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ミニマル

「シンプルライフ」とは如何なる「生き方」であるのだろうか。


「シンプルライフ」と言うからには「シンプル」な「ライフ」であるのだろう。しかし「ライフ」は兎も角、「シンプル」とは一体何なのだろうか。


「シンプル」の答えは「シンプル」には出そうもない。例えば「シンプル」なデザインの調度品に囲まれ、「シンプル」なデザインの服装に身を包み、「シンプル」にデザインされたロハスな食事を摂るといった様に、「シンプル」消費財の消費量を単純に上げさえすれば、それだけで「シンプルライフ」を標榜したりする事も可能ではあるだろう。


或いは、ほぼ所謂「エコ」と同義の、生活に必要とされる物品を身の回りに置く事を最小限に止め、つましい中にも「ストレスフリー」な生活を送る事を「シンプルライフ」とする立場もあるだろう。その一方で、「生存」以外の「余計」な活動(「芸術」含む)を一切行わない事を「シンプルライフ」とする事も出来るだろうし、或いはまた、単に家計に於ける「支出」を抑える事を「シンプルライフ」とする事も可能だ。他方で、日の出と共に起床し、日の入りと共に就寝する事を「シンプルライフ」とする見方もあるだろうし、単に「仕事をしない」事を「シンプルライフ」とする向きもあるだろう。加えて、朝早くからパチンコ屋の前に並び、日がな一日パチンコ「だけ」に興じ、夜は酒を呑む「だけ」という、そうした「だけ」な生活を「シンプルライフ」とする事も可能ではある。そして尚も、結婚しない方が「シンプルライフ」であると考える者がいる一方で、結婚した方が「シンプルライフ」であると考える者もいる。


それぞれの「シンプル」は、恐らく互いに何処かで繋がり、そしてまた何処かで決定的に繋がっていない。それぞれの「シンプル」の意味が、それぞれに微妙に、且つ決定的に異なっているからだ。例えば「最小限の生活」と「最小限のデザイン」の間には、一見緊密な関係性がある様に思えるものの、しかしその関係は実際には恣意的である。イメージ的にはしっくりと来ないかもしれないが、「最小限の生活」と「最大限のデザイン」の同居もまた可能だ。寧ろ、リアルな経済的困窮状態(それもまた一つの「シンプルライフ」と言える)にある世帯に溢れる、統一感の無い「デコラティブデザイン」のカオス的集積というケースの方が、現実的には大半を占めるだろうし、「シンプルデザイン」の多くが、それ自体が「シンプル」でないかもしれない大規模工業による大量生産によって実現される事を勘案すれば、「シンプルデザイン」は、場合によっては「反シンプルライフ」的であると言えなくもない。


「シンプル」は、それ自体が「イメージ」の産物であり、また「イメージ」そのものであり、そしてまた「シンプル」という「解釈」でしかない。「シンプル」である事の条件を、厳密に規定した「シンプル綱領」や「シンプル法」なるものが存在しない以上、それは「シンプル」という「解釈」に於ける重層性や、多義性や、曖昧性をそのまま引き受ける事になる。「シンプル」には、「論理階型」の異なる複数の「シンプル」が同居し、「趣味趣向」の異なる複数の「シンプル」が同居し、「コンテクスト」の異なる複数の「シンプル」が同居する。


「原始生活」を送っている人は、「私は『シンプルライフ』を実践しています」などと決して言いはしないだろう。「シンプルライフ」とは、「シンプルなライフ」そのものではなく、「複雑化」した「シンプルならざるライフ」の「発見」を前提に、そこから遡行的に見出される「反措定」であり、原理的に「反=シンプルならざるライフ(反=複雑生活)」という捩れ構造を持つ。それはまた、「発見」された「シンプルならざるライフ(複雑生活)」への嫌悪を形にしたものであり、それが「シンプルライフ」という名称へと変化したのだと言えよう。一方、「シンプル」の「発見」の元になった「シンプルならざる」もまた、重層的で多義的で曖昧な「イメージ」による「解釈」の中にある。


