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エイリアニズム

「宇宙人」は、現在の「地球人」の延長上に類推される活動をする「地球外生命体」とする事で、初めて「宇宙人」の名を冠する事が出来る。


そうでないと、それが「宇宙『人』」ではなく、「宇宙イヌ」や、「宇宙ネコ」や、「宇宙ニワトリ」や、「宇宙フンコロガシ」や、「宇宙ミミズ」や、「宇宙オケラ」や、「宇宙アメンボ」や、「宇宙ミジンコ」である可能性を払拭出来ない。それどころか「宇宙アウストラロピテクス」や、「宇宙ネアンデルタール人」や、「宇宙クロマニヨン人」ですら、恐らく「宇宙人」の条件を満たさないのであり、尚も「宇宙中世人」や、「宇宙19世紀人」ですら「宇宙人」たり得ない。「知性」を持っていたとしても、現在の「地球人」より「劣って」いたり「遅れて」いたりする「地球外生命体」は「宇宙人」とは呼べないのだ。


「宇宙人」は、「地球人」が表象し得る「地球人」の延長上の姿であって欲しいと「地球人」は願う。その意味で、如何に「H.G.ウェルズ」的な「蛸の八ちゃん」な姿であろうと、それは現在の「地球人」の延長上に位置する「文明」を持っていさえすれば、それは何が何でも「宇宙人」なのであり、決して「宇宙タコ」ではない。「H.G.ウェルズ」の「蛸の八ちゃん」は、「地球人」の姿形に酷似した「宇宙クロマニヨン人」よりも、紛うこと無く「宇宙人」だ。二足歩行をしていさえすれば、それだけで「宇宙人」になると思ってはならない。姿形が「宇宙ミジンコ」であっても、それでも「宇宙人」である可能性が無いとは言えない。


嘗て映画「未知との遭遇(原題 " Close Encounters of the Third Kind(第三種接近遭遇)")」が封切られた時、「これは『既知との遭遇』ではないか」という意見が聞かれたものだが、確かにそれは何から何まで、「既知」の「宇宙人」の条件を満たしている。映画の最後に明かされる「意外」な姿形のイメージなどはどうでも良く、仮にそれが「宇宙ミジンコ」の外見であったとしても「未知」たる条件にはカウントされない。


「模範的」な「宇宙人」には「地球人」と同じ様な「意志」があり、「知能」があり、「コミュニケーション」の「能力」があり、剰え「心」まであったりする。「宇宙人」はそういう意味での「他者」の謂であり、それは古代ギリシャ人が「異邦人」を「バルバロイ」と呼んだ「他者」の延長上にある。そうした「他者」は、「善」として現れたり「悪」として現れたりだが、それらはいずれもその存在に対する「理解」や「表象」が可能な存在であり、そうした「他者」は言わば「話せば分かる」の圏内に存している。


「話せば分かる」は「他者」との「共役可能性」を前提とする。その「共役可能性」は「超越論的主観」とも言えるだろう。それは現実的な「経験的主観」の「差異」を越えて「機能」として働く。従って「宇宙人」は、そうした「超越論的主観」の下では「地球人」とも交換可能な項の一つであり、そうした知り得る「外部」としての「宇宙人」の存在はまた、所謂「オリエンタリズム」にも似たものである。


オリエントは、ヨーロッパ人の心のもっとも奥深いところから繰り返したち現われる他者のイメージでもあった。そのうえオリエントは、ヨーロッパ(つまり西洋)がみずからを、オリエントと対照をなすイメージ、観念、人格、経験を有するものとして規定する上で役立った。もっともこのオリエントは、いかなる意味でも単なる想像上の存在にとどまるものではない。それは、ヨーロッパの実体的な文明・文化の一構成部分をなすものである。すなわちオリエンタリズムは、このうちなる構成部分としてのオリエントを、文化的にも、イデオロギー的にも一つの様態をもった言説として、しかも諸制度、語彙、学識、形象、信条、さらには植民地官僚制と植民地的様式とに支えられたものとして、表現し、表象する。


エドワード・サイードオリエンタリズム


風変わりな姿形、見知らぬ文明…。「宇宙人」は、「オリエンタリズム」の「東洋の楽園」や「東洋の叡知」に似た、「宇宙の楽園」や「宇宙の叡智」幻想にも繋がるだろう。「宇宙人(或いは「地球外生命体)」とはそうした「理解」による「表象」である様な「宇宙人幻想」や「地球外生命体幻想」、即ち「オリエンタリズム」ならぬ「エイリアニズム」なのだ。