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類型

承前


アーティストのタイプを大別する方法には幾つかある。「男」か「女」か。これは結構大きい。「黒字」か「赤字」か。これもまた大変に大きな違いだ。「有名」と「無名」。現実的に極めて大きい。「聡明」と「蒙昧」。やはりそれは大きいと言えるのではないだろうか。「巧緻」と「拙劣」。その差を評価基準にするところでは大きい。「理想主義」と「現実主義」。結果的に出てきた作品と関係無く、主観的には大きい。血液型の違い。それはどうなんだろう。


仕事の進め方でも、アーティストのタイプ分けは可能だ。即ち、展覧会(納期)直前になって慌ててテンパり、そこからはいきなり不眠不休モードになり、栄養ドリンクや保存食を買い込んで臨戦態勢、ギリギリその日に間に合わせようとするタイプ。そしてもう一方は、展覧会があろうと無かろうと、普段から少しずつ制作を進め、展覧会の会期が迫る直前に不測の事態が起きようと、大抵の場合十分に対処可能な安全なマージンを備えてその日を迎えるタイプである。


そのどちらがアーティストの在り方として「正しい」かの判断は留保する。前者に対して「そういうところが芸術家らしい」とか、後者に対して「何となく芸術家らしくない」などとする評価があったりはするものの、例えばこれを住宅建設に置き換えてみて、引き渡し日の直前まで、何だか知らないが、「充電」や「仕込」等と称して、仕事をろくにしないで放っておき、引き渡し日直前になって慌ててテンパり、そこからはいきなり不眠不休モードになり、栄養ドリンクや保存食を買い込んで臨戦態勢、ギリギリその日に間に合わせようと「頑張る」姿が美しいかどうかは判らないし、そうして突貫で建てられた住宅に全幅の信頼を寄せ、それを気持良く数千万円で買いたくなるかどうかもまた別の話であるだろうし、そうしたドタバタを「何となく職人らしい」などと、ニコニコしながら理解を示す施主がいるかどうかもまた判らない。


しかも、その建設に関わる業者が、「顧客」にもオープンになっているパブリックな「場所」である Twitter か何かで、「今日も徹夜だ!」「間に合うだろうか?!」「トラブル発生!」「若い者が失敗した!」などと「現場」の修羅場な状況をダダ漏れし、或いは引き渡し当日に「いやあ、ギリギリ間に合いましたよ〜」などと「顧客の前」や「公共の場」でその「大変さ」をアピールし、一方でその住宅は住宅で、いざ入居をしてみたら、まだコーキング材が固まっていないみたいなもの(商品)であっても、それはそれ、何となく「頑張った」から許す、お宅は売る為にいつも一生懸命で素晴らしいみたいな、そんな商売が可能になるのであるならば、建設業もさぞかし楽な稼業になるだろう。


いずれにせよ、そうしてテンパった末に突貫で建てられた住宅は、やはり怖い買い物としか言えないだろうが、一方テンパッた末に突貫で作られた(しかもそうである事が堂々と公開されている)美術作品の場合は、余り怖い買い物だとは思われていないどころか、寧ろそのテンパり自体が「誠実の証」だとすら思われていたりする印象すらある。やはり美術は住宅とは全く異なる特別な高額商品なのだろうか、それとも需要と供給の関係が特別なのだろうか。


