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肉薯

承前


Google でそれを検索し、一番最初にヒットしたものを書き出してみる。勿論、これが「標準」であるとは言わない。


用意するのは、ジャガイモ3〜4個、牛薄切り肉200g、玉ネギ1個、ニンジン1/2本、糸コンニャク小袋1、サヤインゲン6本、塩小さじ1、だし汁400〜500ml、サラダ油大2。調味料として、酒大さじ4〜5、みりん大さじ3〜4、砂糖大さじ3〜4、しょうゆ大さじ4〜5。


これで何が出来るかと言えば「肉じゃが」である。「プロの料理レシピ18,000件!」の「E・レシピ」から引いた。詳細な作り方が知りたければ、以下をクリックだ。取り敢えず大局的には有無を言わせぬ、食品サンプルの様に典型的な「肉じゃが」が出来上がるであろう。


http://erecipe.woman.excite.co.jp/features/okazu/o16.html


その「E・レシピ」による「肉じゃが」の紹介文には、「和食の定番」とある。Wikipediaにも「肉じゃが」は、「日本料理のひとつである」と言明されている。しかし「和食」や「日本料理」とは一体何であろうか。


「日本料理」を「日本伝統の料理」であるとすると、途端に「肉じゃが」は怪しくなってくる。先述の材料の内、ジャガイモ、玉ネギ、ニンジン、牛薄切り肉は、事実上「明治以降」の「近代日本」の食材である。それら野菜類の全ては「洋物」であり、畜肉は近代化によって禁忌を解かれて以降、選択され得る「食材」の一つになった。中南米原産のサヤインゲンは、幕末に現在のものに品種改良され、醤油(濃口、薄口)やみりん(白)もまた、それらが江戸中期前後に発明されてからそれ程年月が経っておらず、サラダ油に至っては言うに及ばない。「カレーライス」同様、明治時代の帝国海軍の艦上食であるという出自以上に、「ビーフシチュー」の換骨奪胎である「肉じゃが」は、素材的にも調理的にも味付的にも徹頭徹尾「日本・近代・料理」である。


近代以前の日本の料理を紐解けば、例えば縄文時代などはドングリ食があったりした訳だが、これを所謂「日本料理」の範疇に入れるのは如何にも苦しいだろう。「縄文料理」は「縄文美術」と同様、「日本」の範疇には含まれない。しかしそこまで古くなくても、鰹節や昆布で出汁を取る様になったのは、早く見積もって近世に入ってからであるし、現在の形の醤油が出現したのも、江戸時代初期から中期に掛けてである。それ以前の日本の料理には、今日言うところの所謂「日本料理」の代表格となるものは、事実上殆ど存在しないと言えるだろう。仮に出汁と醤油が「日本料理」の「特徴」の一つであるとするならば、畢竟「日本料理」とは、近世以降の日本の料理を指すと言って良い。


一方で「和食(日本料理)」は「洋食(西洋料理)」の反措定として成立する。即ち「和食」とは「洋食ならぬもの」の謂でもある。些か古いが、一世を風靡した料理バラエティ番組「料理の鉄人」で、「和の鉄人・道場六三郎」は、「フレンチの鉄人・坂井宏行」の領分を犯さない形で自らの「和食」を拵える。当然「中華の鉄人・陳建一」や、「イタリアンの鉄人・神戸勝彦」の領分も犯す事は無い。道場六三郎は、「創作料理」系の人でもあるだろうから、その気になれば「ジャンル」を越境する事も厭わないだろうが、しかし一旦「和の鉄人」という役割を与えられれば、「和食」の「特徴」とされるものに沿った料理をする人になる。それは「非=フレンチ」であり、「非=中華」であり、「非=イタリアン」としての「和食(日本料理)」の料理人であり、「非=コック帽」「非=コック服」としての「割烹帽」「作務衣」という「型」である。


あれ程に日本由来の材料を使わない「肉じゃが」が、それでも代表的な「和食」の一つで有り得るのは、「ビーフシチュー」に代表される様な「洋食」の、そうした反措定として存在するが故にである。即ち、ドミグラスソースを使わずに、日本独自とされる醤油やみりんや酒や砂糖で。フォンドボーを使わずに、日本独自とされる出汁で。食するときにはナイフ・フォーク・スプーンを使わずに、日本の特色とされる箸で等々。そうした「日本独自(近世以降)」という「型」を根拠とした「ビーフシチューならぬもの」として、「和食(日本料理)」としての「肉じゃが」は成立し、翻って「肉じゃが」の「和食(日本料理)」もまた成立する。


向かい合わせの反措定による、近代に於ける「日本料理(和食)」と「西洋料理(洋食)」の分裂。しかしその分裂は、「肉じゃが」に「日本料理(和食)」と「西洋料理(洋食)」の統合=「日本」の調味料と「西洋」の食材の統合=「真の意味での『日本料理』」を見る人達の間でこそ「問題」として共有されるものであり、「ビーフシチュー」の人達にとっては、全く関わり合いの無い話ではあるだろう。そうした「肉じゃが問題」は、常に内輪受けであり、同じ「肉じゃが」同士で相憐れむであり、そしてまた「西欧近代」に対する「復讐」を誓う者同士の、馴れ合いの符牒なのだ。


村上隆 @takashipom はこの「黒田清輝へのオマージュ。」で、近代における日本画と洋画の分裂をオタク文化を芯に再統合し、しかもそれをアートとして西欧近代に送り返すという「4種混合画」を、驚くほど高い次元で完成させている。


かつて藤田嗣治はエコール・ド・パリの時代に世界の頂点をきわめたが、その原動力となったのは自力で編み出した真の意味での「日本画」(=領域的には近代以前の日本美術と西洋画の統合、技法的には墨絵と油画の統合)だった。


村上隆黒田清輝へのオマージュ。」と藤田嗣治「五人の裸婦」(1923)を比較したとき、前者は実に4種(日本画、洋画、アート、オタク)を包含して尚、工芸品のような精緻に達している。 これが真の意味での「日本画」なのではないか。偉業だ。


http://twitter.com/#!/noieu


So What? / Why So?


「肉じゃが」を「ビーフシチュー」の人達に認めさせるのなら、黙って「肉じゃが」を差し出して、「どうですか?美味しいですか?これをあなたのお気に入り料理にしますか?」と聞くだけで良い。それ以上のお喋りは不要であるし、単純にそれはみっともないだろう。


【続く】