怨嗟

承前


所謂「シンポジウム」にせよ、「フォーラム」にせよ、或いはまた、オンライン・オフライン上の「論争」や、展覧会が引けた後の「呑み会」に至るまで、「美術」関係の人間が寄り集まって、「美術」の抱える「問題」とやらを語る際、そこには常に一種のテンプレートめいたものがあると言えるだろう。或いは、そのテンプレートさえ踏まえれば、「美術」に於ける議論の形のバリエーションが、無限に展開出来ると思われる。それを無限に展開して一体どうするとも言えるが、しかし実際には、手を変え品を変え、無限と思える程にそれは続いたりする。何故ならば、それは「『美術』の『問題』」だからである。


そのテンプレートの最前提として、まずそこには「『美術』の『問題』」が無ければならない。兎に角「美術」は「問題」含みなのだ。まずはその「問題」含みであるという「危機感」を共有する。これが第一のテンプレートである。「美術に特に問題は無いと思いま〜す」と言って憚らない様な「天然」で「お目出度い」輩には、「美術」の「問題」を論じる資格は無い。「美術」に「問題」があると思っている人間にこそ、「美術」の「問題」を論じる資格がある。「美術」の「問題」の条件分岐は、そうした再帰的な構造を持つ。この「問題」の、最初の " true=1 " と " false=0 " の分岐は、まずはそこにあると言える。" false " が " true " になるまでループさせるという方法もあるが、大抵は " false " =ハイさようならである。


「美術」に「問題」があるという事は、現在「美術」は、余り「幸福(=無問題だとして)」な状態ではないと自ら表明していると受け取って良いのだろうか。だとしたら「今、私達『美術』は『不幸(=有問題だとして)』です」という事になる。仮に「不幸」という言い方に語弊があるのなら何だろう。「十全な状態ではない」だろうか。では「不全」という語に変えよう。


この「不全」の状態については、それぞれのケースに於いて様々に語られるが、その多くを総合すれば、「美術」の「承認要求」が満たされていないという事になるだろう。認められたいのに、認められていないというあれである。その自意識過剰やコンプレックスが高じれば、「中二病」にもなったりするかもしれないあれである。「『美術』はこんなにも大切(自意識)なものなのに、どうして大人(一般人)は判ってくれないんだ」という定式もまたここから導き出され、これが第一のテンプレートを形成する。


しかしここで、「俺みたいな奴、無視されて当然っスよ」という、或る意味で「気風」の良い、開き直った「不良」の道を、「美術」は余り歩む事はしない。そうした「不良」の道からは、場合によっては「俺には俺の道がある。お前らとは別な道で俺は金持ちになってやる」的な、ポジティブ(根はネガティブかもしれないが)なパワーが生まれる事もある。しかしどちらかと言えば、「美術」の場合は、「挫折した頭の良い子」に近いものになるだろう。即ち「僕を認めない学校がおかしい」になるケースが多いという事だ。「昔は皆が僕を褒めて優しくしてくれて、お小遣いだってくれていたのに、今はどうして、冷たく無視されたり、褒めたりしてくれないのだろう。他の場所では僕と同じ様な子がもっと良い目にあっている(憶断に基づく)というのに、この僕は一体何だ。僕はいつだって、回りから望まれてきたし、だからこれからだって望まれるべきなんだ」。「昭和ブルース(古)」的に言えば、「生まれた時(「悪い場所」でも可)が悪いのか」であって、「それとも俺が悪いのか」とは考えない。改めて言うまでもなく、これは自らの「不全」状態に対する典型的な「恨」であり、「恨」であるからこそ、「挫折した頭の良い子」は、その「不全」をもたらせたものに拘泥し続ける。


こうして「自分は悪くない。回りが悪い」というスタンスは生まれる。取り敢えずそれを「逆恨み」であると言わない事にはしておくが、いずれにしてもこの「自分は悪くない。回りが悪い」が、二つ目のテンプレートだ。その「回り」の箇所には、「社会(漠然)」という語が入ったり、「日本(漠然)」という語が入ったり、「西欧(漠然)」という語が入ったり、「近代(漠然)」という語が入ったり、合わせて「西欧近代(漠然)」が入ったり、「世界(漠然)」が入ったり、「市場(漠然)」が入ったりするが、その基本の型としては、いずれもほぼ同じである。要するにその全てが「復讐」の形を取り、またそれら「復讐」の対象が、極めて「漠然」であるところも共通している。一方で、その「復讐」の対象からは、大抵「復讐」しようとする者の姿自体が見えていない。ナッシングなのである。


