転換

承前


「きんだいのちょうこく」という音から「近代の彫刻」と脳内変換する人は多いだろう。特に「芸術」関係の人などは、「近代の彫刻?ああハーバート・リードね」という事で、" Modern Sculpture: A Concise History (Herbert Read) " を思い浮かべる人も多いと思われる。さすればその脳内は、ロダンやら、ブランクーシやら、ムーアやら、カロやらが、さしずめ走馬灯の様にぐるぐるとカルーセル状態になる事だろう。


但しこれが、思想関係、文学関係の人になると、別の脳内変換が行われる。即ち「きんだいのちょうこく」イコール「近代の超克」になる。そもそもが、所謂現代思想、現代芸術という代物は、概ね「近代を超克する」という共通したテーマに則っている。大雑把に言えば、「現代」の「グローバル」な「世界文化」に於いては、「近代」は「超克」されねばならない対象になっている。これは永遠に終わらないかに見える「近代」のエンディングとしての「現代」のお約束だ。そしてその長過ぎる「近代」の黄昏としての「現代」に於いて、「近代の超克」の「近代」の概念と、「超克」の方法論のモードが移り変わっていくというのが、「現代思想史」や「現代芸術史」と呼ばれるものの正体なのかもしれない。モードであるから「近代(の概念)」と「超克(の方法論)」それぞれに、流行りもあれば廃りもあったりするその一方で、「近代の超克」の言うところの「近代」そのものは、百年超に渉る「近代の超克」の猟場として未だに「超克」されずに留め置かれ、今後も恐らく余程の事が無い限りずっと永遠に留め置かれ、ひょっとしたら「近代の超克」を言わなくなった時にこそ、「近代」が済し崩しに「超克(或いは忘却)」されるのかもしれないという疑いが頭を過るが、それはさておきなのである。


日本の思想界・文学界では、「近代の超克」と言えば、「ザ」と定冠詞が付く様な、特定の対象としての「近代の超克」を指す。「近代の超克?ああ『文学界』の例のあれね」という事で、その「ザ・近代の超克」は、文芸雑誌「文学界」昭和17年=1942年10月号に掲載された「伝説的に有名」な座談会、「知的協力会議 文化綜合会議シンポジウムーー近代の超克」(及びその前月号からの関連掲載論文)を意味していると言って過言ではない。当然の事ながら、この認識は「グローバル」なものではなく、「日本」という国に限ってのそれであり、またこの「近代の超克」そのものが「日本(とそのアジア)」と分かち難いものであるところに、この「近代の超克」の特徴がある。戦後暫くは、戦争イデオロギーとして専ら否定の対象としてあったこの座談会は、当時の「文学界」グループ、「日本浪曼派」、及び「京都学派」の三派で構成されていた。具体的には、西谷啓治、諸井三郎、鈴木成高、菊池正士、下村寅太郎、吉満義彦、小林秀雄亀井勝一郎林房雄三好達治、津村秀夫、中村光夫河上徹太郎という面々である。


西谷啓治 明治三十三年生。京都帝大哲学科卒。京大助教授。
諸井三郎 明治三十六年生。東京帝大美学科卒。伯林国立高等音楽学校卒。東洋音楽学校、東京高等音楽院講師。
鈴木成高 明治四十年生。京都帝大史学科卒。京大助教授。
菊池正士 明治三十五年生。東京帝大理学部卒。理博。大阪帝大教授。
下村寅太郎 明治三十五年生。東京帝大哲学科卒。東京文理大教授。
吉満義彦 明治三十七年生。東京帝大倫理学科卒。上智大学教授。東京帝大文科講師。
小林秀雄 明治三十五年生。東京帝大仏文科卒。明大教授。文学界同人。
亀井勝一郎 明治四十年生。東京帝大美学科卒。文学界同人。
林房雄 明治三十六年生。本名後藤寿夫。東京帝大法科中退。文学界同人。
三好達治 明治三十五年生。東京帝大仏文科卒。明大講師。文学界同人。
津村秀夫 明治四十年生。東北帝大独文科卒。朝日新聞記者。文部省専門委員。
中村光夫 明治四十四年生。本名木庭一郎。東京帝大仏文科卒。文学界同人。
河上徹太郎 明治三十五年生。東京帝大経済学部卒。文学界同人。


