読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

恐怖の形象

数日前の話。

日曜日にクルマで移動中、TBSラジオの「爆笑問題の日曜サンデー」を聞いていた。無音に絶え切れなくなった時にチューニングしたりする。太田光氏には芸術系大学卒業生の「典型」を常に感じる。その意味で、太田光氏には何の目新しさも感じない。彼の上滑りに、芸術の上滑りを重ねあわせてみたりする事もある。太田光氏は、その「パフォーマンス」自体を問う以前に、それ自体が既に「症例」的であり、寧ろその「症例」をこそ評するべきなのだろう。

この日の番組のゲストは佐野史郎氏。そこで「もう一回作って欲しい映画」としてその名は出た。佐野氏はその映画の「ファン」である事を自他共に認めているとされる。その映画は一種の「シリーズ物」であったが、広く「エピソード1」以外は「駄作」であるとされている。確かに「エピソード1」は「恐怖の形象化」の映画であったが、「恐怖の形象」が「スター」になると見込まれた2作目以降は、単なる「スター・恐怖の形象」が、画面の中をうろうろと動き回り、そこにその時々の当世風俗が、恣意的に絡まる映画へと変質したと言える。以来その「スター・恐怖の形象」と、その勧進帳的演目は数十年継承され、それが「駄作」の山を築き上げる結果になった。

佐野史郎氏は「もう一回これを作って欲しい」と言っていたが、「スター・恐怖の形象」を継承する限り、その映画の失敗は、常に約束されているだろう。「やはりモノクロでないと」とも言ったが、問題は全くそこには存在しない。「スター・恐怖の形象」を残したままで、何をどうしようとも、最早「スター・恐怖の形象ファン」の為の物以上にはならない。

寧ろ、誰もが良く知っている、良く知られ過ぎている例の「恐怖の形象」こそ、この映画の成功の為には葬り去らねばならない。常に図られる「恐怖の形象」のマイナーチェンジやモデルチェンジの全ては無意味だ。最早「恐怖の形象」そのものが捨て去らなければならない。

【続く】