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頑固爺

それでも人は忘れてしまうのかもしれない。大きな戦争を忘れてきた様に。それはもしかしたら人の「健全」の証なのかもしれない。それを「健全」と言って良いものならば。


「昔こんな事があったんだよ」。大きな戦争の事を知っている人達の話を、大きな戦争を知らない自分達は、年寄りの昔語りとして受け流してきた。大きな戦争を「時代が違う」「もう来ない」と言って。忘却の果てに、化粧し直された「違う時代」がやってきた時、そうした記憶は失効したとされる。大きな戦争の記憶を語る年寄りは「いつも同じ話をする」頑固爺や頑固婆として扱われる。


頑固爺や頑固婆の話す大きな戦争の話は、単に昔語りだったのかもしれない。彼等、彼女等の多くは、それを「悲惨な話」として語ってきた。しかし彼等、彼女等の多くは、その時に同時に、それまで日常とされていた生活構造の基底部が、それぞれに一瞬間でも見えてはいただろう。彼等、彼女等の多くに、そうした構造の奈落を語る能力が欠如していたとする事は可能だ。しかしそれは同時に、その話を聞く「違う時代」の自分達の多くに、それを聞き取る能力、想像力が欠如していたからだとも言える。


現実によって乗り越えられてしまった創作は一旦は失効するだろう。しかし、その記憶が薄れ、ヒリヒリする皮下の上に薄皮が出来、やがて濃い目の化粧が施せる「違う時代」の日常になる。その時に再び「違う時代」の化粧の上の創作は現れる。戦争の記憶から遠ざかれば戦争を娯楽化出来る様に、そうした化粧の上の創作は、微熱を発するヒリヒリした皮下の事を忘れさせてくれる。忘れさせてくれる創作=化粧。忘却を加速化する創作=化粧。それは創作の一つの形であるだろうし、創作の唯一の形であるとも思われている。恐らくそれは、人の「健全」の上の、「健全」な創作だ。地割れした表土を均してアスファルトで覆う様に、ヒビの入った柱をサイディングボードで覆う様に。「健全」なアスファルトやサイディングボード=化粧。そしてそれらはいつか再び割れ落ちて、以前と全く同じ様な地割れやヒビが露出する。


人は忘れてしまうのかもしれない。やがて忘却を加速化するアスファルトやサイディングボードが構造の露出を覆う。日常の許容値が少しだけ上がるかもしれないが、それもまた忘却する事で日常になってしまうのかもしれない。


語り続けば「いつも同じ話をする」頑固爺や頑固婆と言われて受け流されるかもしれない。忘却の後の人に「時代が違う」「もう来ない」と一蹴されるかもしれない。一瞬引き上げられた想像力は、しかし忘却と共に、再び以前と同じレベルに降下する。少しも違っていないのに「違う」とされる「時代」に適合していくのも悪くはない。何故ならば、繰り返される忘却、繰り返される想像力のリセットが人類史の基底であるかもしれないからだ。


それでも受け流され一蹴される頑固爺でありたい。「昔こんな事があったんだよ」。