(注:肩書は当時のもの)


鈴木成高による「覚書」から引く。


近代の超克といふことは、政治においてはデモクラシーの超克であり、経済においては資本主義の超克であり、思想においては自由主義の超克を意味する。


日本の場合においては、近代の超克といふ課題は同時に欧州の世界支配の超克といふ特殊の課題と重複することによつて問題は一段と複雑性の度を加へる。


鈴木成高 「近代の超克」覚書


パサージュ的に迂回する。文芸雑誌「文学界」についてのWikipedia解説。


歴史


文學界』の名を冠した雑誌は最初に1890年代に北村透谷島崎藤村たちが拠った雑誌として発刊され、この雑誌は明治浪漫主義文学の拠点であった。この雑誌は現在のものとは直接関係ない。


その後、1930年代に小林秀雄林房雄たちが拠った雑誌として発刊された。この雑誌はどちらかというと、芸術至上主義であった。しかし、1938年には石川淳の「マルスの歌」を掲載したところ反戦意識を高めるという理由で発禁にされ、作者と編集の河上徹太郎も罰金を払うことになった。このとき、菊池寛が罰金を肩代わりしたのでその後、この雑誌は文藝春秋社が関係するようになり現在の雑誌も文藝春秋が発行するようになった。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E5%AD%B8%E7%95%8C


文学界」の歴史は、ここで言うところの「1930年代」(昭和8年=1933年、奇しくもその年の1月30日に、アドルフ・ヒトラーが独首相に就任して国家社会主義ドイツ労働者党、所謂ナチス党が政権を獲得した)に、林房雄が、小林秀雄川端康成武田麟太郎深田久弥広津和郎宇野浩二等と創刊したその時に、事実上始まったと言えるだろう。京都学連事件での検挙を経て、プロレタリア文学者として活躍の後、治安維持法で再び逮捕収監され、1932年に転向して出所。翌年「文学界」の創刊に至った林房雄は、2年後の1935年にマルクス主義からの離反を主張し、その翌年には「プロレタリア作家廃業宣言」を著す。


後の昭和18年=1943年の「勤皇の心」で、林房雄は自らの「転向」についてこう綴る。


 だが、彼らの武器は何であつたか。言ふまでもない。一切がしかも徹底的に外国よりの借り物であつた。クロポトキンでありバクーニンであり、マルクスでありエンゲルスであり、最後にはレーニンでありスターリンであつた。彼らが救国の武器として取上げたものは、最初より亡国の武器であつた。(略)


 私も左翼人の一人であつた。我が罪の大きさにをののきつゝ、今この文章を草しつゝあるのであるが、我が心の歴史をふりかへつて、我をして左翼に到らしめた原因はいづこにあるかと三思するとき、それは明治中期以後の文学であつたと論結せざるを得ないのである。


 神の否定、人間獣化、合理主義、主我主義、個人主義の行き着く道は、当然、『神国日本』の否定である。日本の現代文学者は、半ばは意識しつゝこの道を歩いた。かくして、青年をあやまり、国をあやまつた。この罪は何によつて贖うべきか。何によつて償うことができるか。


当時、大正末期から昭和のゼロ年代に掛けて、青年達の関心は、「卑怯な健康」よりも「デカダンス」や「エロ・グロ・ナンセンス」にあった。「卑怯な健康」は、昭和ゼロ年代に於ける「文明開化」以降の「近代」を意味している。知的であると自認する青年達は、「虚無的」で「退廃的」で「唯美的」な「デカダンス」に、そして大衆は、「扇情的」で「退廃的」で「刹那的」な「エロ・グロ・ナンセンス」に、明治維新後の「文明開化」による「資本主義化」「中央集権化」「工業化」「合理主義化」の行き詰まりによる疲弊を打開する幻想を抱く。こうした昭和ゼロ年代の青年心理が、キリスト暦ゼロ年代の「萌え」や「サブカル」を想像させるという拙速な予断は、ひとまずここでは謹んでおく事にする。


