易くて良い。仮に「ウルトラの父」「ウルトラの母」、或いは「バカボンのパパ」「バカボンのママ」が、「育ての父」「育ての母」であったり、「後夫」「後妻」の様な「後入」であったり、「代理母」であったり、「テストチューブ」であったり、「碇ユイ」の様な存在であったりすると、事は少しだけ複雑になる。しかしそれでも「前世代」を辿れ、「父母」の同定の可能性を持つという点で(クローンであっても)、それはやはり「判り易い」のだと言えよう。

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小学生の頃、音楽室には作曲家のポートレートが麗々しく飾られていた。それは日本建築に於ける「鴨居の上」「長押の上」的な位置にあり、そのポジション取りは、「爺様/婆様」や「御真影」等の額装写真の伝統が生かされている様にも思われた。「爺様/婆様」や「御真影」。それらもまた「父」と「母」のメモリーであるだろう。それを見上げる視線は、常に「子」のそれが期待される。


今でもこの作曲家ポートレートは健在な様で、例えば下記リンクの「教育芸術社」の商品は、B3の大判掲示用 全24枚セットで、定価 10,500円(本体 10,000円+消費税)で購入出来る。ヴィヴァルディ、ヘンデル、バッハ、モーツァルトベートーヴェンシューベルトメンデルスゾーンショパンヴァーグナーヴェルディスメタナブラームスサン=サーンスビゼームソルグスキーチャイコフスキードヴォルジャークグリーグエルガードビュッシーホルスト滝廉太郎山田耕筰、ハチャトゥリヤンという、NHK「名曲アルバム」的とも、黛敏郎以後のテレ朝系「題名のない音楽会」的とも言える様なラインナップを誇る。部屋のインテリアに、或いは「懐かしの給食」か何かを出す様な、学校系企画物飲食店の室内装飾に使用しようなどと思う向きは、ここで「ポチッとな」である。


http://www.kyogei.co.jp/publication/syohin/portrait.html


熱心な音楽教師ならば、その24枚セットの「バッハ」と「ヘンデル」の肖像画に、「音楽の父」と「音楽の母」と書き込みを入れるだろう。小学生であった自分は、この「音楽の父」と「音楽の母」という修辞法が全く判らなかった。「有性生殖」についての知識は、まだ「もやもや」したものだったが、しかしバッハは「男」だから「音楽の父」でも良いとして(「グループサウンズ」の人みたいに「長髪」だったりするんだろう=当時の小学生的認識)」、しかし「音楽の母」の顔は随分とゴツイなと思ったら、何だ「男」じゃんか。「男」が「母」だなんて、全く訳分からんぞ(当時の小学生的認識)。後年「母」が、「No.2」を意味するレトリックであると知ったものの、しかしそれはそれで、随分と世の「母」に対して、そしてヘンデルに対しても失礼な話ではないだろうか。しかし、英語にも「Bach」は「Father of the music」とある。「Handel」も「Mother of the music」だったりする。今でも「母(mother)」と言えば、概ねNo.2の換喩なのだ。


ともあれ「バッハ」が「音楽の父」であるとされるのは、「近代音楽」の特徴とされたりもする対位法と和声法(ポリフォニーとホモフォニー)を、現在の「音楽(限定的である為に要注意ワード)」の形にまで高めたからだとされている。そして「ヘンデル」はと言えば、言葉は悪いが、No.1の「父」の添え物として担ぎ出された感はある。なまじ「父」という換喩を使ってしまった(この時点で「しまった!やっちまった!」と思えば良いものを)ものだから、その「相手」としての「母」の存在が必要とされたりする。即ちここでは「母」は、修辞法上の要請以上の何らの必要性も求められていないというのが、またまた「母」や「ヘンデル」にとっては失礼千万な話なのではある。従って何も「父」「母」ではなく、「祖」とすれば良いのではないか。「近代音楽の祖=バッハ」なら話は簡単。いや少しも簡単ではない。


「祖」の世界もまた混迷を極める。例えば「鳥類の祖先(この際「鳥類の父」でも良い)」は何かという議論が尽きる事は無い。長きに渉って「始祖鳥(アルケオプテリクス)」がそれであるとされてきたが、いや骨格的にどうだとか、あれは飛んでいるとは言い難い等という理由から、だからこれは違うとか、いやこれで良いとかで斯界は侃々諤々なのであり、恐らくこの先もずっと侃々諤々であるだろう。結局それは「鳥類」の概念をどこに求めるかで異なってくる。しかしまた、如何にそれ以前のものと不連続的な特徴性を持つ「種」ではあっても、それでもそれは同時に「進化」の連続性の中にはある。仮にアルケオプテリクスを「鳥類の祖先」として、それ「以前」や、それ「以外」の「種」に「鳥類」的属性が皆無である訳でも無いだろう。求めるところによって異なるだろうが、それでも「やや鳥類」や「ほぼ鳥類」や「まあまあ鳥類」だっているには違いないのだし、「鳥類の祖先」として問題含みであるとされてきたアルケオプテリクスですら、多かれ少なかれ「やや」や「ほぼ」や「まあまあ」位には、十分に「鳥」ではあるだろう。


