「展評:追悼(前編)」

「現代美術」は「現代美術」である。「現代美術」は「現代美術」の問題を問題にする。「現代美術」は「現代美術」の名の元に行われる一切合切である。因みにここでの「現代美術」を、ティエリー・ド・デューヴ風に「芸術」と言わないのは、「芸術」一般はそれ程にはトートロジカルであるとは思わないからだ。そんなものに勝手に混ぜてくれるなと言いたい「芸術」だってあるにはあるだろう。尤も「現代美術」の中にも、そう言いたい「現代美術」はあるだろうが。

それはさておき、しかし困った事に、「現代美術」は日々変化する。昨日まで「現代美術」であったものが、今日には「元現代美術」や「古現代美術」になってしまったりもする。「古美術」は「格好良い」が、「古現代美術」はどこかしら「格好悪く」思える。それは何故だろうか。

意識的にか無意識的にか、「現代美術」は「ディケイド」でチョップされる。「60年代」、「70年代」、「80年代」、「90年代」、「ゼロ年代」、そして「始まった」ばかりの「10年代」。因みに「現代美術」の「フィフティーズ」というのを余り聞かないのは気のせいだろうか。その前の「40年代」が、「それどころじゃない」が故に「空白の時期」だというのは良く判るが。

それもまたさておき、この「ディケイド」による分割が意味するところは、10年も経てば「現代美術」はすっかり「新しく」なってしまうという一方で、同時に10年も経てば「現代美術」はすっかり「古く」なってしまうという事だろう。でなければ「◯◯年代美術(アート)」などと10年毎に分割する意味が無い。「◯◯年代美術(アート)」なる言葉は、「(現代)美術は永遠ならぬもの」を、暗々裏に、大っぴらに、言明していると解して良いのかもしれない。

「ディケイド」による分割を仮に全面的に肯定する形で、「『現代美術』は『現代美術』の問題を問題にする」をより「詳細」に言えば、「『◯◯年代の現代美術』は『◯◯年代の現代美術』の問題を問題にする」という事になる。即ちここから導き出されるのは、「現代美術」に於いては「意匠」のみならず、その「問題」にも流行り廃りがあるという事だ。「問題」とそれによる「意匠」は、共に時々の特異点として「歴史」の中で顕在/潜在する。

例えば「『絵画』は『絵画』の問題を問題にする」時代が嘗て存在した。「嘗て」と言ったが、無論今だってそういう問題から制作を出発させている作家は大勢いる。しかし「いる」ものの、それは「10年代アート」の「潮流」として「ドミナント」な「関心」に基づく方法論ではない。「関心」の在り方の一形態である「問題」もまた、それが「関心」であるが故に「時の流れ」に抗えなかったりする。

「時の流れ」に「エントロピー増大」をセンチメンタルに重ね合わせる向きもあるだろう。しかし「エントロピー増大」の推移を「眺め続ける」者は多くはない。「消えて行く」という、一種の連続性のメタファーは、酔狂にもそれを「眺め続ける」者の視点からのみ得られる認識だ。

「問題」はセンチメンタルに「消えて行く」のではなく、或る日を境に別の何かに置き換わる。それはコンピュータの世界で言うところの「上書き」である。以前そこにあったものが「上書き」で「消えた」事を知っているのは、それを「記憶」する脳細胞の持ち主、即ち「人」なのだ。

そして「追悼展」は開催された。

【後編に続く】