理不尽

何故、ゴジラの「エピソード1」は「夜」のシーンが多いのだろうか。それには映画制作上の数々の「事情」もあるだろう事は想像に難くない。要するに、暗ければ「粗が見え難い」という、そうした事情が無いとは言えないだろう。

しかしそれは、結果的に「ゴジラ」という「怪物的存在(≠怪物)」の表現に大きく寄与したと言える。「怪物的存在」は、何よりも「見えてはならない」のだ。夜の闇に溶け込む形で「エピソード1」の「ゴジラ」は「登場」する。それは「怪物」そのものであるよりは「怪物的な夜」として現れる。

東京に上陸する前の「ゴジラ」の姿が露わになるのは大戸島(ロケ地 鳥羽石鏡)の「ゴジラ坂」から顔を覗かせるシーンだが、その時の「ゴジラ」は、東京の「怪物的存在」とは程遠い、寧ろ「ひょっこりと現れた大型動物」感に溢れている。映画の画面ではそれなりの大きさにトリミングされているが、しかし「実際」の白昼のそれは、広々とした青空の下「実際」は「点景」にも見えた事だろう。それも確かに「恐怖」には違いないが、しかしそれは巨大化したイノシシ(例)の恐怖に近い物がある。何を考えているか判らない大型「動物」に突進されてきて、踏み潰されたら嫌だ的な。

東京の「怪物的存在」は、その映画の9年前の3月10日、午前0時7分から始まった「夜間爆撃」の記憶に基づくものである事は想像に難くない。その日の「恐怖」の「原因」は、「対象」化され、「形象」化され、「アイコン」化される事は無い。大型爆撃機は遙か上空。焼夷弾の形が見える筈もない。「恐怖」の淵源は、その「原因」自体には存在しない。

映画公開の直前の「第五福竜丸」もまた、その「恐怖」は、「対象」化され、「形象」化され、「アイコン」化される事は無い。キノコ雲の「形象」と、放射線被曝の間には、繋げようとしても繋がらない「距離」が存在する。15メガトンの「ブラボー」、そして「リトルボーイ」や「ファットマン」の「アイコン」は「恐怖」の対象ですらない。

夜陰に紛れる「怪物的存在」。それは夜間爆撃同様「理不尽な夜」の「恐怖」であり、寧ろその「恐怖」は、安手の「アイコン」に落とし込まれる事を永遠に拒否するだろう。しかし現実には、「エピソード2」以降、そうした安手の「スター・恐怖のアイコン」がスクリーン狭しと暴れ回る映画に変質した。未だに「ゴジラ」と言えば、それを「隠す」方向のアイディアは生まれてこない。兎に角「スター・恐怖のアイコン」を画面に出したくて仕方のない人達ばかりなのだ。

古くからの友人が、東宝の操演をやっていた。彼の最後の仕事は「モスラ(1996年)」の羽を動かす仕事だった筈だ。スタジオの天井付近の台車に這いつくばってワイヤーを操作する。「東宝には『この道一筋』の、『人間国宝』みたいな人が沢山いて、操演もその一つ」「特撮大プール背景の雲も見事」。友人はそう言った。それは良く知っている。自分も東宝砧スタジオに縁が無かった訳ではない。そうした「伝統」の存在は知っている。

見せようとする技術が特撮(その延長上にあるCG)であるならば、「人間国宝」が生まれてしまう程に「伝統」化した特撮が、「怪物的存在」を、単なる「怪物のアイコン」へと変質させる事を後押ししてきたとも言える。「対象」化し、「形象」化し、「アイコン」化する技術である特撮やCGが最も不得意とするものが、「エピソード1」の東京に於ける「理不尽」の「恐怖」だろう。「エピソード1」はその意味で、「理不尽としての恐怖の形象化」の可能性と不可能性の間にある。

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昨日の「G2010」の「あらすじ」には入れなかったエピソードとして、被爆した美術品の扱いの場面がある。当然それは、放射能半減期まで「公開」される事はないだろう。「放射能」ルートの竹橋や上野の美術館で、ドラム缶に詰められた美術品が、都内某所に新設された、日本原燃の「低レベル放射性廃棄物埋設センター」に運ばれ、コンクリートピットに埋設処分、或いは海底深度の深い海溝に送られるというシーンもまた「理不尽」の「恐怖」なのである。