「日本浪曼派」は「デカダンス」の延長上にある。その象徴的中心人物の保田與重郎は「文明開化の論理の終焉について」(昭和12年=1937年6月)にこう記している。


この数年間の文学の動きは、合理から合理を追ふてある型を出られぬ「知性」がどんな形で同一の堕落形式をくりかへすかを知る一つの標本的適例であつた。そんな時に於て、己の頽廃の形式をまづ予想した文学運動があらねばならぬとすれば、日本浪曼派などはその唯一のものであらう。従つて、今日から云つても、旧時代の没落を飾る最後のものとして十分なデカダンスである。


「近代」は、60数年前のこの時既に、「旧時代の没落(文明開化の論理の終焉)」として認識されていた。そして60数年前の「日本浪曼派」が、その「最後のもの」であるともされていた。今なお、こうした構図をそのままに、広義の「近代の超克」は主張され続け、引きも切らず、相も変わらず、その「近代」とその「超克」のモードの新しさと、その正当性を競い続けている訳だが、それはさておき、しかしこの保田與重郎の主張も、結局は文学被れでデカダン被れの一部青年を熱狂させるに留まるものであった。


しかし突然に「近代の超克」は、デカダンに陥る様な、無い知恵を絞ってまだるっこしく「超克」する必要の無い、極めてポジティブな力を持つ事になる。昭和16年=1941年12月8日の「大東亜戦争」開始。大変な事態である。この大変な事態に乗じてものを言えば、それだけでパワーのある全能的な主張が出来る。「近代の超克」は、最早仲間内の知的繰り言ではなく、最強のスローガンになる。何せこの事態(開戦)は、「西欧近代に対する(日本の)東亜の解放」というのがその名目なのだ。言わば「近代の超克」開戦である。それは「デカダンス」よりも、「エロ・グロ・ナンセンス」よりも、遙かに大きな興奮をもたらしてくれる娯楽を超えた娯楽である。


文学界」座談会の司会役を務めた河上徹太郎は、「座談会」の「結語」としてこう書いている。


これ(注:座談会)が開戦一年の間の知的戦慄のうちに作られたものであることは、覆ふべきもない事実である。


大東亜戦争によって引き起こされた「知的戦慄」。そしてそれから数ヵ月後、開戦の翌年の夏にこの座談会は行われた。事態の急変、或いは急変の事態は、「知的」な人の、夜郎自大かもしれない「超克」の望みを「知的戦慄」の下に一気に叶えてくれそうな気にさせ、正当化してくれる様な気にさせる。戦後この「近代の超克」を批判の俎上に上げた竹内好もまた、大東亜戦争開戦時にはこう書いている。


歴史は作られた。世界は一夜にして変貌した。われらは目のあたりそれを見た。感動に打顫へながら、虹のやうに流れる一すじの光芒の行方を見守つた。


竹内好大東亜戦争と吾等の決意(宣言)」昭和17年=1942年1月


些か長くなった。「近代の超克」についての続きは次稿に委ねる。

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2011年3月末、某SNSにこう書いた。


戦争画」の時代状況が何となく判ったりする。


これに対して或る人物からコメントが付いた。


「これは、近現代の美術が抜き難く伴ってきた「啓蒙性」を、徹底的に解体するチャンスでもあるでしょう。」


震災に遭遇した東北の美術関係者からの「悲痛」なメールの返信を、こう書き記そうとして、しかし氏はその手を止める。「これじゃあ我ながら、『近代の超克』じゃないかと」。


311が人類史に於ける「大転換」であるとする言説があちらこちらで見られる。「今こそ」という枕詞の使用頻度も高い。あの風景をテレビモニタやPCモニタで見ながら、或いは実際に「現地」に足を運びながら、「歴史は作られた。世界は一夜にして変貌した。われらは目のあたりそれを見た」の如き感想を述べる人達。311以降の「近代の超克」。


「近代の超克」というトピックは、二重の意味でわれわれにとって重要である。一つは、われわれがなお超克すべき「近代」のなかにあるからであり、もう一つは、われわれがなお戦前の「近代の超克」の問題を本質的に越えていないからである。


廣松渉著「〈近代の超克〉論」解説 柄谷行人


【続く】