これはギャラリー等の展示場所にもよるが、例えば搬入時間が極端に短い場所がある。前の展覧会の作家が搬出を終えてから、終電までの4〜5時間程度で搬入を終えねばならない様なギャラリーも無いではない。現場のセッティングに時間が掛かるインスタレーション作家などは、そもそもそういう場所を選ぶ事自体が剣呑だとは言える。しかしそれでも、同じ様なケツカッチンの状況に置かれた内装業者やディスプレイ業者の場合は、その4〜5時間で必ず「金を支払われるに値する形を付ける」事が何よりも優先される為に、搬入前に考えられ得るトラブルの芽を潰し、必要最低限の人工(にんく)を確保するのが常識であったりするが、美術の場合は、ややもすると、備え無しの一発勝負で、人工は学校の教え子や後輩や友人辺りを「ボランティア」や「夕食を奢る」や「教育の一環」で潤沢に使えるのならまだしも、それすらしない「強者」もいたりする。しかも現場に入ってから、予定されていたものとは全く異なる、造形上の工夫をし始めてしまう者もいたりする。こういう「計画性の無さ」こそが、「芸術家らしい」と思い込む向きは多く、嘗て見た展覧会の中には、展覧会期中全てを「セッティング」に費やし、それが終わった時点で搬出の時を迎えたという、或る意味で今まで誰も成し得た事の無い「新しい試み」になってしまっていたものもあった。それは会期中、展示の形が変わっていく様が「新しい事」であると若い衆に錯覚させた「破滅*ラウンジ」の30数年も前の話であり、それは寧ろ、作家自身が破滅しつつ、楽しそうに芸術家がラウンジしている「最強」の「強者」の展覧会であった。


ドリフ大爆笑」に出て来る様な、少し書いては原稿用紙を丸めて放り投げ、部屋中が丸めた原稿用紙で一杯になった姿を、「懊悩する事の誠実」の典型とするのが、日本の近代的な芸術家像なのだろう。そうした芸術家像に於いては、恐らく「誠実」は何にも勝る。展覧会に間に合わなくても、ギリギリセーフ(半分アウト)でも、それでも「誠実」は何にも勝るという事だろうか。


夫兵貴拙速。未聞巧遅。(それ兵は拙速を貴ぶ、いまだ巧みの遅きを聞かざるなり)


桓武天皇詔 続日本紀巻第四十


参考: http://nihonshoki.s317.xrea.com/sh37_40.html


嘗て(ったって西暦789年だから相当前)桓武天皇はこういう事を言われている。この詔に関しては、後世「仕事の出来が良くて遅いよりは、出来は悪くとも速い方が良い」と、中身スカスカなおせち料理の業者にも、都合の良さそうな解釈となっていたりもする。その「強者」の展覧会が「巧遅」であったかどうかはさておき、ギリギリボーイズ、ギリギリガールズは、制作の着手が「遅き」であるとも、出てきた作品が「巧み」であるなら良いんじゃね、「誠実」なら良いんじゃね、と思っているのかもしれない。


孫子は「故兵聞拙速、未睹巧之久也(故に兵は拙速を聞くも、いまだ巧久しきを睹ず:第二篇「作戦」)」と桓武天皇と似た様な(こっちが遥かに先)事を言っているが、ギリギリボーイズ、ギリギリガールズの兵法はこちらなのかもしれない。しかしこれは飽くまでも「馳車千駟、革車千乘、帯甲十萬、千里饋糧、則内外之費、賓客之用、膠漆之材、車甲之奉、日費千金、然後十萬之師拳矣(馳車千駟、革車千乗、帯甲十万、千里にして糧を饋るときは則ち内外の費、賓客の用、膠漆の材、車甲の奉、日に千金を費して、然る後に十万の師挙がる)」といった様な十分な備えをしても尚、「決め手に欠ける」局面に至った場合での話であり、まずはそこに至らない事が前提になるという事にはなる。決して自ら進んで「決め手に欠ける」様に至らせるという事を孫子は言っている訳ではないのだ。


今日もまた、Twitter の TL を眺めていると、「夫鈍兵挫鋭、屈力殫貨、則諸侯乘其弊而起、雖有智者、不能善其後矣(それ兵を鈍らせ鋭を挫き、力を屈し貨を殫(つ)くさば、則ち諸侯その弊に乗じて起こる。智者ありといえども、その後を善くすること能わず)」の、ギリギリボーイズ、ギリギリガールズの「間に合わない」的な悲痛な悲鳴が流れてくる。それで「永遠の芸術」を創り上げようという、途方も無く遠大な思いの丈を前にして、「これもまた『タイプ』だなぁ」、としみじみ思うのである。


【幕間了】