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西洋の女

1909年(明治42年)、今から101年前にそれは発表された。著者は、94年前の大正5年(1916年)に49歳で没している。「小品」である事もあり、ここに全文を掲載する。


モナリサ


 井深は日曜になると、襟巻に懐手で、そこいらの古道具屋を覗き込んで歩るく。そのうちでもっとも汚ならしい、前代の廃物ばかり並んでいそうな見世を選っては、あれの、これのと捻くり廻す。固より茶人でないから、好いの悪いのが解る次第ではないが、安くて面白そうなものを、ちょいちょい買って帰るうちには、一年に一度ぐらい掘り出し物に、あたるだろうとひそかに考えている。
 井深は一箇月ほど前に十五銭で鉄瓶の葢だけを買って文鎮にした。この間の日曜には二十五銭で鉄の鍔を買って、これまた文鎮にした。今日はもう少し大きい物を目懸けている。懸物でも額でもすぐ人の眼につくような、書斎の装飾が一つ欲しいと思って、見廻していると、色摺の西洋の女の画が、埃だらけになって、横に立て懸けてあった。溝の磨れた井戸車の上に、何とも知れぬ花瓶が載っていて、その中から黄色い尺八の歌口がこの画の邪魔をしている。
 西洋の画はこの古道具屋に似合わない。ただその色具合が、とくに現代を超越して、上昔の空気の中に黒く埋っている。いかにもこの古道具屋にあって然るべき調子である。井深はきっと安いものだと鑑定した。聞いて見ると一円と云うのに、少し首を捻ったが、硝子も割れていないし、額縁もたしかだから、爺さんに談判して、八十銭までに負けさせた。
 井深がこの半身の画像を抱いて、家へ帰ったのは、寒い日の暮方であった。薄暗い部屋へ入って、さっそく額を裸にして、壁へ立て懸けて、じっとその前へ坐り込んでいると、洋灯を持って細君がやって来た。井深は細君に灯を画の傍へ翳さして、もう一遍とっくりと八十銭の額を眺めた。総体に渋く黒ずんでいる中に、顔だけが黄ばんで見える。これも時代のせいだろう。井深は坐ったまま細君を顧みて、どうだと聞いた。細君は洋灯を翳した片手を少し上に上げて、しばらく物も言わずに黄ばんだ女の顔を眺めていたが、やがて、気味の悪い顔です事ねえと云った。井深はただ笑って、八十銭だよと答えたぎりである。
 飯を食ってから、踏台をして欄間に釘を打って、買って来た額を頭の上へ掛けた。その時細君は、この女は何をするか分らない人相だ。見ていると変な心持になるから、掛けるのは廃すが好いと云ってしきりに止めたけれども、井深はなあに御前の神経だと云って聞かなかった。
 細君は茶の間へ下る。井深は机に向って調べものを始めた。十分ばかりすると、ふと首を上げて、額の中が見たくなった。筆を休めて、眼を転ずると、黄色い女が、額の中で薄笑いをしている。井深はじっとその口元を見つめた。全く画工の光線のつけ方である。薄い唇が両方の端で少し反り返って、その反り返った所にちょっと凹を見せている。結んだ口をこれから開けようとするようにも取れる。または開いた口をわざと、閉じたようにも取れる。ただしなぜだか分らない。井深は変な心持がしたが、また机に向った。
 調べものとは云い条、半分は写しものである。大して注意を払う必要もないので、少し経ったら、また首を挙げて画の方を見た。やはり口元に何か曰くがある。けれども非常に落ちついている。切れ長の一重瞼の中から静かな眸が座敷の下に落ちた。井深はまた机の方に向き直った。
 その晩井深は何遍となくこの画を見た。そうして、どことなく細君の評が当っているような気がし出した。けれども明る日になったら、そうでもないような顔をして役所へ出勤した。四時頃家へ帰って見ると、昨夕の額は仰向けに机の上に乗せてある。午少し過に、欄間の上から突然落ちたのだという。道理で硝子がめちゃめちゃに破れている。井深は額の裏を返して見た。昨夕紐を通した環が、どうした具合か抜けている。井深はそのついでに額の裏を開けて見た。すると画と背中合せに、四つ折の西洋紙が出た。開けて見ると、印気で妙な事が書いてある。
「モナリサの唇には女性の謎がある。原始以降この謎を描き得たものはダ ヴィンチだけである。この謎を解き得たものは一人もない。」
 翌日井深は役所へ行って、モナリサとは何だと云って、皆に聞いた。しかし誰も分らなかった。じゃダ ヴィンチとは何だと尋ねたが、やっぱり誰も分らなかった。井深は細君の勧に任せてこの縁喜の悪い画を、五銭で屑屋に売り払った。


夏目漱石「永日小品」から


明治維新」の前年、慶応三年に生まれた夏目漱石43歳の作品。入社後2年目の朝日新聞に連載された小品集「永日小品」にこの一篇はある。1873年(明治6年)のウィーン万博出品の際、日本語の「美術」がドイツ語の "Kunstgewerbe" の翻訳による出品区分名称として初めて用いられてから36年。そしてそれはまた、あの「1935年(昭和10年)」の26年前に、「開国」から40年余の、極東の日本で発表されたものだった。


【続く】