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商売

承前


「今こそ、アートの力を。」


2011年5月のとある週末2日間に行われた「アートフェア京都」の「スローガン」である。烏丸という地方都市京都の、こじんまりとした中心部にあるホテルで、エレベーターを結婚式招待客と共有しつつ昇って行くと、やがてその会場となった2フロアに到着する。例によって例の如くのホテル型アートフェアであった。


「今こそ、アートの力を。」の「今こそ」という言い方が、「捲土重来を期す」的に聞こえたりもするのは御愛嬌であり、それはまた、主催者や参加関係者の本音をも表しているだろう。「主催者挨拶」を引く。


アートフェア京都、二年目の進化。


次なるステップへの誓い


2010年5月、それまで現代美術市場不毛の地とされてきた京都において、かつてない画期的なアートフェアが誕生しました。
市内中心部で大規模なホテルを運営するホテルモントレ京都の全面協力のもとに行われた第一回「アートフェア京都」は、スタイルこそ従来のホテル型アートフェアを踏襲するも、日本における真のアートマーケットの創出を掲げて様々なアイデアを現出し、各方面から多大な注目と支持を集め、成功裏に幕を閉じることができたのです。


入場者数述べ2,000人、うち有料入場者数は約半数。この数字だけ見れば、とても充分なものとは言えないかもしれません。
しかし入場料を2,000円に設定し、その代金を各ブースでの購入の際に還元する「デポジット制」の導入を考えれば、結果的にイベントとしての物見遊山の来客を制限し、今までのホテルフェアの過剰な混雑を解消したばかりか、真の顧客との出会いを生む機会を大幅に導いたことは間違いありません。
このアート業界初の試みに代表されるように、「アートフェア京都」はもはや行き詰まりと閉塞感に悩む日本の美術業界において、未知の一般層に訴え、ほぼ手つかずの大きな可能性を秘めた国内市場を掘り起こすため、既存のアートフェアと一線を画します。
そして京都という古来からの文化都市であり、国際的なブランドであるネームバリューを最大限に活かすことにより、これまでの東京主導のマーケティングとも違う、国内外を問わず一元的に価値を創出する現場として再興することを目指します。
やがてその試みは日本の中に留まらず、世界の中で確かな地位を築き、次世代のアートシーンの中核となることでしょう。


私達の歩みはまだ始まったばかりです。初回に顕れた様々な運営課題を洗い直し、今回は更に上質なフェア運営を誓います。
京都はもちろん、日本全国から気鋭の現代美術ギャラリー、美術マーケットの創造を狙う企業、プロジェクトを誘致します。
そして第二回の最大の注目点となるのは、前回の1フロア35室での開催から規模を二倍とし、2フロア約60 室での開催となります。
これをもって「アートフェア京都」は日本最大のホテル型アートフェアとなるだけでなく、その内容においても業界の壁を破り、乱立するアートフェアの中で一際大きな存在感を放つことでしょう。
目標10年開催、その最大の指針とする「京都を世界に誇る美術の産地、市場にする」ためのステップとして国際化も推進します。
韓国・ソウル次世代のホテル型アートフェア「DOORS」や東京の新しいアートプラットフォーム「TOKYO FRONT LINE」と連携し、アートフェアがコネクトし合うことで生まれるグローバルなネットワーク形成を目指します。
開催時期は初回から2週間後に移動することにより、「ART HK」の前週の開催となります。これはすなわち、その後に控える「アートバーゼル」までも視野に入れた上で、やがて京都から香港、バーゼルへと世界のコレクターの流れを導くことを狙っています。


(後略)


http://www.artfairkyoto.com/comment.htm


ハンバーガーショップで500円以上のセットメニューを頼めば、サイドメニューがお買い得値段で買えます的お得感商売にも思える「代金を各ブースでの購入の際に還元する『デポジット制』」は、確かに作品を買う「真の顧客」にとっては「お得」感があるものかもしれない。「真の顧客」ではない「冷やかし(主催者挨拶中の表現では「イベントとしての物見遊山の来客」)」には、その来場を抑制する効果があるらしいが、実際に会場に行けば、「冷やかし」率は当然の様に高過ぎる程に高い。少なくとも95%以上(印象)はそれだっただろう。極めて逆説的だが、「物見遊山の来客」による入場料収入は、この地方都市中心部のホテルの2フロアを借り、イベントを運営するに当たっての、決して無視し得ない条件であったと想像される。


一方で、「店頭」となったホテル各室に「陳列」された「商品」を見た上で尚、購入するに至らなかった「真の顧客未満」にも「デポジット制」は適用されない。買いたいという気持ちはあるものの、趣味に合致しないか、求めるクォリティに達していないか、価格設定に納得が行かないのかのいずれにせよ、それで買いたい作品が見付からなかったとしても、それは「イベントとしての物見遊山の来客」と同列である。ここで言われる「真の顧客」とは、そうした供給が提出し得るレベルと、需要の求め得るレベルの、双方の可能的レベルの「バランス」の上に成立しているのは、他のお商売と全く変わりがない。ミシュランガイド三つ星にはミシュランガイド三つ星の、ガストにはガストに適合したそれぞれの客がいる。このアートフェアが、ミシュランガイド三つ星なのか、ガストなのかは判らない。ホテル繋がりで言えば、ホテルの立食料理を最高の馳走と思える人もいれば、それを馳走であると考え難い人もいるという事であり、このお得感商売で「お得」になる為には、まずは「500円以上のセットメニュー」を購入する事が前提となる。


