外部

白黒の画面だったのを覚えている。それがカラー制作であったのに白黒テレビで見ていたからそうだったのか、元々が白黒制作であったのかは定かではない。


映画やドラマ製作の為に作られたイメージである主人公の出で立ちは、この時点で既に現在スタンダードになっている、ランニングに短パン、リュック姿というそれだった気がする。モデルの実際は、以下の動画、或いはWikipediaの画像に見られる様な姿であった。動画では、後の「スカイライン伝説」を「演出」した日本カーレース界黎明期の名ドライバーの父親であり、有名な資産家でもあったプロモーター(「精神科医」でもある)氏が寄り添っている。



http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/3f/Kiyoshi_Yamashita_on_Ebisubashi_Bridge.JPG


そのキャラクターが作られたイメージである事に対して、主人公のモデルの甥氏が伝える本人談によれば、「自分が画家として有名になるためには仕方がない」(「週刊新潮」7月14日号)と語ったとされている。後年、この番組の設定やパッケージの殆どが、演じる俳優と撮影機材を変えただけで踏襲され、週末のテレビの「人気シリーズ」になる。


吃音の主人公は、その当時「ブーム」の最中にあり、「日本のゴッホ」とも「裸の大将」とも言われていた。その番組名もまた、その「裸の大将」だった。現在に至るも極めて稀な、その生前から俳優を使って映画が制作されたり、テレビ番組になる程に、その当時の岡本太郎等よりも、相当に「有名」だった「日本のゴッホ」だ。


当時十分に子供だった自分は、「日本のゴッホ」氏の仕事が良く判らなかった。週刊誌か何かのグラビアで見たその仕事は、子供の自分にも、すぐにでも手が届きそうな印象を持つものだった。


ゴッホは知っていた。自宅の長押には、当時の最先端の印刷技術を駆使した「それ」が、額装されて掛かっていた。「麦畑の風景」。まだカラスはそこにいなかった。その「オランダのゴッホ」は、子供心にも「嫌い」な画家であったが、それでもその画家の、画家としての「技量」を多少なりとも伺わせるものである事もまた、子供なりに幾許かは判ってはいた。しかし翻って「日本のゴッホ」は少しも判らない。その画家の高評価の基準が、どこにあるのかが全く判らない。


これが「日本のゴッホ」ならば、「ゴッホ」になる事など、ちょろいものだとも思った。子供である自分が持つ現時点の技術でも、十分に「日本のゴッホ」を超えられそうな気がした。皆、こういう絵を描けば「有名」になれるのに。しかしやがて子供は学習する。「日本のゴッホ」に至るには、超えられない何かがある事を。それを超えるには、極めて重要な「資格」「聖性」が必要な事を。テレビの中のキャラクターの振る舞いに、その理由がある事もまた徐々に判ってくる。「裸の大将」という、戯画的なまでに強調されたキャラクターが、そのモデルとなった人物の「背景」を知らしめるのに、十分に「役に立って」いた。成程これは「大人の事情」なのだ。「オランダのゴッホ」は、それでも努力対象に成り得るが、「日本のゴッホ」は、それを努力対象とする途が予め閉ざされている。そういうものなのだ。


既に自分も子供であるには若くない。自分の描く絵には既にパースが付いてしまっている。「大人の事情」で「子供」の絵として褒められる時期はもうとっくに過ぎている。今からパースの付いた絵を捨てて、再び「子供」の絵に戻る事は、単純に「嘘」でしかない。ここから先は、大人の絵になっていかなければならない。「児童画」の儘でいる大人など、「資格」や「聖性」を持った者以外は、誰からも望まれていない。最早、私は「それ」をすっかり忘れましたから、また「エデン」に戻して下さいとは言えないのだ。それでも遡行的パラダイスとしての「エデン」に戻る方法は、無い訳ではない。


「児童画」もまた「発見者がいなくては成立しないジャンル」であり、児童は「究極のアウトサイダーとしての『自然』」的存在ではあるだろう。「動物画」の動物もまたそうかもしれない。しかしそんな事は今更だ。嘗て子供だった者なら、そんな事は誰でも身を以て知ってはいないだろうか。

