迷惑

承前


本来の予定では、今度こそ次にアドルノの「文化批判と社会」について続編を書こうと思っていた。しかし、次から次へとアドルノが草葉の陰で微苦笑するだろう文化の野蛮が引きも切らずに現れてしまうが故に、今日もまた脱線なのである。果たして本線に戻るのは何時になるのだろうか。それは文化の野蛮が一掃されるその時を待たねばならないのだろうか。

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例えば「美術手帖」の様な「影響力(主に美大生相手と想像)」のあるメディアが、時代(「日本・現代・美術」の範囲内に於いて)の中心人物の一人として取り上げ、「東浩紀」氏の様な「影響力」のある人が、コンテクチュアズの事務所だかに飾られる作品に対して、「まじでいい」「彼のマスターピースになると思う」「あの作品が飾れるのを誇りに思う」等と語り、結果、今や梅ラボ(梅沢和木)氏は、「日本・現代・美術」のお若い方(主にTwitterユーザと想像)達に「影響力」のある、2010年代初頭の「日本・現代・美術」の代表的作家とされている(た)。


その梅ラボ氏についてWikipedeaで調べても良いのだが、現在そこの梅ラボ氏の解説は極めて「荒れている」と言える。取り敢えず現時点(2011/5/23 JST22:00現在)での解説を引いておこう。その「知名度」に比して、余りに短いものなので、全文を引く。或いはその「知名度」が、その解説の短さに相応しいのかどうかは判らないし、この記述に対して前日まで「品質基準を満たしていないおそれ」あるとしていたWikipediaの警告が、何時の間にか無くなってしまったのは、この解説の品質で合格であるという事なのかどうかも判らないが、このWikipediaの記述から梅ラボ氏を知ろうとすれば、単に「冷笑」の対象である様に思われるだろう。


梅沢和木


梅沢 和木(うめざわ かずき、1985年2月 - )は埼玉県出身の現代美術家である。


武蔵野美術大学映像学科卒業。


人物


ネット上の画像を手軽に収拾し、Photoshopを使用しコラージュによってゴチャゴチャした作品をつくる。


タブローでは、出力されたものの上にゴチャゴチャと加筆、また素材をゴチャゴチャと貼り付けるなどして完成させ、壁画では壁一面にプリントアウトされたものを貼るというスタイルを取ることが多いがゴチャゴチャしている。


・某掲示板で作成されたコラージュ画像の原典すら把握していない。勘違いして紹介する。


また上記コミュニティは外部へのコンテンツ流出を良しとしない閉鎖的な性質をもつものであるにも関わらず、精力的に一人でPIXIV辞典のキメこな項目を経緯の理解もないまま不正確でゴチャゴチャした編纂を行い


住人からは反感と失笑を買う。


20/5/2011 実質的にキメこなコラージュを発展させた、海外の大型画像掲示板4chanの連中にキメこなパクリと、イスラム聖典コーランをキャンプファイアで燃やすという、実にアーティスティックなパフォーマンスを紹介され、本人は死の恐怖に震えている。 Twitterも即消しの慌てぶりである。


ポストポッパーズ、カオス*ラウンジメンバー。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%85%E6%B2%A2%E5%92%8C%E6%9C%A8


何故にこれだけゴチャゴチャと荒れているかというと、それを説明するのも面倒臭く、且つ何をどう書いても相対的に「不正確」な説明になりそうな気もするので、クローズな世界ではないオープンにされた「他人の褌」をリンクしてそれに代えておく。


5分で分かるキメこなちゃん盗作問題のまとめ
http://blog.livedoor.jp/ftbplus/archives/51774479.html


この「他人の褌」の記述に「偏向」があるかどうかについては、当方はその責を負うものではない。「偏向」を感じられるのであれば、それぞれにそれぞれの「信頼」に足る他のソースを当たって欲しい。


正直、問題の本質が判る様で、実は良く判らないのだが、極めて雑駁に言えば、それぞれのローカル世界に於ける、「ルール」と「仁義」を巡ってのストラグルであると解釈している。


完全に閉じられている訳ではない(例えば誰かのローカルマシン上や、ローカルネットワーク上や、誰かの家に集合して、互いのマシンを向かい合わせてといった様な閉じられ方ではない)が、それを閉じた世界であると参加者相互で幻想の共有をされていた匿名的な場所で、権利者に見つかって怒られたらどうしよう的な互酬的で「淫靡」な遊びをしていた人達と、これは面白いというので、こんな淫靡な遊びをしている人達がいますと、比較的広汎にその存在を公開した上で、その遊びの空間内で、クォリティの高そうな成果物(それが「著作物」であるかどうかは、ここでは判断保留)を「素材」として、美術用語としての「サンプリング・カットアップ・リミックス」的な文脈かもしれないところから、ほぼ無加工の状態で自作に使用し、その成果物(それが「著作物」であるかどうかは、ここでは判断保留)によって、マス媒体でその成果物(マス媒体では「著作物」扱い)の図像と共に「作者名」がより知られ、その「顕名」の成果物が貨幣と交換された人。ふう、長い。


「匿名」と「顕名」の「ルール」の違い。種々の「評価法」に於ける「ルール」の違い。そして何よりも「アーキテクチャ」そのものに住まう者と、理念上の「アーキテクチャ」の下に「アーキテクチャ」のグリーンカードを得ようとする者の違い。そして「ふたば(4chan)」というローカルと「美術」というローカルの「ルール」の違い。「仁義を欠いては生きてはいけない」を含めてどちらに肩入れするにせよ、これは並行的に存在するローカル対ローカルの戦い、部族間抗争なのだ。


などと書くと「美術」の側は気分を悪くするかもしれない。「美術」は、「(反省的)総合」という武器を自ら備えていると自認しているからだ。「総合」する者は、「総合」される者よりも「高次」である。「総合」は「歴史化」を産み、その「総合」には「コンテクスト」が欠かせない。「コンテクスト」による「総合」から演繹される「歴史化」は、歴史のエレメントに留まるものよりも「高次」であるとされる。だからこそ「美術」は「サンプリング・カットアップ・リミックス」と言い続ける。単に「サンプリング・カットアップ・リミックス」であるものよりも「高次」の存在でいる為に。


情報と地位の優先権によって、(略)自分たちの見解がまるで客観性であるかのように語ることができる。しかし、その客観性は、支配的な精神の客観性にすぎない。(アドルノ


今日、精神に於ける文化の支配力はすっかり怪しくなった。文化の支配の及ぶ範囲は、自らが属すローカルに留まるものになった。それが如実に現れているのが、今回の「ふたば(4chan)」側による、「美術」の「回収(総合)」に対する拒否の姿勢にある。彼等にとって、「美術」への「回収(総合)」は、「美術」自身が考えている様には、名誉でも何でも無いし、翻って不名誉ですら無い。それは、一つのローカルが、別のローカルに侵略され、簒奪される事をしか意味しない。そうした事態は、単に「傍迷惑」という並行性に留まる。「傍迷惑」であるものに「階級闘争」は似つかわしくない。そもそもそれは、今や双方向的に「階級」の問題ではないのだ。


【続く】