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「ざんす」

承前


赤塚不二夫氏の「おそ松くん」の、最高の名キャラクターは、「イヤミ」氏であろう。彼は「フランス帰り」を自称する。しかし実際には、彼はフランスには行っていない様だ。赤塚不二夫公認サイト「これでいいのだ!!」の「イヤミのいえ」のバックグラウンド画像にはこうある。

「ミーがいつもいってるおフランスのこと、うそだとしってるざんすね」
「先生はいったことないの?」

http://www.koredeiinoda.net/iyamiroom.html


「イヤミ」氏は、恐らく「努力の人」なのだ。自分が入手可能な「おフランス」の「情報」を片っ端から掻き集め、或いは「おフランス」が属する「西欧社会」の「情報」を、意図したものか意図しないものかは兎も角、それにぐちゃぐちゃに混ぜて、「イヤミ」氏なりに解釈された、「小京都」ならぬ「小フランス」としての「おフランス」像を構築する事で、「おフランス」や「西欧」の事を全く知らない「六つ子」「チビ太」等、周囲の昭和30年代日本人を煙に巻いて、彼らを自らの術中に嵌めたいと常に思っている。


しかしこうした「イヤミ」氏の努力は殆ど報われない。そもそも「六つ子」や「チビ太」といった「子供」は、それ程「おフランス」文化に興味がある訳ではないし、特段に「おフランス」コンプレックスを持ち合わせている訳でもない。従って彼等「子供(と「子供」の目を持つ読者)」の目には、「おフランス帰り」を声高に吹聴する「イヤミ」氏は、単に「軽佻浮薄」な男にしか映らない。「イヤミ」氏の「戦略」にとって、そうした「子供」は「やり難い」。こうして「イヤミ」氏のターゲットは、自らと同じ「おフランス」や「西欧社会」へのコンプレックスを共有する、「イヤミ」氏と似た人間に対して向けられる事になる。


「イヤミ」氏の青春時代を妄想する。彼は実際に「おフランス」に行きたかったのだろう。しかし1ドル360円時代では、それは「夢想」の上にも「夢想」だ。仮に彼が「おフランス」に行けたとして、しかし日本で一向に風采の上がらない「イヤミ」氏が、フランスに行って風采が上がるとは、現実的に言って難しいだろう。一体自分に「おフランス」社会で伸し上がっていけるだけの「才覚」はあるだろうか。いやそれは無いに等しい。日本以上に「おフランス」社会での自らの生存は覚束ない。結果として、「イヤミ」氏の選択した人生は、自らが構築した「おフランス」情報を切り売りする事で、「日本国内」で「サバイバル」していくというものであった。彼はこう呟くだろう。「ここはおフランスに比べて『悪い場所』ざんす」。しかしその一方で、「ここはおフランスに比べて『チョロい場所』ざんす」とも呟くだろう。


「イヤミ」氏的に言って、「おフランス」と「日本」は、同一平面上に存在するものではない。「おフランス」は「日本」より常に上位レイヤーに属し、それらは垂直関係にある。「おフランス」の「お」に表わされたその垂直関係を、単純に「拝外」と言っても良いかもしれない。そしてこうした「イヤミ」氏的「拝外」は、常に、この「悪い場所」であり、同時に「チョロい場所」でもあるこの国で、「イヤミ」氏と同じ志向を持つ者に対して発動する。


例えば仮にこういう言説があるとする。


「西洋近代から『芸術』や『美術』という概念は生まれている。従ってそうした西洋近代のルールでゲームに参加しない限り、それは『アート』として認め難い」


「イヤミ」氏的な口調に変換すればこうなる。


「お西洋近代から『お芸術』や『お美術』という概念は生まれているざんす。従ってそうしたお西洋近代のルールでゲームに参加しない限り、それは『おアート』として認め難いざんす」


一見「理論的」に見えもする「日本・美術・言説」。しかしそれらの語尾部分に「ざんす」を付けてみる事で、否が応にもその「無意識」は明らかになる。結局のところ、「日本・美術・言説」を根底の所で支えている「日本」の「無意識」は、「イヤミ」氏の「無意識」とそう大差はない。確かに「美術」の「世界市場」とされるものは、「お西洋近代」の正嫡子である「おアート」を軸にしている事もあるかもしれない。しかしそれは、最早他のマーケットと同じ平面上に存在するのもまた確かなのだ。


「日本・美術・言説」の言うところの「西洋」は、「事象に付着していて極めてマニエリスティックに美しく保存されている本物らしさ」であるところの「小」の付いた「小西洋」であり、同様に「芸術」は「小芸術」であり、「美術」は「小美術」であり、恐らく「アート」もまた「小アート」だ。


「お西洋では、おアートは大事にされている」


そう言って憚らない人が、例えばこうした報に接した時にどう反応するだろうか。

Permanent versus temporary public art is not the issue
http://www.theartnewspaper.com/articles/Permanent+versus+temporary+public+art+is+not+the+issue/21762


「お西洋では、もうパブリックアートなんて流行らないざんす」


と言うだろうか。それとも


「これはミーの知っているお西洋からすれば『例外的』なケースざんす」


と言うだろうか。しかし「例外的」という語は、同時に自らの「お西洋」像の墓穴を掘る事にもなる。つまり「ミーの知っている『お西洋』」像こそが「普遍的」であり、決してそれが「例外的」ではない事を「証明」しなければならないからだ。しかしそれは可能なのか。但し「悪い場所」/「チョロい場所」では可能かもしれない。


【続く】