引込線2017

2008年に行われた「所沢ビエンナーレ・プレ美術展2008 —引込線—」(以後「プレ展」)から始まった「引込線」。10年目となる今回の「引込線 2017」(以後「2017展」)は、その第6回目だという。

f:id:murrari:20171019121223p:plainプレ展

2008年の「プレ展」と、翌年2009年の「第一回 所沢ビエンナーレ美術展2009 —引込線—」(以後「第2回展」)(注1)は、西武鉄道所沢駅西口の旧西武鉄道車両工場で行われた。私鉄には極めて珍しく、自社で鉄道車両の製造業務を行っていた工場の跡地だ。同工場は旧陸軍立川航空工廠所沢支廠跡地をGHQから借り受けた事から始まる。初期の主な業務は空襲によって被災した車両(国鉄の「戦災国電」含む)の修繕復旧というものであった。

(注1)同展の正式名称は「第一回 所沢ビエンナーレ美術展2009 —引込線—」であるが、今回の2017展が「第6回」と銘打っている為に、そこから辿る形で「第一回 所沢ビエンナーレ」を「第2回展」とする。

1981年に所沢駅西口周辺の再開発計画に組み込まれた同工場は、2000年に業務を終了した。プレ展と第2回展が行われた建物は2014年から2016年に掛けて解体され、敷設されていたアスファルトやコンクリートが撤去された後、土壌汚染対策法で定められた基準値の110倍のテトラクロロエチレンと基準値の3.5倍の鉛が検出された汚染土も「処理」された。現在そこは所沢駅西口土地区画整理事業施行区域になっていて、ようやく昨年その都市計画が発表される。数年後にはそこに29階建の高層マンションや高級ショッピングモール、公園等が出来るらしい。

凡そ40年越しの所沢西口周辺再開発だが、しかし40年という歳月は再開発が意味するところをすっかり変化させてしまった。子供は減り、老人は増え、経済は縮小し、税収も減り、住宅需要が縮小して空き家が増え、仕舞屋も増える(注2)。平成とは異なる元号となった所沢駅から徒歩数分の高層マンションに住み、隣接するバリアフリーの高級ショッピングモールで買い物をする人々の平均年齢はその時どの位であろう。都市の中心部に高齢層世帯、郊外や周辺部に若年層世帯という見慣れた構図は、ここ所沢市もリフレインされるのだろうか。

(注2)プレ展や第1回展のステートメントで企画者が嘆いていた「バブル期以降の美術をめぐる経済の肥大と衰弱」は、こうした大きな流れに接続している細流の一つである。そして当然の事ながら、この40年間に「美術作家」「評論家」「展覧会」「作品」の意味も大きく変化している。

2011年の「所沢ビエンナーレ『引込線』2011」(以後「第3回展」)は、現下の投機的対象として地価上昇中の東住吉の旧西武鉄道車両工場を離れ、地価がその数分の1の所沢市生涯学習推進センター(旧所沢市立並木東小学校)(注3)と旧所沢市立第2学校給食センター西武鉄道航空公園駅」下車)の2会場になる。小学校が生涯学習センターになり、集中化による施設維持管理や人件費削減がメリットだった学校給食センターが廃止されてしまうのは、子供が減って老人が増え、食に対する意識が変化したという状況の反映である。

(注3)所沢市立並木東小学校は、1983年に同市立並木小学校(開校1979年:2016年度生徒数237人)の生徒数が1000人を超えて手狭になった為に、隣接する同市立並木中学校を挟んで東に200メートル隔てた地に分校化され1984年に開校した。しかし開校5年目の1988年から生徒数が減り始め、開校から22年目の2006年に閉校。旧所沢市立第2学校給食センター近傍の同市立中央小学校(同市立中新井小学校と統合:2016年度生徒数404人)へ移転。中央小学校は初年度後期より給食センター供給方式から自校給食になる。現在は同市立小学校の約半数(15校)が、自校給食(含む「親子方式」)へと切り替えている

所沢市生涯学習推進センターは、今回の「引込線 2017」のサテライト会場(多目的室)でもあったが、この時は体育館とプールで展示が行われていた

2011年の第3回展で遠藤利克氏、高見澤文雄氏、山路紘子氏が展示していたプールを6年ぶりに訪れると、果たしてそこは「除染土壌仮置き場」になり、上部には有刺鉄線が張られていた。6年前にプールの横にあった「中国帰国者定着促進センター」も2016年に閉所している

f:id:murrari:20171019121833p:plain2011年

f:id:murrari:20171019121857p:plain2017年

プールの向こう側にアメリカ第5空軍374空輸航空団所属の「所沢通信基地」のアンテナが見える。生涯学習と除染土壌と97万平方メートルの広大な米軍基地が隣り合わせているという風景。

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そもそも1979年開校の並木小学校も並木中学校もこの元並木東小学校も、1978年に第2次返還された元米軍基地の敷地であり、また終戦後にアメリカに接収されるまでは日本最初の航空機専用飛行場である陸軍所沢飛行場だった。

所沢飛行場は1910年(明治43年)臨時軍用気球研究会の研究試験場として始まり、翌年に陸軍の飛行場として発足する。その後同飛行場は軍事基地色を強めると共に拡張を重ねて行く。満州事変から2年後の1933年(昭和8年)には、飛行場周囲の土地に対して、軍用機の不時着陸の障害物となる住宅や桑等の樹木を強制撤去し耕作地とする「愛国耕作地」が設定される――現在の所沢市生涯学習推進センターの一部、旧所沢市立第2給食センター近傍のヤオコー所沢北原店の一部、松屋所沢北原店等もそこに含まれている――ものの、それも第二次世界大戦大戦末期1944年(昭和19年)の拡張によって全て飛行場に飲み込まれている。同飛行場及びその周辺――旧所沢市立第2給食センターがある中富も――は、大戦時に米軍による空襲を度々受けている。1944年11月24日には所沢の飛行第73戦隊が、東京を空襲したB29を四式戦による特攻作戦で迎え撃っている。

第3回展の第2会場だった旧所沢市立第2学校給食センターは、2013年の「引込線2013」(以後「第4回展」)から単独会場になり、現在の2017展に至っている。そしてその旧所沢市立第2学校給食センターの背後には、畑と幾つもの霊園とくぬぎ山がある。

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第4回展から、展覧会名の「引込線」の前に「美術作家と批評家による第n回自主企画展」という同展の説明文が加えられている。そもそも同展はプレ展から、それが「自主企画展」である事を謳っていた。プレ展や第1回展のステートメントに於ける「表現者の原点に還って作品活動のできる場をつくること」というのはその表現の一つだろう。

「自主企画展」を分解してみると「自主」と「企画」と「展(覧会)」になる。するとそこで直ちに問題として浮上するのは、「自主」とは何か、「企画」とは何か、「展(覧会)」とは何かという事になる(注4)。仮に「自主企画展」を謳う者にとって、「自主」が「自明」なものであり、「企画」が「自明」なものであり、「展(覧会)」が「自明」なものであるとしても、今般は「自明」視されているものそれ自体に対する「説明」が必要とされる時代だ。21世紀にあっては「『自明』とされているから『自明』なのだ」というトートロジーは許されなくなっている。それらは何故に「自明」とされ、その「自明」の及ぶ範囲はどの程度のものであり、それが誰にとっての「自明」であるのかが常に問われる。

(注4)それにリンクして「美術作家」や「評論家」や「作品」とは何かも問われる。

「引込線」が始まった10年前とは異なり、「アート」を可能にする重要な根拠の一つである「パブリック」は既に「自明」なものではなく、「アート」の理念たる「デモクラシー」もまた「自明」なもので無くなって久しい。「パブリック」と「デモクラシー」のものである「アート」が「自明」なものであった時代はとうに過ぎ去ってしまった。現在それら「パブリック」「デモクラシー」「アート」は、再び多くが信じるに足るものになる為の「技術」的「メジャー・アップデート」の真最中にある。

仮に「自主企画展」の「自主企画」が、自らの「作品活動のできる場」の、「美術作家」自らによる確保といった意味に留まるものであるならば、それは21世紀の「展覧会」(グループ展)としては些かナイーブに過ぎると言えなくもない。取り敢えずどこでも良いから「作品活動」の「容れ物」を「自主」的に確保し、そこに「自主」の「作品」を運び込んで、「自主」による「手配」をしつつ、その「自主」が対応可能な「他者」に見せる事を「自主」の「企画」とするのは、今日の「展覧会」(グループ展)が求められているものに対して極めて「イノセント」、或いは「クラシック」過ぎるスタンスと言える。「自主企画展」の「企画」は、「プランニング」としてのそれではなく、寧ろ「企画画廊」的な意味での「プロモート」(注5)を意味している様に思える。その「セルフ・プロモート」的な「企画」という言葉の使用のされ方に、同展の「美術作家」や「評論家」が「企画」をどの様に捉えているのかが現れている。

(注5)「引込線」のカタログ(2015年版)に掲載されている「自主企画」の奥村雄樹氏による英訳は、“Self-Organized Project" となっている。しかし「オーガナイズ」は、「構造」的に「総合」する意志の存在と、それに基づく「構想」が不可欠だ。

美術館やギャラリーの「展示室」は「容れ物」として特化した装置であり、その「容れ物」の中は取り敢えず「同一的」に「均質」な「空間だ。確かにその「均質」な空間の中であっても、「展示室」の特定の場所に「作品」をインストールすれば「作品」としてより効果的に見える/より効果的に見えない等々といった様な「展示技術」的な意味での「不均質」は存在するものの、しかしそれは飽くまでも「同一性」が担保されている「美術」の「容れ物」の空間中での「差異」でしか無い。

一方そうした「容れ物」以外の全ての場所は、様々な意味で原則的に「均質」な空間を生存の条件として欲する「美術」が生息するのに適していない「非均質」な空間である。そうした場所では、物が数センチ移動しただけで、それが持つ存在的な意味が全く変わってしまうという事が常に起きる。「『作品』が『場所』を変容させる」という言い回しは「美術」の人間から常に発せられる常套句/定型句であるが、その一方で「『場所』が『作品』を変容させる」という事実は「美術」の人間からは余り顧みられない。

例えばこういう事を考えてみる。2011年の第3回展に於いて、所沢生涯学習推進センターのプールに遠藤利克氏、高見澤文雄氏、山路紘子氏が「作品」をインストールしていた事は先に述べた。そしてその「会場」が現在は有刺鉄線と鉄柵扉で仕切られた「除染土壌仮置き場」になっている事も記した。その「除染土壌」が、「除染された土壌」ではなく「某ホットスポットを除染した結果、運び込まれて来た汚染土壌」の略であるとしたら、有刺鉄線/鉄柵扉を挟む事によって生じている分断は、そのまま他の場所で生じている分断と相同なものにもなるだろう。

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その事を踏まえた上で、2011年の第3回展でプールにインストールされた「作品」を、2017年に「除染土壌仮置き場」となったプールの南側に移動させてみる。たった20メートル程の極めて単純な平行移動だ。2011年に「倉庫」にインストールされていた作品は、「倉庫」と全く同じ大きさの「仮設展示室」を作ってその中で展示する。作品は当時と同じのもの、若しくは再制作を以って――20メートルを移動したという以外は――極力「再現」する事にする。

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2011年時

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「均質」な空間内での20メートルの移動であれば、「作品」はそれが持っているとされる意味を変化させる事無く「再現」されるだろう。しかし、こうした「非均質」で「多様的」で「多元的」な空間内での20メートルの移動は、「作品」が全く「同じ」ものであったとしても存在的な意味は全く変化してしまう。それは「均質」空間でこそ可能になる様な単純な「再現」にはならない。「周辺環境」との「関係性」や「異化効果」的な側面に於ける変化以上の意味的変化がそこにはある。2017年に於ける所沢市生涯学習推進センターのプールが、来場者の「作品鑑賞」を可能にしていた第3回展時のそれとは根本的に異なった空間になっている事を、たった20メートルの「作品」の移動は明らかにするだろう。

「非均質」な空間に「作品」を設置するという行為自体が既に「政治的」なものである以上、全く「政治的」に見えない「作品」であっても、こればかりの操作で「作品」がインストールされている場所の持つ「政治性」を明らかにする事が出来る。良かれ悪しかれ「人間の空間」が「人間以外の空間」と異なるのは、そこに様々な分節が存在するからだ。「人間の空間」の分節の「同一性」を意識しない、多様的であり多元的であり、自らを取り囲むものと自らに備わっているもののその都度のアレンジメント的存在である動物だけが、有刺鉄線や鉄柵扉の向こう側に行く事が出来る。20メートルの移動によって、人間は想像の中で動物になる事で分断を乗り越えようとする。

その一方で、「作品」や「美術作家」自らが属している「政治性」もまた20メートルの移動で明らかになる。例えば「仮設展示室」を、テレビ番組制作の専門家に依頼するなどして、エージングまで施した「本物」の「倉庫」と見紛う舞台セットの中で「作品」を展示するのも「政治性」の一つの現れであるし、コンパネ貼りでフィニッシュとしたそっけない箱の中で「作品」を展示するのもまた別の「政治性」の現れであるし、その部屋の中を白く塗って「展示室」としてしまうのもまた良くある「政治性」だ。「ノンポリ」であっても「イマジン」であっても「隠遁者」であっても、それが「政治性」の選択である事には変わりが無い。

「美術」に於ける「企画」とは、「作品」が属している「世界」を、他の「世界」との「間」に置く事で、逆説的に他の「世界」が、「作品」が属している「世界」との「間」にある事を、「展覧会」という形で表し示す行為を言う。それぞれの「世界」は、決して合致する事の無い複数の経験だが、しかしこの〈世界〉はそうした無数の「世界」の絡み合いによって構成されている。

当然或る「世界」から見えているものと、別の「世界」から見えているものは異なるものの、その交錯点ではそれらが多次的に重なり、説明不可能な何かとして見えて来る。所謂「自主企画展」に欠けているのは、こうしたものに目を向ける「企画」の力であり、それ以前に「間」の「世界」である「自主」に対する批判的視点である。それはそもそも「自主企画展」として始まり、現在もその性格を色濃く残す多くの所謂「公募団体展」も持ち得ていないものだ。

アダム・シムジックやカスパー・ケーニッヒの様な人達が、日本やアジアやアメリカの近現代史を始めとする無数の経験の交錯点――それは何処でも同じだが――である所沢――キーワードは「311」「環境」「戦争」「未来」等々幾らでもある――に来たとして、彼等は「展示室」的ではない旧所沢市立第2学校給食センターでどの様な「展覧会」を「オーガナイズ」するだろうか。勿論「自主企画展」は彼等の様な存在を敢えて必要としない――所謂「公募団体展」がそうである様に――スタンスを採るものであるが、であれば、それに代わるものを示さなければならない必要性は「展覧会」として生じる。

「展示室」ではない複数の経験の交錯点である、凡そ「容れ物」とは言い難い場所を「会場」(注6)とし続けて来た「引込線」だ。本来的にはそこは「空間を活かした展示」等といった「展示技術」レベルで留まってはならない場所であり、敢えて言えば「空間を活かした展示」で自足してはならない場所だ。今後も引き続き旧所沢市立第2学校給食センターで「引込線」が行われるとするならば、「恒例」化してしまった「会場」(注7)という印象を払拭する為にも、少なくとも「自主企画展」の「自主」「企画」「展(覧会)」それぞれの抜本的な「メジャー・アップデート」が求められる事になるだろう。

(注6)但し「会場」という言葉自体、そこが「容れ物」である事を前提としてしまっているところがある。

(注7)「公募団体展」に於ける「東京都美術館国立新美術館」の様な「会場」化が「引込線」に起きつつある。

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所沢市立第2学校給食センターの「在りし日」を思い起こさせる所沢市立第3学校給食センターの日常業務。

「美術作家と批評家による第6回自主企画展」である。

しかし「美術作家」や「批評家」であっても、同時に「お父さん」や「お母さん」の側面を持つ者もいる。「美術作家」や「批評家」で、時にSNS辺りで「これから労働なう」的に「生業(なりわい)」――教育業含む――に就く事を逐一報告してくれる者もいる。一人の人間が、時に互いに矛盾しもする複数の経験の交錯点であるならば、些か戯言めくが「お父さんとお母さんと子ども(注8)による自主企画展」や「労働者と事業者による自主企画展」といった括りで「展覧会」を開催する事も可能ではある。

(注8)誰もが誰かの子どもである。

「引込線」は「美術作家」と「批評家」の顔のみが見える「展覧会」だ。マネキン作家中学生入墨の彫師等といった「美術」の「外部」に「同時代」的に生きている者の参加が、「展覧会」の重要な要素ともなっている昨今からすれば、極めて珍しく「純度」が高い(注9)ものと言える。

(注9)「純度」を高くするには「排除」が必要になる。

仮に同展の「純度」を低くして、「美術作家と批評家による自主企画展」という縛りを外してみれば、この旧所沢市立第2学校給食センターで行われる「展覧会」では様々な試みが出来るだろう。例えば上掲給食センターの動画を、単純なドキュメント――「作品」ではなく――として、元調理場空間に設えた巨大スクリーンに上映するというのはその一つになり得る。

また厨房機器メーカーを他の「美術作家」と同じ「参加作家」の一つとし、2009年で時間が止まった旧所沢市立第2学校給食センターで、「展示会」宜しく自社新製品のデモンストレーションを行って貰いつつ、同時に同所に残された古い厨房機器の数々と、そこでの労働について語ってもらうという事も考えられる。

或いはその厨房機器で、美術館の内覧会やレセプション等の立食パーティーで供されるお喋りの「付け合せ」的な料理を、数人の労働者が――上掲給食センターの動画の様に――巨大な杓文字を全身を使って撹拌したり、延々と下拵えをしているところを可視化させつつ、立食パーティーを模した設えでそれを観客に振る舞い、観客はそれらの汗みどろの労働を背景にして「メインディッシュ」である美術談義に花を咲かせるという展示――「食」の産業的側面を「美術」をも絡める形で見せるという点で、「リクリット・ティラバーニャ」よりも遥かにダイナミック且つクリティカルである――があっても良いだろう。