「シンプル」を「ミニマル」に置換してみる。「ミニマル」もまた「シンプル」同様、重層的で多義的で曖昧な「イメージ」であり、「最小限」の様々な「解釈」でしかない。そしてそうした重層的で多義的で曖昧な「ミニマル」を冠に戴く「ミニマルアート」という、謎な上にも謎の言葉が存在する。「シンプルライフ」に於ける「シンプル」同様、「ミニマルアート」に於ける「ミニマル」の「解釈」の振幅は、無視し得ない程に大きい。


そもそも「ミニマルアート」という呼称の登場は、1965年にイギリスの哲学者、リチャード・ウォルハイムが「アーツ・マガジン」に載せた論文「ミニマルアート」が最初であると言われている。


MINIMAL ART by Richard Wollheim
http://books.google.co.jp/books?id=lhMS8Ii73ZkC&printsec=frontcover&dq=minimal+art&hl=ja&ei=S483TffVE4umvgPl8un7Aw&sa=X&oi=book_result&ct=result&resnum=2&ved=0CDEQ6AEwAQ#v=onepage&q&f=false(「Minimal art: a critical anthology : Gregory Battcock」387ページより)


彼の「論文」には、何かの間違いではなく「マルセル・デュシャン」の名前も見え、例の「泉」の図版が「ミニマルアート」の例として掲載されている。「マルセル・デュシャン」は、リチャード・ウォルハイムによって「ミニマルアート」のアーティストとして「解釈」されている。そこまでではなくても、実際「ドナルド・ジャッド」と、「フランク・ステラ」と、「アド・ラインハート」と、「ダン・フレヴィン」のそれぞれの「ミニマル」の意味は全く同一ではなく、寧ろクロスする事の無い差異の方が大きいとすら言える。彼等の作品が、見た目には同じ様な「最小限」の表現に見えたとしても、そうした「最小限」に至る道筋も、「最小限」の意味もそれぞれに異なり、他方で、彼等以外の「ミニマルアート」のアーティストの、それぞれの「最小限」への道筋やその意味もまた、それぞれに大きく異なっている。寧ろそれらが「ミニマルアート」として、一纏まりになっている事の方が、余程不思議なのだとすら言えるかもしれない。


「ミニマルアート」の「ミニマル」は、「シンプルライフ」の「シンプル」同様の「解釈」の幅を持つ。そうした「解釈」を最大限広げれば、「ポップアート」も、「コンセプチュアルアート」も、「ランドアート」も、そして「マルセル・デュシャン」も、その全てが「ミニマルアート」であるという「歴史解釈」も全く無謬的に成立し、また所謂「ミニマルアート」と一線を引かれた事にされている、「ミニマルアート」の批判対象と目されている「抽象表現主義」もまた、何処かで「ミニマルアート」であるとする事すら可能になる。


「ミニマルアート」は「シンプル」同様、「複雑化」した「ミニマルならざるアート」の「発見」を前提に、そこから遡行的に見出される「反措定」であり、原理的に「反=ミニマルならざるアート(反=複雑芸術)」という捩れ構造を持つ。そして「発見」された「ミニマルならざるアート(複雑芸術)」への嫌悪を形にしたものであり、それが「ミニマルアート」という名称へと変化したのだと言える。

「ミニマルアート」という呼称には、単純に「ツルツルピカピカ」で「シンプル」な外観を持つという、「ミニマル」の振幅を捨象した可憐な「解釈」が常に付き纏う。しかしそれは、単純な上にも単純な「イメージ」上の「印象」でしかない。そしてそうした「イメージ」上の「印象」が「学的」意匠を纏い、しかしそうした「印象」のみが唯一の手掛かりとしてある様なものが、恰も「学問」であるかの様な現れ方をするところに、恐らく「学問」的ジャンルとしての「美術」の「不幸」の淵源があるのだろう。