擬制

承前



東京新聞 2011年5月2日 07時08分
http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2011050290070836.html


「それ」を「愉快犯」の仕業によるものとするも、極めてディレッタント好きのする「芸術テロリスト」の仕業によるものとするも大した問題では無い。その仕事振りから「美術」の重力圏にいる人の仕業ではあるだろうが、その「意図」の内容の如何も、「それ」を実行した某が、後から名乗り出るも、沈黙し続けるも、これもまた大した問題では無く、その行為を、善き事とするも、悪しき事とするも重要ではない。少なくとも現在進行形のその進行の先が不透明、且つ複雑に輻輳した問題であるフクシマの現実に比べれば、本当にそれはどうでも良い話だ。


それを行った某は、或る意図を持って、しかもかなり凝った描画で、しかしその一方で、ベニア板を粘着テープで貼り付けるという、或る意味で極めて間の抜けたやり方で「それ」を行った。その間抜けなやり方は、営業バイクにクッキーの缶を括り付け、それをラッカースプレーで白く塗って白バイと認識させた、府中の三億円の人のやり方の様でもある。時に人はそうした間抜けなやり方でも、十分に「本物」であると思ったりしてくれるものだ。だからこそ「詐欺」という商売が、人類史と共に存在し続ける事が可能になる。「発見」された絵の部分の中に、毀損防止の防御スクリーンを固定するステーが入り込んでしまっている非合理に、往来する人の注意が向く事は無い。


「それ」が行われた事で、「この絵」とその「作者」について、様々な形で「再確認」する事が可能になったとも言われる。そしてその発言の多くがまた「『この絵』とその『作者』について」の「再確認」に留まる。「この絵」の意味はこうだった、「作者」はこう思っていた。それらは「この絵」と「作者」の問題であり、即ち狭隘な「美術」の問題であり、これもまたフクシマの抱えた広範な現実に比べれば、本当にどうでも良い話だと言える。仮に「この絵」からしかそうしたフクシマの現実が読み取れないとすれば、寧ろそれはかなり想像力が欠如しているとしか言えないだろう。その意味で「この絵」は、原発の換喩としてのフクシマに関する限り、各人の持ち得る「放射能への恐怖」に関する情報を再認識させる機会以上の意味を持つものではない。「この絵」の意味が、その「意味」でしか無いとするならば。これもまた「絵画が『伝えられる』事」と「絵画が『伝えられない』事」を巡る問題に帰着する。それは例えばピカソの「ゲルニカ」同様、「この絵」自体が抱える問題でもある。


本来日本から遠く離れたメキシコの一ホテルのロビーでその一生を終える筈であった、この「日本美術」の大壁画には、こうした「解釈」が「批評家・大学教授」によってされている。

 この本の心臓部に位置するのは、頁を左右に開くと2メートル近くなる太郎の代表作「明日の神話」です。
 岡本太郎は、1954年に太平洋で行われた米国による水爆実験で被爆した第五福竜丸事件から着想して、いずれ放射能と闘うことになるであろう人類の「明日」を描きました(完成した壁画は現在、東京・渋谷駅の通路の壁面に飾られています。画面下方右の水平線には、第五福竜丸とおぼしき漁船も描かれているので、近くに立ち寄られた際には傍で確認してみるのも一興かと思います)。
 実は、岡本太郎が「反万博」の決意を抱いて参加した大阪万博(1970年)には、美浜原発1号機からの最初の電力が送られていました。つまり、太郎が「否!」を突きつけた万博のテーマ「人類の進歩と調和」は、原発のエネルギーによってささえられていたのです。これに対して、「太陽の塔」と平行してメキシコでつくられていたのが、「人類の進歩と調和」とはまったく対極にある暗黒の世界を描いた巨大壁画「明日の神話」でした。
 こうした考えに立って、この本では、従来は(同時期に作られたものの)別々のプロジェクトとして捉えられていた「太陽の塔」と「明日の神話」を一体のものとして、時空を超えたこの21世紀を舞台に、新たに結合して再現することをもくろみました。両者に共通するのは、「負の太陽」と呼ぶべき原子力を乗り超えるべく、「無償の太陽」としての生命の力を描いて、人類がいま陥っている暗いニヒリズムを克服することにあります。
 こうした意図を盛り込んだ『岡本太郎 爆発大全』が、奇しくも、3月11日以後の世界に向けて岡本太郎とともに送り出す、私にとって最初の一冊となったことに、いま、不思議な感慨を抱いています。
「オレの誕生日なんか祝ってる場合じゃないぞ。こういうときこそ挫けず、猛烈に、徹底的にスジを通して生きなければダメなんだ!」−−−−そんな太郎の声が聞こえて来るような気がします。


岡本太郎 爆発大全』によせて 椹木野衣
http://www.kawade.co.jp/bakuhatsu/

この「解釈」のどこからどこまでを「受け入れる」か否かは各読み手の判断に任せられるが、いずれにしても、これもまた飽くまでも「解釈」である限界を免れるものではない。この「解釈」が読み手にとって興味深いものであるならばそれを受け入れ、興味を引かれるものではないならそれはそこまでのものである。


「この絵」と「311」を、「第五福竜丸」と「福島第一原子力発電所」を、ダイレクトにショートカットするこうした「解釈」を、縦1メートル、横2メートルの形にしてしまえば、渋谷の「ベニア板」になるのかもしれない。その意味で、この「批評家・大学教授」の「解釈」と、例の「ベニア板」とは、「この絵」と「作者」を巡る「気付かされました」に潜む、同様の意味と同様の限界を同時に共有する。


或いはそうした「戦う画家」と、それを「解釈(鑑賞、傍観)する者」に「役割」を分断する事で成立する「気付かされました」の機制そのものが、この画家が憎んだとされる「表層のモダンと戯れる薄っぺらな近代主義者たちがつくる、擬制の文化(中沢新一 同上『岡本太郎 爆発大全』公式サイト)」の一つの形なのかもしれない。その意味で、東京新聞記事中にある「多くの方が苦しんでいる中で(原発問題と)結びつけられるのは困る(「明日の神話保全継承機構」担当者)」を読む事もまた可能だろう。


【続く】