それは「美術作家」が「食」(注10)について「考察」した「作品」を見せられるよりも、遥かに具体的に「食」についてのイメージを膨らませる事が出来る。そして厨房機器の「展示会」とは異なる「展覧会」で、「食」の生産の実際の稼働状況――給食センターの業務や、厨房機器のデモンストレーション――を見せる事のメリットは、それらを複数の経験の交錯点とする事で、労働や経済や政治等を含めた「世界」の全体系を想像する事による、地に足の着いた批判性の獲得に繋がる事にある。経験の複数性に自らの身を投じる――「複数の経験を利用する」ではない――事で、「純粋」から脱して「不透明」に生きる「覚悟」こそが、現下の「美術」には求められているのだ。

(注10)「美術手帖」2017年10月号の特集は「新しい食」だった。

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会場を一巡して感じたのは「平和」な展覧会というものであった。或る参加作家に聞いたところでは、同展で「作品」をインストールする場所の選定は、各作家の「ここが良い」という「場所取り」で何となく決定されたという。参加作家選定の実際の一端も聞いた。何となく集まり、何となく集められ、何となく区割りが決定し、何となくグループ展が成立し、その何となくを “Self-Organized Project" とするという「奇跡」がここにある。

作家の選定、作品の内容、それがインストールされる場所などについて、「注文」という「暴力」を働く「主体」(例:「キュレーター」)の存在はここには無い。全ては「平和」の内に事が運んでいる様に見える。しかしそれは、「異物」の存在が予め排除されているが故の「平和」であるのかもしれない。

本来「グループ展」に於ける「作品」は、その「作品」の作者の「個展」とは大きく異なる見方をされる。「グループ展」で何よりも可視化されるのは「他者」との関係だからだ。「グループ展」は、複数の主体=複数の経験が集まって構成されている「世界」の「模型」でもある。

「グループ展」であっても「個展」会場の様に「一部屋」(「パーティション」含む)を与えられている例も無いでは無いが、それも「他者」との関係に於ける相対的位置をしか示す事が出来ない。他者の「作品」が、自分の「作品」の「ノイズ」であるのは「グループ展」に於いては避けられない。であるならば、「グループ展」は、時に「脅威」的「ノイズ」としてより立ち現れるかもしれないものとしての「異物」を含めた「共生」の一つのモデルとして、積極的な形で成り立ち得るとも言える。即ち「グループ展」というのは、それだけで社会学の対象なのだ。

この「平和」な空間内に於いて、確かに「共生」は成立しているかに見える。その「共生」は何に基いているものだろう。互いに互いを「利害」が一致する「仲間」=「美術作家と評論家」=「似た者同士」として認めた上で、それぞれが他者を「無関心」の対象とする事による相互不可侵的な「共生」だろうか。或いは互いが互いの領分を越境する事を認める「共生」だろうか。「共生」のルールは予め決定され「洗練」され尽くしているものだろうか。それとも絶えず更新され続けるものだろうか。

些か「平和」当たりして外に出ると、やはり「平和」の空間から逃れて来た様な人がいて、クルクルと円を描いて歩いていた。

水野亮氏はこのクルクル回る人を「引込線2017」に於ける「異物」の一人と評している。

これまでの「引込線」に圧倒的に欠如しているのは「異物」が「暴力」的に現れる事である。次回の「引込線」もまた「平和」なものになるのだろうか。

やわらかな脊椎

大寺俊紀+乙うたろう「やわらかな脊椎」展の周回軌道上をグルグルと周る。

尚、同展の作品はバッテリー上がりの為に撮影していない。下掲レビューや、美術手帖2017年10月号の副田一穂氏の月評(208〜209ページ)等に掲載の画像/写真を参考にして欲しい。

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大地(注1)がどうやら球体(注2)らしいと認識され始めたのは紀元前6世紀の頃だという。あのピュタゴラスにその創始者たる伝説的栄誉を持たせようという見方もあるにはあるが、それを証明する証拠が無い為に本当のところは判らない。しかし紀元前5世紀に至ってピュタゴラス派がそれを明文化したとされている。

(注1)日本語の「地球」という単語は、幕末期から明治期に中国から伝来した。その中国語の「地球」は、ヨーロッパから中国に大地球体説が伝えられて以降に誕生したものだ。

(注2)現在では「ほぼ球体」とするのが「正しい」。


「ほぼ球体」の大地は、その内部でマントル対流外核対流の二つの対流が生じている「やわらかな」ものだ。「やわらかな」ものであればこそ磁場も形成される。その様に「やわらかな」ものの上にあれば、「ほぼ球体」上のどこであっても「震え」もするのは当然である。


大地に対する認識が2次平面から3次曲面へと徐々に移行するのと並行して、大地の記述である地図の精度は地図作成者の生活圏を中心に上がって行った。但しヨーロッパとその周辺部は精緻化する一方で、アフリカとアジアは極めてラフな描写で永年済まされていた。オーケアノスで囲まれていようがいまいが、地図の周辺部及びその外部は黙殺の対象だった。

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ヘカタイオス(紀元前550年頃 - 紀元前476年頃)の地図

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エラトステネス(紀元前276年-紀元前194年)の地図

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プトレマイオス(83年頃 - 168年頃)の地図

やがて航海テクノロジーの発達等により、球体である大地の世界一周が現実的に可能になり、世界の隅々までを詳細に記述する必要が生じるにつれ、地図は終わり無き難問に直面してしまう事になる。3次元の球体である大地を、2次元の平面である地図にどの様な形で落とし込むかという難問だ。

勿論全ての地図が球体であれば話は極めて簡単である。大地の相似形である球体の地図=3次元地図である地球儀は、そうした難問から基本的に逃れられている。しかし壁に貼る事が出来る、机の上に広げる事が出来る、本に挟む事が出来る、モニタ画面に表示する事が出来る、携帯に適している等といった取り扱いの利便性に関しては、平面の地図=2次元地図の方が圧倒的に有利だ。利便性を正確性よりも優先させてしまう選択が、現在に至るも解決されない――される筈も無い――2次元地図の難問が生じてしまう原因である。斯くして数々の投影図法というトリックが生まれる事になるも、当然の事ながらそれらの図法のいずれもがトリックであるから、面積、角度、距離を同時に全て正確に表示する事は出来ない。即ちそれらはどの地図も完璧には正確なものではなく、相対的な「正確」の気分を得る為のものである。

現在最も我々が見慣れているだろう投影法はメルカトル図法ミラー図法等といった円筒図法だ。

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メルカトル図法

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ミラー図法

小学校の教室に貼り出される地図の殆どは円筒図法のそれだ。それ故にメルカトル図法やミラー図法で育った我々の世界像は、知らず知らずの内にそれらの円筒図法を刷り込まれ歪められていたりもする。グリーンランドやロシアやアラスカやスカンジナビア半島やノヴァヤゼムリャ列島や南極大陸を実際以上に広大なものとして思い込んでしまったり、飛翔体の射程距離を円筒図法の地図上に同心円で表してしまったり、円筒図法上の直線が最短距離であると誤解してしまったりといった悲喜こもごもが日々繰り広げられている。

Google Map を始めとする多くのWebマッピングシステムもまた、メルカトル図法の派生形である Web メルカトル図法によって描写されている。オンライン地図をズームアウトすれば、あの見慣れた巨大グリーンランドや、地図の下端を帯状に占める巨大南極大陸に再開出来る。

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© OpenStreetMap

オンライン地図もまた、極に近付くにつれて歪みが指数関数的に増大するメルカトル図法の一種である為に、任意の点で上端・下端を切る必要があるが、多くのオンライン地図に共通しているのは、北緯、南緯共に85.051129度でカットするという設定である。その理由は偏に描画や通信等の効率を優先させる利便性にある。

Web メルカトル図法に於ける最大の特徴は、地図が表す世界全体を256✕256 pixel(注3)の正方形と設定した点にある。その結果、正方形の上下、即ち北緯/南緯85.051129度より高緯度の地域はカットされてしまう事になるが、しかしそこには人間が住んでいないが故にニーズが極端に少ないという理由で「世界の外部」と見做している。即ちネット上の地図サービスの図法は、或る意味で紀元前の地図の再現となっているのだ。

(注3)“256" という数字、即ち2の8乗(8bit)は、2進法に生きるコンピュータにとっては極めて「切りの良い」数字である。「GIF 画像」が256色であるのも、所謂「フルカラー」が16,777,216(2の24乗=24bit)色であるのも、全てはコンピュータにとって「切りが良い」という理由による。

後はその256✕256 pixel の「世界全図」を縦横1/2、面積比で1/4に分割し、そのタイルをまた同様に分割して行き、それをクライアントからズームの要求のある毎に、256✕256 pixel の相対的に高解像度の画像と順次切り替えていく。それこそが Web メルカトルがオンライン地図の描写に於ける効率的勝利者たる根拠になっているのである。

円筒図法の最大の難点は、極点に近付くにつれて面積が無限大に近付いてしまうというものだった(注4)。円筒図法に於いて、極点の描画は現実的に不可能だ。

(注4)ゆるキャラ「地球くん」をメルカトル図法で現したらどうなるだろう。

しかしそうした円筒図法の「限界」を逆手に取った “Mercator: EXTREME" というオンライン地図サービスがある。

http://mrgris.com/projects/merc-extreme/

これは地球上の任意の点を極点(初期画面はボストン)にして、それを射軸メルカトル図法で表すものだ。開発者の説明に “whereas others avoid the distortion, we embrace it."(他の人が歪みを避けるのに対し、我々はそれを喜んで受け入れる)とある様に、歪みが極まった極点、即ち本来黙殺の対象である「世界の外部」を画面の右側に極大化し、敢えて歪みを歪みとして表示する地図である(注5)

(注5)エクストリーム・メルカトルの元データはオンライン地図のそれである為に、「リアル」な「極点」である「北極点」と「南極点」は指定する事が出来ない。

試しに「柔らかな脊椎」展が行われていた CAS を「世界の外部」にするとこうなる。

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因みにエルサレムのゴルゴタの丘を極点にするとこうなる。

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「極点」が幾許かでもずれれば、地図の様相は大きく変化する。「極点」がどこにあるか――私がどこにいるか――で世界の見え方は大きく変わる。

「メルカトル:エクストリーム」の開発者による解説を再び引けば、それは “... all the way from the human scale, to the global scale... It really creates this "center of the universe" feeling"(人間のスケールから地球規模に至るまで、それは正真正銘『宇宙の中心』の感覚を作り出す)のである。そしてあの “THE NEW YORKER" 1976年3月29日号の、ソール・スタインバーグ(Saul Steinberg)による、ニューヨーカーの独善性を皮肉ったとも評される表紙絵、“View of the World from 9th Avenue"(9番街から見た世界)が引き起こす感覚の数学的具現化(mathematical embodiment of the sentiment)とも言っている。

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開発者は冗談交じりにこうも言う。“the extreme Mercator is an excellent way to visualize long-distance driving routes"(エクストリーム・メルカトルは長距離の運転ルートを視覚化する優れた方法だ)と。確かにカーナビやポケモンGO 等の画面にはこの図法が最も適しているかもしれない。それを見る極点としてのドライバーやプレイヤーという主体は、「中心」であると同時に、極大化した歪みを持つ世界の「辺境」なのである。ヘカタイオスやエラトステネスやプトレマイオスがそうだった様に。

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アニメーションは2次元表現ではあるものの、描画されたものに運動を与える事で表現が成立するという性格上、そこには必然的に回転運動の表現も含まれてしまう。アニメーションに於ける回転運動とは、即ち3次元世界の法則を2次元世界が受け入れる事である。如何に優秀な2次元キャラクターと言えども、己がアニメーション展開を承認した時点で、取り敢えず3次元法則に従わなくてはならないのだ。

ミッキーマウスは純粋にアニメーションの為に生まれて来たキャラクターだ。紙のコミックスが下敷きになったものではない。

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しかしそれでもミッキーマウスには、キャラクター設定(2次元)と回転運動(3次元)の齟齬という難問が、初登場の「蒸気船ウィリー」(1928年)から21世紀の「ミッキーマウス クラブハウス」に至るまで、90年間未解決のままに「放置」されている。

具体的にはこういう事だ。アニメーション内のミッキーが顔の向きを回転させる。すると左右の耳の空間的位置が、2次元の設定に基いて移動してしまうのだ(参考:上掲「ミッキーマウス クラブハウス」動画 6秒〜7秒)。ミッキーが顔を右に向けると、右耳の位置が上がると同時に左回転して観客に対して正対し、一方左耳の位置は最初の位置よりも下がりつつ後頭部方向に移動し右耳同様に左に捻れる形で正面性を確保するという不可思議な法則がミッキーには存在する。これは「アトム」の「角」や「花形満」の「髪」問題とも重なる難問である。

アニメーターが苦労するばかりのこの難問は、しかし TDL でゲストに愛想を振りまくリアル3次元ミッキーには適用されない。彼の耳は回転によって移動する事は無い。但し仮に TDL の3次元ミッキーの耳が移動/変形する事を可能にする画期的な技術が開発されたとしても、それでも解決されない最大の問題は、ミッキーを観察する視点が複数 TDL に存在するという点にある。即ちゲストのAちゃんにとって「正しく」変化したミッキーの形は、別の角度からミッキーを見るBちゃんには少しも「正しくない」という難問だ。

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回転を画面内でシミュレートする2次元のアニメーションが、現実的な回転を観察されてしまう3次元フィギュアよりも「有利」な点はここにある。アニメーションは静止画2次元キャラクター同様、観客の視点を1つに制限する事が出来る。そしてそれ故に、フレーム毎に「図法」(projection)を切り替える事が出来る。投影法が特定の視点から見て最も都合の良い世界の記述法であるならば、まさしく2次元のキャラクターというのは心象が唯一の変換公式となる「キャラ図法」(character projection)とも呼ばれ得る、3次元への逆変換式を想定しない――即ち3次元とは無縁な――記述の方法論なのである。そしてアニメーションはそうした「図法」の切り替えを、恰も3次元的に見える動きを伴いつつ見せるものなのだ。

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「図法」である2次元キャラクターを、3次元フィギュアに正確に落とす事は難しい。3次元へのトランスレートを完璧に視野に入れたキャラクター――即ち可逆性を持った変換式が存在する――であるならまだしも、2次元でのみ可能な表現をされてしまう――ミッキーの耳の様に――とフィギュア作家は途方に暮れてしまうのである。こうしたものの場合、全方向的な再現の正確性は諦めて、比較的正確に見えなければならないと思われる部分と、そうでないと判断される部分を分別し塩梅し=「調整」(注6)する事で辛うじて立体化する。即ち現状のフィギュアの造形とは、徹頭徹尾利害調整的な「政治」に基いているのである。

(注6)最も重要とされる「調整」は、それが「人体」の形をしている事だ。

そうした造形上の「政治」をこそ評価する世界もあるし、最近では2次元と3次元のトランスレートに於ける「調整」がすっかり整っていて、その固定化した「調整」に則った3次元造形が成されてさえいれば、「ソース」側である2次元側から「正確」性について強い抗議がされない様な「平和」な「共存」関係に両者はある。しかしその「共存」も、従わせる者(2次元)/従う者(3次元)という非対称性の固定化によるものだ。その固定化はまた、2次元世界と3次元世界のそれぞれの固定化に繋がっている。

乙うたろう氏は「絵具を空間上に置く」。それは単純に「壺の上に絵を描く」ではないのだろう。「壺の上に絵を描く」では「絵」(2次元)が「壺」(3次元)に従属する言い方になってしまう。

3D ペンと称される「絵具を空間上に置く」玩具が販売されているが、2次元クリエーターも3次元クリエーターも、この玩具が示している両次元の交錯点からキャラクターを見直すという事があっても良い。2次元と3次元の交錯点からこそ発想されるキャラクターの可能性。乙うたろう氏の「つぼ美」はその一つになり得る。凡庸なクリエーターは、そこに於いてすら従来のキャラ絵やフィギュアの再現を試みてしまうだろうが、それは既存の「政治」に馴致されてしまった者の限界を示すばかりだ。

ABSやPLAといった柔ら目の樹脂をフィラメントとして使用する3Dペンでキャラクターを壺形に描いた後、その壺の開口部に指を入れて無理矢理こじ開けて平らにすれば、位相幾何学的に正しく1枚の2次元絵画になる。その時それは、地図の投影法のいずれかに近いものになるかもしれない。そしてそれこそは、数多の2次元クリエーターが見た事も無く、想像することすら出来なかった2次元美少女の姿だろう。

それとは別に乙うたろう氏の作品で興味深いのは、それが絵具で描かれているものであるというところにある。プリンタで出力したものではない。従ってそれには描き始めと描き終わりが必ず存在している。因みに2次元キャラクターの顔の描き方を動画共有サイトで見てみると、殆どのクリエーターが――顔の輪郭は別にして――目から描き始めている事が確認された。鼻から描く、口から描く、髪から描くといったものは殆ど無い。寧ろ髪は多くの場合最後に描かれるものになっている。

乙うたろう氏の「つぼ美」はどこから描き始めているのだろうか。やはり目なのだろうか。或いは後頭部からだろうか。それともこの絵画の様に、描き始めと描き終わりの区別が意味を成さない様な描き方をしているのだろうか。

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紀元前ヨーロッパの地図の描き始めは、自分達の生活圏=ヨーロッパからだったと想像される。知っているところから描く、最も関心のある場所から描く。そして描き終わりに近くなった時点で、相対的に関心が薄い辺境が描かれたのだろう。

果たして「つぼ美」に於ける辺境はどこだろう。それは後頭部なのだろうか。顎下なのだろうか。それともそれは存在しないのだろうか。しかしそれが「つぼ美」自体に存在しないとしても、今回の展示に於いてその周りを人工衛星の如く周回する事が可能な「つぼ美」をカメラに収める多くの撮影者は、それでも無意識の内に顔を正面、或いは目を正面にして撮影してしまったりするのである。

