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身分

この物件が、美術界の一部で、そして大きなおともだち(大友)の一部で話題だ。



日曜日朝の所謂「ニチアサキッズ」の時間帯、4〜6歳女児のテレビ視聴率が40%を超えるプリキュアシリーズの、現行「ハートキャッチプリキュア」後期のOPと、前作「フレッシュプリキュア」前期のEDが、これのOPとEDの主な「ベース」になっている事は明らかだ。「シックスハートプリンセス」OPの最後の3人の決めポーズは、HCのブロッサム、マリン、サンシャインのまんま「トレース」だし、EDはEDで、モーションアクターが、フレッシュのドーナツ屋「カオルちゃん」の中の人だったり、またそれ以外にもその他のシリーズの要素が処々に色々と混ぜられている。いずれにしても、それら「本家」を「彷彿」とさせ、見ている者の頭の中にそれらを思い浮かばせ、喉までその名前を出掛からせる(喉から出てしまっても良いのだが)事をこの物件は狙っていて、逆にそうならなければその狙いは大失敗だろう。


この物件が「アート作品」であると仮定して、しかしこうした「アート作品」の場合、「劣化コピーだ」とその「内容」を批判した方が、「アーティスト」の狙い通り、まんまと「負け」になってしまうだろう。「劣化コピー」を「劣化コピー」として提示し、その「参照先」を「批判」的に見せる事が、この「アート作品」の表現上の眼目だと思われるからだ。そして、そうした「アート作品」独特の「在り方」に加えて、「五條真由美」や「前田健」等といった、一連の「プリキュア」シリーズの「出入り業者」が参加している事からも、この物件が単なる「摸倣」や「剽窃」といった一筋縄の「批判」が通じ難い事をも示してはいる。


プリキュア」と「プリンセス」の差は何処にあるのだろうか。仮に「アート作品」が「高品質」を意味するとして、しかしこの「プリンセス」は、これだけのスタッフを集めつつも、「プリキュア」の「品質」を大きく凌駕しているとするには、かなり無理があるだろう。「プリキュア」の産業としての裾野は極めて大きく、従って「プリキュア」で「食べている」人間も極めて多く、故に絶対にコケるわけにはいかないというヒリヒリした産業的シビアさが、その「品質」を苛烈な「コスト計算」と共に、極めて「高度」なものとしている。


一方の「プリンセス」もまた、そうした「シビア」さに「通ずる」ところは一部であるだろうが、しかし現時点で、その産業的裾野は「プリキュア」程には大きくない。魚肉ソーセージに至るまで、その図柄をプリントされるものとは、コケた時の影響力も含めて「事情」が大きく異なり、従って「作品」としてのアニメ自体の「品質」に於ける「完成度」へのアプローチもまた全く「異なる」とだけ、ここでは指摘しておく事にするものの、何にせよ「アート作品」と「アート作品以外」を分かつ必要条件は、その「品質」には無いという事実が、この両者からも導き出されるのは確かだ。


それを見る者が「知見」を広めたり、新たな「認識」を得たりする特異的存在が「アート作品」であるという見方もある。ならば「TVアニメ」の「プリキュア」には、「知見」を広めたり、新たな「認識」を得たりする要素が何も無い一方で、「美術」と「アニメ」を「自己言及」的に「批判」し、それを表現上の問題として「提示」しているとされる「アート作品」の「プリンセス」によって、初めてそうした「知見」や「認識」が可能になるという事にはなる。「アート作品(「プリンセス」)」と「アート作品以外(「プリキュア」)」との間にある「差」が、そうした「効果」の「差」に繋がるという考え方だ。しかしそれは、些か「トートロジー」の意味での「自己言及」だろう。「『アート』は『アート』であるが故に『アート』である」といった様な。


2007年に話題になった北京の「石景山遊楽園」。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E6%99%AF%E5%B1%B1%E9%81%8A%E6%A5%BD%E5%9C%92
「石景山游乐〓-亚洲游艺项目最多的主题乐〓|北京石景山游乐〓官方网站」http://www.bjsjsyly.com/hompy/


微妙な上にも微妙なシンデレラ城をバックに、微妙な上にも微妙な「ミッキーマウス」「ドナルドダック」「クマのプーさん」「白雪姫と七人の小人」「バッグス・バニー」「ハローキティ」「ドラえもん」等が、園内で愛嬌を振り撒く映像が、日本のワイドショーで連日報道され、「石景山遊楽園」は「全世界」から「パクリ遊園地」の謗りを受けていた。


しかし「石景山遊楽園」が全くそのままの形で、仮に「アーティスト」による「アート作品」であったらどうだろう。「アーティスト」によって、それらしい「コンセプト」が提示された「石景山遊楽園」を、それであるが故に「アート作品」として認識した途端に、「プリンセス」同様の「自己言及的な批判性」が、「アート作品」としての「石景山遊楽園」にも見えてきたりもするだろう。そうであれば、微妙な上にも微妙な「ミッキーマウス」「ドナルドダック」「クマのプーさん」「白雪姫と七人の小人」「バッグス・バニー」「ハローキティ」「ドラえもん」等が、或いはまた微妙な上にも微妙な「プリキュア」が、ヴェルサイユ宮殿内を練り歩いていても、その「微妙さ」が一転「自己言及的な批判性」としての「芸術表現」として解釈され、全てが「ポジティブ」に評価される。「アート作品」とはそうした「唯名」的な「錬金術」なのであり、それによって生成された「貴金属」の正体である「卑金属」を指摘し、弾劾しても詮無い話なのだとは言える。


プリキュア」は、生まれながらにして「エンターテイメント商品」としての「TVアニメ」であり、且つ永遠にそこに留まる事が半ば義務付けられている。一方で「プリンセス」は、生まれながらにして「アート作品」である事が予め約束されている。「プリンセス」は、それがこの世に現れる前から既に「アート作品」なのであり、後はその「予約席」に座れば良いだけだ。


「アート作品」の条件は、何よりもまず「アーティスト」がそれを作る事であり、その意味で「身分制度」の産物である「アート」もまた、それ自体が一種の「身分」である。その「内容」が問われるのは、そうした「身分制度」を成立させる「トートロジー」のずっと後なのであり、決してその逆ではない。