「くすぶり」

承前

旅行等から帰ってきて、「ああ、やっぱり家が一番」などと言うのは「老人」の特徴だとされている。「だったら始めから旅行に行かなければ良いだろう」という突っ込みも当然可能ではあるのだが、しかし「禅」の「十牛図」ではないが、或いはまた、「メーテルリンク」の「チルチルミチル」ではないが、一旦「あさって」の方向に出ていかないと、「ホーム」である「いま=ここ」が見えてこないという事もあったりはする。一旦はスパイラルして、そして「メタレベル」を「ゲットだぜ」、だ。多分。


ACC ( ASIAN CULTURAL COUNCIL ) というグラントがある。公式サイトのバナーの Flash には、若き日の村上隆氏の姿も見える。

http://asianculturalcouncil.org/japan/


「みんな!ニューヨークへ行きたいかーっ!!」「どんなことをしても、ニューヨークへ行きたいかーっ!!」「罰ゲームは怖くないかーっ!!」は、「ニューヨーク」を「世界」の「中心」としていた時代の、今は無き「福留功男」氏の「アメリカ横断ウルトラクイズ」だが、ACCもまた、アジア諸国の若手アーティストが、「アート」の「本場」である「ニューヨーク行き」を目指すというものだ。但しACCに罰ゲームは存在しない。


名だたるアーティストがこのグラントを取得している。このグラントは、申請する段階で、幾らか日本国内で「実績」のある方が「好ましい」と言えたりもする。但しこれは自分の古くからの友人のケースだが、日本国内での「実績」が全くと言って良い程無くても、それを取得してしまえるケースも無い訳ではない。ACCもまた、「アメリカ横断ウルトラクイズ」同様、「知力、体力、時の運」の「時の運」が、物を言う事もある。友人のニューヨーク行きが決まったその年に「落選」した、当時の「名だたる」アーティスト達は、「何故あんな奴が行けたのか」と言いつつ、そこに「陰謀」や「裏工作」を疑ったりもした。しかしそこに「陰謀」も「裏工作」も無い。何故ならば、その時に一番驚いたのは、「ダメ元」の「実力試し」でグラント申請した当の本人であるし、その推薦文を書いた文章書きもまた「意外だ」と言って憚らなかったのだから。


友人がグラントを取得した当時、「ニューヨーク」は「アート」の「本場」だった。恐らく今でもそういうところはあるだろう。「東京」や「大阪」で「くすぶり」つつ展覧会を行うよりも、「『本場』ニューヨーク」で展覧会を行った方が「世界」に「近い」。その規模の大小に拘らず、展覧会の「オープニング」に「英語」が飛び交う方が「国際的」ではないか。但し「ニューヨーク」は「東京」や「大阪」程には広い。それでも、仮にそこが「ニューヨーク」の「錦糸町」や「十三」であったとしても、「ニューヨーク」である事に変わりはない。そこで「発表」すれば、立派に「ニューヨーク」で「実績を積んだ」であるし、帰国すれば「ニューヨーク帰り」という事になる。


知り合いで「ニューヨーク」で埋もれた人間を数多く知っている。「ニューヨーク」に行くだけでは「世界」に少しも近付けない。当然「グリーンカード」を取得して「世界」を目指すものの、しかしこれもまた当然「食えない」から「ニューヨーク」で日本と同じ様な、いや「ニューヨーク」では、日本人は単に「外国人労働者」であるだけに、日本国内以上にハードルの高い「バイト」をし、その「バイト」がいつの間にか「本業」になり、「ニューヨーク」で「アーティスト」志望の若者が、「カーペンター」になったり、「ガーデナー」になったり、「額縁職人」になったりは、枚挙に暇がないし、寧ろその方が極めて一般的な話だ。それもまた「『世界』のカーペンター」「『世界』のガーデナー」「『世界』の額縁職人」であると認識する事は、「『世界』のアーティスト」程度に可能なのかもしれない。しかしそれに「耐えられない人」は、グラント終了時に「ニューヨーク帰り」を「御旗」にホームである日本に帰国する。