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大寺俊紀氏が属していた「ニュー・ジオメトリック・アート・グループ」の中心メンバーとされる岩中徳次郎氏は、戦後間もなく「美術評論家」の外山卯三郎氏から聞いたという「西洋の絵は脊椎動物であるが、日本の洋画は軟体動物である。骨格がない。」という口頭発言を、その著書「画面構成-セザンヌから北斎まで」に再三「引用」している。

ここで言われている「脊椎動物」は、後段の「骨格」の「ある」と「ない」に掛けられている。この言表に基づけば、「骨格」があれば「脊椎動物」、「骨格」がなければ「軟体動物」という分類が可能であるかの様に思えてしまうだろう。しかし例えば外骨格生物も骨格を持っているものの、それは決して「脊椎動物」ではない。それどころか「軟体動物」である貝類の貝殻もまた骨格なのである。恐らくここで言われている「骨格」とは「内骨格」の略と思われる。であるならば、外山卯三郎氏の「言葉」はこの様に言い換える事で相対的に正確なものになる。

「西洋の絵は脊椎動物であるが、日本の洋画は軟体動物である。内骨格はないものの骨格は備えていたりもする。」

更に続けて

「そして世界には外骨格生物の絵画もあれば、それ以外の生物の絵画も存在する。」

とすればより正確性を増すだろう。

「(内)骨格がない」というのは、単に事実を述べたものでしかない。従ってそこまでは正しく科学的な立言である。但し事実を記す論である「生物進化論」を「社会進化論」のメタファーに使用し、そこに価値観という非科学が入り込んでしまっている様なものには気を付けなければならない。シャレになる「ソーカル」もあれば、シャレでは済まなくなる「ソーカル」もあるのだ。

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社会進化論」者がしばしば陥るところの、進化(evolution)が進歩(progress)をそのまま意味するという見方からすれば、「脊椎動物」は優位(superior)を意味し「軟体動物」は劣位(lesser)を意味するものであるかの様に思えたりもするだろう。外山卯三郎氏が言ったとされているこの「西洋の絵は脊椎動物であるが、日本の洋画は軟体動物である。骨格がない。」に続けて、ロック魂を込めつつ「それがどうした。So what?」とオチを入れる(注7)事も当然可能なのだが、いずれにしても絵画の進歩を信じたい人々――或いは絵画に於ける進化と進歩を混同してしまう人々――の曲解を生じさせ易いメタファーではある。

(注7)「正論」を述べ立てた直後に、“but" に続けてそれを引っ繰り返すという方法論が、ロックの歌詞に於ける定形の一つになっている。

岩中徳次郎氏は「骨格」を「構成」のメタファーと捉えたらしい。しかし寧ろそれは広く「法則」と呼べるものだろう。単に「構成」では、「ニュー・ジオメトリック・アート・グループ」が「あらゆる旧来個性主義の思考、および手法を否定して、徹底した非個性の中より生まれるクールな個性表現に努力する。」(同グループPR文)として否定した筈の「旧来個性主義の思考、および手法」に依存してしまう――形態や構図の決定に於ける恣意性から――可能性が生じてしまうからだ。

「あらゆる旧来個性主義の思考、および手法」に完璧に無関係で、それ自体が「徹底した非個性」/「非個性の徹底」的な存在であり、従って「クールな個性表現」とは別次元で単純に「クールでしかないもの」。しかも「ジオメトリック」な表現ならぬ「ジオメトリック」な出力を極めて得意とするものと言えば、あらゆる地球人のクリエーターを遥かに置き去りにしてコンピュータを於いて他には無い。

コンピュータに任意の「法則」を条件として与えさえすれば、「何も悩まない」という意味で「何も考えない」知能であるそれは、「幾何学的抽象」と「有機的な形態」の「差異」を無効にするかの様な演算結果を淡々と吐き出す事もある一方で、それを地球人は「オプティカル」なものとも「トリッキー」なものとも感じたりする。

大寺俊紀氏はこう記している。

基本的に、幾何学的なフォルム(形態)から、水や有機的な形態が生まれてくることは、無機的な元素の組み合わせによって、有機的な被造物が創造されていくことを表しています。

http://sennan.holy.jp/nifty/library.html

そもそも「有機的な形態」/「幾何学的フォルム」という「対立」は、人間=地球人の物理的スケールでのみ限定的に有意性を持つ。例えばバクテリアやウィルス――時にそれらは地球人に「免疫」反応を起こさせたりもする――といった、地球人とは全く別のスケール/しかし地球人と同じ世界に生きている存在にとって、「有機的な形態」という言葉は単に無意味極まりないものでしかない。或いは地球人の物理的スケールを遥かに超える存在があり得るとして――論理的にあり得るだろう――その視点から見ても「有機的な形態」なる概念は無意味でしかない。「有機的な形態」と「幾何学的フォルム」を分かつ事に有意性を見るのは、宇宙広しと言えども――恐らく――地球人しか存在しない。

大寺俊紀氏の絵画に於ける「幾何学的なフォルム(形態)」のユニットが「無機的な元素」であるとして、その組み合わせが膨大なものになるにつれて、それは「有機的な形態」を形成しもするだろう。「脊椎動物」にしても「軟体動物」にしても、「かたい」にしても「やわらかい」にしても、全てはこの様な「幾何学的フォルム(形態)」の「モジュール」としてしか表せないものから始まっているのだ。

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我々がギャラリーで「幾何学抽象」として見えているものは、それを「幾何学抽象」としてしか見られない我々の認識の限界をも示す。100メートル先、或いは「神」の視点から見れば、そこには既に「有機的な形態」が現れているかもしれない。

國府理「水中エンジン」redux

ラテン語の “reducere"(to lead back)から生まれたという “redux" は、様々に日本語訳可能な単語だ。

例えば「続編」としての “redux" がある。「前作」の主人公の「その後」を描くジョン・アップダイクの “Rabbit Redux" (邦題「帰ってきたウサギ」)などは、さしずめその様な意味での “redux" だろう。一方、フランシス・コッポラの “Apocalypse Now Redux” の様に、「地獄の黙示録 特別完全版」と訳される “redux" がある。1979年の公開時にカットされ「未公開」となった49分を挿入し、「作者」コッポラによって2001年に「再解釈/再編集」されたものだ。勿論「リマスター」や「レストア」を意味する “redux" もある。

“Brought back; revived." というのがオックスフォード英語辞典による “redux" の説明(注1)になるが、読者の前に「その後」として再登場するという「続編」にしても、「恢復」を意味する「特別完全版」にしても、「リマスター」や「レストア」といった「復元」にしても、総じて「帰ってきた」と訳す事は確かに可能ではあるだろう。

(注1)オックスフォード英語辞典は “redux" という単語の “Origin" が “Late 19th century" としているが、実際にはそれよりも遥かに早く(例:1662年の “Astraea Redux")出現している。

「國府理『水中エンジン』redux」。遠藤水城氏による「日本シリーズ」の「第3戦」とされている。それを「帰ってきた國府理『水中エンジン』」と訳せるとして、その「帰ってきた」は一義的には「再制作」を意味するものではあるだろう。しかし恐らく「帰ってきた」はそれに留まらない。

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日本シリーズ第1戦」のタイトルが「人の集い」、「日本シリーズ第2戦」のタイトルが「裏声で歌へ」、そして「日本シリーズ第3戦」が「國府理『水中エンジン』 redux」だ。その「作家名『作品名』 帰ってきた」というタイトルを最初に見た時に、前2戦に比べて随分と「趣(おもむき)」の異なるタイトルだと感じた。

「第1戦」の「出展作家」が「5名」、「第2戦」の「出展作家」が「6名」(「小山市立乙女中学校合唱コンクール」と「戦争柄着物」もそれぞれ「1名」としてカウント)という「グループ展」であったのに対して、「第3戦」は「出展作家」が「1名」の「個展」だった。やはり前2戦に比べて「趣」が異なる印象を持った。

「奈良・町家の芸術祭 はならぁと 2016」の「こあ」として開催された「日本シリーズ第1戦 人の集い」の藤田直哉氏とのシンポジウム(2017年3月19日「奈良町にぎわいの家」)に於いて、遠藤水城氏は同展の第一義を「案山子が見るための展覧会」としていた(注2)。そして「案山子が作品を見て救われようとしているという図」を「見にきた人」――「危機の中」にある人――が「救われるかもしれない」ものであるともしていた。

遠藤:ところで、あんまり元気のない人、危機状態にある人は、案山子を見て元気になるという体力すらもはや無いわけです。それについて考える時に、今回この「人の集い」は分断を発生させてしまったなという反省はあります。案山子を見て救われる人と救われない人がいる。賛否両論あることの原因はここにあると思っています。思おうとしています。階級問題が最終的に発生しているのです。

(注2)「奈良・町家の芸術祭 はならぁと2016 ドキュメントブック」掲載の書き起こしに基く。

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「宗教者」、或いは「宗教に生きる人」ならば、己が「信仰」するところのものに対して、通常は「救われるかもしれない」という言い回しはしない。彼等は「救われる」で止める事こそが「正しい」態度であると思っている。「全ての者はこの『信仰』によって必ずや『救われる』」。これが全ての「宗教」の「正しさ」の全てだ。彼等にとって「救われない」というケースは――「原理」的にも「権利」的にも――最終的にはあり得ない。そうした態度(attitude)こそが、彼等自身のかたち(form)を作り上げている。

しかし「救われる」と「救われない」は「確率」的にしか現れないという見方もあり得る。異なる諸宗教/諸原理が世界に多数存在しているという現実は、そうした見方を強力なまでに後押ししてしまうだろう。A教によって「救われる」者は、B教によっては「救われない」。B教によって「救われる」者は、A教によっては「救われない」。駅前で小冊子を入れたラックを立て、その傍らに立ち続けて「奉仕」をする人の目には、己が「信仰」するところのものに一切興味を示さずに、「真理」が収められているラックの前をそそくさと通り過ぎる人々が、「救われる」事自体に「目覚め」ない「危機の中」にある者に見えてもいるだろう。

仮に特定の「信仰」に於いて、「救われる」(乃至は「救われている」)者が「優位」にあり、「救われない」(乃至は「救われていない」)者が「劣位」にあるとするならば、確かにそこには「階級問題」が存在する。駅前に立つ人には、彼等の中で共有されている「階級問題」が存在する。しかしそうした「階級問題」が「分断」の蝶番によって容易に反転してしまう事を、我々は何度も――テレビ画面を通してすら――目撃して来た21世紀なのである。

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「救われるかもしれない」という「確率」的な表現は、本来的な「美術」が「宗教」と直ちには異なるもの――「宗教美術」に於いてすら――であるという認識に基いている。本来的な「美術」にとって最も重要なものは、「救われる」と「救われない」に「分断」される「以前」にこそある。即ち「ラックの横に立って小冊子を掲げる人」と「その前をそそくさと通り過ぎる人」が「分断」――世界に無数に存在する「分断」の一つでしかない――される「以前」にこそ、本来的な「美術」の「場所」はある。

日本シリーズ第2戦 裏声で歌へ」に於いても、comos-tv の「インタビューズ」で、遠藤氏は「分断」――「純粋な鑑賞者」/「背後の文脈を執拗に読み取ろうとする鑑賞者」が発生してしまった事を認めていた。「純粋な鑑賞者」=「救われる鑑賞者」/「背後の文脈を執拗に読み取ろうとする鑑賞者」=「救われない鑑賞者」(救われまいと努力してしまう鑑賞者)とする事も可能「かもしれない」。

日本シリーズ第3戦」の「國府理『水中エンジン』 redux」に於いては、こうした「分断」をこそ寧ろ積極的にこの「展覧会/プロジェクト」に設定し、その「克服」を示唆するところから始まっていた様にも思える。そしてその「分断」は、「作者」である國府理氏も指摘していたものだ。「水中エンジン」――「作者」の死後に「1号機」と称される事にもなる――が最初に展示された「アートスペース虹」の個展(2012年5月22日〜6月3日)に於いて発せられた、作者自身によるステートメントにはこの様に書かれている。

 「熱源」(ねつげん)とは、周囲に対し高い温度を持った地点、エネルギーの供給ポイントを指す。英語ではホットスポットと訳されることがある。そしてこの展示プランは、とりもなおさず、先の地震における原子力発電所事故に着想を得たものである。(略)そこに起こっている事象は社会的な意味においても「熱源」であると言えるのかもしれないが、そこに立ち現れてくるのは悲しくも文字通りの温度差である。そして事象の深刻さは対流を繰り返して拡散し平均化されていく。

 

国府 理 展 「水中エンジン」ステートメント
http://www.art-space-niji.com/2012/sche06.html

 ここで「温度差」とされているものの一つは、紛れも無く福島第一原発事故の「当事者性」を巡って生まれた数多くの「分断」を指しているだろう。日本に於ける SNS が、無数の「分断」を再生産するばかりの装置になり、それに「ブースト」が掛かったのは「震災以後」と言える。「(「分断」という)事象の深刻さは対流を繰り返して拡散し平均化されていく」事で「微分」化し、その様に「微分」化された「分断」に「固執」する「美学」が「対話」から人々を遠ざける。

がんばろうKOBE」(1995年)の頃とは全く異なる「がんばろう!東北」(2011年)の時代。そこには「純粋」に「がんばろう!東北」で生き続けなければならない存在と、「背後の文脈を執拗に読み取ろうとする」事で、「がんばろう!東北」のスローガンを場合によっては苦々しいものとすら見てしまう存在がある。「分断」は固定化される。そして固定化された「分断」が全ての始まりになる。遠藤氏は「國府理 水中エンジン redux」クロージングパーティー・第1部トーク遠藤水城、プロジェクトの全貌を語る」に於いて、「震災以後」を「ある種の息苦しさ」と表していた。(7分50秒前後〜)

「分断」の固定化は「震災以降」の日本だけのものではない。ここ10年に限っても、世界各地で起きている事柄の多くは、「分断」の固定化/固定化された「分断」から始まっていると言っても良い。嘗ての「分断」は「垂直」方向にあった。しかし現在は寧ろ「水平」方向にある

「分断」に加担しない/「分断」から始まらない「未来」の「政治」があり得る事を「美術」は今こそ示さねばならない。「分断」によって引き起こされたものの渦中にある2017年のヨーロッパの「三大芸術祭」は、多かれ少なかれそこから始まっていた筈なのだ。

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ところで “redux" =「帰ってきた」というフレーズから真っ先に思い浮かべたのは、「帰ってきたウルトラマン」だった。

帰ってきたウルトラマン」は円谷特技プロダクションの巨大変身ヒーローものの第3作である。第2作の「ウルトラセブン」終了から3年のブランクを経て制作された本作の当初の企画では、初代「ウルトラマン」が地球を去ってから30年後に、再び地球に文字通り「帰ってきた」――アップダイクの「帰ってきたウサギ」の如く――という設定だった。しかし武田薬品工業の一社提供枠から外れ、ロッテ、ヤマハ発動機、キューピーマヨネーズ等の複数スポンサー体制となった同作は、スポンサーサイドからの商品展開を見据えた申し入れによって、「初代」の「ウルトラマン」とは「別人」の「ウルトラマン(注3)とされる事になる。

(注3)後年(1984年)、この「ウルトラマン」(「帰ってきたウルトラマン」の「ウルトラマン」)に「ウルトラマンジャック」という固有名詞が与えられる。

帰ってきたウルトラマン」は、「円谷プロ」の巨大変身ヒーローものの歴史上、極めて重要な「断絶」の後に位置する「作品」だ。所謂「ウルトラマンシリーズ」の第1作、第2作である「ウルトラマン」(1966年7月17日〜1967年4月9日)「ウルトラセブン」(1967年10月1日〜1968年9月8日)の「監修」を行っていたのは「円谷英二」(1970年死去)であり、それらの「ウルトラヒーロー」「怪獣」「メカ」のデザインの多くを「手掛けて」いたのは「成田亨」(1968年東宝退社)だった。

1971年4月2日から1972年3月31日まで放映された「帰ってきたウルトラマン」は、「オリジナル」の「ウルトラマン」制作スタッフに於いて「重要」な位置を占めていた「円谷英二」と「成田亨」が「不在」の中で制作された。勿論こうした物言いは極めて転倒的なものでしかない。「帰ってきたウルトラマン」とその「世界観」は、それが「設定」に基いた「キャラクター」となってしまったものである以上、最早「円谷英二」にも「成田亨」にも帰せらるものではないからだ。その意味で「帰ってきたウルトラマン」は、「『円谷英二』の『ウルトラマン』」、或いは「『成田亨』の『ウルトラマン』」の「復元」でもなければ「再制作」でも何でもない。しかしそれでもそれは「ウルトラマン」なのである。

帰ってきたウルトラマン」を、初代「ウルトラマン」の「続編」= “redux" にすると考えていたのは「円谷英二」であり、「帰ってきたウルトラマン」というタイトルもまた、生前の「円谷英二」が積極的に「承認」したものとされている。しかし「特撮の神様」として「伝説」となった「円谷英二」が「不在」の中、当時のスポンサーサイドの極めて現実的な「都合」によって、「円谷英二」の「設定」はすっかり捨て去られる事になる。

円谷英二」のコンセプトから大きく「外れ」た、初代「ウルトラマン」とは「別人」とされた「ウルトラマンジャック」が登場する「帰ってきたウルトラマン」に、同作の企画段階で故人になった「円谷英二」の「意」を「汲む」形――「故人の意志を尊重」してという表現がしばしばされる――で「帰ってきたウルトラマン」というタイトルを「残した」のは、当然の事ながら「遺族」を含めて「円谷英二」とは「他人」の関係にある者によるものである。しかし敢えて言えば、ここで「故人の意志を尊重」なる言い回しで表現される行為は、2017年前半の「流行語」で言えば「忖度」という一語に尽きるものではあるのだ。「意志」を推量する対象が全く不在であるという完璧な上にも完璧な「忖度」がここにある。