それはさておき、ここでは文中にある「アートシーン」という言葉に注目したい。恐らく「アートシーン」には様々なフェイズがある。例えば、勇躍福島まで出掛け、そこでビデオを回し、「社会(一体どこの「社会」だろう)」に訴えちゃったりする風なポーズを取るものを代表格とする「アートシーン」がある。或いはまた、「ネットの」ではなく、「あたかもネット風な」を売りにする様なものを代表格とする「アートシーン」もある(どちらも「風」であったりするのは御愛嬌)。しかしそれらの種々の「アートシーン」は、作者が「言っている事」を、観客が「確かめる」事で成立する説話的空間であるという点で、共通する「アートシーン」の中に属していると言えるだろう。言わばそれは「美術雑誌」的な「アートシーン」であり、当然それは「文化」に属している。


しかしこの主催者挨拶に書かれた「アートシーン」は、そうした説話的「文化」空間とは、一部の重なりを別にして、異なるものであると言えるだろう。ホテルのアートフェアで、「フクシマを考えよう」とか、「アーキテクチャとはこうである」等という「主張」は通常行われない。「今、アートに何が出来るだろうか」という自問自答の茶番も無い。恐らくアートフェアには「がんばろう日本」すらも無い。そこにある作品が、美術史的に最前線であるか否か、最重要であるか否か、作品のコンセプトが優れているか否かは余り問われない。そこは、爽やかな上にも爽やかに徹頭徹尾お商売の場である。アートフェアの作品は、説話性を重要視する美術館にではなく、個人宅の調度品として購入される事を待っている。アートフェアに於いて、311以前と311以降があるとしたら、それは景気動向の違いにこそ集約されるだろう。


ホテル型アートフェアは、コンベンションセンター等で行われるアートフェア以上に、風呂敷商売としての画商の正体が顕わになる場所である。客室ベットの上に投げ出された作品は、たった今、風呂敷を解かれた様にそこにある。そこではギャラリーの様な「展示」技術は重要ではなく、単に「陳列」するだけで構わない。そもそも歴史的に、画商というお商売が、ギャラリー(即ちショールーム)を構えて、そこを拠点に活動し始めたのはそれ程古い話ではない。画商の始まりは作品を持ち歩いて売り捌くバザールであり、各地を転々とする露店商の性格を持つものだった。画商の先祖は車寅次郎なのである。「露店祭り」としてのアートフェアは、言わば画商のそうした先祖帰りであり、或る意味で画商本来の姿である。


古典的ルールにのっとった「社会的に必然的な文化」、すなわち経済的におのれ自身を再生産する文化は、ついに文化がそういうものとして始まったもの、つまり単なるコミュニケーションへと収縮した。文化の人間的なものからの疎遠化は、供給業者によって魔法でお得意様に変えられた人類に対する絶対的従順となって終わる。文化を意のままに処理する人々は、消費者の名において、文化のうちで、文化がそれを使って既存の社会における全面的内在を超え出るものを抑圧し、そこで彼らの露骨な目的を実現するものしか残さない。それゆえ消費者文化が誇ることができるのは、贅沢であることではなく、生産の単純な延長だということである。


テオドール・W・アドルノ「文化批判と社会」


恐らく「文化」にとって、調度品としての作品を売り歩く様なお商売は野蛮である。「文化」の殿堂である美術館に行く様にアートフェアを回る客を、「イベントとしての物見遊山の来客」と言って憚らない、即ち「買わない客は客ではない」とするお商売は野蛮である。お商売の野蛮が言う「今こそ、アートの力を。」の「アート」は、些かも理念的なものではなく、「精肉」や「菓子」等といった、スーパーの売場の天井から下がる商品カテゴリー名の様なものである。


しかし一方でその「経済的におのれ自身を再生産する文化」もまた野蛮である。それは「既存の社会における全面的内在を超え出るものを抑圧」する、一種の精神に於ける「拘束装置」として働く様な野蛮である。その二つの野蛮に違いがあるとすれば、一方の野蛮は、それでも自身をどこかで野蛮であると自覚しているだろうが、もう一つの野蛮は、そうした自身の野蛮に全く気付くことが無い野蛮である事だろう。


どちらの野蛮も因業ではあるが、その因業に自覚的であるだろうお商売の野蛮は、相対的により爽やかではある。お商売の場では「買いたい」ものが無ければ、とっととそこを去る事が可能であるという、後腐れのない爽やかな関係でいられる。それは「文化」の様に「作品が判らないのは、何か自分に欠落しているものがあるからだろうか」と考えない/考えさせない、内在的「抑圧」の野蛮として機能する事のない爽やかさなのだ。


【続く】