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陳列


ルーブルの大ギャラリーである。ユベール・ロベール(1733年〜1808年)の筆による「ルーブル宮のグランド・ギャラリー改造計画案(1796年)」だ。


見事なまでの二段掛け、三段掛け。他の資料を見てみると、嘗てのルーブルでは四段掛け、五段掛けも当たり前であった様だ。21世紀現在のルーブルでも、これ程ではないものの、一部で二段掛け、三段掛けのディスプレイがされている。


壁面にみっしりと「作品」を嵌め込む二段掛け、三段掛けといった多段掛けは、美術館の前身である「驚異の部屋(ヴンダーカンマー)」であった頃の名残だ。「数を自慢する」には適した「展示」だと言える。



現在の常識からすれば、多段掛けは「モダン」な作品展示ではない。「モダン」な作品展示は、作品一つ一つの間隔を開け、作品相互の干渉を極力廃した上で、それぞれの作品の「世界」を観客に提供するという方法論を採る。その為、観客に今見たばかりの作品が持つ「世界観」を一旦リセットさせ、次の作品が持つ別の「世界観」に対して新たなアプローチで臨める様に、それらの作品間の「空隙」は「白紙還元」的な意味を持つ「空隙としての空隙」、適度な間隔の単色の壁(多くは白)でなければならない。その結果、「モダン」な作品展示に於ける壁面の面積当たりの使用率は極端に低い。みっしりとした多段掛けでは100点もの作品が入る壁でも、「モダン」な作品展示では数点が精精のところだろう。こと「空間利用」に関して言えば、近代以前の「美術品展示」は「合理的」であり、近代以降のそれは「非合理的」であると言える。それでも「モダン」とその延長上にある現在の美術展示が、そうした「非合理」を選択する理由とは何だろうか。


多段掛け。それは近代的「展示」であるよりは、寧ろ「陳列」と言うに相応しい。この21世紀に至っても、モダンな作品展示をする為のスペースを、何らかの理由で十分に得られず、しかも作品点数は多いという展示会(展覧会)では、そうした「展示」ならぬ「陳列」の方法論が使用される。例えば多くの所謂「団体展」や、美大の「卒業制作展」等の「陳列」がそれに当たるだろう。それらは、十分以上に広大な展示スペースを確保出来ないという共通した制約があり、且つ作品点数が多く、或いは作品点数が多いという状態をこそ観客に見せねばならないという、これもまた或る意味で共通した「制約」を持つ。そうした「制約」下にある展示会では、「品揃え」の「豊富さ」や「数の自慢」を、観客に見せつける「陳列」が適していると言えるだろう。


多段掛けの「陳列」。その最も進化した形は、例えば全国の「ドン・キホーテ」で見る事が可能だ。即ち、巷間「圧縮陳列」と呼ばれる「ドン・キホーテ」独特の商品ディスプレイである。


圧縮陳列(あっしゅくちんれつ)は、ドン・キホーテが買い物の楽しさ、面白さを購買客に煽り・訴えかけるために行っている独自の商品ディスプレイ・販売促進手法である。同社の象徴である。文字通り、徹底的に商品で狭小な売場空間を満たして、いわば商品の無秩序空間・ジャングルを形成する。通常の商品とやや禁制品に近いそれとを近接展示させることで購買側への心理抵抗を和らげ、総売上の増加につながる巧妙な策ともいえる。


Wikipedia圧縮陳列
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%A7%E7%B8%AE%E9%99%B3%E5%88%97


ドン・キホーテ」では、パーティー用品、雑貨、食料品、酒類、化粧品、日用品、衣料品、レジャー用品、インテリア、家電製品等が扱われ、のみならず宝飾品やブランド品等の「売り場(ドンキ用語では「買い場」)」も存在する。宝飾品やブランド品は商品単価が高額であるだけに、他の商品と最低限の差別化を施されてガラスケース入りする場合が多いが、それでもそれもまた、店全体の「圧縮陳列」の中に違和感なく溶け込む「圧縮陳列」振りである。


間違いなく、銀座や表参道の宝飾品やブランド品を扱う店では、こうした「圧縮陳列」は行われない。そこでは寧ろ、モダンな作品展示同様の、それぞれの商品を際立たせ、必要以上に商品を高級に見せるディスプレイがされる。それは商品「陳列」と言うよりは、商品「展示」と言うに相応しい。


