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【Part2】


「外人 → 日本人」の第二弾は肖像彫刻である。


「アリアス」像が指し示す先にあるのは、「アリアドネ」というイデアールな存在である。仮に「彫刻家」が、制作時にレアールなモデルを前にしていたとしても、それは飽くまで一般化された「美人」を象る為の参考資料としてしか存在しない。「彫刻家」が実現化させたいのは「美しい女神」の「形象」なのであり、決してモデルとなった人物の「似姿」ではない。


しかし肖像彫刻の場合は、多少の修正や誇張といったモディファイを別にすれば、具体的な時間と空間を占めるレアールな個人を、それを見る者に対して想起させる為に存在し、それは実際に似ているか似ていないかは全く重要ではなく、語られるべき彼/彼女の人生から導き出された「姿」である必要がある。人はその彫像を見て彼/彼女の人生に思いを致らせる。肖像彫刻の「正しい」見方とは、モデルとなった人物の人生譚の周りをグルグルと回る事である。


選んだのは「モリエール」。いつもの様に Yujin のガチャガチャだ。



1622年1月15日に生まれ、1673年2月17日に死んだフランスの劇作家の肖像彫刻である。やはり多くの画学生を泣かせて来た石膏像だ。髪の毛部分を、髪の毛っぽく描けば「石膏っぽさが無い」とか言われ、石膏っぽく描けば「髪の毛っぽさが無い」などと言われの連続なのであり、しかも言ってみれば只のオヤジの彫像なので、描いていて少しも楽しくなかったりする。


原作はこんな感じだが、それはフランスの「大泉滉」にも見える。果たして「モリエール」を日本人化すると、そのまま「大泉滉」となるのであろうか。


例によって Phosothop の「ゆがみ」フィルタで、骨格を変形して日本人化する。するとそこに現れたのは、「大泉滉」ではなく「大泉洋」であり、何よりも「売れない文学者」である。



モリエール」と「森詠流」の違いは、顔の骨格や脂肪の違いにあるが、他にも硬そうな毛髪や、泥鰌髭や、肩幅が狭くて撫で肩な所も「再現」する。


先述した様に、肖像彫刻とはモデルとなった人物の人生を辿る。


日本人「森詠流」の人生。俳優「江守徹」の名は、「モリエール」から来ているとの事だが、この「売れない小説家」は、もっと直截に「森詠流(もりえいる)」などという筆名を使っていそうである。「森詠流」は、外出時にはいつもこの彫像に見られる服装をしている。それが文学者「森詠流」のアイデンティティの拠り所であったりする。「日本のモリエール」の位置に、自分自身を当て嵌める事こそが「森詠流」には重要だ。彼はパリに留学(ド短期)していた事が自慢だ。しかし外出時の足元は下駄履きであり、そこで「日本の文学者」である事を敢えて主張してみたりする。彼の書く物は「西洋文学史」に則ったとする高踏を気取った下手であるものの、それでも自分だけが「西洋文学史」の日本に於ける正嫡子であると、暗に/大っぴらに主張する。それでもこの国の「文学界」では十分に「先生」扱いだ。そうした人物は、実際に掃いて捨てる程存在している様な気もしないではない。恐らく「美術界」にも。


「森詠流」の特徴を総合すると、何かにつけて「おフランスでは‥‥」と言い、一人称は「ミー」であり、気取る為にか語尾には「ザンス」を付け、直毛ベースの長髪の毛先は跳ねてしまって纏まらず、眉や目は釣り上がり、頬骨は張り、泥鰌髭を無理矢理ピンとさせ、口蓋は前に飛び出し、その唇からも歯は飛び出し、「エー」と驚けば、その歯に空気が当たって「シェー」になってしまう人物に限りなく似る。本当に赤塚不二夫は天才だった。


この肖像彫刻は「森詠流」という人生を浮かび上がらせるのと同時に、「森詠流」が属する日本の「芸術界」という、この手の顔を持った人生の束を浮かび上がらせたりもする。


(2007年8月に書いたものを修正)


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