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早生

西国で二つ程展覧会を見た。


一つはこの時期ならではの卒業制作展。もう一つは「プロ」の展覧会であった。果たして現代美術作家に「プロ」という呼称が本当に相応しいかどうかは判らないが、習わしとしては「プロ」と呼ぶ事もあったりするから、ここではそれに従う事にする。


卒業制作展を見るのは結構疲れたりする。今回見たこの西国の「美大」は、それ程多くの学生を抱えている訳では無いが、それでも作品数は多い。当然歩き回る為に足が疲れ、また目も疲れたりするが、それはさておき、脳もまた疲れる。


卒業制作展であるから、そこにはこの「美大」の全ての科の学生作品が展示されている。1学年100人超の科を持つ様な大きな美大であれば、ファインアート系、デザイン系等を分けて展示もするが、こうした比較的コンパクトな「美大」は、全ての卒業制作を集めて、それでようやく美術館のワンフロアを埋める事が可能になる。


凡そ「美大」的意味での「美」に関する全ての科の作品がワンフロアにある場合、観客はどうしても、頭のスイッチをその都度切り替えねばならなくなるだろう。即ち、デザイン科の作品を見る場合には「デザイン頭」で。映像科の作品を見る場合には「映像頭」で。工芸科の作品を見る場合には「工芸頭」で。ファインアート系の科の作品を見る場合には「ファインアート頭」で。しかもその中で、洋画科や彫刻科を見る場合と、現代美術系を見る場合では、やはり脳のスイッチを切り替えねばならない。


例えば、最初から最後まで「現代美術頭」で無理矢理通そうとすると、デザイン、映像、工芸、或いは洋画、彫刻ですら「物足りなく」も見えたりするだろう。そこでは「やはり現代美術に比べて、コンセプトの掘り下げが今イチだね」などと思ってしまう事になる。ところが最初から最後まで「デザイン頭」で無理矢理通そうとすると、洋画、彫刻、現代美術等は、「やはりデザインに比べて、仕上がりが今イチで、しかも何だかんだ独りよがりで、少しも『広がり』といったものが無いね」になったりもして、こちらはこちらで「物足りなく」も思えてしまう。そして恐らく、口には出さないものの、互いに互いを、自分達よりも「下」の存在だと思っているだろう。


こうした様々なジャンルが混在した展覧会での一番賢い見方は、現代美術系の科しか見ないとか、デザイン系の科しか見ないといった様に、自分の興味の守備範囲内のみに留めておいて、他はひたすら自分に関わり合いのないもの、どうでも良いものとしてスルーする事なのかもしれない。即ち「紅白歌合戦」を見るという選択をした上で尚、AKB48の登場シーンは見るが、北島三郎が出てきたら見ない(当然その真逆もある)的な選択が、「精神衛生上」好ましいとは言えるだろう。しかしそうした一種の精神的引き篭もりというのもまた勿体の無い話であり、例えば普段テレビで「NHK歌謡コンサート」などを見る機会の無い視聴者は、一年に一度位は、年末の「歌合戦」の最中、AKB48のついでに北島三郎坂本冬美を見るというのも、「精神鍛錬上」あっても良い話ではないだろうかとも思ったりする。さすれば、自分の興味の範囲の相対視もまた可能になるというものだろう。


その意味で、あらゆるジャンルの「落とし所」と、その限界を一望に望めるのが、卒業制作展なのかもしれない。そして彼等はそれぞれの「落とし所」に巣立っていく。

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「美大」の卒業制作展を見たついでに、芸術系の高校の卒業制作展も見た。最近は、美大の卒業制作展の会場に、青田買いのブローカーが現れては、その小商いのネタを物色し回る事も珍しくないが、流石にまだ高校の卒業制作展には現れてはいないだろう。いや、いたらいたで、それは或る意味で見上げたものだとは思うものの。


大学の卒業制作展と、高校の卒業制作展の間には、やはり差はあると言っておく。平均的に言って、技術が4年分向上しているのが大学生だ。それはたったの4年であるが、その差が無視出来ないのは事実だ。従って、受験生と大学卒業生の間の4年間もまた大きいと言える。「予備校で一番上手かった」は、そのお年頃では自慢にはなるだろうが、一生を通じての自慢にはならない。


但し、高校卒業時の18歳(例)と、大学卒業時の22歳(例)の間に、大きな精神的成長があるかと言えば、あるとも言えるし無いとも言える。人生の機微を嫌という程知り、酸いも甘いも噛み分けた「いい大人」がいるとして、そうした「いい大人」からすれば、18歳も22歳も、或いは院修了の24歳(例)も、そう大して変わらなく見えるかもしれない。


実際、大学の卒業制作作品に於ける世界観と、高校の卒業制作作品に於ける世界観が、極めて近い様に見えたのもまた事実だ。幾つかの高校の卒業制作作品に、4年分の技術をプラスすれば、大学の卒業制作作品として「通用」してしまうかもしれない。そしてそれを反転すれば、幾つかの大学の卒業制作作品から、4年分の技術をマイナスすれば、高校の卒業制作作品として「通用」する事を意味するかもしれない。


幼く青いバナナが、輸送中に黄色くなり、それを熟していると思い込んで、美味そうに食べる人達がいる。そして、当のバナナがこの先どう熟して良いのかの方向性を見失う内に、早成のバナナの時間は過ぎ去って行き、やがて新しい早生のバナナがもぎ取られて、再び美味そうな姿形で出荷されるのだ。


【この項続く】