「展評:追悼(後編)」

物故作家の展覧会。この作家はデビュー時期が同じだった。年齢は少しだけ向こうの方が上だったから、生年に於ける「昭和」のディケイドは異なっていた。それでもキリスト教暦に言うところの70年代末から80年代に掛けての同じ「時代」を共有していたと言える。

「時代」を共有するという事は、即ち「現代美術」に於いては「問題」を共有するというに等しい。例えば「スーパーフラット」の「アーキテクチャ」の「地域興しアート」等が、事実上、「今日」の・「日本」の・「現代美術」の「『ドミナント』な『問題』」(以下「問題」)であるといった様な意味で、この時代の「現代美術」の専らの「問題」は、「『絵画』をどうするか」、「『彫刻』をどうするか」、或いは「『美術』をどうするか」という、「美術」の遺した「遺産」問題だった様に思える。或る意味で、70年代から80年代という時代自体が、「美術」に対して「追悼」的であった。

「現代美術史」的には、60年代の「ミニマルアート」や「コンセプチュアルアート」や「ランドアート」等の形で、「美術」の「解体」が「極限」にまで至る事で、「美術」は一旦「死んだ」という、美し過ぎるラストシーンで「終わって」いた。「教科書」たらんとする、ほぼ全ての「現代美術史」の記述は、この美しいシナリオに基づいている。言うならば、ここまでが「現代美術エピソード1」という「物語」である。

しかし「美術」は死んでも「美術家」は死ななかった。「美術」の「死」で一旦「美術」にリセットが掛かり、それと同時に、この地球上から「美術家」が一瞬にして消滅するのなら話は極めて簡単だ。しかし決してそうはならなかった。「現代美術」の特徴は、「人生は長く、芸術は短い」だ。従ってどうしても「現代美術」の「続編」を作らねばならない。さもなくば「美術家」は、今後の人生を「美術家」として全う出来ない。そうでなくても「美術家」志願の若者は、「美術」の「死後」も後を絶たない。こうして70年代から80年代の「続現代美術」「現代美術2」のシナリオが始まる。

「続現代美術」「現代美術2」の時代。例えば70年代後半にデビューした或る美術評論家は、その当時、その状況を「殯(もがり)」という言葉で表していた。

殯(もがり)とは、日本の古代に行われていた葬儀儀礼で、死者を本葬するまでのかなり長い期間、棺に遺体を仮安置し、別れを惜しみ、死者の霊魂を畏れ、かつ慰め、死者の復活を願いつつも遺体の腐敗・白骨化などの物理的変化を確認することにより、死者の最終的な「死」を確認すること。その棺を安置する場所をも指すことがある。殯の期間に遺体を安置した建物を「殯宮」(「もがりのみや」、『万葉集』では「あらきのみや」)という。

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この時代の現代美術作家の「共通了解」は、自らの「不能」性にあった。「美術」は「死んで」しまった。しかし一方でそれを認めたくはない。だから「美術」を「本葬するまでのかなり長い期間、棺に遺体(「美術」)を仮安置し、別れを惜しみ、死者(「美術」)の霊魂を畏れ、かつ慰め、死者(「美術」)の復活を願いつつも遺体(「美術」)の腐敗・白骨化などの物理的変化を確認することにより、死者(「美術」)の最終的な「死」を確認すること」という復活儀式的な相貌を、70年代から80年代の「美術」は少なからず呈する事になる。「続現代美術」「現代美術2」は、「殯」のシーンから始まるシナリオだ。

「続現代美術」「現代美術2」では、「絵画」はどうしたら「可能」になるのか、「彫刻」はどうしたら「可能」になるのか、のみならず「美術」はどうしたら「可能」になるのか、という「可能」の「条件」を獲得するための模索がそれぞれの「美術家」によって進められた。とは言え、「美術」の「外部」から見れば、「美術」は、手前勝手に、自殺的に、与り知らぬところで野垂れ死にしてしまった訳であり、従ってその「美術」の「復活」の「可能」に至る「条件」の成立を希求している訳でも何でもない。結局それらの「問題」は、「美術」内に於ける「殯」といった「秘教」的なものにならざるを得なかった。

数々の「復活の呪文」が生まれる。「美術の死」の時期とは時系列的に前後するが、それでも「続現代美術」「現代美術2」時代の日本の「絵画」は、おフランス製の「支持体」と「表面」という「左翼」ネタを復活させたり、アメリカ製の「抽象表現主義」に「解答」を求めたり、同じくアメリカ製の、ロバート・マンゴールドや、ロバート・ライマン等の仕事に、「システム」と呼ばれる制作原理の「ゲーム規則」を見い出したりもしていた。

物故作家はそういう時代の「申し子」だと敢えて言う。彼の「絵画」の「条件」が最終的に依拠したのは、「『日本』の『絵画』」だった。しかし「『日本』の『絵画』」と口にした時点で、それはどうしても「フェノロサ」という「フィルター」を回避出来ない。「『日本』の『絵画』」は、「西洋美術」のパースペクティブによって、事後的に「発見」された「概念」である。しかし物故作家もそこは十分に自覚していただろう。

物故作家は、「『日本人』である『自分』」の「絵画」の「条件」を基礎付ける為の「研究」を常に欠かさなかった。但しその「日本」という「括り」は、それ程に単純なのかという疑問は、「当時」も、そして今この絵を見ている「現在」も存在し続ける。「所与」的なものとして現れる「日本」は、疑って掛かるべきだろう。

いずれにしても「問題」は「風化」する。しかし「風化」という表現は些かセンチメンタルに過ぎる。それは前編に書いた様に、新たに出現したものによって、極めて物理的に「上書き」されるのみだ。現在日本の「現代美術」に於いて、「『日本』の『絵画』」という「問題」があるとして、しかしそれは物故作家の時代のそれとは異なる。「『日本』の『絵画』」の「問題」は、「日本画」の「問題」に変質した。「日本」は、「概念」的なものから、「意匠」により近くなった。そして「意匠」は、「一般性」を獲得するのに「有利」ではある。

「現代美術」の「殯」のシナリオは終わったのだろうか。確かに、「美術」や、「絵画」や、「彫刻」の「条件」を巡る「問題」は「後退」したかの様に見える。「美術」は、70年代から80年代に「問題」となっていた、その「可能」を巡る「条件」への「問い」から解き放たれて、「自由」な形で生産され続けているかにも見える。

しかし相変わらず「美術家」の「共通了解」は、自らが「不能」であるという事なのではないだろうか。だからこそ未だに、「開かれた作品」という、専ら「供給」側の言い分に基づく戦略を「美術」は採りたがるのだろう。まるで「外部」に「開き」さえすれば、後はどうにでもなるとでも言いたげに。

時に「日本の伝統」が、時に「ジャパニメーション」が、時に「ネットワーク社会」が、「殯」に於ける「ツール」として次から次へと「利用」される。「美術」であり続けつつ、延命を図るというアクロバット。そうまでして「美術」が「生き延びる/死に延びる」理由は何か。

物故作家の時間は30代で止まっていた。その周りに展示された作家は、それから20年の齢を重ねている。その20年の「生き延びる/死に延びる」時間に何が起きたのか。それとも何も起きなかったのか。