しかし同じ品が「ドン・キホーテ」で「圧縮陳列」されると、こうも安く見えるのかと思われる程に、宝飾品やブランド品の「アウラ」の大部分は削ぎ落とされる。それは、バラエティ番組「はねるのトびら」のコーナー「ほぼ100円ショップ」の「ダイタイソー」の如く、「高級品」が「何かの間違い」で「100円商品」に見えてしまう逆マジックであり、その逆に「100円商品」が銀座や表参道のブランドショップ店内に「展示」されれば、「何かの間違い」で「高級品」にも見えてしまうだろう。そしてそれはまた、「モダン」な作品展示によって、「何かの間違い」でそれ程でもない作品を、一躍「高級品」に見せてしまう「モダン」な美術館やギャラリーのマジックと似ている。即ちそれは「パレルゴン・マジック(仏英混合表現)」である。


二段掛け、三段掛けといった多段掛けの展示会(展覧会)は、「ドン・キホーテ」に於ける「圧縮陳列」にも似て、「高級品」が「安物」に見えてしまう逆マジックだ。数年前に、欧米の某コレクションに若くして入った当時美大学部生の作家が、その所属する大学の卒業制作展に作品を出品していた。果たしてどういった反応があるものかと、その作品の前で十数分佇んでみたものの、訪れる観客の誰一人としてその作品に注視する事無く、寧ろ「ちまちまとつまらなく描き込まれた学生作品」としてスルーするという場面に遭遇した。


圧縮陳列」に於ける評価こそが正しいのか。それとも「『モダン』作品展示」に於ける評価こそが正しいのか。それはひとまず置くとしても、多段掛けに見られる様な「圧縮陳列」は、再び「新しい」とだけ言っておこう。何故ならば、例えば今日の「ネット空間」に於いては、そうした「『モダン』作品展示」的な「空隙」という概念を導入する事が、事実上不可能だからだ。情報と情報の間の「空隙(空間)」は存在せず、それらは常に1ミリの隙間も無い「圧縮陳列」の状態にある。ネット空間でのホワイトキューブは、それ自体が矛盾した概念となる。そこから「ネット空間」の情報を、「リアル空間」に展開する(それに「意味」があるとして)ヒントの一つが見えては来るだろう。要は「モダン」空間に於ける、価値創造の古臭い方法論である「空隙」に頼るなという話なのだ。


思い立ったらいつだって
ドン・キホーテで待ち合わせ
ドッカンとあふれる夢を買いましょ
気分は宝探しだね

ドンドンドン♪ドンッキ〜♪ドンキ〜ホーテ〜♪
ボリューム満点激安ジャングル
(ジャングルだぁ〜)
ドンドンドン♪ドンッキ〜♪ドンキ〜ホーテ〜♪
何でも揃って便利なお店
ドンキホーテ〜♪

<コーラス>
ドン♪ドン♪ドン♪ドン♪
ドン♪ドン♪ドンッキ〜♪
ドン♪ドン♪ドン♪ドン♪
ドン♪ドン♪ドンッキ〜♪

早い者勝ちパラダイス
ドンキめぐりは癖になる
衝動的でも得したね
今夜は何があるのかな?

ドンドンドン♪ドンッキ〜♪ドンキ〜ホーテ〜♪
いつでも満足不思議なジャングル
(ジャングルだぁ〜)
ドンドンドン♪ドンッキ〜♪ドンキ〜ホーテ〜♪
真夜中過ぎても楽しいお店
ドンキホーテ〜♪

<セリフ>女:ねえ、どこ行くの?
男:ドンキホーテだよぉー
女:やっぱりー?

ドンキホーテ

ウ!ハ!ウ!ハ!ウ!ハ!ウ!ハ!ハ!

ドンドンドン♪ドンッキ〜♪ドンキ〜ホーテ〜♪
ボリューム満点激安ジャングル
(ジャングルだぁ〜)
ドンドンドン♪ドンッキ〜♪ドンキ〜ホーテ〜♪
何でも揃って便利なお店
ドンキホーテ〜♪

<コーラス>
ドン♪ドン♪ドン♪ドン♪
ドン♪ドン♪ドンッキ〜♪

ドンキホーテ〜♪

<コーラス>
ドン♪ドン♪ドン♪ドン♪
ドン♪ドン♪ドンッキ〜♪


ドン・キホーテ」テーマソング
「ミラクルショッピング」


「気分は宝探しだね」「何でも揃って便利」「ドンキめぐりは癖になる」「今夜は何があるのかな?」「いつでも満足不思議なジャングル」「真夜中過ぎても楽しい」…。これらのセンテンスに次世代の美術「展示」、もとい美術「陳列」の可能性が見えているとも言えるかもしれない。


その意味で、「モダン」な作品展示以降の「ポストモダン」な作品展示としての多段掛けは「新しい」。それをすっかり「新しい」物として提示出来れば、きっと「新しい」。