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シミュレーション・イズム

半ば「都市伝説」と化した話の一つに、小学校の卒業記念に、卒業生がプールの底に描いたキャラクターに対して、その版権を持つ米国系企業が、著作権違反であるとして訴訟をちらつかせて、結果的にその絵は塗りつぶされたというものがあった。

1987年7月10日のサンケイ新聞朝刊には、「プールの絵 著作権違反」「卒業記念のミッキーマウス」「ディズニー力作を塗りつぶさせる」と書かれた見出しがあり、そのヘッドラインには「小学校で卒業記念にと、子供たちが低学年用プールの底にミッキーマウスの絵を描いた。低学年の子らは大喜び。そこへ、ウォルト・ディズニー・プロダクションの社員が現れて『無許可でキャラクターを使われては困る。絵を消して欲しい』とクレーム。著作権法をタテにした強硬姿勢に学校側は泣く泣く消した。水泳シーズンを前に日の目を見なかった傑作。『子供に夢を売るはずのディズニーがそこまでしなくても…』と子供たちはがっかりしている。」と書かれている。

記事の本文中には、「ディズニーの著作権への強硬姿勢は徹底していることで有名。年間二千件無断使用を洗い出し、警察が交通安全運動や防犯運動に使った場合でも、使用を中止させるほど…。H(注:紙面では実名)校長は『子供たちが一生懸命にかいた絵。営利目的ではないのだから』と絵を残してもらえるように頼んだが聞き入れられず、とうとう六月中旬、泣く泣く塗りつぶして消した。」とある。

記事に掲載された写真を見る限り、恐らく教員による「指導」によって、極めて制御された描き方による、「イミテーション」であるとしか思えないミッキーマウスとミニーマウスの絵が、「小学校の卒業制作」に「相応しい」かどうかは兎も角、「営利目的」ではない「子供の絵」に対して「例外」を認めないディズニーに対して、特に嫌ディズニー、反ディズニーの立場に立つ者は、その容赦の無い姿勢を糾弾し、時に著作権問題と絡めて批判した。そしてやがて、それは尾鰭付きの話(概ね「美談」)にもなった。

これと「似た」様な構図を持つ「事件」が、数日前に報じられた。

アート作品「バッタもん」 ヴィトン社抗議で展示中止
http://www.asahi.com/national/update/0627/TKY201006260367.html

神戸市立神戸ファッション美術館で開催されている「ファッション綺譚」展に展示された「アート作品」に使用されている素材が、商標権を侵害するコピー品であるとして、ルイ・ヴィトン社が展示中止を求め、その「申し入れ」に対して、美術館を運営する神戸市産業振興財団はその翌日、作品の撤去を決定したという「事件」である。

バッタの形をした、問題となった作品のタイトルは、「バッタもん」というものらしい。記事中の表現を借りれば「大量消費社会におけるオリジナルとコピーの関係を考えさせるもの」というのがそのコンセプトなのだという。その表現を成立させているのは日本語による「地口」であり、「バッタモン」という日本語の意味を解さない者にとっては、永遠にバッタの形は謎のまま残る。但しそういう観客には、丁寧な解説が付くのかもしれない。

ホームページビルダーで作られた作者のサイトに行くと、「どこでも配置」的なレイアウトが迎えてくれる。推奨環境はWindowsIEのみだろう。

http://okamotomitsuhiro.com/

そこには"Louis Vuitton destroys culture!" と赤字で書かれている。そして "I wonder why Louis Vuitton cannot distinguish between artwork and fake name brand bags." とあり、それは新聞記事の「営利目的のコピー商品と同列に論じるのはおかしい」を意味するのだろう。これは1987年の小学校長の発言、「子供たちが一生懸命にかいた絵。営利目的ではないのだから」に通ずるものがある。ここでは「子供たちが一生懸命にかいた絵」と「artwork」は、共に「聖域」であり、「例外」であり、その意味で、この二つは「同じ」なのかもしれない。

「営利目的のコピー商品と同列に論じるのはおかしい」。ここから「『artwork』は『営利目的』の行為ではない」という仮説を導き出してみる。仮に物品としての「artwork」に「値付け」がされていたとしても、それでも「営利目的」ではないという仮説だ。そこには恐らく「値付け」に見られる「営利」を超えて余りある「高邁」があるのだろう。その「高邁」故に、市場的な「営利」は無視し得るとする。

しかしそれでも「名を売る」という形では「営利」的であると言えるかもしれない。それを「売名」と略してしまうと語弊がありそうなので、「名を売る」という形に止めておく。いずれにしても「作者名」とは、単なる識別子以上の「商品名」なのだ。それを否定するのならば、アノニマスでいるべきだろう。「アノニマス良品」という「修正主義」に陥らずに。

それとは別に、上記の「大量消費社会におけるオリジナルとコピーの関係を考えさせるもの」といった様な言い方は、アーティストの得意とするところである。アーティストは大抵そうした作品受容のシミュレーションを、意識的であるか無意識的ではあるかは別にして、常に行う。この作品を前にして、観客は雷鳴に打たれたかの様に、アーティストの意図するところを瞬時に理解する+筈。この場合は、ヴィトンやシャネルの「バッタ」を見て、「大量消費社会におけるオリジナルとコピーの関係」が瞬時に判る+筈という、「筈」の見積=算用=シミュレーションだ。

果たして「美術」が、そうした「伝達」に適したメディアであるのかどうかは判らない。「美術」が観客に、アーティストの意図するところを「完璧」に「伝達」し、それを観客が「完璧」に「理解」する。そうした「筈」と「実際」が一致する様なシミュレーション・イズム(見積主義)の成功事例が、どこかに存在するのかもしれない。

しかしそうした事はなかなか起きない。従ってアーティストは、「筈」と「実際」を近付ける為、日夜「牽強付会」を作品と共に生産するのである。