「キャラクター」ビジネス上の理由によって初代「ウルトラマン」とは「別人」であると視聴者に認識されなければならないという要請がある一方で、「帰ってきたウルトラマン」である以上、それは「ウルトラマン」という同一性の内部になければならない。初代「ウルトラマン」の所謂「Cタイプ」、或いは「ゾフィー」の原型やマスクから直接「型取り」されたと言われる事すらある「ウルトラマンジャック」のマスクは、その意味で既に制作現場を去ってしまった「成田亨」のデザインに「忠実」である。しかし同時に「別人」である為に、ボディのパターンデザインは初代「ウルトラマン」のイメージを残しつつも微妙に変更され、更に差異を際立たせる為にパターンは二重線化された。その辺りは「成田亨」を「逸脱」している。

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こうして「ウルトラマン」は「忠実」と「逸脱」を「反復」しつつ「ファミリー」を形成するまでに至る。しかし「反復」されるのは制作者の間だけの話ではない。巨大ヒーロー対怪獣(それは「ウルトラマン」シリーズでなくても良い)のバトルを想定した遊びは、現在に至るも子供達の間で「反復」されている。或いは「DAICON FILM」による自主制作8ミリ映画「帰ってきたウルトラマン マットアロー1号発進命令」の様な「反復」の形もある。

この再制作プロジェクトはそのような「構造的欠陥」、「incompletion」な状態を積極的に引き受けるものです。しかし逆説的に、それはオルタナティヴな共有システムと記録システムの可能性へと繋がっています。美術館において共有が「展覧会」に、記録が「収蔵」に集約されるとしたならば、「水中エンジン」の「反復」はどこか別の方向へと進んでいく。共有されざるものの共有と、記録されざるものの記録の方へ。個人/故人の神話化や完成作品の永続化から離れ、ただありふれた、思い立ったかのように繰り返される追悼のようなものに。

 

【國府 理 「水中エンジン」 redux】ステートメント遠藤水城
http://www.art-space-niji.com/2017/sche07.html

 「ウルトラマン」に於ける「共有」が、例えば2012年7月10日~10月8日に東京都現代美術館で開催され、その後各地を巡回した「館長 庵野秀明 特撮博物館 ミニチュアで見る昭和平成の技」の様な「展覧会」に、その「記録」がそれら「出品物」の「収蔵」にある筈も無いのは明らかだ。「ウルトラマン」に於いて、「オルタナティヴな共有システムと記録システム」や「共有されざるものの共有と、記録されざるものの記録」や「個人/故人の神話化や完成作品の永続化から離れ、ただありふれた、思い立ったかのように繰り返される追悼のようなもの」の最たるものは、「ウルトラマンごっこ」――子供達のそれは「追悼」の意味すら欠いている――にこそある。「ゴジラごっこ」が「シンゴジラ」を生んだ様に。

「水中エンジン」の「反復」は偏に「水中エンジンごっこ」でなければならない。あらゆる人間が、それぞれの固有性を以って必要とする「水中エンジンごっこ」。或いは敢えてここで間口を拡げて言えば、「当事者」と「非当事者」を分かつ「分断」を飛び越える「必然性」でしかない「ごっこ」こそが、「美術」が「反復」= “redux" される条件の最たるものなのだ。勿論それは「水中エンジン」に限った話ではない。

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余談。

7月の前半に「アートスペース虹」へ行った。するとそこにはEK23の「磔」という仕打ちがあった。人類を「陥罪」から「救う」為に「犠牲」になったEK23という事なのだろうか。ミケランジェロに頼めば、EK23とそれを降ろす人々を、全て大理石で見事に彫り上げてくれるだろうか。

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この後このEK23は「埋葬」されるという。そして14年後に掘り起こされて、再び人々の前に吊るされて「帰って」くるらしい。「磔」の周囲にあるモニタ映像の中に、「磔」にされる前の「水中エンジン」を認めて「アートスペース虹」を出た。

展示替えとなった7月末、ようやく「水中エンジン」が実際に動いているところを見た。栃木から始まった「執念」がようやく「実」を結んだのである。5度目の正直だ。

機械的トラブルは無かったものの、御近所トラブルはあった。御近所に住まわれている紳士が「水中エンジン」のエキパイ終端に取り付けられた安物のブロアの音が耳障りだと「抗議」してきたのである。

確かにその極めてローコストのモーターが立てる所謂「金属音」は、ガラスを爪で引っ掻くが如き神経逆撫でのそれではある。「窓を閉めていても気になって仕方がない」と「抗議」の紳士は穏やかに言うと、そのまま蹴上駅方面に「帰って」行った。

「御近所の方」の筈なのに、エキパイが向けられた東山駅方向と逆方向で、しかもその方向の「御近所」には民家的なものは見当たらない。「あれれ」と思い、好奇心の虫が湧いた。紳士はウェスティン都ホテル京都を素通りし、そのまま蹴上駅方面に向かう。謎は深まる。

紳士が蹴上交差点の横断歩道を渡っているのが見えた。その横断歩道から「アートスペース虹」まで約150メートル。はてさて150メートル以上も届く「不快な音」はあるだろうかと思っていたら、横断歩道を渡り切った紳士は、対面する歩道を再び「アートスペース虹」方向に「帰って」きた。そして「水中エンジン」の正面を通り過ぎたところで、ようやく紳士はエキパイの排気口が向けられた御自宅に帰還されたのである。延べ約300メートルの道のりであった。

確かに「アートスペース虹」前の4車線道路の「渡り難さ」と言ったら極めて酷いものではある。「通常」の遵法精神――即ちそれは「通常」の脱法精神でもある――の持ち主ならば、横断歩道の無い4車線道路を、車の切れ目を狙ってスタスタと渡ってしまうであろう。「クイズ100人に聞きました」ならば95人は「渡る」と答える様な事例だ。しかし流石に紳士である。彼は100人中5人の遵法の人だった。

それにしても蹴上駅方面に行かずとも、逆の東山駅方面へ80メートル行ったところに横断歩道はある。それならば紳士の家に着くまでに往復で160メートルだ。「遵法」的且つ「合理」的に考えれば、こちらを選ぶのが「正しい」。しかし紳士は家に帰るのに、「合理」性を捨てて敢えて「遠回り」をした。紳士には「不合理」に至らしめる「何か」があったのだろう。

私は以前に「拡散するということ」をテーマにCO2Cubeというバルーンに自身所有の自動車の排気ガスを貯蔵する作品を展開したことがあったが、そのバルーンの膨らみ方や一箇所に留めたそのガスの匂いは、拡散することによって認識を曖昧にさせて初めて成立する営みがあることを実感させるものだった。そして今回の原子力発電所での事故について、あたかも人が、自動車の故障が起きて初めてボンネットフードを開けて、そのエンジンユニットの複雑さに気付くというような感覚を想像した。それは人間の臓器に対する認識のように、容姿への関心とは裏腹な、その営みの重要性への認識の希薄さにも似ている。
私はこの展示において、科学的、工業的なシステムにとどまらず、さまざまな連関によって凝集している核心と呼ぶべきものと、それを源とする拡散の様子を想像するための模式を提示できないかと考えている。

 

国府 理 展 「水中エンジン」ステートメント

「拡散すること」で周辺住民の「認識を曖昧に」させる事が可能であるとの関係者の甘い見通しの元に「想定内」視されていた安物ブロアの音は、しかし結果的に「想定外」の事態を引き起こした。件の「原発事故」に於ける関係から言えば、「被害」に遭った紳士の方が「当事者」側とされるだろう。

こうした事から始まってしまうかもしれないつまらない「分断」――例:「アート嫌悪症」――を発生させない為には、工夫の存在を一切悟られない技術の開発と投入が一層に求められるのだ。

裏声で歌へ【後編】

【承前】

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「間々田」の町が語り掛けて来るもので、既にお腹は一杯になってしまった。しかし展覧会は「別腹」だ。前者は「白米」の様なもので、後者は基本的にキュレーターと呼ばれるパティシエが作る「ケーキ」だ。

スポンジケーキとシャンテリークリームと苺とキウイと黄桃と焼きプリン(例)(注1)といった「素材」(注2)からなるケーキは、「基本」的にはそれらの「要素」の「食べ合わせ」(注3)による「味」を「愉しむ」ものである一方で、ケーキというキュレーションを前にして「プリンだけ食べたい」や「キウイ残して良い?」といった、パティシエの仕事の全体を「否定」しつつ「愉しむ」のもまた「自由」ではある(注4)

(注1)間々田駅西口に「間々田店」がある「不二家」の「フルーツのプリンショート」の例。

因みに所謂「ショートケーキ」の定番である日本独自の「ストロベリー・ショートケーキ」は、不二家の創業者である藤井林右衛門が考案したものである不二家は主張している。

(注2)これらの 6つの「素材」は、「裏声で歌へ」展の「五月女哲平」「小山市立乙女中学校」「大和田俊」「本山ゆかり」「戦争柄着物」「國府理」の 6つの「素材」に掛けている。

(注3)「不二家」の「フルーツのプリンショート」の場合、最初の一匙でプリン、クリーム、スポンジの「組み合わせ」(例)が口に運ばれ、次の一匙ではスポンジ、クリーム、苺の「組み合わせ」(例)が続いたりする。その諸「要素」の「組み合わせ」は、6「要素」の順列組み合わせプラス・アルファの数だけある。

(注4)目の前にある「ショート・ケーキ」の「素材」全てが「情報」を全く欠いた「未知」――それが甘いのか酸っぱいのか苦いのかも判らない、得体の知れないものだけで構成されている――のものである場合、作り手の立場から「何も考えずにまずは食べてみろ」と言う事は可能だ。勿論それを食べ手に受け入れさせる技術を備えている事が最大の条件にはなる。

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チケット売り場に立つと、「小川家肥料蔵」の方から歌声が聞こえる。誘われる様にそちらに向かう。

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四角形の中の四角形の中の四角形の中に四角形...。四角形の外の四角形の外の四角形の外に四角形...。ふと後ろを振り向く。自分の背中側にもあるに違いない四角形を探してみる。それはずっと自分が背負って来ていたのかもしれない四角形だ。

「作品」と呼ばれる四角形の中に四角形。

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それを見ながら戯れに「こんな『トリミング』もあり得るな」などと思ったりもする。

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「(良き)絵画」はその「外部」――それは「論理」的なものであるが故に、空間的な「内部」にあっても良い――の存在を指し示している。現実の「日章旗」をして、敢えてそれを「(良き)絵画」として見る事をしてみれば、そこには様々な「外部」の存在が見えても来るだろう。

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西田幾多郎は「善の研究」の中で「意味或は判断の中に現はれたる者は原経験より抽象せられたるその一部であつて、その内容に於ては反つて之よりも貧なる者である。」と書いた。ここで書かれている「抽象」は、「貧なる」という「定量」的な語の採用によって「劣位」のものとして断じられている。即ちここでの「抽象」は「抽象にすぎない」の略であり、「〜にすぎない」という「評価」の態度が、西田の「裏声」として隠されている。

しかし仮に「真実」の「原経験」/「純粋経験」があり得るとしても、それは「事実」的にはアモルフな刺激の奔流としてしか「現れ」ない(注5)。即ち「原経験」/「純粋経験」には、何もかもが「ある」一方で、何もかもが「ない」。

(注5)「『ここでのほんとうの困難は、 時間の流れにしたがって触覚で認識してきたひとたちが、さまざまなものの同時的な認識に不慣れであるということだ』わたしたち五感が備わった者は空間と時間の世界で暮らしているが、盲人は時間だけの世界に生きている。盲人は(触覚、聴覚、嗅覚の)印象の連続によって世界をつくりあげていて、晴眼者のように同時的な視覚認識によって状況を把握することができない。」(吉田利子訳:早川書房

“The real difficulty here is that simultaneous perception of objects is an unaccustomed way to those used to sequential perception through touch.” We, with a full complement of senses, live in space and time; the blind live in a world of time alone. For the blind build their worlds from sequences of impressions (tactile, auditory, olfactory), and are not capable, as sighted people are, of a simultaneous visual perception, the making of an instantaneous visual scene."

オリバー・サックス「火星の人類学者」(Oliver Sacks: “An Anthropologist on Mars")から「『見えて』いても『見えない』」(“To See and Not See")

五月女哲平」を始めとする「抽象」絵画の「力」は、「量子跳躍」の如き「論理」上の「準位」の「跳躍」を「観者」にもたらす――但し「準位」の「跳躍」は、「観者」の「跳躍」に対する「能動」性を絶対条件とする――ところにある。一般的に思い込まれている様に「抽象」は決して「単一」の「視点」に収斂させる様なものではなく、指示対象が明示的ではない「形象」によって「跳躍」へのドアを開けるものだ。「抽象」は「描かれたもの」のその「先」――それは「裏」でも「表」でもない――をこそ見せるのである。

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2016年10月21日「小山市立乙女中学校 合唱コンクール」の「ドキュメント」。舞台は同校の体育館ステージと思われる。

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My Own Road 僕が創る明日(歌唱は同校生徒のものではなく参考。以下同)
大切なもの
この星に生まれて
ヒカリ
明日への扉
ジェリコの戦い

桜の雨(桜ノ雨)
友〜旅立ちの時
翼をください

画面中ステージ後方の垂れ幕には、「漢(おとこ)」や「武士(もののふ)」といった語に極めてフィットする書体で書かれた「鼓動」という大書に続き、行書気味の書体で「心震える感動を」と書かれている。

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そしてそれを背にして(日本では)「軍隊」から始まった「制服」が並び、その「制服」が「教会」から始まった「合唱」を歌うという図ではある。「よさこい」や「南中ソーラン」の「群舞」から、「デモ」の「シュプレヒコール」に至るまでの、凡そ「勢揃い」である事を良しとするもの全てに対して苦味を感じる者は、この図にも同様の味を感じ取る事もあるだろう。

確かに「合唱」は「規律訓練」によって練り上げられるものだ。「合唱」に於いては、自分が出している「声」を、自分以外の「周囲」の「声」――それは「周囲」を構成する誰の「声」でもない――に「合わせる」事が何よりも要求される。「歌詞」に込められている「メッセージ」は「理解」の対象であり、それに対するそれぞれが持つだろう様々な「思い」――「合唱」に込める「思い」は「指導」の対象としてのそれである――を決して表に出してはならない。それは中学生の身体から発せられている「声」ではあるものの、一方でそれは毛の先程にも中学生の「声」ではない。

しかし中学生を舐めてはいけない。中学生には「制服」や「合唱」の「破れ目」が彼等なりに見えている。それが見えているからこそ、彼等には「未来」がある。それぞれ自分自身が中学生だった頃を思い返せば、その様な事はたちまち判明する事だろう。だからこそ、「可能的」な「未来」を信じて、ここに「美術」が中学生の「合唱」と同居しているのだ。河原温の “Pure Consciousness" の如く。

「合唱」を歌う「制服」姿の中学生達の顔を見る。この中から将来の内閣総理大臣が出るかもしれないし、電力会社の社長が出るかもしれない。或いはノーベル物理学賞受賞者が出るかもしれないし、人気歌手が出るかもしれない。更には地質学者が出るかもしれないし、建設会社社長が出るかもしれないし、イタリア料理人が出るかもしれないし、染め職人が出るかもしれないし、養豚経営者が出るかもしれないし、美容師が出るかもしれないし、原発廃炉技術者が出るかもしれない。

そうした「将来性」の「拡がり」に関してだけ言えば、「制服」を着ていない「自由」な「精神」を持つ筈の「アーティスト」――しかし「市場」の要請による「作品を作り続けなければならない」という「拘束」の中で生きている(注6)――よりも、「制服」の「中学生」の方がより「可能性」の「幅」を持っている事は確かだ。「アーティスト」の集合写真を見て、この中から将来の内閣総理大臣や電力会社の社長が出るとは、現実的な思考をする者なら誰も考えない。集合写真から30年経っても「アーティスト」に留まり続けている事が「アーティスト」には求められる。「2016年度 小山市立乙女中学校合唱コンクール」の小中合同合唱で歌われた「翼をください」は、人生が固定化した/固定化しつつある「大人」の為にこそある曲だ。「中学生」には、まだ「翼」がしっかりと備わっている筈だからだ。

(注6)2018年に配信開始されるという「パレットパレード」(シリコンスタジオ)という「スマートフォン・PC向け芸術家育成ゲーム」は、プレイヤーが「街の片隅」にオープンした「客が全くいない」という「パレット美術館」の「館長代理」(「館長」は「解雇」されたか「降格」されたか「入院」しているか「死亡」しているかなのだろう)となり、「一流の美術館」(何をして「一流」たらしめるのかは明らかにされていない)を目指すというものである。「パレット美術館」を盛り上げる為に「館長代理」のアシスト(=手駒)をするのは、「美術館」と「雇用契約」しているのか「業務委託」されているのかは判らない「ダ・ヴィンチ」「クールベ」「ゴッホ」「ルノワール」等といった7人の「個性豊かな画家」(「芸術家育成ゲーム」であるから「画家未満」になる)である。果たして「美術館」を盛り上げる一方で「美術館」に育成される彼等は、「美術館」の為に「絵」を描かされ続けるのだろうか。

「将来性」の「拡がり」を持つ「人生」の「可能性」に溢れた「小山市立乙女中学校」の284人(2016年度:含特別支援学級)の「中学生」(及びその近親者)が、「小山市立乙女中学校 合唱コンクール」の「ドキュメント」を主なる目当てに「小山市立車屋美術館」に足を運ぶ。そして曲目やDVDプレーヤーの操作法を記した「ドキュメント・シート」には、「向かいの建物でも展覧会が開催されています。要チェック!」とあるのを見たりする。

「國府理」や「本山ゆかり」や「大和田俊」や「五月女哲平」を見る「中学生」。それはやがては「國府理」や「本山ゆかり」や「大和田俊」や「五月女哲平」を少年少女期に見た内閣総理大臣になるかもしれない(注7)。その様な「可能的」な「未来」に期待したいし、「美術」はそうしたあり得べき「可能的」な「未来」の為にこそある。「それでも何も変わらないかもしれない」という悲観は、「未来」の為に封印されなければならない。その「未来」に対して「大人」である「美術」は「責任」がある。

