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道具「自作自演」

意味も無く、否、意味は「それなり」にあったとは思うのだが、四輪駆動車が売れに売れていた時代が嘗て存在した。それはまた「四駆ブーム」などと称されたりもした。とは言っても、それ程昔の話ではないが、それでも30年近くも前の話だから、やはり「大昔」であると言えるだろう。


4WD(four-wheel drive)」や「四駆」という略語も、すっかりその当時に一般名詞化し、あのタミヤから「ミニ四駆」なる、主に男児向けの玩具も発売されるに至った背景には、当時デビューしたばかりの「三菱パジェロ」の「パリ→ダカールラリー(「総合優勝」は第7回大会)」優勝という「国際舞台」での「活躍」の影響も無視出来ない。この頃はまだ極東の国日本では、おフランスの「ローカル」なクロカンラリーが、そのまま「国際舞台」を意味していると目されていた牧歌的な時代だった。否、おフランスの史蹟に「美術作品」がどうたらこうたらを「国際舞台」の証とする様な、未だにこの国はそうした牧歌的状態にあるのかもしれないとは思うのだが、それはさておき。


やがて極東の島国の街中を、まるでアフリカ大陸の砂漠地帯であるかの様に思い込んだ極東の島国のドライバーが、大して安くもない2トントラック程の大きさの四輪駆動車を長期ローンを組んで購入し、四方のクルマを見下ろしつつ、その極東の島国の良く整備された舗装路を跳梁跋扈し始める。それまでメルセデスBMW、或いはトヨタクラウン等の3ボックス車が、極東日本のローカルなクルマエコシステムの頂点に君臨していたが、それに並ぶ、乃至は代わる様に、三菱パジェロトヨタランドクルーザー、或いはレンジローバーやランドローバー等(後にメルセデスMクラスやハマー等)の四輪駆動車が「高級車」の仲間入りを果たし、そのエコシステムの「上流階級」デビューに至る。


実際的な登坂能力では軽自動車(ジムニー)に劣り、実質的な中身では業務用トラックと遜色無いとすら言えるそれらは、しかし一般的な乗用車とは全くレベルの異なる走行が可能であると思われていたし、主に「広告」やメディアによって、その様に情報操作されてもいた。その甲斐あって、やがて四輪駆動車は、90年代には盗難防止のイモビライザーを装着されるまでに出世する。当時の某美術系月刊誌編集長のパジェロに同乗した際にも、彼はダッシュボード上の傾斜計を始めとする数々のガジェットに対して極めて熱を込めて語っていたものだが、間違いなくその編集長氏の頭の中でも「東京神田神保町」の交差点が「アフリカの砂漠」になっていたのだと思われる。当時の「パジェロ」は「『世界』に通用する『日本』」という可憐な幻想を象徴する「アイコン」の一つだった。


しかしそうは言っても、日本の道路の大半は、四輪駆動車で走破し甲斐のある「悪路」ではない。明らかに日本の道路では、四輪駆動車の持つ「実際」の機能の多くは「オーバースペック」であり「宝の持ち腐れ」だ。日本の一般ドライバーにとっては、その四輪駆動車の廃車時までに、走行中にカンガルーに激突する事もまず無いだろうし、ウインチを必要とする急坂を登る事態にも遭遇はしないだろうし、路面に散乱する丸太やコンクリート片を乗り越える事も恐らく無い。しかしそれでも、そうした機能を一度もフル活用せずとも、フル活用する場面を想像する事すら出来なくても、それらは極東日本の四駆の人の、クルマライフに於ける「イメージ」上、そうした機能は必要不可欠なのだ。即ち「万が一の天変地異が起きた時にこそ、これらの機能は役に立つ」という「有事」に対する「備え」の「哲学」にそれは立脚する。流石にその「天変地異」には、「天地が崩墜する」は含まれてはいない。含まれていたら、それこそ「杞人憂天(杞憂)」であり、即ち「世間の嗤い者」の対象になってしまう。

杞國、有人憂天地崩墜、身亡所寄、廢寢食者。


中国の杞の国に、天地が崩墜して自分の居場所がなくなったらどうしようかと、寝食をできない程に憂える者がいた。


列子」天瑞編


しかし空が落ちてくる程ではないものの、川が氾濫する、道が崩壊する、瓦礫が散乱する、動物園から猛獣が脱走して自車に激突する…。そうした「あり得る/あり得ない」様な「有事」があって初めて、ラガーメンのはだけた胸板の如きマッチョなボディが光を放つかもしれない四輪駆動車だ。但しそこには、「通行止」や、「ガソリンスタンドが使えなくなる」や、「銀行預金が引き出せなくなる」等々の、社会的「有事」は全く想定されていないし、それらは四駆では1ミリとて解決不可能な「有事」である。


