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牽強

以前、会期(一週間)中全てを「セッティング」に費やしていた展覧会(30年前)の事を書いた。そのインスタレーション作家が、曲がりなりにも自信を持って観客に見せる事の出来る展覧会の形になったのは最終日。それでも密かに「今回は結局駄目だった」と言ったのであるから、畢竟その展覧会は「ずっと駄目だった」という事にはなるだろう。


勿論搬入段階で、「今回は駄目かも」と思い、作家が自信喪失する展覧会はある。力ここに及ばず。しかし展覧会の蓋が一旦開いてしまえば、そこはもう「俎の上の鯉」「腹を括る」というのが、大抵は展覧会を開く立場の者に求められる「職業」的倫理として存在する。確かに、会期中にライティングの調整等をする事は有り得る。会場内の作品のちょっとした位置替えも、展覧会の性格によっては有り得る。小品の入れ替えも、まあ良しとしようではないか。しかしこれが、当初会場に展示されていた作品を、会期中に新たに制作された作品と、事前のアナウンスも無くごっそりと入れ替えたりすれば、それは一寸待ってくれにはなるだろう。通常、作家に示された締め日は、搬入時(或いはカタログ撮影日)で一応ストップしているものだ。


展覧会は、多くの場合、観客の機会均等を保証しなければならない。最終日の状態が、初日よりも「見違える様に良くなっている」事は、展覧会関係者にとっては喜ばしい事かもしれないが、会期前半から中盤に掛けて、その展覧会を見た観客にとっては、些か失礼千万な話に思えるだろう。


その作家は「これからどんどん変わっていくから、時間があったらまた来てね」と言った。しかしギャラリーに赴く者の多くに「時間があったら」という事は、現実的に余り無い。大抵はその作家の余程の熱狂的なファンでもない限り、複数回同じ展覧会会場に足を運ぶ事は無いだろう。観客は、通常その時に目撃したそれ以上を知る事は無い。そもそも、会場の昨日の状態と、今日の状態と、明日の状態を見比べてみる事で、得られるものは何だろうか。作家の創作の軌跡という事だろうか。ならばやはりそれを目撃したく思うのは、相当のファンならではの事だろう。それにこの場合、「変わっていく」のは「展覧会」ではなく、ただ単に「会場の状態」である。工具やダンボールや手伝いの人間が雑然としているその状態は、残念な事に「展覧会」という形のパッケージには至っていない。


その作家はどこをどうすれば良かったのだろうか。こんな「Yahoo!知恵袋」の存在を知った。


コンセプトがない芸術はありだと思いますか?
また、そのような作品があったら教えてください


http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1427813624


流石は今年の京都大学の文化祭のテーマに、「大切なことはみんなYahoo!知恵袋が教えてくれた」とあるだけの事はある。但しそのテーマは某掲示板でのネタだった訳だが、それはさておき、こうした場所での質問は、ネタ質問である可能性も無いではないだろう。それに対して寄せられる「アンサー」の滋味深さを「質問者」が味わいの対象とする事も考えられる。一方で、それに対するネタレスというのもあり、時に虚々実々、虚々虚々が繰り広げられていたりするのだが、しかし少なくとも、ここの回答者は皆が皆、誠実そうである。コンセプトという語に対する混乱が若干見られるものの。


ベストアンサー率49%を誇るベストアンサー氏の「コンセプトがなければ、芸術としての基盤自体が怪しくなるんじゃないでしょうか?」は恐らく正しい。今日の「芸術」には「コンセプト」が事実上必要だ。そこから一足飛びに「『コンセプト』があれば芸術だ」になるのも、時間の問題で済ませようとすれば、時間の問題なのかもしれない。今日の「芸術」は、「コンセプト」の巧拙もまた問題にされ、或いは創作的な部分での巧拙よりも、寧ろその方が優先されるかもしれない。手は動いているけど、頭は動いていない。これは今日の「芸術」では、かなり屈辱的な評価になると思われる。「頭が動いていないよ」。そう現代美術作家が言われたら、当人は相当落ち込むかもしれない。今日の作家は、「下手だね」と言われる事には耐性があっても、「頭悪いね」に対する耐性は低いかもしれない。手を動かすよりも、頭を動かせ。手は抜いても、頭は抜くな。「コンセプト」があれば、それは「芸術」であり、その「コンセプト」が巧みであれば、それに越した事は無い。「コンセプト」というマジックは、ディオニューソスがマイダス王に与えた能力の如く、それが触れる物全てを「芸術」に変えてくれる。


件の作家が決定的に間違っていたのは、恐らく会期中全てが「セッティング」に費やされていた事を、正直に「間に合わなかった」と言ってしまった事なのだろう。作家は「作品の生成や変化こそを見て貰うのが、この展覧会のコンセプトであり、それが私が提案する作品体験の新たなる形だ」等と言いさえすれば良かったのかもしれない。そうすれば、その「芸術」度は格段に上がり、全く同じものでも、極めて凡庸なものでも、誰もがしている事でも、或いは展示会としての条件を満たさなくても、それは即座に「芸術」に「昇華」され、全く違って見えてくれたりもする。展覧会に求めるものが、「作品」ではなく、「芸術」であるならば、その「コンセプト」と照らし合わせて、そうした「会場の状態」を、「芸術」の生成であると見做せる「幸福」が得られるのかもしれない。


自由主義


自由主義とは「自己決定権に制限を加えることができるのは危害原理のみである」という立場である。(略)


1 成人で判断能力のある者は(valid consent 有効な同意)
2 身体と生命の質を含む「自己のもの」について
3 他人に危害を加えない限り(harm-principle 危害原理)
4 たとえ当人にとって理性的にみて不合理な結果になろうとも(the right to do what is wrong 愚行権
5 自己決定の権利をもち、自己決定に必要な情報の告知を受ける権利がある(autonomy 自治権)、とするもの。


Wikipedia「自由」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%94%B1
参考:http://www.ethics.bun.kyoto-u.ac.jp/kato/bioethics.html (エンコShift-JIS)


「コンセプト」とは、その多くを「自己のもの」とする、即ち「自己」に「世界」を適応させようとする欲望に基づく。


分別のある人は、自分を世界に適応させようとする。
分別のない人は、世界を自分に適応させようと固執する。
ゆえに、すべての進歩は分別のない人によるものである。


The reasonable man adapts himself to the world:
the unreasonable one persists in trying to adapt the world to himself.
Therefore all progress depends on the unreasonable man.


バーナード・ショウ


「無分別」が「進歩」を招来する。確かにそれはそうかもしれない。しかし「無分別」は常に「進歩」を実現する訳でもなく、その大部分は単なる「無分別」で終わる。「芸術」は「無分別」をこそを、その理想型としたいところかもしれないが、しかし「無分別」は「芸術」のみに占有されている訳でもない。科学の「無分別」があれば、技術の「無分別」もある。しかし時に如何に「無分別」であるかを競い合う「芸術」は、「無分別」の為の「無分別」に堕するケースも無いではないだろう。


さて、件の作家の展覧会だが、その芳名帳には名を書かなかった記憶がある。芳名帳とはまた、それ自体が批評行為ではないだろうか。書かない事には、白票や棄権票という意味がある事もある。芳名帳には訪れた者が、必ず名を書かなければならない儀礼があるが故に、それには必ず記帳しなければならないという事が言われているとするならば、それは批評よりも儀礼が尊重されるという事なのだろうか。それでもやはり、儀礼を尊重して、そこに名前を書くべきだったか。或いは単に「×」と書くべきだったか。勿論面倒臭いから書かないというケースもあるのだろうが。