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アール・ブリュット」の提唱者であるとされる、プロフェッショナル普通画家ジャン・デュビュッフェは、そういう人達に対して、どういう思いであったのだろう。完璧に対等な「作家」同士に見られるライバル視だったのだろうか。ならばそれを紹介するという行為は、単純に「いい奴」のそれであるだろう。或いは、どんなにその人達が頑張っても、それでも自分が所属するところの「(普通)芸術」の領分には入っては来れず、またそこに足を踏み入れても欲しくない、だから新たな「枠」を拵えて、その人達をそこの住人とすると考えていたのだろうか。しかしそれは、些かプロモーター的な発想には違いない。或いはまた、その人達が単純に「憧れ」の対象であり、プロフェッショナル普通画家デュビュッフェ自身、今迄の「(普通)芸術」の世界で築いた地位から名声から、その一切合切、何から何まで全てを投げ捨てて、その匿名の人達の、匿名の世界に飛び込んでいきたいと考えていたのだろうか。それならばかなり潔いと言える。そうした思いの違いによって、デュビュッフェの以下の言葉も、全く違って聞こえてくるだろう。


「われわれが目の当たりにするのは、作者の衝動のみにつきうごかされ、まったく純粋で生の作者によって、あらゆる局面の全体において新たな価値を見いだされた芸術活動なのだ」


何故その人達は「アール・ブリュット」枠に押し込められるのだろうか。同じ「(普通)芸術」フィールドでの「勝負」は、「フェア」ではないからだろうか。それは字義通りのハンディ戦なのだろうか。端からタイマン勝負にならないからなのだろうか。「異種」という事なのだろうか。或いはまた、それが「待望」されるものであるならば、何故になべての「(普通)芸術」は、「アール・ブリュット」にならないのだろうか。そこに例の「人工」対「自然」、「顕在」対「潜在」という古臭い対立を見て取る事も可能だろう。個別的であり固有的であるとされる「アール・ブリュット」作品に対して、「批評」を禁止し、「鑑賞」を禁止し、「診断」を禁止し、ただ目撃し関係する事を求めるのであれば、ならば何故に「(普通)芸術」に対してはそれは求められないのだろうか。そうした「アール・ブリュット」と「(普通)芸術」の「非対称性」をもたらす「欲望」の在り処は何処に存在するのだろうか。そしてそうした「欲望」のある場所には、必ず「マーケット」が存在するものなのだ。

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或る「アール・ブリュット」大好き精神科医、評論家は、Twitter でこの様に書いた。


芥川龍之介の「沼地」という短編があるので要約します。芥川「この絵スゲー!!」美術記者「それ基地外の絵です(天才ざまぁww)」芥川「だからこそ傑作です(キリッ」現代のアール・ブリュット理解は、この当時とそう変わりませんね。


http://twitter.com/#!/pentaxxx/status/90040606402936833


しかし原作を読めば、この要約は些か恣意的に曲げられていると判る。


http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/113_15225.html


少なくとも「だからこそ傑作です」の「だからこそ」は余計だろう。原作の最後の発言「傑作です」は、寧ろ美術記者による自身(精神科医氏はそれを「芥川」と「解釈」した)の審美眼への揶揄に対するプロテストのそれであり、何も「基地外」をどうのこうのと言っている訳ではない。そうした誤読だか曲解だかによって、「現代のアール・ブリュット理解は、この当時とそう変わりませんね」という方向に議論を誘導して行く事に、果たして意味はあるのだろうか。


この芥川の「沼地」は、全く別のところから読まれねばならないだろう。それこそが、この「人工」対「自然」、「顕在」対「潜在」、そして「(普通)芸術」と「(非普通)芸術」に見られる、「非対称性」、そしてその「欲望」を巡る議論の重要なヒントにはなると思われる。

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少なくとも「アール・ブリュット」の議論に関して言えば、数多の論者が「何を言っているのか」は、さして、或いは殆ど重要ではない。寧ろ「アール・ブリュット」と呼ばれる対象に対して、彼等が「何を思っているのか」や、「何を欲しているのか」が炙り出される事の方が、余程重要なのだと思われてならない。それこそが、精神医学の「対象」として面白いのではないだろうか。