退屈

ネットの通じない場所に来ている。携帯電波が圏外ぎりぎりの場所でもある。大昔、自作のゲルマニウムラジオで電波が拾える所を探しまくった様に、ここでも携帯電波のアンテナ1本を探しまくる。そしてようやく探し当てた不安定なアンテナ1本のスポットから、何時切断されるか判らない接続にハラハラしながら、スマートフォンでメール処理、ブラウジング、ブログのアップロード等を行う。仮に今、ここで大災害に遭遇したら、2011年基準での安否確認はほぼ絶望的だろう。


場合によってはのんびり出来る場所かもしれないが、自分はふらりとここにやってきた訳ではないし、そうのんびりもさせてくれない。傍からは退屈に見えなくもない事をこそしたいのだが、周囲は退屈させたくないとの思いから、心尽くしの接待(退屈でないもの)でみっしりと時間を埋めようとする。ようやく確保した退屈な時間はしばしば退屈でないものによって中断させられ、退屈な時間で得られた自分にとって貴重なものは、その時に大部分が揮発してしまう。やり掛けのものが膨大に溜まる。そうした接待が、抗う事を予め断たれた「善意」故だという事を承知しているから、その接待に自分の退屈な時間を差し出す事にする。こうして退屈な時間=休みは、人の寝静まった頃にしか確保出来ない。


退屈と退屈でないものの認識を巡る攻防に結論は出ない。今回とは全く関係無いが、例えば「接待」のキャバクラ行きを退屈と思うか、退屈でないものと思うかの、どちらに正当性があるかについて、永遠に結論が出ない様なものだ。「接待」する側は、それがあからさまな嫌がらせでない限り、当然心の底からキャバクラを退屈でないものと思いその最高峰に置くが、「接待」される側は、必ずしもそれを退屈でないものとは思わず、却って最大級の退屈と思うかもしれない。「善意」には、必ず非対称性が存在してしまう。「善意」は、それが「善意」であればある程、往々にして共役不可能な「悪意」として現れる。そういう事だ。


ネットの通じない場所。そこでは物理的な距離が未だに有効な場所だ。ここは最も近いWi-Fiスポットまでクルマで1時間弱。「そこ」に行かないと、距離が無効化するネットの入り口に立てない。距離の無効を得る為に、長い距離を移動しなければならないという矛盾。最も近い政令指定都市までは、高速道路を使って4時間。公共交通機関を使うと3時間半。その政令指定都市も、政令指定都市ランキング的にはそれ程の「都会」ではないから、「都会」の文物を実見しようとして、そこから東京までは高速鉄道を使って2時間半。高速道路で5〜6時間。これ程物理的な長距離を移動するには、徒歩ですら宿確保の問題がある訳であり、何をどうやっても移動には金銭的にも時間的にもコストが掛かる。


ネットや美術雑誌で話題の「アート」。それは未だに物理的な距離による中心/周縁の存在を前提としているとも言えるだろう。例えば画像系SNSでは、そうした距離は無いか希薄だと思われる。画像系SNSの、東京都渋谷区在住の絵師と、××県××村在住の絵師に、中心/周縁の差異はそれ程認め難い。しかしそれが一旦「現代アート」の形で現実世界に展開されると、東京都渋谷区で発表される作品と、××県××村で発表される作品に、中心/周縁の差異は否応無く影響する。しかもそれを「周縁」の人間が実見する為には、前述した移動のコストを掛けねばならない。例えば、今これを書いている場所から、都会(=事実上東京)で行われている「現代アート」の展覧会にアクセスするには、往復するだけで最低数万円〜十万円の移動コストと、一日分の時間を費やさねばならない。「現代アート」が「バーチャル空間」に棲家を得たり、居ながらにしてそれを体験可能な複製技術時代の複製の一つとなるには、余りにクラシックであり過ぎ、それは些かも「現代」的ではない。だからこそ、「バーチャル空間」や「複製技術時代」といったそれらは、単に「現代アート」の「モチーフ」にしかならない。