いずれにせよ、四駆の人のモットー(規範)は、イギリス軍人ベーデン=パウエルによる軍人教育を下敷きにしたボーイスカウトガールスカウトと同じ「『そなえよつねに』(備えよ常に、Be Prepared)」であり、恐らく四駆の人は、心のどこかで「備えよ常に」の賭金(「備え」)が高額な配当になって帰ってくる、「地球最後の日」や「世界全面戦争」の様な「あり得る/あり得ない」事態の到来を望み、そこで四駆によって「生き残る側に属する事の出来る自分」を、ナルシシックに可憐に想像したりもするのだろう。そこでは自身のナルシシズムを実現する舞台としての「地球最後の日」や「世界全面戦争」が望まれている。それはまた、日帰りで都会に帰れる場所で、火起こしに挑戦したり、食べられる野草を探したりするといった、「有事」から「生き残る」術を、「ワークショップ」に参加される「お客様」のナルシシズム込みで、レクリエーションとして楽しませるといった「有事ごっこ」と同じ心性が働いている。そして生き残ったその先に一体何をするのかという「生き方の哲学」に関しては、本当にどうでも良い話なのである。


しかし実際には、「四駆ブーム」以降にも、この国では「天変地異」的な「災害」が何度も起きているが、そうした現場では、「火起こしの技術」や「食べられる野草の知識」といった極端な「有事」への「備え」が全くと言って良い程に役に立たないのと同様、「パジェロ大活躍」や「ランドクルーザー大活躍」、「有り難うパジェロ」や「有り難うランドクルーザー」という場面にはなかなか遭遇はしない。寧ろそこでは「ヒーロー」や「ヒロイン」になる事無く、道路のアンダーパスや、河川敷や、地下駐車場で水没して廃車になったり、豪雪の幹線道路で後続車に追突されて全損する様な「普通のクルマ」と変わらぬ末路を迎えたりもする。四駆の人を知り合いに持つ経験上言えるのは、いざという時に頼りになるのは、「備え」であるより「強運」であったりするのだ。


何よりも、そうした時にリアルに「ヒーロー」「ヒロイン」になるのは、ブルドーザー、クレーン車、ショベルカー、除雪車等といった、リアルに「有事」に適した「はたらくくるま」であり、「一般車(あまりはたらかないくるま=マイカー)」に留まる四輪駆動車ではない。四駆の人の様に「本格的」という「イメージ」のマジックが通用しない子供達の人気車種は、こうした「いつかは役に立つ」クルマではなく、必要な時に「本当に頼りになる」クルマであったりする事は、例えばあのトミカのラインナップが証明していると言えるだろう。実際トミカの「はたらくくるま」率は高く、日野、いすゞ三菱ふそう日産ディーゼルは言うに及ばず、コマツモリタ、タダノ、日立建機酒井重工業前田製作所、日本除雪機製作所、ヤンマー等の「公共性」の高いマシンがラインナップのメインストリームになっている。パジェロランクルやハマー等が無い訳ではないが、それらは「マイカー(=プライベートカー=「私」車)」部門の一部を構成するに留まっている。


http://www.takaratomy.co.jp/products/tomica/lineup/regular/index.htm
http://www.takaratomy.co.jp/products/tomica/lineup/regular/041-080.htm
http://www.takaratomy.co.jp/products/tomica/lineup/regular/081-120.htm
http://www.takaratomy.co.jp/products/tomica/lineup/regular/121.htm


「有事」に対する「備えよ常に」の業は深い。それは「いつかは役に立つ時(有事)が来る筈」という理由で、レジ袋や、紙袋や、空き箱を大量に溜め込む主婦や、果ては「いつかは役に立つ時(有事)が来る筈」の大量集積物件であるとも言えるゴミ屋敷の老人にも共通する、死ぬまで来ないかもしれない想像の中の「有事」を待ち続ける心性の内にある。そうした「永遠の遅延」としての「有事」は、例えばサミュエル・ベケットによって「ゴドー」とされたものかもしれない。「『有事』を待ちながら」だ。


四輪駆動車やビクトリノックス(スイス・アーミーナイフ)を始めとする「有事」対策商品、即ち「ゴドー商品」は、想像の中の有り得べき「有事」を待ち続ける。そして「有事」を待ち続ける事に絶えられなくなった人々は、何の理由もなく、わざわざ川の中や砂浜に四輪駆動車で入って、そこを「走破」してみせたり、傍らに幾らでも使い易いハサミがありながら、わざわざビクトリノックスで紙を切ったりして、そうした「有事」のシミュレーションを自作自演した上で、ドヤ顔をしてみせたりする。そして恐らくそれらの「本格」は、永遠にそれが活躍する「その時」を迎えること無く、そのドヤ顔の為だけに存在するのだろう。


【続く】