自由

アンデパンダン展」というものを実見したことが無い。日本の現代美術史では、特に「読売アンデパンダン展(以下「読売アンパン」)」が超有名な存在であり、それが或る意味で戦後の日本現代美術の、或る時期までのメイン・ストリームを形成したという歴史観もあり、またその「読売アンパン」が醸成した「無頼」な精神の在り方は、これもまた日本現代美術に支配的な精神性を、通底的に規定している感もある。


「読売アンパン」は、1884年以降開催されている本家フランスの「アンデパンダン展」同様、そこから60年以上遅れて、無鑑査・無褒章・自由出品の「平等主義」を旨とした。「芸術」が事ある毎に持ち出す「自由」は、泣く子も黙らせ、地頭にも勝つ。ただ一言、「『芸術』は自由だ」という、それ自体が、その是非の検証に「無鑑査」である金科玉条で全てを済ませられる。「芸術」に於ける「自由」を否定しようとすれば、当然そこには幾多の障害が立ちはだかるどころか、それを言った人間の人格まで疑われる。言わば、「芸術」の「自由(無頼)」は、時にとてつもない「不自由」として権力的に機能する。


「読売アンパン」が、1964年の第16回展開催の前月に突如終結した理由は幾つか挙げられるだろうが、2011年現在で定説となっているのは、急進的な「反芸術」の牙城になっていった同展に対し、東京都美術館が、猥褻性、施設毀損の可能性をその理由として、「汚い、臭い、危険な」作品の締め出しを始め、同年同展の終了後に、あの名高い(「悪名高い」と「美術」の世界ではされている)「東京都美術館陳列作品企画基準」が設けられるに至り、それに呼応する形で、主催者の読売新聞社が「社会的役割を終えた」と突然の中止を発表したとするものだ。


東京都美術館陳列作品企画基準


次に掲げるような作品は,美術館の管理運営上支障があるので搬入(陳列)出来ませんのでご注意下さい。


●重量過多(1)指定重量を超過する作品
   ア 床面に陳列する作品は,床面積1㎡につき
     (ア)展示室,及び第一彫塑室Bは、270kgを超える作品
     (イ)第一彫塑室A,及び第二彫塑室は,1000kgを超える作品
   イ 壁面に陳列する作品は,100kgを超える作品

●天井吊下(2)天井から、直接つり下げる作品

●壁面吊下 (3)壁面に,垂直荷重以外の荷重のかかる作品

●不快音  (4)不快音,または高音を発する仕掛けのある作品

●悪臭腐敗 (5)悪臭を発し,または腐敗するおそれのある素材を使用した作品

●裸火等   (6)裸火を使用する作品,及び火災の発生のおそれのある作品

●刃 物  (7)刃物等を素材に使用し,人に危害をおよぼすおそれのある作品

●砂・水等  (8)砂利・砂・土等を直接床面に置いたり,水・油,または釘等で
      床面及び壁面等を汚染・き損するような素材を使用した作品

●感 電  (9)電気を使用するもので,感電防止等の安全対策がなされていない作品

●動 物   (10)動物(生命体を含む),または危険物等を持ち込んだり,置いたりする作品
      危険物

●転倒物  (11)作品が不安定のため,転落・転倒等により,鑑賞者に危害を与えるおそれのある作品

●法令違反 (12)観賞者に著しく不快感を与えるなど,公安・衛生法規に触れるおそれのある作品

●区画不明 (13)陳列区画が明確でないため,管理上支障のある作品

●館長判断 (14)その他,館長が不適当と判断した作品


当時の「読売アンパン」に於いて、一体何が起きていたのかを彷彿とさせる「陳列作品企画基準」と言えるだろう。しかし当然、これは「自由」な芸術の側からすれば「悪」の側に位置する規定である。その結果、読売アンパン中止直後には「論議」や「抗議」が起きた。或る年配者の述懐するところでは、東野芳明宮川淳との間で「反芸術」を巡る論争が起き、結局「宮川淳の『反芸術といえども芸術という枠から逃れられない』という一言でけりがついた」という事らしい。