いずれにしても、こうして「自分は悪くない。回りが悪い」になれば、当然「回りを変えなければならない」にもなるだろう。そして、そうした「復讐」の戦略を選択した以上、ぶっちゃけそれを実現させようと思ったら、極めて多大な現実的労力が必要になるのではある。時には、敢えて泥を被る事も厭わないケースも出て来るだろうし、自分自身を欺かなくてはならなくなる事もあるだろう。それがゲインを得る為にリスクを負うという事だ。それを踏まえた上で、「僕を認めない学校が悪い」から、「学校を変えなければいけない」に至り、その後は実際に学校を変える労力を惜しまない、その覚悟さえあれば「その意気や良し」なのではある。ただ夜の校舎の窓ガラスを壊して回ったりするだけでは、望む様には「学校」は変わらないのだ。「学校を変える」、「社会を変える」「日本を変える」「西欧を変える」「近代を変える」「西欧近代を変える」「世界を変える」「市場を変える」。まさかそれを「他の誰かがやって欲しい」と思ってはいないだろうが、兎にも角にも、この「回りを変えなければならない」が第三のテンプレートである。


では実際に、この「挫折した頭の良い子」自身が出来る事は何だろうか。金は無い、力も無い、その上に根性も無いという三重苦の「挫折した頭の良い子」は、矢鱈に「地道な活動で啓蒙」といった「身の丈で出来る事」を強調する。という事は、最低限自分自身の無力に対する自覚はある訳だ。「頭の良い子」は、「世界同時革命」などといきなり言い出さない「分別」は備えてはいる。但し「分別」の限界を超え出ない嫌いはある。それは単なるチキンかもしれない。いずれにしても、こうした「身の丈」の「啓蒙」を強調するのもまた、テンプレートの一つであるだろう。


しかしこれもぶっちゃけ、「身の丈」が「世界を変える」にまでに至るプロセスは、かなり非現実的である。「美術」は「啓蒙」によってもたらされるものの総和である、蒙を啓かれた「元気玉」が、かなり大きくなると踏んでいるが、実際にそうなったという事例は、寡聞にして知るところのものではない。ビジネスの人ならば、それが勝算に足るプロジェクトであるかどうかの、シミュレーションに基づく具体的精査は欠かせないが、しかし「美術」は言いっ放しで良い。「皆で啓蒙していきましょう、そうだ、そうだ、そうしましょう、チャンチャン」で、大抵は大団円の形が作れる。結論に詰まったら、この第五のテンプレートを使えば良い。


しかも悪い事に/良い事に、「啓蒙」の立場からすれば、「啓蒙」の失敗は「啓蒙する」側の能力不足と認識されるよりは、「啓蒙される」側の能力不足に帰する事が出来ると思われている。「所詮あいつら馬鹿だから」と捨て台詞を吐く。これで良いのだ。お商売の人もまた、心底ではそう思いたくなる事もあるだろうが、しかしそれを言わないのがお商売の人の最低限のエティカではあるだろう。


以上、これさえ踏まえれば、「美術」の「議論」の形は大抵付くというテンプレートである。「『美術』には『問題』がある」、「『美術』は悪くない。『回り』が悪い」、「『回り』を変えなければならない」、「『回り』を変えるのには、地道な啓蒙活動(ロビィ活動含む)が望まれる」。後は「他所の(恵まれた)状況」とか「地道な活動」の映像か何かを流し、そこに針小棒大をフル活用すれば、すっかり立派な「シンポジウム」や「フォーラム」になる。そして前もって幹事を決め、二次会の会場か何かを押さえておけば、ほぼ完璧なそれになるだろう。これならグズグズにならず、滞り無く形が付くというものだ。


こうして「『美術』の抱える『問題』」の議論が止む事はない。しかし「『美術』という『問題』」が議論される事は余り無いのだ。


【続く】