読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

野蛮

承前


”Nach Auschwitz ein Gedicht zu schreiben, ist barbarisch”。


通常日本語ではそれは「アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である(「ちくま学芸文庫」)」と訳されている。テオドール・W.アドルノ(Theodor W. Adorno)の「プリズメン—文化批判と社会(Prismen. Kulturkritik und Gesellschaft)」の第1エッセイ「文化批判と社会(Kulturkritik und Gesellschaft)」の最後の最後に、その余りに有名過ぎる一文がある。この一文もまた、他の多くの「有名な一文」同様、その全体から関係性をアンプラグドされ、それ自体で「警句」的な意味を持つ「名言」化を施され、結果的に流通に適したポータビリティを獲得する事で、広く知られる「命題」となった。


この一文の「アウシュヴィッツ」の後に、「ヒロシマ」「ナガサキ」を加えては如何という向きもあったりするのだが、しかしこの「啓蒙の弁証法」全文を通読すれば判る様に、実のところこの「エッセイ」に於ける「アウシュヴィッツ」に殆ど大した意味は無い。その「アウシュヴィッツ」の語自体もまた、後にも先にもこの箇所にしか登場していない。


ここでの「アウシュヴィッツ」は、「エッセイ」終盤になって何の前触れも無く突然登場し、そのセンテンスの終了と共に忽然と退場している。あのジャック・デリダアドルノの「アウシュヴィッツ」の罠に嵌ったか、「アドルノの〈否定しようもない〉功績とは、これからも彼の署名がそこにずっと書き入られることになろう一回性の出来事とは、多くの思索者、作家、教師、芸術家たちを自分たちの責任に目覚めさせたことにあるのです。アウシュヴィッツが今もなお、その取り替えることのできぬ固有名〈であるとともにまた〉、その換喩であり続けているもの全体を前にした責任に」と、自らのアドルノ賞受賞記念演説で、「アウシュヴィッツ」を、一種の対象的特異点として語っている。


http://www.diplo.jp/articles02/0201-4.html


デリダに倣う形で、その上で「アウシュヴィッツ」の換喩を言うのであれば、ここで書かれた「アウシュヴィッツ」は、例えばこの一文の前々段に書かれた「非業の宿命」の換喩表現と捉えられるべきものであり、それはまた同時に、この「文化批判と社会」全文を通して語られるところの「精神の絶対的物象化」に分かち難く関係するものであろう。


それ故に「アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である」を理解しようとして、実際のアウシュヴィッツに、可憐にものこのこと出掛けて行ってしまったとしても、この件に関して得られるものは恐らく何も無い。アウシュヴィッツの御当地では、平均的な「『アウシュヴィッツ』の観光客」並みの「感想」を、しかも「的外れ」な形でしか得られないかもしれないし、悪くすればその「感想」は、この「文化批判と社会」中に書かれた「非業の宿命のもっとも鋭い意識でさえ、単なるお喋りに堕すおそれ(das äußerste Bewußtsein vom Verhängnis droht zum Geschwätz zu entarten)」と化して、正に「アウシュヴィッツ以降」の「詩」に喩えられるところの、物象化された精神的在り方の典型となってしまう可能性を払拭出来ない。剰え、この「命題」に対して、他ならぬ「アウシュヴィッツ」と関連付けて論じる事は、それ以上に全く無意味であると言える。


「文化批判と社会」では、そうした「お喋り」に堕する様な、「物象化」された「精神」の形である、哲学的合理としての価値の「分溜」である「文化」こそが「批判」の対象とされる。「アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である」の「詩」もまた、「アウシュヴィッツ」同様換喩表現であり、この「エッセイ」が「文化批判と社会」である以上、「詩」はまた「文化」と換言出来ると見做す事は可能だ。従って「アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である」に換えて、「ヒロシマ以降、詩を書くことは野蛮である」でも、「ゲルニカ以降、絵を描くことは野蛮である」でも、「911以降、思想を語ることは野蛮である」でも、そして「フクシマ以降、文化であることは野蛮である」でも、それら全てがすんなりと妥当してしまうと言える。例えば「フクシマに対して文化が何を成し得るか」という問いの形自体が、アドルノ的には、既に「野蛮」の只中の「野蛮」の形でしか無いものになるのである。


ではその一方で「アウシュヴィッツ以前、詩を書くことは野蛮ではなかった」になるのかと言えば、決してそうではなく、凡そ「精神の物象化」の時代にあっては、アウシュヴィッツという「取り替えることのできぬ固有名」の有無に関係無く、精神の絶対的物象化の産物、イデオロギーとしての「(詩として物象化された)詩を書く」という在り方こそが「野蛮」であり、翻ってそれは、精神の絶対的物象化の産物としての「文化は野蛮である」に集約される。


「文化は野蛮である」。この反語的表現。当然アドルノは「野蛮」を「侮蔑語」として戦略的に使用した。だからこそ、それは「挑発」として機能する。「野蛮」を「ワイルド」等と都合良く変換して、「アウシュヴィッツ以後、詩を書くことはワイルドである」と「ポジティブ」な形で解釈される事をアドルノは狙っている訳ではない。


極めて一般的には「(精神の)最高の物神」である「詩(文化)」と、「反・精神/非・精神/無・精神」である「野蛮」が対立的であると見做されているからこそ、「詩(文化)が野蛮な訳は無い」と思い込む無邪気な「文化者(「キリスト者」的表現)」に対して、この反語的表現はその反語的攻撃性を発揮する。即ち「アウシュヴィッツ以降、詩を書くことは野蛮である」は、そうした無邪気な「反・野蛮/非・野蛮/無・野蛮」としての、「野蛮」の対立項としての「文化」の仮象性をこそ信奉したい「文化者」の、その余りの無邪気さにこそ向けられているのだ。それは「フクシマに対して文化が何を成し得るか」と、自らに、或いは自らの鏡像に問う、そのスタイルそれ自体に充足する様な無邪気さにである。


もとより「文化」が「野蛮」でしか無い事を知っている者はその限りでは無い。そしてそこにこそ、このアドルノの発する「挑発」への出口もあったりはするのだ。


【続く】