「ニューヨークの日本人」は、「パリのアメリカ人」以上に「世界」から「疎外感」がある。何せ「日本人」は「アジア人」なのだ。「アジア人」が、現状の意味での「世界」に打って出る為には、「アジア人」なりの「戦略」がどうしても必要になる。「世界」の「アートシーン」に、「アジア人」に受け渡す事の出来る「空席」は、事実上それ程多くない。


考えてもみれば「世界の美術」が「アジア人」で占められたら、それは「アジア人」自身にとっても「世界の美術」である事の「意味」が失われる。展覧会のオープニングが「北京語」と「広東語」と「韓国語」と「日本語」と「ヒンディー語」、或いは「アラビア語」のみが飛び交う場所になったら、それは当の「アジア人」にとってすら「インターナショナル」である「意味」が失われる。そこには必ず「英語」が必要なのだ。「美術」の「公用語」は、何が何でも「英語」だ。「スペイン語」や「ポルトガル語」でも駄目なのだ。


「ニューヨーク」で「日本人」を始めとする「アジア人」作家は学ぶ。ここでは「アジア人」である「アイデンティティ」こそが問われる。それは「イギリス人」が「イギリス人」である「アイデンティティ」を問われる以上に、「フランス人」が「フランス人」である「アイデンティティ」を問われる以上に、「ドイツ人」が「ドイツ人」である「アイデンティティ」を問われる以上に。「アジア人アーティスト」は、何よりもまず、そうした「『世界』のアート」を現実的に支配する、「人種」的「非対称」が「支配」する「ルール」を知り、その上で、自分自身が「世界」から見て、極めて判り易く「アジア人」であらねばならない。それこそが「世界」への唯一の入口であるかの様に、或いは又、現実的にそれのみが「世界」への唯一の入口である様に。


だからこそ「世界」へ向けては、「日本人アーティスト」は「『日本』の特殊性」を売りにしなければならない。「日本文化はアニメ」となれば、そこに「乗っかる」事で「世界」への道は開ける。「日本文化は平面性」となれば、そこに「乗っかる」事で「世界」への道は開ける。「日本文化はハイテク」とか、「日本文化は(ネットワークを含む)関係性」とか、「日本文化は表象性に対する希薄なアプローチ」とか、今までにも色々と、当の「日本人」による「『日本』の特殊性」の在り方は「捏造」されてきたが、しかしそれらは、必ずしも「世界」の「アート市場」に於ける「商売」上の「惹句」として「成功」はしなかった。


「ニューヨーク」で埋もれてしまった知り合いの多くは、そうした「戦略」の在り方を知らなかった訳ではないが、それを「売り」にする事が、自らの「美学」に反するが故に、敢えてそれをしなかったというケースが多い。しかし、それは或る意味で、「世界」に於いては「損」な「生き方」を選択したいう指摘も可能なのではあろう。「世界」の「アート」に於いて、「アジア人アーティスト」には、現実的に言って、多かれ少なかれ「エスニシティ」や「スーベニール」の「枠」があるのみだ。しかしそんな「日本ネタ」も、既に「ネタ切れ」なのかもしれない。


「ニューヨーク」から「世界」を目指した若者は帰ってくる。「悪い場所」に帰ってくる。「悪い場所」の反語としての「良い場所」は、自分の中の「アジア人」を求めてきた。「世界」は、自分の「アイデンティティ」を求めてくる。しかしそんな「アイデンティティ」の「求め」は、常に「非対称」的だ。「アイデンティティ」を求められる者と、そうでない者の差は厳然として存在する。


「ああ、やっぱり家が一番」


それは単に「敗残者」の弁なのか。それとも。


ACCで、グラントを取得した友人は、帰国後は地方都市に「くすぶる」事を選択した。


【了】