21世紀初頭、現時点での「現代アート」を見る行為は、未だに昔ながらの「詣でる」や「拝む」といった、「中心」へ向かう距離克服がどうしても必要になる。現在の「現代アート」のほぼ全ては、未だそれが物理的に空間を占める「場所」に「接近」していかなければならないものだ。そして「現代アート」の99%以上(印象)が、事実上物理的に存在するのは、「美術館」にせよ、「ギャラリー」にせよ、「トリエンナーレ」にせよ、「中心」としての「都会」の空間内だ。或いは「例外」として、「都会」以外でのアートイベントの形で存在するにしても、その「中心」の持つ距離的な有効範囲は、せいぜい半径数キロ程度だろう。そうした極めて狭いエリア内に存在するものが、しかし「日本全国」、或いは「全世界」的な話題として共有されるべきであるとされる。「都会」から数百キロ離れた地で、「都会」のどこかの駅コンコースの壁に掛かった某の壁画が、どうしたとかこうしたなどは、正直言ってその駅周辺(即ち「中心」と見做される一地方)に在住する人間以外、即ち「中心」を「取り囲む」大方の「周縁」の人間にとっては、本当にどうでも良い話であると言えばどうでも良い話なのだが、しかし21世紀に至ってまでも「現代アート」の前提である中心/周縁の在り方からすれば、「周縁」はそうした「中心」の「現代アート」の動向に常に興味を持たねばならない。持たなければ、それは「現代アート」、ひいては「現代文化」に対して「不勉強」の誹りを受けるという事にはなっている。「現代文化」とは、即ち「都市文化」だ。だからこそ、「周縁」にいて、「現代アート」の話題の「中」に入ろうとすれば、ネットで、美術雑誌で、「都会」の記者の伝える「都会」発のニュースで、それを間断無く注視しなければならない。雄大に広がる砂浜を目の前にして、しかしそこで見るテレビの、「東京」の「お台場」の、余りに貧相な「人工砂浜」に関する「お得情報」に、物分かり良く耳を傾けなければならない。


しかし「都会」以外の「周縁」の多くの人間にとって、「都市文化」としての「現代アート」はそこまでして「接近」するに至る価値を持つ対象では必ずしも無い。地元の「観光資源」に利用出来、それを目当てにやってきた余所者が落とす金に期待出来るのならば兎も角。「現代アート」がキャバクラなのか、「現代アート以外」がキャバクラなのかは知らないが、「現代アート」の人は、当然「現代アート」を「退屈でないもの」の側に置きたがる。しかし「周縁」の人間には、それが「退屈」に見える事もある。「退屈でないもの」のエヴァンジェリストの「善意」から発せられる切り口上は常に同じだ。「一回行ってみなよ。キャバクラ面白いって。行かなきゃ判らないって」。そうした切り口上のバリアントは無数にある。「一回やってみなよ。競馬面白いって。やらなきゃ判らないって」、「一回やってみなよ。パチンコ面白いって。やらなきゃ判らないって」、「一回行ってみなよ。現代アート面白いって。行かなきゃ判らないって」。


「周縁」での「現代アート」の存在感はほぼゼロだ。この「周縁」の地で、例えば優れて/劣って「中心」地方の産品である「カオス*ラウンジが…」と言っても、その存在そのものを誰一人として知らないだろう。代わりにここで「退屈でないもの」は、花を描く事、山河を描く事、仏教的モチーフを描く事等々であるが、それらは「都市文化」の「現代アート」の視点からは、極めて「退屈」に見える。ここでも「退屈」と「退屈でないもの」の認識を巡る攻防に結論は出ない。


ネットの通じないこうした場所で、「『美術』をやっている」などと自分の「身分」をバラされると、「どうですか、私の絵は」などと聞かれる事がしばしばだ。目の前にあるのは、キャンバスや和紙や絹本に、「丁寧」に描かれた「花」や「山河」や「仏教的モチーフ」であったりする。こういう場合、自分の無力を本当に痛感する。この場面で、「下手糞!」とけんもほろろに一蹴する(まだやった事はない)べきなのか、いきなり「近現代美術史」の講義を始めて、その絵との関係性を述べる(やった事あり。その直後自己嫌悪した)べきなのか、或いは単純に「絵画教室」的「指導」をする(やった事あり。その直後自己嫌悪した)べきなのか、それともそこから「現代アート」への道筋を無理矢理にでも付ける(やった事あり。その直後自己嫌悪した)べきなのか。しかし結局、「開運!なんでも鑑定団」の中島誠之助氏の様に、「良いと思います。これからもこれを大切にしていって下さい」的な、どうとでも取れる責任放棄的コメントで茶を濁してしまうのだ。尤も「責任」などというものなど、こればかりもある筈も無いのだが、それでもその返答ですら、自己嫌悪に陥らせるには十分だ。


「善意」には、必ず非対称性が存在する。「善意」は、それが「善意」であればある程、往々にして共役不可能な「悪意」として現れる。そういう事だ。