百貨店

蛍の光が流れ、従業員一同が出入口に立ち、それまでにそこでした事がない程の大量の買い物を、その日に限って実行した客が家路に向かう姿を、深々と頭を下げて見送る。そして最後の客が店外に出た後、シャッターが降り始め、まるで劇場の緞帳が下がるかの如く、それが降り切るまで従業員の最敬礼は続く。そうした何度も繰り返されるテレビ映像を見て「お茶の間」の「経済通」は呟く。


「デパートが閉店するのは仕方がない。デパートは時代のニーズに合っていない」


最早デパートには誰も何も期待をしていないのだろう。如何なる策を講じようとも、この先デパートという業種が、そのピーク時と同レベルにまで再生する事など、天地が引っ繰り返ってもあり得ない。統合しては縮小、統合しては縮小を繰り返し、やがてこの国のデパートは一つも無くなってしまう日が来るだろう。善男善女の目には、時に過激に見えたりもする「催事」に代表されるデパートの「新境地」とやらを、善男善女はネタ的に面白がったとしても、それとデパートに金を落とす事とは全く別の話だ。寧ろ善男善女は、デパートの凋落そのものを、一種の「エンタテイメント」として楽しんでいるのかもしれない。そしてその最期の最期、その存在自体が無くなろうとする時にだけ、善男善女の財布の紐は気紛れに緩んだりもする。しかし概ね、今後デパートは沈み行くしかないとの認識が、善男善女の間で広く共有されている筈なのだ。それでも尚、この期に及んで、一体誰がデパートに期待しているというのだろう。

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21世紀の今日、家電製品を買いたいと思い立って、真っ先にデパートに行くという消費者はまずいない。家電量販店に行って買うというのがデフォルトだろうし、ネットで済ませてしまうのも既に日常的だ。家電量販店やネットに馴染みが無いのであれば兎も角、それらで下調べしてからデパートに行き、メーカーの希望小売価格で目的の商品を買うという消費パターンはまずあり得ない。他の多くの商品にしても似たり寄ったりだろう。それぞれの商品を「得意」とする、毎日が赤札状態、毎日がバーゲンセール状態がデフォルトである販売店が街中に幾らでも存在しているし、今や「百貨店」の名に相応しいのはデパートではなく、専門店の集合体であるモールやネットという事になる。デパートでしか買えない物はゼロであるとは言わないが、しかしそれはどちらかと言えば非日常に属している商品だ。その様な商品のみが、「デパートで売っているから高級品(高品質品)」という幻想を辛うじて消費者に与える事が可能ではある。しかしその多くもまた、モールでもネットでも売っていたりするのだが。


デパートが「百貨店」であったのは、商品の種類や総量が極めて乏しい「貧しい」時代の話であり、一つのハコの中に世界中の商品が揃えられるという博物学的幻想を前提にその名称は成立する。即ち、社会全体が「貧しい」状態にあり、その知り得る世界が小さかったが故に、相対的に「百貨店」の品揃えが、「百貨」に見えていたに過ぎない。しかし現在、如何に広大なフロア面積を確保しようとも、世界の全商品を揃えられる筈もない。その一部の、そのまた一部の、そのまた極めて一部が、「百貨店」の狭いハコの中に、広く浅く、「パレートの法則」の矮小版としてしか存在し得ないと、消費者の誰しもが見抜いてしまっている。デパートはリアルに「万貨店」ではない「百貨店」の様にすら見える。そしてその「百貨」の品揃えもまた、殆ど店子のテナント頼みだ。デパートで買い物をする客は、デパートの看板に引き寄せられている訳ではなく、そこに入っているテナントに用があるだけの話だろう。


デパートが沈み行くものに転じたのは、今から20年前の1990年代初頭の頃だ。それからデパートの売り上げは右肩下がりを続けている。

・1990-1991年までがピークで、あとは下降、前年比マイナスを継続している。
・飲食料品は他分野と比べれば大きな変動がない。
・住関品や衣料品は1992年〜1993年の低迷時期を皮切りに、約5年のサイクルで大幅な減少を見せている。
・衣料品は特に下げ幅が大きい。
・衣料品、食堂・喫茶の2009年の下げ幅はこれまでのパターンを逸脱するほどのもの。
・2009年は全分野でマイナス。


http://www.garbagenews.net/archives/1237722.html


現在成人にならんとする、或いは成人になったばかりの人達は、嘗てデパートが「憧れ」の場所であった事を知らないだろう。「デパートにふさわしい/ふさわしくない」という言葉は、恐らくこの人達から出てくる事は無い。「デパートにふさわしい/ふさわしくない」という言葉は、デパートが「高級」に見えていた「貧乏」の時代に生きた人のものだ。そしてまた、これから先、「モールにふさわしい/ふさわしくない」という言葉も、「ネットにふさわしい/ふさわしくない」という言葉も、生まれる事が無い事は確実だ。同様に「いつかはデパートで展示したい」という願望は、これまでに腐る程存在しただろうが、「いつかはモールで展示したい」や、「いつかはネットで展示したい」はあり得ないだろう。

