「小」

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「小京都」グループである。


1985年に、全国の「小京都」と、「大京都」である「京都府京都市」が結成した「全国京都会議」によって公認された「小京都」がこれらの市町である。1988年の第4回総会では「小京都」の定義が画定され、


1. 京都に似た自然と景観
2. 京都との歴史的なつながり
3. 伝統的な産業と芸能があること


という基準が設けられた。これによって「本物」の「小京都」と、「偽物」の「小京都」は厳密に区別される事になる。


「北海道函館市」や「北海道小樽市」、「神奈川県鎌倉市」、「沖縄県那覇市首里」などを、「小京都」と呼ぶ旅行ライターや地元観光関係者もいるが、それらは「全国京都会議」的には「偽物」の「小京都」でしかないから「注意」が「必要」だ。お出かけの際は「公認小京都」であるかどうかをお確かめ下さい。「小京都」は「全国京都会議」の「登録商標」です(嘘)。


しかし中には、「栃木県栃木市」の様に「小京都」を名乗りながら、同時に「小江戸」も名乗る不貞にも不逞にも程がある二股愛の町などもあり、とかくこの世は油断も隙もあったものではないと思い知らされる。因みに「小江戸」は、オフィシャル的には「埼玉県川越市」、「栃木県栃木市」、「千葉県香取市」を言うらしく、「千葉県夷隅郡大多喜町」、「神奈川県厚木市」、「静岡県磐田市掛塚」、「滋賀県彦根市」辺りは「アンオフィシャル」な「小江戸」であるらしい。その「公認」「非公認」に「意味」があるかは別にして。


それはさておき嘗ての「小京都」界にあって、実力人気ともに高い市だったのは、やはり加賀国の「石川県金沢市」だ。「大京都」の「京都府京都市」の市民ですら、ここが「良い町」であると思う程に、「金沢」は「小京都」界の「優等生」である。少なくとも、運転マナーに関しては、「大京都」よりも遥かに「上品」であるというのが通説だ。


実は「金沢」自体はなかなかの「野心家」なのだが、衣の下に鎧を隠すのが上手いのは、やはり織田、豊臣、徳川を上手く渡り歩いた前田家の町ならではの「IQ」の高さであると言えるだろう。


一方で「小京都」の集まりである「全国京都会議」にいそいそと馳せ参じ、全国の「小京都」に「お墨付き」を与えてしまう所が「大京都」の「本家」としての限界だ。仮に、全国津々浦々に存在する「駅前銀座」である「小銀座」の団体、「全国銀座会議(仮)」が存在したとしても、「大銀座」たる「東京都中央区銀座」は、まずそこにはのこのこと出てこないだろうし、「小銀座」側もそれを望んではいないだろう。或いはまた、仮に「小ルイ・ヴィトン」による「世界ルイ・ヴィトン会議(仮)」があったとしても、「大ルイ・ヴィトン」は参加はもとより、その「会議」自体を潰そうとするだろう。しかし「大京都」はそこに参加してしまうのだ。


しかし考えてもみよう。その「本家」である「大京都」である「京都府京都市」自体、「小中国」の「小長安」であるとも言える。「大京都」自身は、決して「小長安」などではない、現在の「大京都」にとっては、現在の「大長安」など目ではないと主張したいかもしれないが、ならば「世界長安会議(仮)」で「インデペンデント」な存在としての「アンオフィシャル」な「偽物小長安」として認定して貰えば良いだけの事である。



赤瀬川原平の「超芸術トマソン」の定義である「不動産に付着していて美しく保存されている無用の長物」の言い方を借りれば、「小京都」を初めとする「小」なる存在は、「事象に付着していて極めてマニエリスティックに美しく保存されている本物らしさ」である。



「小京都」や「小江戸」は、ややもすると必要以上に「大京都」や「大江戸」よりも、「京都」や「江戸」であったりする。特に「江戸」の場合、太平洋戦争中に「大江戸」が焼けてしまった事もあって、最早「江戸らしさ」なるものは、周辺部の「小江戸」にしか残っていないと言えるかもしれない。「本物」は「本物」であるが故に絶えず形を変えていくが、「小」は任意の時点での「本物らしさ」をフリーズして永久保存する。「小」とは決して「そのもの」ではない、極端な「典型」としての「らしさ」であり、或る意味で「あやかりもの」である。


その「小京都」の「金沢21世紀美術館」。椹木野衣氏の方法論を借りれば、それは「金沢・21世紀・美術館」なのであるが、中黒によって分割されたそれぞれの項は、それぞれに「小」である。「金沢」の「小京都」は言うに及ばないが、ここでの「21世紀」は「小20世紀」であり「小近代」であろう。マニエリスティックに美しく保存されている「20世紀」美術の延長上にある「21世紀らしさ」が、この美術館の言うところの「21世紀」の正体であるとも言える。


適度に解放的であり、適度に閉鎖的という、中途半端に「開かれた」状態を装う建物は、そのまま「現代美術」の中途半端な存在様態を見事に表現している様だ。或る意味で「マニエリスティックに美しく保存されている「美術らしさ」や「近現代らしさ」が「現代美術」であるとするならば、それは既に「小美術」と言うべきかもしれないし、その範となる「大美術」そのものもまた、何かの「小」ではあるだろう。言わばそれは、「『小』のスパイラル」だ。それは限りなく「負のスパイラル」に近いかもしれない。


斯くて「金沢・21世紀・美術館」はまた、「小京都・小20世紀・小美術館」とも言うべき施設であり、常設展も企画展も、「美術らしさ」、「美術のあやかりもの」の「小美術」で満ち溢れていたりする。そしてその「小美術」はまた、「小エンタテイメント」や「小社会活動」や「小セラピー」や「小教育」や「小地域活性」等であり、それらの「らしさ」の「あやかりもの」の、永遠に「大」に焦がれ続け、いつかそれに「なりたい」という、一種の「ルサンチマン」の現れとして存在し続けるのだろう。


【続く】

注:現在「石川県金沢市」は「全国京都会議」から「脱会」している。
http://www.hokkoku.co.jp/_today/H20090122101.htm