(注7)果たして現職の第97代内閣総理大臣は、その少年期に「現代美術」の展覧会を見ただろうか。仮に見ていなかったとしたら「腑に落ちる」者もいるのだろうが、一方でそれを見ていたとしたらどうだろう。

「善男善女」の「大人」の「涙腺」を緩ませもする「メッセージ」が込められた「音」の部屋を出て「米蔵」に向かう。

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「普通、『君が代』のことと言ふと、民主主義的ではないとか、非科学的とか、そんなことばかりでしよ?」
「小石が岩になるのはをかしい、というやつね」
「ええ。岩がだんだん崩れて小石になるのに、なんて」
「だつてあれは詩的誇張でせう。嘘とは違ふんですね。(略)」

「裏声で歌へ君が代丸谷才一

しかし確かに「小石」(さざれ石=細石)は「岩」(巌)に「なる」のである。雨水などによって溶け出した石灰石の石灰分が、礫(小石)をセメント状に繋いで生成したものが「さざれ石の巌」の正体だ。

ヌガーという菓子がある。

ヌガー(仏:nougat)は、菓子のひとつ。ソフトキャンデーの一種。
砂糖と水飴を低温で煮詰め、アーモンドなどのナッツ類やドライフルーツなどを混ぜ、冷し固めて作る。茶色くて固く、歯に粘りつくような食感が特徴である。

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君が代」歌詞中の「さざれ石(細石)の巌となりて」というのは、要は「ナッツやドライフルーツのヌガーとなりて」といった様なものである。ヌガーに於けるナッツやドライフルーツを膠結する砂糖と水飴が、「君が代」の「巌」(limestone breccia:石灰質角礫岩)に於けるさざれ石を膠結する炭酸カルシウムや二酸化ケイ素である。

日本列島という狭小なエリアでは、相対的に「希少性」を有するが故に、時に「注連縄」を張られたり「天然記念物」扱いをされたり――それもまた「トリミング」である――もする石灰質角礫岩だが、勿論「地球」規模の地質学的視点から言えば、極めて「一般的」な現象であるところの「さざれ石の巌となりて」(注8)である。

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(注8)「さざれ石の巌となりて苔のむすまで」は永年(千代に八千代に)を表す表象の一つだ。従ってその代わりに最大級の「詩的誇張」を込めて「星間ガスの主系列星となりて白色矮星になるまで」(=「日の丸」の「日」=「太陽」の「一生」)でも良いし、その方が「さざれ石〜」よりも桁違いに「千代に八千代に」にはなるだろう。その場合は白色矮星に「注連縄」を張ったり「天然記念物」指定をするかもしれない。

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「大和田俊」のクエン酸による石灰岩の溶解もまた、炭酸カルシウムの殻を作る為に海中に溶け込んだ二酸化炭素を吸収した海生生物(有孔虫等)由来の石灰岩――その化石が含まれたものも多くある――が、古生代中生代の境目(約2億5100万年前)の大量絶滅によって多量に生成してからの極めて一般的な現象をなぞっている。或いは石灰岩クエン酸を掛ける事で二酸化炭素と水(炭酸)とクエン酸カルシウムに分解し、二酸化炭素を固体化する生命誕生以前の地球の大気組成(二酸化炭素が大部分を占める)に相対的に近付けている。確かに石灰岩はその星の「(炭素系)生命」の存在の有無を測る指標の一つになる。

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自然界であれば数百万年〜数億年掛かるそれを、雨水や地下水よりも遥かに酸性度の高い液体を掛ける事で、恰も早回し/逆回しの「地球の歴史」ドキュメンタリーの如くに「大和田俊」は見せてくれる――「効果音」や「劇伴」無しに。

マイクを通してスピーカーから聞こえてくる音は早回し/逆回しのそれだ。数百万年〜数億年の音は数時間の音に圧縮される事で、初めて我々の耳に届く形になる。果たして数百万年〜数億年の実際の音を我々が聞く為には、桁違いの性能のマイクが必要になるのかもしれないが、しかし恐らくそれとは全く別の方法でその音を「聞く」事は可能なのだろう。

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戦争柄着物(乾淑子氏コレクション)。1895(明治28)年1942(昭和17)年まで(注9)に作られたというそれらは、国策や戦争宣伝とは直接的には無縁であったという。「百貨店などの業者が売れそうなデザインとして時流の戦争を選び、消費者が最新トレンドとして受け入れた」(「ひと 『戦争柄の着物』を収集し、研究する=乾淑子さん」毎日新聞 2012年11月3日付)ものだ。即ちそれは「声」の大きな「軍部」主導ではなく、「新しもの好き」の「声なき声」の「善男善女」の「大人」によって、「自由」な経済原理の中で屈託無く作られ、売られ、買われたものだ。

(注9)戦争柄着物は1895(明治28)年から作り始められているが故に、「戦時下」という言葉は俄には当て嵌まらない。寧ろそれらが「戦時下」ではない「平時」に多く作られて来た事にこそ注目しなければならない。実際「太平洋戦争下」としての「戦時下」に於いては、物資の欠乏というリアルを前にしてそれらは作られなくなったのである。

伝統的な「鶴亀」や「高砂」や「宝尽くし」等に代わり、戦争柄着物では「富国強兵」や「近代化」が「吉祥」のシンボルになる。とは言え、例えば「五月人形」(明治・大正までは「武者人形」(注10))なるものも、「鎧」や「兜」や「刀」や「幟」といった「吉祥」の表象としての「」のイメージを配する事で、「男子の誕生を祝うとともに、無事に成長し、強く、逞しく、賢い大人になるようにとの願いを込めて(株式会社「久月」)」、「善男善女」の「大人」が、各「家」――「跡取り」が「重要性」を持つ――で飾るものだ(注11)。それが「鎧→軍服」「兜→鉄兜」「刀→戦闘機」「幟→旭日旗」といった屈託の無い変換を経たものが戦争柄着物とも言える(注12)。「善男善女」の「大人」の我が子への「願い」の「本質」は何ら変わってはいない。そして戦争柄着物を着る「善男善女」の「子供」達と言えば、「宇宙戦隊キュウレンジャー」「仮面ライダーエグゼイド」「キラキラ☆プリキュアアラモード」――いずれも「武」が物語の根幹を形成する――の「Tシャツ」を、21世紀の「善男善女」の「子供」達が着る様にそれらを着たのだろう。屈託の無い「声」が戦争柄着物から聞こえる。

(注10)江戸時代から始まる「武者人形」には「三韓征伐」時の出で立ち――何故か近世の武具を身に付けている――の「神功皇后」(+武内宿禰応神天皇)のそれも含まれる。現在も人気の「五月人形」には「東征」(金鵄飛来)時の出で立ちの「神武天皇」がある。それらはいずれも「美術工芸」に於ける匠の技術を極めた作りとなっている。

(注11)参考:「第九課 靖國神社 五月五日ニ軍人形ヲカザリ、ノボリヲ立テテ、男子ノ福運ヲイノルコト、我ガ國古ヨリノ風習ナリ。靖國神社ノ春ノ大祭ハアタカモ此ノ日二始ル。」尋常小学讀本 巻九(明治43年)

(注12)当の「五月人形」にもこうした変換が存在した。

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「さざれ石の巌」を研磨すれば、この様な文様が現れもする。

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ややもすれば、この赤褐色の部分が「地」で、薄褐色の部分が「図」にも見えてしまうかもしれない。しかしこの文様の「地」と「図」に見えるものは、実際には「地」と「図」の関係には無い。それらは単に「隣接」しているに過ぎない。

「壺」の形となって現れた「三次曲面」の「外側」に存在していたものは、「切削」と「研磨」によって失われ、同時にその「壺」の形の「面」の内側もまた我々は伺い知れない。失われた「外側」と、見る事の出来ない「内側」の間にこの「絵画」的な「面」はある。即ちそれは「断面」としての「平面」であり、組飴――金太郎飴に「代表」される――の「絵柄」に於ける「地」と「図」――誰が金太郎飴の顔の周りの「白」い部分を「画用紙」(例)などと呼ぶだろうか――がそうである様に、「支持体」/「表面」――恰も「国家」/「国民」の如き――という議論が起きる余地も無いものだ。しかしそもそも「平面」なるものは、凡そ「断面」でしか無いものなのではないか。

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infrared scan of Robert Rauschenberg's Erased de Kooning Drawing(1953)

戦争柄着物の対面の壁面。「本山ゆかり」。アクリル板の厚み分に二重化された「断面」。

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 白いアクリル絵具と黒いアクリル絵具の「隣接」の妙によって生まれる、恰も「画用紙」の上に描かれたかの様に見えてもしまう「絵柄」。この5ミリ程の厚さのアクリル板による「断面」の手前側と向こう側には、今見えている「絵柄」とは別の「絵柄」が無数に存在するのではないかとも思える。

再び書く。「(良き)絵画」はその「外部」の存在を指し示しているものだ。その「外部」の指し示しの力に於いて、現実的には「具象」絵画は「抽象」絵画よりも「不利」なところがある。多くの「具象」絵画は、相対的に「絵画」の「内部」に自足する事で閉じ籠もりがちになるからだ。「画家」と「モチーフ」の間にある「衝立/画面」が、既に「世界」の「断面」であるというのに。

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「本山ゆかり」は「具象」絵画の様な顔付きをしつつ、それが「断面」である事を見せる事で、「外部」の存在を指し示す。「具象」絵画の「画面」に描かれたものに踊らされてしまうという事は「本山ゆかり」という体験には無い。

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福島まで202キロ。東京まで71キロ。

これらのキロポストから 5km 程北に行くと「道の駅思川」がある。そこで行われているサービスの一つに「食品の放射性物質濃度測定」がある。或いは「放射線量測定器の貸し出し」や「身近な場所の放射線除染について」のリーフレットがダウンロード出来たりもする栃木県小山市なのである。

富士重工業株式会社(現:株式会社SUBARU)の「EK23」(排気量544CC、直列2気筒水冷4ストローク:1977年〜1990年:4代目サンバーKT6、 KT2、KT1 搭載型)という、1958年の「EK31」(スバル360)から始まるクラシックな設計のエンジンが、水を湛えた1立方メートルの水槽の中に吊り下げられている。

1トンの水を湛えるべき水槽のフレームを構成するアングルステンレス材は十分な強度を持っているものの、一方で水中の状態を「見せる」べく採用された――「見せる」必要が無ければ、原子炉の格納容器の如き光を通さない、耐熱性が相対的に高い材料で作れば良いし、その上で経済性の高い平面で構成される必要も無い――アクリル板は、厳密な構造計算の対象にはなっていない様にも思える。

「作者」の「國府理」による、この「水中エンジン」が最初に公開された2012年の個展(京都:スペース虹)の展覧会概要には「水は約1トン」とあるが、実際にこの水槽に1トンの水が満たされた事は無い。設計上の「欠陥」がそれにはあるからだ。水槽のプロである日プラの技術者にこの水槽を見せたら、彼等はどう思うだろうか。

f:id:murrari:20170809035121j:plain「組み上がった」ばかりの「EK23」。但し「水中エンジン」のものとは細部に於いて異なる。

敢えて地中に埋めずとも、実際に稼働して来たエンジンは、多かれ少なかれ「腐食」もするし「劣化」もする。金属部分は疲労や摩滅に苛まれる。シールド類は短期間でその役目を果たさなくなる。それは「物質」である限りに於いて避けられないものだ。自動車整備工場が町中に多くあるのは、町中を走る自動車が常に「メンテナンス」を施し続けなければならない「物質」であるからだ。その様な「脆い」ものが町中を走り、「現代社会」がそれに全面的に依存している事態を「構造的欠陥」と言う事は確かに可能ではある。

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 一方で「EK23」にはその生産終了までに「解決」されなかった、設計上の致命的な「欠陥」が存在していたとも言われている。

「EK23」の「レストア」を試みる者は、ここで「欠陥」を「欠陥」として残したまま、飽くまでも「オリジナル」に「忠実」であるべきか、或いはそれを「より良き」エンジンとする為に、敢えて「オリジナル」の設計を無視して「より良き」技術に換装する事で「欠陥」を排除するかを迫られる。

仮に「レストア」を純粋に技術的なものと考えるのであれば、「誠実」であるのは紛れも無く後者だ。しかし確かに世の中には別の「誠実」も存在する。「技術的欠陥」を持つ「オリジナル」が「構造的欠陥」を表す事実こそが重要であるとする「誠実」だ。

その「誠実」に則れば、「不完全」は「不完全」であるが故に何かを「指し示す」とされるものの、勿論それを決して言ってはならない立場の者もいる。全ての――発明家ならぬ――技術者がそれであり、なかんずく BWR 廃炉という敗戦処理的作業に従事する技術者にあっては尚更だろう。彼等には「絵画」を「鑑賞」する様な「メタ視点」に立つ事は許されていない。リアルに「誠実」な技術者は、「当面」という「断面」にこそ生きねばならない者だからだ。

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技術者も見学者も設計者もいない、「運転」を「停止」した「水中エンジン」を見る。「動いている」事が「当たり前」。それは「ひねればジャー」が「当たり前」と同じ様なものなのだろう。

「あの時」、そして現在も「善男善女」が依存していた/いる「当たり前」を支える「声なき声」の多くの「メンテナンスを施し続ける」技術者の存在に思いを致す。

と同時に思う。確かにこの「水中エンジン」が示すところの技術的サイクルから、我々は一刻も早く離れなければならないのかもしれない。そしてそこに至って、晴れて「水中エンジン」は美しき「笑い話」の一つになれる。その「可能的」な「未来」に於いて、我々は「水中エンジン」に対して「笑う」という形で「声」が出せるのだ。

 この項のみ「水中エンジン REDUX」(別稿)に【続く】。

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ここまで来たのだからと、もののついでに「小山市立車屋美術館」の「本体」である「旧米蔵」の向かいにある「小川家住宅」(「主屋」)を見る事にした。

入口で「解説ボランティア」の男性から、建物内撮影禁止である事を告げられる。神棚にボーダーがいきなり突き刺さっていたりする洗練されていない「和洋折衷」。21世紀ならばそれが「和洋折衷」であると即座に悟られない程度には洗練させるだろう。

見学者を瞠目させる「和洋折衷」の間を廊下伝いに通り過ぎる。そして次の和室の柱時計の横、長押の上にそれはあった。

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幅50センチ✕縦40センチ程の、外周に彫刻を施した写真額の中にマットが切られ、そのマットの上部には十六八重表菊、下部には「靖国神社」の文字。そしてマットの中には、開門した神門越しに見る中門鳥居と拝殿の靖国神社のモノクロ写真。その上部やや左寄りに楕円でトリミングされた戦闘帽に軍服の若い男性の写真が嵌め込まれている。

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この男性は、「善男善女」の「大人」の上げる「万歳」の声と、屈託無く振られた「なびく旗」に送られて、この家を出ていったに違いない。「小川家」の御家族は今何処で暮らしておられるのかは判らないが、この遺影はこの家にこそあった方が良いという御判断なのだろう。

「主屋」から出る。再び「未来」に生きる中学生の「合唱」が聞こえて来る。身が引き締まる。

【了】

裏声で歌へ【前編】

4月某日、JR東日本東北本線(愛称宇都宮線)の間々田駅――1日乗車人員数4,000人前後――を降車した。橋上駅舎の改札機に PASMO をタッチする。1,317円がマイナスされた。

目指すべきは西口方向であると、型落ち iPhone 中の Google Map 先生が教えてくれる。遠藤水城氏キュレーションの「日本シリーズ第2戦 『裏声で歌へ』」が、東北本線の西側に並行して走る「旧日光街道」(国道4号線)沿いの「小山市立車屋美術館」で行われている。

日本シリーズ第1戦『人の集い』」は、昨年2016年の10月奈良県中部の高取町で行われた。「第2戦」は所を変えて「東日本」初の「ゲーム」になる。

日本シリーズ第1戦」は、それが「日本シリーズ」であるが故に、「日本」が「開始」された地ともされる「西日本」の奈良県中部で「スタート」しなければならなかったのだろう。果たして「日本シリーズ第2戦」が「東日本」の――決して「東京」ではなく――栃木県小山市で開催されねばならない理由は存在するのだろうか。

4月にしては相対的に気温の高い日だったので、冷房の入っていない「通勤電車」を乗り継いで2時間輸送されて来た身体が喉の渇きを覚える。改札機を通ると、改札脇10時の方向に飲料自販機があるのを認める。自販機にコイン数枚を投入して水分を購入する事にした。

ペットボトルのキャップをギリギリと開け、貨幣と交換した水分を口に含んでいると、その目の先に風になびく「赤旗」が飛び込んで来た。11年前の2006年に設置されたというグラウンドレベルと改札階レベルを繋ぐエレベーター(東口)の操作ボタンの右側にそれはあった。

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この「裏声で歌へ」という展覧会タイトル、及び告知メディアに於けるデザイン・ソースの「元ネタ」が、丸谷才一の「歴史的仮名づかひ」による政治小説「裏声で歌へ君が代」(1982年)である事は、誰にとっても容易な謎解きではあるだろう(注1)

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(注1)デザイン・ソースの「元ネタ」は、新潮文庫(1990年)版カバー(和田誠装丁)。その旗は、「台湾民主共和国」という本小説に於ける観念上の国のもの。

「風になびく旗」という形象はそれだけで「不穏」だ。「大辞泉」の「なびく【靡く】」には「風や水の勢いに従って横にゆらめくように動く」という説明に続き、「他の意志や威力などに屈したり、引き寄せられたりして服従する」という説明が記されている。

壁にピン留めされた様な静止状態にある「旗」自体は「不穏」さを些かも生じないが、それが打ち振られたり移動体に据え付けられたりなどして「なびく」時、「不穏」のゲージは一気にマックスになる。ひとたび「旗」が「なびく」状態になれば、その「旗」の「デザイン」が「合理」的な「理念の説明」(「裏声で歌へ君が代」)であろうが、「不合理」な「原始的な信仰」(同書)であろうが、丸谷才一氏が本小説の主人公である画商「梨田雄吉」なる「キャラクター」の口を通して得々と語らせている様な「差異」はいとも簡単に解消されてしまう。

