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事件

「姉さん、事件です」


これはホテル「東京プラトン」のベルボーイ・赤川一平氏が、ほぼ一週間置きに言う口癖だ。但しそれが「事件性」という意味での事件であるかと言えば、刑事事件あり、民事事件あり、またそれ以外の事件もあったりする。大辞泉には「事件」という語の説明として、「世間が話題にするような出来事。問題となる出来事」、二義として「『訴訟事件』の略」とあるが、何も世間が話題にしなくても、「東京プラトン」の、そのまた一部関係者しか問題にしない様な事でも、或いは赤川一平氏個人の身にのみ降り掛かる事でも、それでも「事件」ではある。


ドラマ「ホテル」で、そうした「事件」が訴訟問題に至る(客の側からのそれは別にして)事は、レアケースか皆無だろう。但しそれが「ホテル」というドラマ(マンガ)ではなく、「スーパー」というドラマ(マンガ)であれば、「刑事事件」、即ち「窃盗事件」としての「万引き」は、「姉さん、事件です」を一々言うのも疲れ果ててしまう程に、一日に何度も起きると思われる。しかしそれは、通常「世間が話題にするような出来事。問題となる出来事」ではない。被疑者が有名人でもない限り、スーパーにとってそうした「事件」は余りにも「日常」になってしまったという現実がある。事件が大辞泉が示す一義的な意味での「事件」として扱われるには、どこかで「世間」的に「非日常」でなければならない。

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最近「現代アート」界には「事件」が多い。或いは「現代アート」界は「事件」が多い。その頻度は赤川一平氏の事件よりも少ないものの、今や「事件」である事が、「現代アート」たる条件の一つになっているかの印象も受ける。


御堂筋 ブロンズ像に赤い服


大阪のメインストリート御堂筋に設置されている女性などのブロンズ像19体に赤い服が着せられているのが見つかり、大阪市は、服を着せた人に対して芸術をテーマにしたイベントに参加しないか呼びかけています。


25日朝、大阪の中心部を通る御堂筋の歩道で通りがかった人がブロンズ像に赤い服が着せられているのを見つけ像を管理する大阪市が確認したところ、およそ2キロの間に設置されているロダン高村光太郎などの作品29体のうち19体に服が着せられていました。服は既製品にスプレーを吹きつけるなどして赤くしたもので、少女の像にはミニのワンピースが、大人の女性の像にはロングドレスが着せられるなど、作品の個性やポーズ、大きさに合わせて選ばれているようだということです。作品に傷はついておらず、大阪市は被害届は出さず、防犯カメラの映像を確認するなどして服を着せた人を特定することもしないということです。そのうえで大阪市の平松市長は「芸術的なので服を着せた人に意図を聞いてみたい。近く御堂筋で開催される芸術をテーマにしたイベントにも参加して一緒に盛り上げてほしい」と話していました。


NHK
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20110727/k10014486071000.html


その発覚から数日経ったこれは、今や忘却の彼方に押しやられようとしているものの、確かにそれが「事件」として人々の前に現れた事で、産経のこの「事件」の記事の見出し「アート集団いたずら?彫刻19体に真っ赤なドレス 御堂筋」の様に、それが「現代アート」ではないかという印象を与える事には成功している。実際、実行者もそのつもりなのだろう。何故ならば、何よりもそれは、「人知れず」行われ、「夜陰に乗じて」行われ、「人目を盗んで」行われ、「脱兎の如く」行われ、そしてここが極めて重要なところとして、「(その権利を有する者に対して)無断で」行われている点で、渋谷の岡本太郎壁画「事件」から、投稿画像コピペ「事件」までの、当世風の「アート」の方法論に則っている。


この御堂筋の「事件」に対し、例えばこれは地蔵に着衣させたりする様なものであり、従って「現代アート」では無いとする見方も存在する。しかしそれならば、何も午前4時台に人目を盗んでやってきて、1分余りで事を終了させ、脱兎の如く「現場」を立ち去る必要は無いだろう。日中堂々と、当然の事ながら大阪市に銅像に着衣させる許諾を取った上で、衆目の中、出来ればファンファーレとか、テープカットとか、除幕式とか、マーチングバンドとか、そうした派手なセレモニーを伴ってそれを着せたとしても、実行者が余程の「人見知り」でない限り、全く何の問題も無い。


