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道具「セット物」

承前


今日、日本人の大多数の人生に於いて、その最初の画材というのは恐らく「セット物」になるのだろう。それはクレヨンであったり、色鉛筆であったり、水彩絵具であったり、場合によってはいきなり油絵具であったりするかもしれないが、いずれの場合でも、お子様自らチョイスした好みの色を、一つ一つ必要に応じて買い求めていく訳ではまずない。


そうした「セット物」の画材は、大抵は「しろ」と「くろ」がケースの両端を固め、その間を「きいろ」「あか」「ももいろ」「ちゃいろ」「はだいろ」「きみどり」「みどり」「みずいろ」「あお」「はいいろ」(以上「サクラクレパス太巻12色セット」に準ずる)といった「よく使う色」がカラーグラデーションを構成している。


「はだいろ」で「わたし」を含む「ひと」の「はだ」を、「くろ」で「かみのけ」を、「あか」で「おひさま」を、「ちゃいろ」で「き」と「じめん」を、「きみどり」で「くさ」を、「みどり」で「きのはっぱ」を、「きいろ」と「ももいろ」で「はな」を、「みずいろ」で「みずたまり」を、「あお」で「そら」を、「はいいろ」で「いえ」をそれぞれ塗れば、概ね平均的に各色が減り、概ね平均的な児童画が描けるという事になる。


しかし例えば、親が自分のテーマ色(俺色・私色)を「アースカラー」であると固く心に決めていて、その子供にも「アースカラー」の画材しか買い与えない、或いはまた、西洋美術の巨匠達のデッサンは、多くて3色程度しか使っていないのだから、その子供にもそうしろとなれば、それは周囲からは児童虐待の一種と見られかねない。この世の中には様々な色があるというのに、或いは様々な画材メーカーから様々な色が売られているというのに、それを揃えない(買わない)など何事か。子供の自由な想像力をスポイルさせるではないか。酷い。という訳で「セット物」の画材は、最も手っ取り早く、平均的な「親の愛」を周囲に示す事が出来るアイテムにはなり得る。その場合、12色は基本愛、24色は深愛、36色や48色は溺愛や盲愛といったところなのだろうか。


色数が多いというのは、様々な精錬、粉体等の生産技術の発達に負っている。産業革命以前の絵画は、限られた顔料(色)しか使用出来なかったが、その種類(色数)が爆発的に増え、故に「自由」に使用可能な「色」もまた爆発的に増え、それらが「市民階級」でも易々と手の届く価格になったのは、偏に近代工業の賜物である。従って「セット物」を買い与える形での「親の愛」や、それに則った子供の「自由な表現」という概念もまた、産業革命以降に誕生したものであると言えるだろう。


「おえかき」や「図画工作」の時間には「いろいろないろをつかってじゆうにえをかきましょう」という指導がされているのかどうかは寡聞にして知らないし、余り知りたいとも思わないし、そうであったとしても、畢竟、日本の殖産興業政策の申し子とも言える、例の「山本鼎」の「自由画教育運動」的な「自由」や「豊か」に落ち着く訳なのだろうが、しかしそうは言っても、やがては「よく使う色」と「そうでもない色」に自然に別れてしまうのが「おえかき」の常だったりする。異常に「くろ」が減る一方で、「ももいろ」は全く減っていないといった様な「偏り」が、そこでは必ずと言って良い程起きる。


「セット物」の功徳は、結局のところ、それぞれの持つ「俺色(必要とする色)」の発見を促進する事であり、同時に「非=俺色(必要としない色)」の発見をサポートする事でもある。その場合、それでも児童の首根っこを押さえてまで、嫌いな「ももいろ」を始めとした「いろいろないろ」を等しく使わせて(或いは作らせて)、「自由」に「豊か」に「正しく」表現させた方が良いのか悪いのかは判らない。「よのなかにいろいろないろがあるのはわかった。でもおれいろがあるんだからしょうがない」と考える児童は、やはり「矯正」の対象になるのであろうか。


リタイアした年配者が、絵を描くという趣味に目覚めて選択する画材は、12色セットではないだろう。その多くは最高級品の何十色、何百色のセットを、その資力に任せて大人買いする事になると思われる。しかしそこで多くの者は途方に暮れるだろう。ある者はその色全てを使って絵を描く事にチャレンジしようとするかもしれないし、やはり数色のみが異常に使用され、その他は全くの手付かずで、単にケースの中のカラーグラデーションを構成するのみの存在に成り果てるというケースもあるだろう。それでも「いつかそれを使うかもしれない」という淡い期待の下、それらの手付かずの多くは永遠に保管され、そして永遠に使用される事はない。それもまた「備えよ常に」の一変種であり、そうした「備え(セット)」の消尽を「自由」への扉であるとする立場もまたあり得るだろう。


「セット物」の思想は、あらゆる場所に見られる。その中には「欧米並み」を目指す「先進国セット」というものもあるだろう。その「先進国セット」の中には「アート」が含まれているかもしれない。そして確かに「セット物」の一部として「アート」は日本の風景の中に組み込まれたと言える。但しそれは、すっかりちびてしまう位に「使用」されているというよりは、数百色のパステルの使われない多くの色の如く、「先進国」日本というケースの中で、単にグラデーションを構成するのみに留まっているのかもしれない。


「一般人」は「先進国セット」に含まれた「アート」の存在を決して知らない訳ではない。しかし、その存在を知った上で、それを「セット物」の「非=俺色(必要としない色)」の如くに「使用」していない。そうした「一般人」の首根っこを押さえてまで、「アート」の「使用」率を上げて、すっかりちびてしまうまでに短くさせた方が良いのか悪いのかは判らない。「よのなかにあーとがあるのはわかった。でもきょうみがわかないんだからしょうがない」と考える「一般人」は、やはり「矯正」の対象になるのであろうか。いずれにしても「矯正」に成功すれば、平均的な先進国にはなるだろう。


【続く】