「旗」は所謂「デザイン」の段階では1ミリたりとも「完成」しない。「旗」の「不穏」な「力」は「旗」の「運用」にこそ専ら依存するからだ。それが如何なる「旗」であっても、「旗」が「なびく」さまそれ自体には、「人」の心理の「なびく」を引き出す「呪術性」が存在する。「旗」は常に「スタティック」な「デザイン」を「超え」た「呪術性」の中にある――紙の上やコンピュータのモニタ内では決して完結しない。それを「不穏」と言わずして何と言おうか。

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ペットボトル半分程で身体がテンポラルに要求する水分の必要量は確保された。おもむろに西口へと向かうとそこにも「なびく旗」があった。

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階段を降りる。

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駅西口周辺で営業している店は「不二家」と「喫茶めめ」位のものだろうか。

階段下には「歴史の案内板」が設置されている。

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「乙女河岸」「日光東照宮一ノ鳥居」「違いのエノキ」「小山市立車屋美術館」「旧日光街道」「乙女不動原瓦窯跡」「小山市立博物館」「乙女八幡宮」のインデックスが並ぶこの「歴史の案内板」に於ける最大のキータームの一つは、紛う事無く「徳川家康」、転じて即ち「徳川幕府」である。

この地に繁栄をもたらした「徳川幕府」の「御用河岸」たる「乙女河岸」(注2)説明文中の「小山評定」や「日光東照宮」。「旧日光街道」説明文中にも、当然ながら「日光東照宮」は登場する。

(注2)

f:id:murrari:20110222000000j:plain五海道其外分間絵図並見取絵図(文化3年=1806年:重文)より日光道中分間延絵図。右下が「乙女河岸」。この「徳川幕府時代」の絵図の中央を横切っているのが「旧日光街道」(右:江戸、左:日光)であり、図中の「乙女村」の文字の位置に現「間々田駅」、そこから少し左の「旧日光街道」が大きくベンドしている場所に現「小山市立車屋美術館」がある。

そして「乙女河岸」で江戸時代から明治時代にかけて肥料問屋を営んでいた豪商小川家(屋号「車屋」)が、「徳川幕府」時代に於いて最大効率を誇った輸送テクノロジーである水運の衰退と共に「乙女河岸」に見切りを付け、「明治政府」時代に最大の輸送効率を誇った輸送テクノロジーである鉄道(注3)の駅に近い「旧日光街道」沿いに明治44年に移転したのが、現「小山市立車屋美術館」になる。

(注3)鉄道の時代に至り、京都から東京に向かう列車を「上り」とし、東京から京都に向かうものを「下り」とする様になる。同時に「上方」や「上洛」等という言葉は、百数十年前に有名無実化し「古語」/「死語」となる。

嘗て「乙女人車軌道」が走っていたルートを「旧日光街道」に向かって「間々田駅入口」交差点まで辿る。「中里商店」に「なびく赤旗」。

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「勇屋酒店」に「なびく赤旗」。

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不穏さはいや増す。「なびく旗」の列というこの上無く不穏なもの。口の中に極めて苦いものが貯まる。ペットボトルの水分で苦いものを薄める。果たしてこの不穏さに「乗って」いけば良いのだろうか。それ以前に「呪術性」を帯びたこの「なびく赤旗」は一体何なのだろうか。
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嘗てこの小山の地で「旗」の攻防があった。所謂「戊辰戦争」に於ける「宇都宮城の戦い」の「小山の戦い」というものだ。「明治」になる直前の慶応4年(1868年)の旧暦4月16日から17日(新暦5月8日から9日)に掛けての出来事である。

箱館戦争榎本武揚上野戦争彰義隊の「旗印」が「日の丸」であった事からも判る様に、幕末から明治初年に於ける「日の丸」は「幕府軍」のシンボルであった。

f:id:murrari:20170718131507j:plain第二次長州征伐頃の幕府陸軍

f:id:murrari:20170718131535j:plain鳥羽伏見の戦い

「日の丸」の勢力――「朝敵」/「逆賊」としての幕府勢力――を「天皇」の名に於いて「征伐」するべく薩長によって急遽「仕立てられた」のは、所謂「錦の御旗」というものである。それまで誰もそれを見た事が無かった「観念」上の「旗」は、「なびく」(ヒラヒラする)という「不穏」さを伴って実体化し、それを見た鳥羽伏見の「日の丸」の幕府軍心理的に追い詰められる。

www.digital.archives.go.jp


宮さん宮さん(トコトンヤレ節)歌:初音ミク

宮さん宮さん(みやさんみやさん)
作詞:品川弥二郎
作曲:大村益次郎


宮さん宮さんお馬の前に
ヒラヒラするのは何じやいな
トコトンヤレ、トンヤレナ
あれは朝敵征伐せよとの
錦の御旗じや知らないか
トコトンヤレ、トンヤレナ


一天萬乗の帝王に
手向ひすろ奴を
トコトンヤレ、トンヤレナ
覗ひ外さず、
どんどん撃ち出す薩長
トコトンヤレ、トンヤレナ


伏見、鳥羽、淀
橋本、葛葉の戰は
トコトンヤレ、トンヤレナ
薩土長肥の 薩土長肥の
合ふたる手際ぢやないかいな
トコトンヤレ、トンヤレナ


音に聞えし關東武
どつちへ逃げたと問ふたれば
トコトンヤレ、トンヤレナ
城も氣慨も
捨てて吾妻へ逃げたげな
トコトンヤレ、トンヤレナ


國を迫ふのも人を殺すも
誰も本意ぢやないけれど
トコトンヤレ、トンヤレナ
薩長土の先手に
手向ひする故に
トコトンヤレ、トンヤレナ


雨の降るよな
鐵砲の玉の來る中に
トコトンヤレ、トンヤレナ
命惜まず魁するのも
皆お主の爲め故ぢや
トコトンヤレ、トンヤレナ

外国の「国民国家」の船舶との区別を付ける為に、嘉永7年に(1854年)「徳川幕府」によって定められた「惣船印」としての「日の丸」――しかし「日本」はその時点では「国民国家」としてのそれではなかった――が、やはりその「徳川幕府」によって「御国総標」――事実的な「国旗」――として「昇格」(安政6年:1859年)をしたものの、その「日の丸」は幕末から明治初年に掛けての「日本」の「内戦」――「内戦」は「国民国家」を前提とする表現である――期には、「錦の御旗」――即ち「白地に赤」ではなく「赤地に金」乃至「赤地に銀」――のカウンターの位置に置かれる。「徳川幕府」によって「御国総標」の地位にあった「日の丸」は、それが他ならぬ「徳川幕府」――「東日本」の権威――によって定められたが故に、「天皇」を頂く「錦の御旗」――「西日本」の権威――の元に「征伐」されるべき「標」となった。

「錦の御旗」(西日本)に「敵対」する「日の丸」(東日本)。それが明治3年(1870年)に「日の丸」を「征伐」する「錦の御旗」を擁していた「新政府」によって、「商船規則」として事実的な「国旗」に再び「昇格」する。

明治初年前後の「東日本」の「庶民」のメディアであった「瓦版」は、「反・西日本」/「反・天皇」としての「日の丸」――それは後の「国民国家」の標章としての「日の丸」の意味とは大きく異る――と敵対する「東征」(「東日本」の「征伐」)に帯同する「錦の御旗」への反発の「感情」を隠さなかった。そうした虚々実々の捻れの中に「日の丸」はある。

TBSラジオの「全国こども電話相談室」の嘗ての名物「先生」であり、その「朴訥」な「東日本」訛の語り口で人気だった「無着成恭」氏は、「賊軍」とされた「東日本」人、特に「東北人」にとって、「賊軍の旗としての日章旗」、即ち「反・天皇」/「反・西日本」のシンボルとしての「日の丸」を国旗にするという事は「悲願」であると書いた。

毎年正月に「善男善女」によって、嘗ての「朝敵」/「賊軍」の小旗が、長和殿ベランダの前で「不穏」に「なびく」様を見るにつけ、ヒリヒリしたものに苛まれるのである。

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「間々田駅入口」交差点を右に曲がる。「芝崎輪業」に「なびく赤旗」。「国道4号線」を「日光」方面へと向かう。「小山市立車屋美術館」が近くなると、経路案内標識が現れる。

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福島」まで202km、「那須塩原」まで92km、「宇都宮」まで36km。「国道4号線」は「戊辰戦争」を辿る道だ。経路案内標識の「福島」(Fukushima)は、「中通り」北部の「福島市」を意味しているのだろうが、他方それは「会津」を意味しもすれば、2011年以降は「浜通り」をも意味するだろう。

経路案内標識から数十メートル行くと、1.5km先の「すき家」を案内する看板が見える。その下に「東京から71km」のポストが立っていた。振り返って71キロ彼方に「東京」がある。その視線のパースペクティブは、「東京」(江戸)に裏切られし者が見ているそれだ。

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数百メートル行ったところに横断歩道が見える。数百メートル戻ったところに「間々田駅入口」交差点の横断歩道がある。ここは2つの横断歩道の中間点だ。道を隔てて目と鼻の先に見える「小山市立車屋美術館」へ行く為に、幹線道路をヒョコヒョコと渡って行く田舎の爺様婆様の様に、迷わず「国道4号線」を横切った。

渡り切れば「ヘアーサロン カクチ」。そこにも「なびく赤旗」。

嘗て「なびく日の丸」に送られて戦地へ行った人達がいる。間々田駅までの道や東北線の沿線にも「なびく日の丸」の列はあっただろう。

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初音ミク巡音ルカの「裏声」的な「合唱」による「出征兵士を送る歌」(1940年)

その事を思い出させてくれたのは、「小川家米蔵」と「小川家肥料蔵」で開かれていた「裏声で歌へ」展ではなく、その後に見学した「小川家主屋」の一室に掲げられていた小さな写真額だった。

【続く】

クロニクル、クロニクル!(2017)

【序】

おばあちゃんのたんじょうび会がはじまった。
お客さんが沖縄の楽器、三線で、“カチャーシー”をひくと、
みんながおどりだした。
おばあちゃんはかた手にムーチーをもちながら、
おどっている。
おばあちゃん、たのしそうだった。
「いろんなこと、わすれたって、いいんだよ。
わすれたから、ムーチーがたべられたんだもん。

 

「わすれたって、いいんだよ」:上條さなえ/文 たるいしまこ/絵
http://mitsumura-kyouiku.co.jp/ehon/168.html

阿麻社迦留 比奈尓伊都等世 周麻比都々 美夜故能提夫利 和周良延尓家利
天離る鄙に五年住まひつつ都の手ぶり忘らえにけり

 

山上憶良:「万葉集」第五巻八八〇 天平二年(“Anno Domini" で 730年)

“Anno Domini" 2016年1月25日前後から2017年2月19日前後まで約「1年間」行われ、約「4ヶ月半」前に「終了」した「クロニクル、クロニクル!」と呼ばれた「催し」(注1)について書く。

(注1)「展覧会」と「関連イベント」と「プラスn」の総称を「催し」とする。

果たして 「クロニクル、クロニクル!」は “contemporary art" の「催し」だったのだろうか。

その “contemporary art" の “contemporary" を「共有される+一時性」(“con" + “temporary")と強引に訳してみれば、「終了」してから「4ヶ月半」後にそれについて言及する事は、「始まり」と「終わり」が設定された「一時性」としての「クロニクル、クロニクル!」が「4ヶ月半」(も)前に「終了」してしまった今、「時期を逸している」としか言えないだろう。

 しかし「4ヶ月半」というのは「消費」的な言及対象としての「クロニクル、クロニクル!」を「忘れる」には丁度良い「タイミング」であるとも言える。以下に続くこの極めて締まりの無い冗漫なテクストは、「クロニクル、クロニクル!」を「記憶するべきトピック」としてではなく、積極的に「忘れるもの」とする為にこそ書かれている。

「クロニクル、クロニクル!」会場の入口で配布されていた刷り物(以下「配布テキスト」)の中で、キュレーターは「忘れることができ、信じることができる何か」と、「クロニクル、クロニクル!」を規定していた。「忘れる」と「信じる」。しかしまずもって問題になるのはその「忘れる」だ。「忘れる」とは何か。それは「記憶」の前面から後退するという意味で〈忘れる〉=「忘却」するという事なのだろうか。

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自転車入門者――主に幼児――の為に補助輪というものがある。それは自転車の乗り方の「技術」を「我がもの」としていない者にとっては、転倒を防止してくれる心強いデバイスである。しかし一方で、その装着時に指一本分の地上面からの「浮かし」を作らねばならない事からも判る様に、それは「この様な不安定なものが倒れない訳が無い」という「常識」的な「疑い」に囚われて接地させ続けてはならないものだ。

その「疑い」からすれば、自転車の様な「不安定なもの」に乗ろうとする事自体が「頭おかしい」行為であるとしか思えない。補助輪が地面と接触して立てる「ガラガラ」という音は、その様な「低次」の「常識」がもたらす「低次」の「疑い」に対する警告音なのである。

f:id:murrari:20170708121353j:plain「常識」の範囲内で「疑い」を「忘却」させてくれる補助輪の誘惑に留まっている者は、永遠に自転車に乗る事が出来ずに「三輪車/四輪車」の世界に留まってしまう。補助輪の存在、及び「この様な不安定なものが倒れない訳が無い」という「低次」の「疑い」を「忘れる」事によってこそ、「自転車に乗る」という力学的「奇跡」――或いは「常識」に基いた「疑い」のレベルから見れば「頭おかしい」――のステージへと移る事が出来る。

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「忘れる」事だけがそれぞれの「奇跡」へと繋がる。そしてそれぞれの「奇跡」が実現されたそれぞれの瞬間に、補助輪は自転車から外され只の物質へと還る。「自転車に乗る」という「奇跡」への「導き」に於いても尚、補助輪は「崇拝」の対象には永遠にならない。補助輪と関わった時間を〈忘れる〉事すら「忘れる」ところで、自転車は幼児から高齢者まで日々屈託なく乗られている。それこそがまさしく驚嘆すべき「奇跡」ではないか。

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補助輪という存在を、あのルードヴィッヒ・ヴィトゲンシュタインの「論理哲学論考」6.54(注2)――所謂「ヴィトゲンシュタインの梯子」――を捩って書けば、「補助輪(Stützräder)が役に立つのは、補助輪という存在がそれ自体で指し示していることを真に理解した者が、補助輪を経由して―その上に立って―乗り越えて、最終的には補助輪という存在が無意味であると認識する事によってである。(即ち、自転車に乗れてしまった後には、補助輪を投げ捨てなければならない。)自転車に乗ろうとする者は、補助輪を克服しなければならない。その時その者は正しく自転車に乗れるのだ。」ともなるだろうか。「自転車に乗る」という「奇跡」と一体化した後は、それまで頭を悩ませていた「不安定なものをどの様にして立たせるべきか」という「疑問」から発する諸「命題」、及びその「解決」へのプロセスは全て雲散霧消する。

(注2)“6.54 Meine Sätze erläutern dadurch, dass sie der, welcher mich versteht, am Ende als unsinnig erkennt, wenn er durch sie – auf ihnen – über sie hinausgestiegen ist. (Er muss sozusagen die Leiter wegwerfen, nachdem er auf ihr hinaufgestiegen ist.) Er muss diese Sätze überwinden, dann sieht er die Welt richtig.”