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今から20年前、デパートは一種の現代美術ブームだった。1975年に池袋西武百貨店の12階に開館した「西武美術館(のち「セゾン美術館」)」がその嚆矢である事は間違いはない。


特にその最初の数年は、昨日まで街中のギャラリーで展示していた様な同時代作品を扱った展覧会が軒並み開催され、当時深く関わりのあった東野芳明の影響もあって、生活美術、デザイン、写真、建築、ファインアートまでを包摂した、当時の言葉的に言えば「クロスオーバー」な展覧会が野心的に行われていた。オープニング展は「日本現代美術の展望」である。今から36年前も前の話だ。


その「日本現代美術の展望」展のカタログには当時のセゾングループの総帥である堤清二氏が、展覧会とは直接関係のない「西武美術館」立ち上げの「檄文」を寄せている。


時代精神の根據地として」               堤 清二(財団法人セゾン文化財団 理事長)


現代の美術について考えると、私達はどうしてもその多様性の前に立止らされます。
この混乱は成熟を意味するのか、あるいは頽廢につながるのか、時代の精神を担う才能の欠如なのか、または分解が現代の様相そのものなのか等々について多くのことが語られてきました。


私達は美術館を設置することによって、そこに一つの方向や公約数的な法則を見出そうとしているのではありません。既に数多くの美術館が存在していて、そのなかには博物館として評価され得るものもあれば、古き良き時代の美意識のモニュメントとしての意義を持っているものもあります。
1975年という年に東京に作られるのは、作品収納の施設としての美術館ではなく植民地の収奪によって蓄積された富を、作品におきかえて展示する場所でもないはずです。それはまず第一に、時代の精神の據点として機能するものであることが望ましいとすれば美術館はどのような内容を持って、どんな方向に作用する根據地であったらいいのか。


70年代に私達は、成熟することによって同時に大きな変革を内包せざるを得なかった、いくつもの流れを看取しています。そうであるから、多様なままにそれを受け容れることがそのまま據点としての資格になるのだと思います。その意味では明確な主張や、古典的な特定の主義に立たないことが美術館にとって必要であるに違いありません。


言いかえれば、美術館それ自体が、たとえば砂丘を覆う砂や、極地の荒野の上に拡がる雲海のように、たえまなく変化し、形を変え、吹き抜けた強い風の紋を残し、たなびき、足跡を打ち消してゆく新しい歩行者によって、再び新しい足跡がしるされるような場所であって欲しいと考えています。


この美術館が街のただ中に建っているということは、空間的な意味ばかりでなく人びとの生活のなかに存在することに通じているべきだと思います。ここで例外的に私達が一つの主張を述べるのは、美術を重要なジャンルとする芸術文化の在り方が、生活と、ことに大衆の生活と奇妙な断絶の関係を持っているという認識に立っているからです。


自分達の生活意識の感情的表現として美術作品に接するのではなく、海外から指導者によってもたらされ開示された教養を、礼儀正しく鑑賞するという姿勢で接することが、いかに深く美意識の閉塞状態とかかわってきてしまったかについては多言を要しません。作品を大急ぎでジャンル別に分類しなければ気が済まないという一事をとってみても、百科辞典的な知識を前提として美術品の前に立つことがいかに多かったかを証明しています。私達がこれから取扱う作品は、その意味では分類学的な境界を無視していると言えましょう。
その結果として、印刷、映像、生活美術等に、対象が拡がっているという印象を見るひとに与えることになるかもしれないと思います。ただ多種多様の作品をとおして、常に時代精神の表現の場であって欲しいと願っています。


しかしこれは考えようによっては最も困難なことなのかもしれないと思います。何故なら時は常に流れ変化するし、人間は年と共に老い、権威は一度作られるとそれを運営する人々に保守的な心情を惹き起こすものだから。従って、この美術館の運営は絶えざる破壊的精神の所有者によって維持されなければならないことになります。創造の土壌としての破壊は、必ず民族的伝統と生活に根を持った完成のリアリティに憧れていきます。