銅像に着せられたドレスは、既製服を赤スプレーで「染め」て、荷造り紐で縛り付けるという余りにも雑な作りである。テレビでコメントしていた或る服飾専門家によれば、この服を作った人間は「服飾について全くの素人」であり、少しでも服飾を齧った事のある者なら、赤い布を買ってきて自分で仕立てた方が、早く作る事が出来る上に、その仕上がりも遥かに良いと言う。であるならば、そうした像に対する「愛」の欠落振りからして、これは「笠地蔵」的な「思い」が至らしめたものではなく、やはり実行者は、昨今流行りの、「無断」且つ「非公開」で行われる「事件」としての「現代アート」をしたかったのだろう。


因みに何でも良いが、最近話題になった「現代アート」から、「無断」且つ「非公開」の要素を除いてみる。渋谷の壁画の管理者に対し、取り付けるパネルを予め提示した上で許諾を取り付け、何月何日ここで新たなパネルを取り付けますと一般にアナウンスし、メディア各社にその情報を報じて貰い、公開日には内覧会やパーティーなどをして、この続きは自分達の展覧会へどうぞなどと宣伝する。しかしそれでは当世風の「現代アート」としては全く「駄目」なのだろう。或いはまた、どこぞのイラストに特化した SNS に上がった画像を、その「権利者」に対して画像の使用許諾を事前に取り付けて回り、それがすっかりクリア出来てから自分の作品を作り、それをこの値段で販売しますとアナウンスし、画像提供者には謝辞を述べて回る。しかしそれでも当世風の「現代アート」としては全く「駄目」なのだろう。但し後者については、どうやら事前に「狙っていない」ところが、別の意味で「駄目」と言えば「駄目」なのかもしれないが。


「無断」且つ「非公開」であるか否かのみが異なり、その作品「内容」が一つも変わらなくても、それが「事件」として現れるか、そうでないかの違いは「現代アート」的に大きい。「渋谷」も「SNS」も、或いはバンクシーにしてもそうだが、その「隠密行動」が途中でバレてしまっては、「非日常」性を生起させるとする「現代アート」的には「元も子もない」のだ。「現代アート」は、新聞の「文化面」等にちんまりと収まる様な、「文化」的「ニュース」であってはならない。少なくとも「社会面」に乗る「事件」であってこそ、「社会」にインパクトを与える「非日常」性を獲得し得る。斯くして「現代アート」は「社会面」を目指す。そしてそれは、自然と「犯罪」を摸倣する事になる。


当世風「現代アート」の観客は、そうした「事件」としての「現代アート」を娯楽する者である。言わばそれは「劇場型犯罪」の「観客」と似た構造を持つ。


劇場型犯罪


劇場型犯罪(げきじょうがたはんざい)とは、あたかも演劇の一部であるかのような犯罪のこと。


概要


世間、企業などを舞台とし、実行犯が主役、警察が脇役、マスメディアの人間や一般人が観客、という構造になっているものが多い。犯罪が行われているにも関わらず、人々がそれを見世物として楽しむという行動が見受けられるのが特徴である。


劇場型犯罪の元祖は、切り裂きジャックであるといわれる。


日本での代表例としてグリコ・森永事件がある。「劇場型犯罪」の語はこの事件を評して、評論家の赤塚行雄が命名したとされる。犯人らはマスメディアに犯行声明などを送り付けて、捜査を撹乱した。マスメディアは事件を煽情的に報道したが、一部からは「メディアが騒げば騒ぐだけ、犯人の思惑に加担している」との非難の声もあった。


Wikipedia劇場型犯罪
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%87%E5%A0%B4%E5%9E%8B%E7%8A%AF%E7%BD%AA


現代アート」の要件は、恐らく「劇場型」の「事件」であるか否かにある。様々な「侵犯」行為とされるもの、「価値転倒」や「価値壊乱」とされるものを、「人々がそれを見世物として楽しむ」事が出来るか否かに、その価値が委ねられる。但し「社会面」を目指す「現代アート」が、実際に「価値転倒」や「価値壊乱」を、「社会」的に実現させた事は、未だに皆無なのではある。結局それは、飽くまでも「見世物」なのだ。


それにしても、「人知れず」行われ、「夜陰に乗じて」行われ、「人目を盗んで」行われ、「脱兎の如く」行われ、「(その権利を有する者に対して)無断で」行われるというのは、少し前なら珍走団の壁書きだったり、ストリートギャング等のマーキングだったりした訳であり、それは少なくとも付近一帯の「事件」にはなった訳だが、当世風の「現代アート」もまた、そこを目指しているのだろうか。


【続く】