補助輪は時間列の中に「独自」の「トピック」として定位しない。その意味に於ける補助輪には決して定冠詞は付かない。補助輪はそれぞれの自転車入門者の前に、その都度「忘れる」為のものとして「繰り返し」出現する。それぞれが「自転車に乗る」という「奇跡」を「我」がものとする為に。「奇跡」をもたらす補助輪は個々の自転車乗りの中では「繰り返されない」――しかし自転車入門者の総体にあっては「繰り返し」出現する――が、補助輪によって到達した「奇跡」自体は「終わらない」。

「忘れる」為にのみ存在する補助輪それ自体の「作り」を様々に「評論」するという営みは勿論あって良い。それは巷間所謂「展評」と称されている「逆しま」にも限りなく似たものになるだろう。特定の補助輪を「崇拝」の「対象」としてピックアップし、その作りに見るべきものがあるとか、鋼材の質が良いとか、メッキ技術が優れているとか、取扱説明書が良く出来ているとか、モデル間やメーカー相互の影響関係に言及したりする事で、補助輪を時間系列の中に出現した「一時性」/「トピック」として扱いつつ「評価」を物したテクストというのは、「作り手」の「腕前」/「手柄」のレベルに於ける数量化で記述される数多の「展評」が存在し得る様に存在し得る。「私はその補助輪を通じて奇跡を見た」というものをも含め。

その意味で(のみ)補助輪評論家なる商売も、補助輪マニアという嗜好も、補助輪博物館という施設もまた十分以上に成立可能だ。そこでは補助輪の「作り手」の「腕前」/「手柄」を巡っての「お喋り」が、商売のネタとして日々生産され続ける事だろう。但し「物神」への「崇拝」をこそ全ての出発点とする彼等が幾ら言葉を尽くそうとも、補助輪の何たるか――「自転車に乗れてしまった後には、補助輪を投げ捨てなければならない」(例)――は所謂「展評」的なスタンスでは書き得ない。

「信じることができる」のは、「補助輪」という「対象」ではなく、「補助輪」を介して得られた「自転車に乗る」という、自転車乗りと一体化してしまった「奇跡」だ。そもそも「奇跡」を「崇拝」の対象になどせず、それ以前に「奇跡」を〈信じる〉事すらすっかり「忘れる」というのが、真に「信じる」という事だろう。

ここで再確認しておかねばならないのは、その様な「奇跡」は自ら「自転車に乗る」者であろうとする者にしか訪れないという事だ。自分以外の「他人」が「自転車に乗る」事を「対象」化し、それを「観察」/「評価」しようとする――「他人」に対して「奇跡」/「頭おかしい」と言うだけの――者には「奇跡」は永遠に訪れない。

「崇拝」の「対象」になりがちな所謂「神」に対してすら/であればこそ、時に生じもする「疑い」に脅かされてしまう程度の〈信じる〉――“Gott ist tot"(神は死んだ) は、「自転車に乗る」者からすれば、微笑を以って相対するべき言葉である――では、到底「自転車に乗る」事は出来ない。「信じることができる」の「信じる」は、「崇拝」が生じてしまう平面を遥かに超えたところにあり、「奇跡」と「自分」の「距離」が限りなく「ゼロ」になるところ――或いは「距離」という概念が生じないところ――にこそそれは存在する。「自転車に乗る」というのは、その様な「高次」の「信じる」によって初めて可能になるのだ。

「クロニクル、クロニクル!」は、「距離」を作り上げる事で「交換価値」のレートを高めようとする「崇拝」の「ゲーム」としての、所謂 “contemporary art" と呼ばれる「対象」化された〈奇跡〉の世界から、果敢にも降りよう/飛翔しようとしていたのかもしれない。或いは、それ「以上」に「『美術』への関わり方」/「関わり方としての『美術』」そのものの意味の「転換」を企図していたのかもしれない。

それぞれが「する」ものである「しごと」こそは、「自転車に乗る」事が最上の「奇跡」の一つである様に、それ自体が極めて「奇跡」である一方で、「しごと」をする当人はそれを「奇跡」であるとは些かも気付いていない。

時に或る「しごと」に対して「芸術的」――「芸術的なしごと」等々――と称したりする者もいる。しかしそうした物言いは「奇跡」の「対象」化以外の何物でもない。即ち特定の「しごと」に対して「芸術的」と「賞賛」する事は、一般に考えられている様に「低次」のものを「高次」に引き上げているのではなく、実際にはその真逆――「高次」の「奇跡」(「対象」化されない「奇跡」)を「低次」の〈奇跡〉、「対象」化されてしまえる〈奇跡〉)に貶める言い方――なのである。

仮に自分の「しごと」に対して「芸術的」などと言われる様な事があったら、「しごと」をする者はそれを最大の「侮辱」の言葉と受け取ってひたすら憤慨するか、自分の「しごと」が「芸術」に見えてしまった事をひたすら反省しなければならない。まかり間違っても「芸術的なしごと」――その様な言葉を可憐に使えてしまう者のほぼ全ては、「芸術」が何であるのかを根本的に理解していない――と言われて「いい気」になってはならない。それで「いい気」になれるのは「『しごと』が出来ない」者ばかりだ。

山上憶良」が、何を〈忘れ〉何を〈信じ〉ていたのかは判らないが、それでも彼は「歌を詠む」という「生き方」を「忘れて」はいないし、それよりも遥か以前に「生きる」事を「忘れて」はいない。

「自転車に乗る」為にこそ「見に」行ったとも言える「クロニクル、クロニクル!」という「補助輪」は、終了後「4ヶ月半」を経て「忘れる」に好都合な時を得た。

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「……周作さん……ありゃ、なんですか? 船……ですか?」
(略)
「大和じゃ。東洋一の軍港で生まれた世界一の軍艦じゃ」
「……はあ……あれにも人が乗っとるの?」
「ああ。ざっと二千七百人……」
(略)
「……にせん……ななひゃくにん?」
「そうじゃ」(略)「呉へお帰り言うたってくれ、すずさん」
「はあ……」
(略)
「あんなところでそんとにようけの人らに毎日ごはん作っとるん? 洗濯は?」

ノベライズ「この世界の片隅に」【原作】こうの史代 【ノベライズ】蒔田陽平

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この写真に対して様々な事が言われている。この写真に全く別のシチュエーション――それもまた別の「享楽」に接続してはいる――の写真が添えられて、「物語」の「消費」に好適な「文脈」が作られる事もある。

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ともあれこの写真の中の彼等は、シートの上に並べられた料理――ハラールは考慮されているだろう――を前にして、屈託の無い表情を見せている。

「目」に見えるものや「耳」に聞こえるものに「イデオロギー」を載せる事は十分以上に可能だ。「目」の為の「字」や「耳」の為の「声」は「イデオロギー」を乗せる為の「対象」化に役立つ「距離」を備えつつ、舌舐めずりしながら哀れな「獲物」を待ち受けている。所謂「アーティスト」というのは、そうした「政治」に大いに「利用」されてしまう「技術」を「専門」的なものとして有する者でもある。しかし「舌」で味わい嚥下するものに「イデオロギー」を載せる事は根本的に不可能だ。「イデオロギー」的に「対立」する両者の間で、全く「同じ」ものが屈託なく食される事は全く珍しい事ではない。

「食べることはとりわけ大切だ」と、「クロニクル、クロニクル!」のキュレーターは書いていた。それはあらゆる意味で正しい。数十万年(仮)ともされる「人類史」の成立条件の一つに「食べること」という「繰り返し」は確実に存在する。勿論「食べること」それ自体は「記憶」の対象ではない。従ってそれは「記憶」と裏腹の関係にある様な形の〈忘却〉もされない。

当然の事ながら、「食べること」を伴った数十万年分の「命を繋ぐこと」の「繰り返し」こそが、「人類史」――しかしそれは138億年(仮)の「宇宙史」や、46億年(仮)の「地球史」や、40億年(仮)の「地球生命史」から見ればほんの一瞬の時間でしかないのだが――と呼ばれるそれなりに長大な「クロニクル」を可能なものにしている。

仮に数十万年前の「人類」に、「近代」的な意味での「人称」的な「自我」/「主体」が生じた結果としての「少子化」が置きていたら、「人類史」は138億年の「宇宙史」に於いて、今以上にさっさと掻き消されていただろう。取り分け「近代」的な「美術」と呼ばれる「地球」上の「部族的習俗」の登場は、その「人類史」に於いても極めて「最近」の、多く見積もっても200年前の出来事なのである。そしてそれが我々の良く知る「美術」なる “Form" =「人称」と結び付く事で「産業」化したものになるのは、極めて最近――「宇宙史」に於いてはナノ秒的な――の話なのだ。

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「終了」して半年以上経過した「展覧会」について書く。それは “Anno Domini" 2016年1月25日前後から2017年2月19日前後の「1年間」の或る数日間に開催されていた。

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その展覧会の初日(2016年12月16日)の光景。

ニュートラル・グレーのリノリウムの床に、マットな白い――画像は照明の色温度の関係でアンバーが被っている――壁面。1929年(88年前)に「Cézanne, Gauguin, Seurat, Van Gogh」展で開館した、「現在(present)」や「直近(recent times)」とは全く異なる、その言葉を発した途端に発した者が自縄自縛に陥らざるをえない概念であるところの「近代(modern)」(注3)を世界最初に館名に掲げたニューヨーク近代美術館MoMA)が採用した事によって一般化したとされる「白い部屋」。

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(注3)例えば「古代人」は自らを決して「古代人」とは認識しないが、数十万年――仮に「原人」をその「起点」とするならば――とも言われる「人類」史の、直近200年程前に地球上に出現した「近代人」や「現代人」と自称する存在は、自らを「『近代』人」や「『現代』人」として認識せずにはいられない、自ら「近代」や「現代」という自縄自縛の「呪い」に陥る事を己が「アイデンティティ」とする、極めて厄介な「病」に罹っている。

事実上その後の「美術」の展示空間に於ける「インターナショナル・スタイル」となった「白い部屋」という形式を、ニューヨークから地理的に遥かに離れているこの「現代美術ギャラリー」もまた――多分に漏れず――採用している。

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この「インターナショナル・スタイル」の空間で行われた展覧会は、その「現地」語――MoMA 開館1年前の1928年に、それまでのアラビア文字表記から「インターナショナル・スタイル」であるラテン文字表記へと「改革」された、“contemporary art" の世界では「日本語」と同じ「辺境」の言語である「トルコ語」――で記せば、 “Gezgin Gözüyle Kaliningrad’dan Kamçatka’ya Rusya Fotoğraf Sergisi"(「旅行者の眼が見たカリニングラードからカムチャッカまでのロシア写真展」) というものだった。12月30日までの15日間の会期の予定だった。

この画像が撮影された3日後の12月19日、画面中央のソファが取り払われ、代わりに2本のマイクスタンドが設置され、“Çankaya BELEDIYESI" のロゴが入ったポディウムとクロスが掛けられたハイテーブルがインストールされ、そしてそのポディウムの前に駐トルコ・ロシア大使アンドレイ・カルロフ氏が立った後の一連の出来事は、「日本語」が「公用語」であるこの「極東」の島国では、極めて一瞬の内に「消費」の結果としての〈忘却〉をされてしまった「ニュース」が良く伝えたところだ。

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「私」的時間――非番――にあった22歳の暗殺者は、大使がスピーチで引用しようとしたアルカイダアラビア語による「ジハード」への忠誠を示した歌の歌詞をトルコ語で「繰り返す」。「死だけが私をこの場所からリムーブ出来るだろう(Beni buradan ancak ölüm alır)」。続けて若き暗殺者はカメラのレンズに向けて叫ぶ。“Allahu ekber. Halep'i unutmayın, Suriye'yi unutmayın."(アッラーフ・アクバル=神は偉大なり。アレッポを忘れるな。シリアを忘れるな)。

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そして公立――レジェプ・タイップ・エルドアン政権下――の「現代美術館」のオープニングに招待される資格を持つ――「アレッポ」や「シリア」を記憶の引き出しから出せる程度には〈忘れる〉事は無いだろう――「名士」達を「白い部屋」の1コーナーからリムーブした警察官は、その壁面から次々に旅行者の眼によって生まれた作品を引き剥がして破壊しリムーブした。

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「自由精神」が「保証」されていた筈の「ホワイト・キューブ」は、「市民戦争」にダイレクトに繋がる「往来」と化す。「白い壁」は「ガンマン」から身を隠す物理的な「盾」になった。「被害」と「加害」が捻れた形で多層化する。「ガンマン」は「被害者」側に属する者なのか「加害者」側に属する者なのか。「名士」達は「被害者」側に属する者なのか「加害者」側に属する者なのか。そして同展はこの日を以て開会から4日足らずで、特殊部隊による暗殺者への銃撃――銃痕だらけの白い壁の前の暗殺者の死体の画像が SNS を通じて拡散したりもした――と共に「終了」した。

全てが「美術作品」に見えてしまう「ホワイト・キューブ」の中で起こった事件だからだろうか。黒いスーツの暗殺者や、横たわる大使の死体や、怯える観客を捉えたAP通信報道カメラマン――場合によっては「戦場」カメラマンともなるだろう――のブルハン・オズビリジ氏が捉えた一連のイメージに対し、「アンカラ」や「アレッポ」から地理的に遠いアメリカは「ニューヨーク」の「アート・ワールド」の「名士」である「美術評論家」ジェリー・サルツ氏は、カラヴァッジョやダヴィッドやロバート・ロンゴ等を例に上げつつ、そこに「歴史絵画」を見るという「評論」を物した(注4)。果たして「リベラル」な意味での「往来」をシミュレートしたブログのコメント欄は炎上してしまう。「『世界』共通語」でもある「英語」でものを考える「能力」を持つ、「世界」的に「著名」である「美術評論家」に対して、「往来」を行き交う「通りすがりの者です」達から「愚か者」のコメントが容赦無く投じられた。

(注4)他にもドラクロアや、ジョン・トラボルタや、Google 画像検索等を例に上げている「論考」、ジェフ・ウォールの写真やマウリツィオ・カテランのインスタレーション等と絡めた「論考」もあった。しかしそれらのいずれもが、「見た目」の「類似性」に着目した(注内注)ものでしかないものだとも言える。その一方で「展示空間」内で「出現」した「力の非対称性」に基いて、例えば同じく「美術作品」である Marina Abramović(マリーナ・アブラモヴィッチ)の “Rhythm 0" や Yoko Ono(ヨーコ・オノ)の “Cut Piece" へ言及したものは皆無ではあった。

(注内注)極めて近い将来に「人工知能」によってその手の「美術評論」の仕事はすっかり奪われるだろう。2017年現在では未だに「専門」性を有するとされている――「されている」に過ぎないが――「人間」が行っている「美術評論」の殆どは、早晩「人工知能」による「美術評論」に肩代わりされるのは確実だ。少なくとも僅か数パターン〜数十パターンの「結論」に導く様な「美術評論」であれば、最早「人類」の誰を以ってしても勝利する事が不可能になった Google の “Alpha Go" などよりも遥かに単純な「アルゴリズム」で、今すぐにでもそれは実現可能だろう。「機械」に「評論」される「美術」という「問題」がそこに生まれる。

備品のスタンド式の灰皿(standing ashtray: "Inside the White Cube: cf "The Ideology of the Gallery Space")さえ――大使の死体や怯える人々や暗殺者やその手に持てる拳銃すらも――「美術作品」に見せてしまう、20世紀アメリカ的な非政治性のイメージを具現化した「白い部屋」。「自由主義」(或いは「ナチス・ドイツ体制」)以外の政治体制では構築し得なかっただろう展示装置。

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現在に至るまでの「自由主義」的「美術」の「環境」になったその建築的様式を、政治的イデオロギーに基く制度として捉え直し、その政治的制度に「ホワイト・キューブ」という空間的名称を与え、"one of modernism's fatal diseases(モダニズムの致命的な病の一つ)" (注5)と批判したのは、アメリカの美術評論家/美術作家ブライアン・オドハーティ(Brian O'Doherty)だった。

(注5)“A gallery is constructed along laws as rigorous as those for building a medieval church. The outside world must not come in, so windows are usually sealed off. Walls are painted white. The ceiling becomes the source of light. The wooden floor is polished so that you click along clinically, or carpeted so that you pad soundlessly, resting the feet while the eyes have at the wall. The art is free, as the saying used to go, “to take on its own life.” The discreet desk may be the only piece of furniture. In this context a standing ashtray becomes almost a sacred object, just as the firehouse in a modern museum looks not like a firehouse but an aesthetic conundrum. Modernism's transposition of perception from life to formal values is complete. This, of course, is one of modernism's fatal diseases."

“Inside the White Cube: The Ideology of the Gallery Space" Brian O'Doherty(1976)

このテクストが書かれたのは、「自由主義」の「超大国/本場」であり、それ故に「自由精神」の具現である「アート」の「超大国/本場」でもあった20世紀のアメリカが、その一方で「自由」を「守る」為に枯葉剤やナパーム弾を大量投入したベトナム戦争に「敗北」した直後の1976年の事である。それはまた「不可侵」なものと信憑されている「近代」的「自由精神」の現れとしての「作品」――The art is free, as the saying used to go, “to take on its own life.” (Brian O'Doherty)――を可能なものにする、「自由精神」の「枠」について書かれたジャック・デリダの「パレルゴン」(1975年)が書かれた時代でもあった。

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「アート」の「技術」は「手品」のそれに似たところがある。その「手品」の重要なテクニックに「ミスディレクション」がある。それはディレクション(観客の注意が向く方向)をミスさせる――誤らせる――というものであり、「手品」空間の中のものの動作の実際を隠して〈奇跡〉を見せる「誘導」のテクニックだ。「白い壁」というのは、そこに置かれたものを「奇跡/作品」として見せる為に発明された「手品」の「仕掛け」の一つであり、従って「白い壁」という「手品」の「仕掛け」がそれ自体として見えてしまってはならないものだった。

「白い壁」が非政治性=「普遍性」を見せて来た「美術」という「手品」は、前世紀の中葉にその「仕掛け」が「仕掛け」としてすっかり可視化されてしまい、「白い壁」それ自体に人々のディレクションが向く様になってしまった。斯くして新たな非政治性の「フォーム」が求められる事になる。ここに至っては、制度名としての「ホワイト・キューブ」は、最早物理的な「白い壁」を必要とはしない。「ホワイト・キューブ」のヴァージョン・アップである。

即ち、「ホワイト・キューブ」が “hidden attribute" を付された不可視の実行ファイルの一つとしてインストールされて久しい「アート・エキジビション」という「呪い」の言葉を周囲に投げ掛ければ、そこが如何なる空間であっても瞬時に「結界」としての「ホワイト・キューブ」になり得る。

例えば或る地域の人々がそこを通らなければ生活が儘ならない様な「往来」の100メートルばかりの両端に白いチョークで線を引き、それによって100メートルの “disconnect" なエリアである「結界」を「作り」、「この100メートルの中にある全てのもの――人々の日々の「日常活動」や「社会活動」を始めとする生活の全てを含む――が『アート・エキジビション』である」という「呪い」の言葉を投げ掛けさえすれば、「アート・エキジビション」の何たるかがすっかり内面化されている、「呪い」を「呪い」として受け取れる「能力」を有している――「呪い」がインストールされ動作する「環境」(System requirements)を持つ――人々の目の前では、極めてローコストに不可視の「白い壁」が――近代国家の「国境線」という「呪い」の如く――「白いチョークの線」からニョキニョキと立ち上がり、「これも作品、あれも作品」――近代国民国家の「私も国民、あなたも国民」という「呪い」の如く――の「ホワイト・キューブ」として機能させる事は「可能」ではある。

元々そこが「往来」で「あった」が故に、「作家」や「キュレーター」が別途「作品」(仕掛け)を設えなくても、「アート・エキジビション」と銘打った瞬間に「アート・エキジビション」としての「輪郭」が生じ、100メートルの「往来」全体を「俯瞰」的に見る視座が「呪い」に掛かった者に与えられもする。21世紀に於いては「呪い」の言葉/「宣言」こそが、「アート・エキジビション」の「輪郭」を形成する。そしてその視座に立つ事で、確かに「自明なもの」への「疑い」を持つ事も可能にはなる。その「呪い」の言葉がその効力を最大限に発揮出来れば、単なるオブジェクトがそのままで特殊なオブジェクトになり得たりもするだろう。

