信仰

「偽札作り」のテーマは、これまでしばしば小説や映画などで取り上げられ、それはある種「ロマンティック」な扱われ方すらされてきた。そこには必ず「訳あり」の「偽札作りの天才」がいて、個人的復讐だか、生活の困窮だか、兎に角何らかの「理由」で、「犯罪集団」と接点を持つ的なプロットが繰り返し使用された。そして、印刷の「プロフェッショナル」の「超絶技巧」が「成功」し、金融の「プロフェッショナル」の目を節穴にし、まんまとその鼻を明かして出し抜いたりする所に、観客がカタストロフを感じたりする作りになっているのが常だった。


しかしこの「テーマ」が、ここ10年で「使い辛い」ものになってきたのは確かだ。何せ中学生が、自宅にある安物のインクジェット複合機で紙幣をスキャンしてそのままそれをプリントアウトし、それが市中で「行使」出来てしまったりするという「アマチュア」全面化の時代にあっては、小説や映画の様な、設備投資に金の掛かる、「レガシー」で「プロフェッショナル」な方法論は、印刷や犯罪の「プロフェッショナル」を「雇う」人件費も含め、費用対効果から考えれば、コストばかりが掛かる馬鹿馬鹿しさだし、単に「一攫千金」を目的とするのならば、その手の「才能」さえあれば、PCモニタ上の「鉄火場」的「運用」でどうにかなりそうだ。「見える通貨」の「偽物」が見破られる事にハラハラするのと、「見えない通貨」を遣り取りする「気紛れな市場」にハラハラするのと、どちらが割の良い「博打」なのだろうか。兎に角、現在、そんな大掛かりで「レガシー」な方法論によるスーパーな「偽札」は、例えば所謂「スーパーK」と呼ばれるものであったりするのだろうが、それとてそれが狙っているとされる「ドルの通貨としての信用不安」などに至る事などはまずない。大体そうした「偽札」は、大抵は「流通」直後に発覚してしまう。果たしてこうした「偽札」は、「投資」に見合うだけの「回収」が可能なものなのだろうか。


「偽札作り」の肝要は、徹頭徹尾「本物に忠実である事」に尽きる。紙幣を構成する全ての要素に於いて、「本物」と「偽物」が完全に一致する「完コピ」である事が「偽札」の目指すところだ。これはまた、ブランド品の「スーパーコピー」にも通ずるものであり、寧ろ嘗ての「偽札作り」の世界は、この手の「スーパーコピー」に移行した感もある。日常的に国際空港でチェックされるのは、所持している紙幣の真贋ではなく、所持しているブランド品の真贋だ。今やブランド品の真贋の方が、紙幣の真贋よりも、或る意味で「重要問題」だと言える。とは言え、それでも「偽ブランド品作り」は、今後も小説や映画に於いて、「国家」という「信用」を相手にする「偽札作り」程には「ロマンティック」には描かれないだろう。いずれにしても、ブランド品の「スーパーコピー」は、ブランドに対する若干の「信用不安」を招来するかもしれないが、しかしその「本物」の「信用」が地に落ちても、それはそれで困ってしまうというのは、こうした「小判鮫商売」の痛し痒しなところだ。


「美術作品」の「贋作」は、そうした「偽札」や「スーパーコピー」とは異なり、もう少し複雑に入り組んだ「偽物」と言える。何せ「偽札」や「スーパーコピー」は、それ自体が「複製物」の「偽物」であり、「複製物」である「本物」の「完コピ」でありさえすれば、それは「複製物」としての「本物」と「同列」になる。しかし「美術作品」の「贋作」はそう簡単にはいかない。それは何よりも、「美術作品」が、そうは言っても未だに「唯一性」としての「オリジナル」である事にその「価値」の多くが求められるからであり、であるならば「美術作品」の「贋作」は、「未だ嘗て発見されていない『本物』」でなければならない。そしてそれはまた「新発見の『真作』」と全く同じ構造を持つ。「贋作」と「新発見の『真作』」は紙一重であるし、何よりも「贋作」は、常に「新発見の『真作』」の顔をして出現する。しかしまた、「新発見の『真作』」が、「偽物」よりも、より「『偽物』っぽい」というケースもある。


旧聞ではあるが、例えば昨年こういうニュースがあった。


盗難のピカソの絵画イラクに クウェート侵攻時に略奪か


 【カイロ共同】イラク治安当局は25日、19年前にクウェートで盗まれたピカソの絵画をイラク中部ヒッラー近郊の民家で発見、この絵画を売却しようとしていた男を拘束した。AP通信が26日伝えた。