だからこの美術館の運営は、いわゆる美術愛好家の手によってではなく時代の中に生きる感性の所有者、いってみればその意味での人間愛好家の手によって、動かされることになると思われます。
美術館であって美術館でない存在、それを私達は“街の美術館”と呼んだり、“時代精神の運動の根據地”と主張したり、また“創造的美意識の収納庫”等々と呼んだりしているのです。


開館の挨拶としては、いささか型破りの、かなり傲慢とも受け取られかねないもの言いになってしまったことをお許し下さい。来館される方々の忠告、指導、感想を伺わせていただくことによって、以上のような目標を実現していきたいと願っております。


西武美術館 「日本現代美術の展望」 1975.9.5-14 カタログより


http://www.smma.or.jp/about/seibumoa.html


「理念」の表明である。それまでの百貨店の「美術画廊」が、展示作品の展示販売を軸にした「理念」なき店舗空間であると仮定するとして、直接販売に結び付かないこの有料のスペースに対して、36年前の西武百貨店が「美術館」という名称を選択した背景には、当時の消費者の「意識の高まり」があった事を無視出来ないだろう。新時代の消費者は、単に物的欠乏を埋める為に消費するのではない。その先の「理念」を含めた「イメージ」をこそ消費する。「もの」の戦後は終わった。衣食は十分過ぎる程に足りた。これからは「こと」だ。「意味」だ。「文脈」だ。「もの」を軸とする「貧乏」な時代のままの販売戦略では、やがて百貨店は立ち遅れてしまう。


この堤氏の文章に見られる様に、この西武百貨店による「美術館」と命名されたスペースは、「絶えざる破壊的精神の所有者によって維持されなければならない」とあり、「破壊」と「維持」という相反する命題を抱え持つ存在であった。しかしよくよく考えてみれば、「破壊」と「維持」は、そのまま「決算」と「繰越」であるかもしれない。要は「商売」の用語を、そのまま「文化」的用語に強引に変換したまでの話であるとも言える。そこでの「破壊的精神」は、「商売」の世界では日常茶飯だ。例えばそれは、デパートのショーウィンドウのディスプレイの様なものだとも言える。一時的に衆目を集め、消費の為のイメージ喚起に貢献し、そしてその役割が終われば、そうしたディスプレイは、撤収され破壊される。後には何も残らないし、消費者もまたそれについて何も覚えていない。それこそが「砂丘を覆う砂や、極地の荒野の上に拡がる雲海のように、たえまなく変化し、形を変え、吹き抜けた強い風の紋を残し、たなびき、足跡を打ち消してゆく新しい歩行者によって、再び新しい足跡がしるされる」という事なのかもしれないし、それを「時代精神」とする事もまた可能だろう。そして「時代の中に生きる」事を目指し、「美術館」の「展覧会」もまた、その様に存在するものだとすれば…。


兎にも角にも池袋西武百貨店の12階という最上階に「西武美術館」は誕生した。くどい様だがそれは36年も前の話だ。そして今から12年前の1999年に、「西武美術館/セゾン美術館」は、「美術館」としては余りに短か過ぎるその歴史を閉じた。


「西武美術館」のオープニングの「日本現代美術の展望」展は7千人を集めた。西武百貨店の手厚いパブリシティを以てしてもたったの7千人だ。そしてこの先、「西武美術館」の展覧会で、戦後の展覧会の動員数ベスト50に入ったものは一つも無い。西武百貨店としては、最上階にそれを設け、その傍らにミュージアムショップ的な「書店」である「ART VIVANT」を置き、そこで「文化」的な消費を行わせた後、「シャワー効果」で階下のショップに金を落とさせる腹積もりだったのかもしれない。


しかし結局そうはならなかった。当然の事ながら、狂騒的なバブルの時期ですら、現代美術には消費を牽引する力など全く無かった。実際には寧ろそれは、軽チャー路線で集まった一般客をそのまま上層まで吸い上げ、カルチャーな12階がそのおこぼれに預かろうとする「噴水効果」しか見込めなかったと言える。当然それは、百貨店本体の経営が順調、乃至は堅調である事が前提になる。そして「シャワー効果」を狙った上層階の「西武美術館」が、地下階に潜った「セゾン美術館」に変わった頃、既に百貨店の経営は青息吐息になり始めていた。


そんなデパートの凋落が始まった20年前に、百貨店には一瞬現代美術が溢れ始めた。そしてそこでのアーティストは、決して「売り手」の立場では無く、やはり飽くまでも「招待」される立場であると思い込んでいた。


【この項続く】