読売アンデパンダン展」の中止が決定された1964年4月,ブリヂストン美術館ホールで開かれた公開討論会「反芸術,是か非か」(司会=東野芳明/出席者=池田龍夫,磯崎新,一柳慧,杉浦康平,針生一郎,三木富雄)に端を発した東野芳明宮川淳とのあいだに起こった論争.「読売アンデパンダン展」などに糾合された「反芸術」を「卑俗な日常性への降下」ととらえた宮川淳とそこに新たな試みを見出そうとする東野との論争は,その過程に東野と高階秀爾とのあいだに起こったポップ・アートをめぐる論争とも絡み合い,60年代前半の美術の問題点を集約することになった.


http://www.ntticc.or.jp/pub/ic_mag/ic026/pdf/104-117.pdf


しかし、それでも「読売アンパン」というものを実見したことが無いのだ。こうした年配者達による「美しい想い出」の「昔語り」は、実際に何度も何度も繰り言として聞かされてはいるが、しかし実際にその展覧会はどういうものであったのだろうか。何が何でも擁護したくなる、擁護しなければならなかったものだったのだろうか。それとも百歩譲っても、それでも尚、本当にどうしようもないものだったのだろうか。


目にする事の出来る当時の写真(それもまた「美しい想い出」を演出するものが多い)からすれば、これは可愛らしい展覧会の、可愛らしい作品だったと言えるだろう。その「自由」はフリマ的なそれであり、敢えて言えば、どの作家の作品も、21世紀の今では、美大の学部生辺りが大二病的な麻疹に掛かって作る様な作品にも見える。そして「無鑑査」であり「無褒章」であるそうした場に於いて、自作を他作よりも「秀でたもの」とするにはどうすれば良いかという方法論とその限界が、ここに見えている気もする。「東京都美術館陳列作品企画基準」から逆照射される、その当時の作品の姿形を想像するだに、今、このまま再び、例えば第14回辺りの「読売アンパン」を「そのまま再現」した展覧会があったとしても、その時代の「興奮」を伴う形での感興を、何も起こさないのかもしれない。しかしそれが僅か50年前には、日本の現代美術に於ける大問題の起点になっていたのだ。


そもそもが、この「アンデパンダン」という展覧会形式は、キュレーションの存在を全否定したところにその特徴がある。何もしなくても、世の中には自分の作品を他人に見せたい人間は沢山いるから、作品は自ずと勝手に集まってくる。その集まってきた、作家によって作品と称されているものをただ並べる。主催者はフリマ主催者の様に、その展示内容に責任を持たない。それで十分に展覧会であるとされ、しかもそれが日本現代美術史に於いては、特段にエポック的な扱いをされる。


なるほど、多くの善男善女にとって、展覧会とは「漠然と名品を並べてる」ものであろう。それは、京や伊勢への物見遊山にも、江戸や明治の見世物にも、あるいは美僧が人気を集めた絵解き説法にも、何らかの系譜上のつながりを持つような、我が国伝統の楽しい娯楽なのだ。


http://twitter.com/#!/qualquelle/status/94696749226139648


正体不明のこの人のツィートにもある様な、「圧倒的な売上高をたたき出し、その売上に比例する莫大な利益を生み出す」ブロックバスターな展覧会は元より、こうした「反・善男善女」なポーズを気取る人達による「展覧会」もまた、「漫然と作品を並べてる」点で、「我が国伝統の楽しい娯楽」の、「反芸術」による、「芸術」の反面(「反芸術」)を補うものなのだろう。即ちそれこそが宮川淳の言う「反芸術といえども芸術という枠から逃れられない」という発言の意味だと思われる。そうした芸術/反芸術による「楽しい娯楽」は、年配者の「美しい記憶」の繰り言として、「美しく保存された無用の長物」という、どこかで聞いた事のあるそれにやがてなる。それもまた「芸術」を外側から規定する「超芸術」と言えなくも無いだろう。


「『読売アンパン』の夢よ再び」なのかどうなのかは判らないが、こうしたフリマ的試みは間歇的に現れては消える。その担い手もまた、実際の「読売アンパン」を実見していない世代が多い様に思われる。そしてキュレーションを放棄した、しかしキュレーションすべき立場の彼等もまた、やがて年配者となり、「美しい想い出」の「昔語り」を次世代に、実際には放棄であったり怠惰であったりするものを、「あれは自由だった」などと語るのだろうか。