 絵画はイラクの旧フセイン政権による1990年のクウェート侵攻後に略奪され、イラクに持ち去られた多数の美術品の一つとみられる。


 イラク警察当局によると、絵画は裸婦を描いたもので「クウェート美術館」の刻印があった。男は45万ドル(約4200万円)で売却しようとしていたが、専門家によると、1千万ドルの価値があるという。


http://www.47news.jp/CN/200908/CN2009082701000126.html


1990年のイラクによるクウェート侵攻の際に、クウェート国立美術館のアル・アマーディ・ホールから盗まれた(とされる)ピカソ(とされる)作の裸婦像が、イラク治安当局によって取り戻されたというニュースである。


バグダッドから60マイル南にあるアル・ヒラーに住む元イラク軍兵士の息子(33才)が、父親の死の直前に、その父親からその絵を譲り受ける際に、「頭金」として45万ドル(約4500万円)を請求され、それを約50万ドル(約5000万円)以上で転売しようとしていたところを、以前から逮捕の切っ掛けを伺っていた治安当局に町に誘い出され、道路の真ん中で逮捕された。「ピカソ」は木枠から外され、何回も折り畳まれてボロボロである。イラクの治安当局が主張するところでは、この「ピカソ」は市場価格にして1000万ドル(10億円)の価値があるという。



この「ピカソ」を「鑑定」した「専門家」が、如何なる「専門家」であるかは、この記事や、そのソースとなった外信からは判然としないものの、いずれにせよ、その「専門家」は、この「ピカソ(の「真作」)」に「1千万ドルの価値がある」とした。「イラク治安当局」もまた、この「ピカソ」が「真作」であるからこそ、捜査に動いた。


因みに、ロンドンにある "Art Loss Register" は、当該の絵がクウェート国立美術館から盗まれたという記録自体が存在しないとしている。パリの「ピカソ美術館」と「フランス国立美術館」は、取り敢えず彼等のアーカイブを引っ繰り返してはみたものの、この絵自体の記録を発見する事は出来なかった。


また、"A Life of Picasso" の著者である John Richardson は、「彼が子供であった時、ピカソはありとあらゆるおかしな事をやってきた。しかしそれらはこの絵の様なものではない。青年時代には何枚かのアカデミックな裸婦像を描いた。しかしそれらは、これとはキャラクターもスタイルも完璧に異なっている。只の一つもピカソには見えない」と語ってはいる。


兎にも角にも、仮にこの「ピカソ」が「『ピカソ』の『真作』」であったとして、しかし恐らく、この「『ピカソ』の『真作』」は、「贋作」界からすれば、「贋作」の風上にも置けないだろう。それは例えば、 "John Richardson" 氏に代表される「ピカソ」の「専門家」が満足する様には、少しも「ピカソ」的ではない為に、それは「『ピカソ』の『贋作』」たる条件を満たさない。「只の一つもピカソには見えない」物は、そもそも「『ピカソ』の『贋作』」たる資格が無い。「贋作」とは「真作」以上の「何か」なのだ。


この「ピカソ」が「真作」ではないとする事は、或る意味で極めて容易い。しかしそれは同時に極めて困難でもある。一体全体、これが「『ピカソ』の『真作』」ではないとする根拠は何だろう。それは畢竟「ピカソがこんな絵を描く筈がない」という「信仰」だ。


美術に於ける「研究者」の「研究」は、何処かでこうした可憐とも言える「信仰」に基づくところが無いとは言えない。「某はこんな絵を描く筈がない」の「筈」は、言わば一種の「期待」であり「思い込み」である。「僕のピカソ」はこんなじゃない。そしてその「思い込み」の上に、「合理」に見えもする「研究」を積み重ねる。しかしその画家の「全体」に、果たしてそうした「例外」的側面は全く存在し得ないだろうか。或いはその画家の「失敗作(当然「真作」)」と「出来の悪い『贋作』」は区別し得るだろうか。そしてまた「真作」とは、「思い込み」が評価するところの「成功作」のみを指すのであろうか。実際、自分自身に対して「こういう作品を作る筈がない」と、他人に勝手に「信仰」されても、それは只々困惑するばかりであると言える。


「研究」の根底に可憐な「信仰」がある限り、世に「贋作」の種は尽きまじである。何故ならば「贋作」商売は、そうした「本物」の範囲を「限定」する「研究」の成果をこそ利用するものだからだ。