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得体

「得体が知れない敵」よりも、「得体を知り過ぎている敵」の方が、遥かに厄介な存在だ。「得体を知り過ぎている敵」に対する戦略こそが、シミュレーションではない上級者編の「戦い」には必要だろう。トラブルの「発生源」に対して「得体が知れない敵」などとすぐに口走り、それで事足れりとしてしまうのは、エレメンタリーにもエレメンタリーな、演習レベルの「戦い」の場には相応しい。


有名百貨店の美術品売場での展示会中止問題にせよ、少し毛色の変わった本屋の営業方針変更にせよ、或いはどこかの自治体の条例でも何でも良いが、そうした「クレーム」を入れた「お客様」や「市民」が、「得体が知れない敵」ではなく、自分の親、自分の兄弟、自分の親戚、自分の友人、自分の恋人、自分の連れ合い、自分の知り合い、自分の仲間、自分の隣人等々といった、「得体を知り過ぎている」存在である可能性を完全には払拭出来ない。仮にそうであった場合に、どういった「戦い」が出来るのかという想像力こそが、こうした「問題」では重要になる。にも拘わらず、そうした「クレーム」に対して「得体が知れない敵」からの「圧力」などと簡単に言ってしまえる人は、そうした「知己クレーマー」の可能性を意識的にか無意識的にか、その視界から遠ざけようとしている。


「得体が知れない敵」という言葉を使う理由の一つには、自分の「得体を知り過ぎている」関係の中には、そうした人物は絶対にいないと確信出来るという、極めて無邪気で可憐な信憑が存在している。もう一つの理由は、「得体が知れない敵」というフレーズが、何となくカッコ良いからだとも言えるだろう。確かに「得体が知れない敵の圧力と戦います」は、頭が良さそうに見えるかどうかは別にして、まだしもカッコ良いとは辛うじて言えるが、「父親と戦います」や、「祖母と戦います」や、「先生と戦います」や、「近所の人と戦います」では、何だか反抗期の中学生の様に見えてしまって、本当にカッコ悪く、本当に頭が悪く見える事この上無いとは言える。


しかし、地球上の「ひみつ」の場所に、「ひみつきち」や「ひみつほんぶ」を持っている悪の「ひみつそしき」があって、それを「えたいのしれないてき」と言うのなら兎も角、或いは、地球外のどこかの惑星から飛来して、「しんりゃく」活動をする「うちゅうじん」に対して「えたいのしれないてき」と言うのなら兎も角、ひょっとしたら自分が極めて良く知っている人物であるかもしれない「クレーマー」を、「得体が知れない敵」などという仮構的な「お話」の登場キャラクター的存在に嵌め込むやり方は、知的怠慢の謗りを受けても仕方が無いだろう。


「得体が知れない敵」という、「知己」の空間から遠く離れ、しかも永遠にその正体が掴めない様な、同定する事を永遠に遅延された存在にしておく事で、誰にも手の届かない、誰にも手を届かせない敵を仮構する。それは確かに気晴らし的な余興には良いだろう。そうした余興は、居酒屋辺りで、アルコールと共に、瞬間的にその晩限りで揮発する様な与太話としては、正しく存在する理由があるとは言える。


「戦前は始まっているのか」といった様な紋切り型をそのまま受け入れるとして、しかし「戦争」の実際は、「ひみつそしき」や「うちゅうじん」、或いは「ふぁしずむ」や「なしょなりずむ」等と名指される、人格なき「得体の知れない敵」の、人格なき「謀略」(矛盾表現)によって始まるのではないだろう。そこに至る「気分」を作り上げていくのは、寧ろ人格を持った自分の親、自分の兄弟、自分の親戚、自分の友人、自分の恋人、自分の連れ合い、自分の知り合い、自分の仲間、自分の隣人等々、或いは自分自身(これこそが一番重要)といった、「得体を知り過ぎている」存在の影響力の方が遥かに上だ。そうした「得体を知り過ぎている」知己(そして自分自身)がいつの間にか変質し、「得体を知り過ぎている」者同士が相互監視していく「日常」こそが「戦前」と呼ばれるものだろう。そうした「日常」に対して、或いはそうした「知己(そして自分自身)」そのものに対して、どの様な態度を取れるのかが「戦前」には試される。


「得体の知れない敵」には毅然たる態度が示せるだろう。何故ならばそれは手の届かない仮構だからだ。しかし「得体を知り過ぎている敵」という、すぐ傍らにあるリアルな存在に対する態度は、「お付き合い」上、時にヘラヘラしながらそれを見過ごしたり、見ない様に努めたりする。そして「戦前」は、「お話」映えする「陰謀」ではなく、こうしたヘラヘラした「因業」によって引き起こされるのだろう。