しかしこれが「人類の祖先(この際「人類の父」でも良い)」などという事になると、諸学を総動員した大問題になってくる。最初に二足歩行した人が「人類の祖先」、最初に道具を使い始めた人が「人類の祖先」、最初に火を使い始めた人が「人類の祖先」、最初に精神的活動をし始めた人が「人類の祖先」、アダムとイブが「人類の祖先」等々。「人類」が生物学的分類であればまだしも(それでも諸説はある)、これが文明史や精神史まで入ってくると、「人類の祖先」を巡る議論は、即ち「人類」の概念を巡る議論となってくる。そして「アダムとイブ」の様に、完全なる不連続性として、即ちそれ以前に「人類」は存在しないという立場を別にすれば、やはりそれ「以前」や、それ「以外」の「種」に「人類」的属性が皆無である訳でも無いだろう。これもまた求めるところによって異同はあるが、それでも「人類の祖先」を仮に同定したとしても、その周囲の「やや人類」や「ほぼ人類」や「まあまあ人類」の存在は無視し得ないだろうと思われる。



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「近代美術の父」は誰かという設問があったりもする。ついでに「近代美術の母」は誰かという設問も有り得る話ではある。さてそれぞれ誰を当て嵌めれば良いだろう。


モネ。悪くないだろう。少なくとも80年代辺りの日本の平面作家にそうした質問をすれば、「モネ」の名前は上がっても、「マネ」はまずいないと思われる。本当に80年代の日本現代美術平面作家は、口を開けば「モネ、モネ」と言っていたのだ。当時「モネ」に近代芸術の起源を見なければ、心ある現代平面作家に非ず的な空気が支配していたのは確かだ。


「近代芸術の母」が「セザンヌ」。それもまた悪くないだろう。これもまた、少なくとも80年代辺りの日本の平面作家にそうした質問をすれば、事ある毎に「セザンヌセザンヌ」と言っていた。当時の「知的アーティスト」の愛読書(積ん読含む)であった「エピステーメ」は、「セザンヌ」特集はしても「マネ」特集も「クールベ」特集もしなかった。「セザンヌ」にかこつけてものを言う事が、「知的」な現代平面作家の条件である的な空気もまた、ある時期の日本現代美術を支配していたのは確かな事なのではある。


しかしまあ、これは「一例」ではあるだろう。「近代美術の父」や「近代美術の母」を、たった今退けた形になってしまった、「マネ」や「クールベ」と言っても一向に構わないし、それぞれに首肯し得る根拠も見出せる。或いは、「ドラクロア」、「アングル」、「ギース」、「ゴヤ」、「ゴッホ」、「ゴーギャン」、「デュシャン」、「ピカソ」…等々。誰もが「近代美術の父」「近代美術の母」と見做せば見做せるだけの条件は備えている。ここでも「鳥類」や「人類」同様、これは違うとか、いやこれで良いとかで斯界は侃々諤々なのであり、恐らくこの先もずっと侃々諤々であるだろう。


結局それもまた、「人類」の概念を問う設問と同様、「近代美術」の概念を問う設問に帰する。そして近代の中にいて近代を見るという、疎外の視点を持つ近代人は、その見出された概念としての近代の起点から、自らが連続的な位置にあると思う事もしばしばだ。個人的には、例えば「近代美術の父」を、「(複数の)日本の浮世絵師」としても良いとは思うのだが、流石にそれは「近代美術」という欧米文化からすれば、絶対にその地位を譲れないところではあるだろう。何よりも「父」や「母」は、その「出自」「出身」「血」が問われる。


しかし何と言うか、「近代美術の父(母)」という設定自体が駄目な気もする。「父」や「母」は、通常一人に限られるものであるから、それぞれにたった一人を充てなければならない気にも無意識的にさせられる。結果的に、「父」や「母」のトーナメント戦に勝利した者が、それぞれの地位に就く事になっている。しかし「モネ」もパパ(ママ)、「セザンヌ」もパパ(ママ)。「マネ」も「クールベ」も「ドラクロア」も「アングル」も「ギース」も「ゴヤ」も「ゴッホ」も「ゴーギャン」も「デュシャン」も「ピカソ」も、みーんなパパ(ママ)。それぞれがそれぞれに、「やや近代」や「ほぼ近代」や「まあまあ近代」という事にはならないものだろうか。

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ウルトラの父」と「ウルトラの母」で始まった。極めて余談だが、昔「ウルトラの妹」というものを妄想した事がある。「妹萌え」の対象としての「ウルトラの妹」。アホ毛的な造形が為されている「ウルトラの妹」。何枚かスケッチを描いてみて、しかしその余りの難しさに音を上げた。どこをどうやっても結局「妹属性」を持ったウルトラの「人」というのが描けなかった。


ああそうだ。「妹属性」を持った「近代美術の妹」ってのはあるだろうかね。「姉属性」を持った「近代美術の姉」とか。