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ブランド信仰

承前

永く「不遇」であり、永く「無名」であり、永く「清貧」であり、その末に周囲に「理解」されぬまま没したという画家がいたりするかもしれない。しかしそうした「不遇」で「無名」で「清貧」な画家は、それこそ世に「履いて捨てる程」いる。換言すれば、殆どの画家は、そうした画家としての「有り勝ち」な人生を送ると言って良い。

しかし、単に「目の前にあるもの」自体としての、「不遇」で「無名」で「清貧」であるものに対しては、人は注目などしない。それは映画や小説といった、「物語」としてパッケージングされた、アンリアルな「創作物」の中で扱われる「悲劇」に対する程には、すぐ目の前にいる知人や隣人を襲っているリアルな「悲劇」には殊更に関心を払う事も無く、且つその「冷淡」に対して、何ら精神的痛痒を感じないのと同じだ。パッケージングされた「物語」なら、幾らでも消費しよう。涙もしよう。但し「涙」以上のものを出すのは嫌だ。そして次の日には、そんな「物語」があった事を忘れよう。斯くて各々の「人生」は、他人の「人生」に飲み込まれる事も無く、日々無事に営まれる。「不遇」のパッケージ、「無名」のパッケージ、「清貧」のパッケージ。「不遇」「無名」「清貧」のブランド化。善男善女はそうした「物語」に留まる「伝記」のパッケージが大好物だ。

「美術評論」とは、多分に「伝記」的なものだろう。そもそもが「美術」そのものからして「『人』がやる事」だ。「美術」は「自然現象」では無いし、「動物」や「植物」の活動でも無い。「深山幽谷」も、「美しい夕焼け」も、「見事な営巣」も、それらは決して「美術」ではない。「美術」とは、畢竟「『人』として認められた」者による「行為」の結果である。

「美術」的には、「人類」ではあっても「人」として認められない者も存在する。だからこそ、例えば「アール・ブリュット」が、「美術」では、重要な「問題」たりえたりする。それは「美術」に於ける、「人」と「人以外」のボーダーラインを巡る「問題」だ。「人以外」とされてきたものを「人」に含めるか否かという「問題」。勿論それ以外にも、「美術」に於いては「人」と「人以外」の分節線は様々に引かれ、それはそのまま「美術」と「美術以外」の分節線とも重なる。

いずれにしても、「『人』がやる事」である「美術」の「評論」には、何よりも「人」の「名前」が欠かせない。「美術」は「目の前にあるもの」そのものよりも、「誰がそれをやったのか」が重要であり、「誰がそれをやったのか」が「判らない」アノニマスな者によって作成された対象、或いは「人」として認められない者によって作成された対象は、少なくとも近代以降の「美術」に於いては、その一事を以て評価するに値しないとされる。

作品の「展開」というのも、「名前」を持った「人」の、連続的な「人生」を前提とする。「A」という対象(作品)と、「B」という対象(作品)が、「目の前にあるもの」としては、それぞれが全くバラバラの印象を持つものであったとしても、作家の「人生」の「連続性」を担保にする事で、それらは強引に結び付けられ、そうした「目の前にあるもの」の「非連続」的な「差異」は、「展開」という「連続性」に変換されて語られる。他方、作家は作家で、そうした「展開」が、誰の目にも「連続性」として見える様に自らを律する。「連続性」の箍(たが)が外れた「展開」は、単なる気紛れな「差異」であり、従って「展開」とは呼ばない。

「美術」は、何よりも「連続性」であるところの「名前」が重要だ。「美術評論」で「名前」に言及せず、「名前」から論を展開しないものを読んだ記憶が余り無い。「伝記」に於ける「展開」という「連続性」を、「美術評論」は信じる。信じるからこそ、例えば「以前の作品に比べてどうのこうの」などという可憐な書き方が可能になる。「美術評論」を始めとする「評論」行為は、「名前」の価値、善悪、優劣等こそを論ずるものであり、従って「名前」を抜きにして「目の前にあるもの」について書く「感想」の様な事はしない。

翻ってそれが、「美術」というそれ自体が評論的な活動の在り方なのであり、恐らく現在の「美術」に於いては、「真」も「美」も「善」も、些かも「自明」でない一方、「人」の「名前」のみが「自明」なのだと思われる。恐らく「高級ブランド品でなくても、良いものは世の中に幾らでもある」という態度は「美術」的では無い。「有名作家でなくても、無名で良い作家は幾らでもいる」的発言は、「美術」的には胡散臭く感じられてしまう。

「美術」は「ブランド」の持つ「価値」を前提とし、その「ブランド」の「意図」をこそ語り、消費するものなのだ。「美術」は「ブランド信仰」の一つの形なのである。