或いはもう少し「気が利け」ば、チョークで白い点を一つだけ描いて、「この点から地球を一周して再びここに戻って来るまでに存在する全てのものが『アート・エキジビション』である」とする事も出来るだろう。それは質量ゼロの「白い壁」の「中」で行われる70億人の「参加」型アートでもあるかも知れず、「構造」的には赤瀬川原平氏の「宇宙の缶詰」と同じ位相反転的なものと言えるかもしれない。この場合「アート・エキジビション」の「輪郭」はチョークの一点に生じる。

従って、21世紀に於ける「アート・エキジビション」は、何よりも先に、言葉(語り)によってそれが「輪郭」を伴った「アート・エキジビション」である事を確定しなければならない。「白い壁」は、事実上 MoMA 以後に、その催事が単なる「一般」的な催事以上の「アート・エキジビション」である事の証明に於けるコストを、展示空間に於ける「グローバル」な「共通化/標準化」によって大幅に引き下げる事を実現したテクノロジーではあったが、しかし21世紀の今となっては、その「共通化/標準化」による「普遍性」それ自体が疑いの対象になってしまった。

紛れも無く――隠し様も無く――現実の「アート・ワールド」は、政治的イデオロギーに於ける「陣営」(camp)の一つに属している。当然その「外部」には、ありとあらゆる他の政治的イデオロギーの「陣営」の存在がある。その避け難い現実は、この20世紀の「歴史上」の「過去」の出来事を写した画像に集約されるところがある。この画像には「アート・ワールド」という「手品」の “System requirements" 的「輪郭」とその「仕掛け」が、図らずも見えてしまっている。

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今から30年程前までは、画像中央の緩衝地帯を挟んだ「壁」を隔てて、右側が「西側」=「西ベルリン」、左側が「東側」=「東ベルリン」とされていた。当時「西側」は「自由主義陣営」であると自称し――即ち「自由精神」を体現している「陣営」であると自認し――、そこでは「自由精神」が花咲いている一方で、「壁」の向こう側の「東側」では「人格(ペルソナ)」が毀損され「主体」的な「自由精神」の存在は否定されていると――「西側」では――されていた。

実際この画像で明らかな様に、「西側」に向けられた側――「西ベルリン」という「アート・ワールド」の側には、色とりどりの「自由精神」に基く「作品」が、「東側」が建設した「壁」の「裏面」を覆い消す様に、みっしりと「展示」されていた。一方「東ベルリン」に住む「壁」の「表(おもて)」面――「東」が建設したものであるが故に、そちらを「表(おもて)」と呼ぶべきだろう――に相対している者からこの「アート・エキジビション」は一向に「見えない」。事実上これらの色とりどりの「作品」は、「西ベルリン」に居住する者が、同じ「陣営」内に住む「西ベルリン」の「観客」に向けて描いたものだ。この「壁」による非対称性のケースに於ける「アクチュアリティ」はそうしたものだった。「鉄のカーテン」の向こう側に、その「アクチュアリティ」が漏れ伝わる事を期待しつつ。

「東ベルリン」は「西側」からすれば「自由精神」の「外部」にあるとされて来た場所だった。そしてその「自由精神」の「外部」に「ボリス・グロイス」もいた。未だに「特殊な出自」であると旧「西側」の人間に言われたりもする「ボリス・グロイス」は、「自由主義陣営」――画像の右側――の出身者ではなく、「アート・エキジビション」が見えない左側から、「壁」越しに「壁」の向こう側――「西側」視点で言えば「壁」の「内側」――で行われている事を眺めて来た人だった。恐らく彼は「アート・ワールド」という「手品」の「輪郭」が「仕掛け」込みで見えていただろう。だからこそ彼は「手品」の可能性を「信じる」。

大きな物語」の覇権を争う「東西冷戦」という「室内」の時代が終結し、「小さな物語」のパンドラの箱が開いたまま、「歴史の終わり」の到来が遅延する一方の「往来」の時代である21世紀に於いても/21世紀だからこそ、「アート・ワールド」は自身の存立を賭けて悲痛なまでに自ら信ずるところの「普遍性」に基く「良心」の「センター」であり続けようとしている。

www.e-flux.com

www.nytimes.com

しかし「普遍性」を提示する為に「ベルリンの壁」と呼ばれる「キューブ」(“System requirements")が「機能」していた20世紀中葉――覇権主義国民国家の時代――という「複雑」が「単純」に覆われる時代とは比べ物にならない、極めて「高度」な「政治」的「技術」が必要とされる21世紀にあっては、「普遍性」は単なる「価値観」に見えてはならない。「普遍性」を「普遍性」として機能させるには、可能な限り「分断」の存在を不可視なものにしなければならないし、それ以前に「普遍性」そのもののアンインストール/リインストー(注6)が必要になって来る。それは21世紀に至っても尚、 “contemporary art" と呼ばれる「オールド・ファッション」な「手品」を行おうとする者にとっての極めて初歩的な「技術」的条件であると言える。

(注6)「動作」が「重たく」なったり「固まった」りした時には、それが最も有効且つ最善の手段である。「環境」の「構築」の「やり直し」を億劫がる「貧乏根性」をフルに発揮して、「初期設定」等の過去データを残して「上書き」インストールをしてしまうと、大抵は良い結果を生まない。

moblog.absgexp.net

nme-jp.com

スラヴォイ・ジジェク氏やブライアン・イーノ氏による「ドナルド・トランプ」氏を蝶番とした、迂遠にも見える「矛盾」に満ちたこの様な形の「複雑」な物言いを、「洗練」を良しとする――「洗練」を商売上必要とする――「アート・ワールド」は好まないかもしれない。しかしその「アート・ワールド」こそは、それ自体が地球上の何処に位置していて、どの程度の広さがあり、それにどの程度の数の人間が興味を持ち、その政治イデオロギー的傾向は如何なるものかといった「統計」的な「計測」の対象になり「ポジション」化したのである。

「ポジション」化した「リベラリズム」が「嫌い」な人々がいる様に、「ポジション」化した「アート・ワールド」が「嫌い」な人々がいる。彼等には「アート」と呼ばれる「手品」の「仕掛け」が見える。「普遍性」が「価値観」に見えてしまう。「価値観」に基く「他者」概念に鼻白んでしまう。だからこそ「普遍性」の提示を自らの存在の最大の条件の一つとする「アート」という「手品」の「技術」は、20世紀の「アート」とは桁違いに「アップデート」されねばならない。「複雑」な時代にあって「単純」に、且つ「複雑」であり続ける事。「矛盾」をも積極的に引き受ける「単純」の「技術」。それは「距離」が「ゼロ」のところから始まるものになるだろう。

長過ぎる【序】了

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「昔知っとった人に今会うたら……夢から覚めるとでも思うんじゃろか……うちゃ」
「夢?」
「住むとこも苗字も変わって困ることだらけじゃが、ほいでも周作さんに親切にしてもろうて……お友達もできて……今、目覚めたらおもしろうない」
(略)
「今のがほんまのうちならええ思うんです」
「なるほどのう……過ぎたこと、選ばんかった道、みな覚めて終わった夢と変わりやせんな」

 

ノベライズ「この世界の片隅に」【原作】こうの史代 【ノベライズ】蒔田陽平

 「クロニクル、クロニクル!」の「開催概要」を引く。

1911年に操業を開始した名村造船所。現在は近代化産業遺産にも登録され、アートスペースとして生まれ直している。そこは、つくることと生きることがひとつであるような場所だ。
 つくることと生きることを、端的に「しごと」と名指すことができるかもしれない。日々の繰り返しの中で研磨される「しごと」と類するような展覧会をしようと思う。会期は1年間とする。


ルール・1 「クロニクル、クロニクル!」は会期を1年間とする


本展はタイトルからすでに繰り返されている。同じ展覧会を2度繰り返す。展覧会は、始まりと終わりの2回、繰り返される。
 一度目は2016年1月25日(月)から2月21日(日)まで。二度目は2017年1月23日(月)から2月19日(日)まで。ただし、「クロニクル、クロニクル!」は1年続く。
 ふたつの会期は仮設的なフレームー暫定的な始まりと終わりーとして存在している。展覧会は通過していくものとして、繰り返されるものとして存在している。


ルール・2 1年の会期のうち、展覧会を2度、名村造船所跡で行う


ふたつの会期のあいだも、さまざまな出来事が繰り返される。
 作品は移動し続けるかもしれないし、展覧会は違う機能を持つことになるかもしれないし、どこかで誰かが何かを語り始めるかもしれない。変わるかもしれないし、変わらないかもしれない。変わっていても気づかないかもしれない。でもそれは劇的な変化かもしれない。
 とはいえまずこう言い切ろうと思う。2度行われるという展覧会において、毎日の繰り返しにおいて、複製され膨張しすべてを把握することなど到底出来ないたくさんの物質とたくさんの人間がいる世界において、僕は、あなたは、絞り出すような声で叫びたいのだ。繰り返される「クロニクル=年代記」を。


ルール・3 繰り返すこと、繰り返されることについて1年間考え続けること

見事に「呪い」の言葉の条件を満たしていると言える。「展覧会は、始まりと終わりの2回、繰り返される」。「クロニクル、クロニクル!」を「見る」者の心理を「誘導」するこの恐ろしいまでの「呪い」の言葉によって、「連続」する時間を一旦切断する2本のチョークの線の如き「壁」が、「呪い」に掛かった者の前に構築される。

「始まりと終わりの2回、繰り返され」た「壁」は、それ自体十分以上に語るに値する「展覧会」であった。しかしそれらはまた「クロニクル、クロニクル!」の「1年間」という「時間」を「省みる」対象として成立させる「装置」――エキップメント――としての「1つ目の『壁』」と「2つ目の『壁』」でもあるものだ。

2つの「壁」に挟まれた「ふたつの会期のあいだ」の「1年間」に行われた数々の出来事――「食事(食べることはとりわけ大切だ)、トーク、打ち合わせ、撮影、照明のアップデート、避難訓練、上映、講義、パフォーマンス、ギャラリーツアー、そして搬入、搬出」(「キュレーター・メモ1」)――は、確かに「出来事の総体」(同メモ)としての「クロニクル、クロニクル!」を構成する。しかしこの1年間は、その様な「公式」の「出来事」――或いは「イベント」と名指されるもの――ばかりではない。

「イベント」或いは「出来事」と名指され「対象」化された瞬間に、その本質を大いに見失ってしまう様な「何か」(etwas)――「食べること」等――に対して、「すべては展覧会になりうる」と嘯く事も可能ではあるものの、そうした或る種の「アート」が陥りがちな嘯き――「テーゼ」――に続ける形で「キュレーター」が同「メモ」で戒めている様に、確かに「それは前提であり、条件」であり「それを結果として提示してしまっては、不毛さだけが残る」とは言えるだろう。そうした「不毛さ」こそを最上のものであるとする「価値観」があり得るにしても。

2つ目の「展覧会」の「配布テキスト」の「ノート」の中で、キュレーターが「キュレーター・メモ1」で「止揚」されるべきテーゼとして記していた様に、確かに「呪い」に掛かった者の間に於いては「すべては展覧会になりうる」というテーゼは有効にはなり得るものの、しかしそれぞれの「生」を「省みる」機会が「展覧会」とされる必要性は当然の事ながら毛の先程にも無い。「展覧会」なる呼称が極めて限定的な「命名」でしかないものであるとするならば、「すべては展覧会になりうる」は、容易に「すべては展覧会ではない」――「展覧会」とされるものも「展覧会」ではない――に反転し得るし、畢竟それは「すべては生である」に包摂されてしまうだろう。

キュレーターが「僕は、あなたは、絞り出すような声で叫びたい」という形で、「クロニクル、クロニクル!」を見る「あなた」に対して「呪い」の言葉を投げ掛けていた事からも判る様に、この「1年間」はまさしく「クロニクル、クロニクル!」を直接的な形で作り上げていた「作家」や「キュレーター」のものだけではなく、「あなた」と呼び掛けられた者のものでもあったし、寧ろそうした「自転車に乗る」様な「参加」の形こそが「クロニクル、クロニクル!」の本懐であっただろう。

この「クロニクル、クロニクル!」の「1年間」に行われた――敢えて言えばどうと言う事も無く、且つどうと言う事も無い事こそが極めて重要な――「食べる」イベントは、即ち呼び掛けられた他ならぬ「あなた」の「1年間」の日々繰り返される「食べる」――即ち「あなた」が「する」事――に通じるものだ。「クロニクル、クロニクル!」に於いて「しごと」が極めて重要なキータームの一つであるとするとして、その「しごと」は他ならぬ「あなた」――そしてそれは「制作」以外の「生業」(しごと)による「インカム」を持たなければ、現実的な「生存」の持続が不可能な「作家」や「キュレーター」も全く同じだ――の「1年間」に日々繰り返される「しごと」――即ち「あなた」が「する」事――に通じるものだ。

「しごと」(労働=「食うための仕事」)と「制作」(創作=「本当にやりたいこと」)――それは「発表」されなければならないとされる(注7)――を峻別し、その上で前者を後者の下位に置く考え方が、「アート」の世界に未だに支配的な「価値観」(「呪い」)として存在している(注8)。その「価値観」によって「しごと」が疎外の対象とされる事で、「しごと」と「制作」の「価値観」の板挟みに陥った「アーティスト」の人格は、内面化した「部族的習俗」としての「アート」によって分裂させられる。「しごと」の時間に「囚われた」時間が「アーティスト」自らによって疎外される。「しごと」の時間の「自分」(ペルソナ)は「アーティスト」として「本来」的な存在ではなく、それは「本来」的な時間を侵す「悪」しきものであると自らに「呪い」が掛けられる。そうした分裂による自縄自縛の一人芝居(注9)が、「アート」に於いては何百年も続いて来たのである。

(注7)今日の殆どの「アーティスト」は、「制作」の欲望に先立って「発表」の欲望がある。多くの場合「制作」は「発表」に従属している。「発表」機会(「展覧会」)が「作品」の「制作」を可能なものにする。「制作」のモチベーションは「発表」に左右される。定期的に「発表」機会が提供される「団体展」は、その意味で「合理」的なシステムであると言える。

(注8)「食うための仕事」と「本当にやりたいこと」の弁別は、「アート」と呼ばれる「部族的習俗」に於いて、数世代――精々のところ――に渉る「呪い」に掛かってしまった後に生じたものだ。

(注9)「自縄自縛の一人芝居」は「部族的習俗」の「価値観」に基いて発動される。しかしそれに「普遍性」は存在しない。「自縄自縛の一人芝居」は、「価値観」によるものであるが故に、広く他者には理解されない。

「クロニクル、クロニクル!」に於ける物故「作家」の殆どの「展示品」――物故者であるが故に「出品作」という呼称はそぐわない――が、「制作」(創作)を「上位」に置く観点からすれば、「下位」である「しごと」(労働)の領域に跨っていたり(吉原治良の「緞帳」)、或いは「制作」(創作)とは不連続な「しごと」(労働)そのものであったり(「ジャン=フィリップ・ダルナ」、「大森達郎」の「マネキン」)、または「制作」(創作)を介して共有されるもの(「斎藤義重」の「マケット」・「構想」・「教育」=「遊具」)であったり、「制作」(創作)の主体が一人の中で複数化していたり(「清水九兵衞」/「七代清水六兵衛」)、「発表」の欲望を遥かに凌駕する「制作」(創作)に見えるもの(「荻原一青」の「城郭図」)等であったりする。それらはそれぞれが作られた時間に於いて、それぞれ自体が「肯定」なものとして存在する。「制作」(創作)との間に不連続的なスラッシュを引かれた上での相対評価的な関係にそれらは無い。だからこそ、この「クロニクル、クロニクル!」の会場にそれらは集められたのである。

或る意味で画家・「吉原治良」、美術家・「斎藤義重」、彫刻家・「大森達郎」のそれぞれに於ける「制作」(創作)の「優品」ばかりを揃えれば、「クロニクル、クロニクル!」は「展覧会」としてより「洗練」されたものにはなっただろうし、「制作/発表」(創作)の意欲に溢れている現存作家が、この「展覧会」に「出品」した数々の「作品」との繋がりも「スムーズ」なものにはなる。しかしその様な「展覧会」は世の中に数限りなく――即ち「凡庸」に――存在する。「クロニクル、クロニクル!」は、敢えて「評価」の定まった物故者の――美術作品の――「優品」を「無遠慮」且つ「無慈悲」なまでに集めない事で、そうした「凡庸」な「洗練」を避けたのだ。

進駐軍の将校の肖像画をかいたり、ポスターから商品デザイン、ファッションショーの舞台装置、ウインドー・ディスプレーまでやった。」。「(株)吉原製油」(現 J-オイルミルズ)の「御曹司」でもあり、「美術」が良く知るところの「作家」活動と並行する形で、同社の「取締役社長」という実業家でもあった「吉原治良」――「クロニクル、クロニクル!」に「展示」されていた氏の「緞帳」の仕事は、「吉原製油社長」(1955年2月就任)業と並行して行われている――が語った自らの「しごと」(労働)の遍歴を、「クロニクル、クロニクル!」のキュレーターは拾い上げて来た。彫刻家・「大森達郎」――或いは七彩の「取締役社長」でもある彫刻家・「向井良吉」もまた――は、自らが「彫刻家」である事と並行して、「マネキン原型師」でもある事を些かも隠さなかった。「斎藤義重」は「美術家」と並行して「教育者」である事が評価されている。

「クロニクル、クロニクル!」の現存作家の中にも、これら物故作家同様に、美術のワーキング・ネームと同じものを隠す事無く顕名にして「しごと」を行う者がいる。或いは自らの「しごと」の具体的なフェイズを、「表現論」的な戦略に基いて「公開」しない現存作家であっても、この「クロニクル、クロニクル!」では、「制作/発表」(創作)と「事実」として地続きにある、「生存」の為の「料理」を作ったりする姿が「イベント」としてインクルードされ「公開」されていたりもする。

「クロニクル、クロニクル!」に参加した現存作家の一人に「遠藤薫」がいる。昨年は「高木薫」という名前だった。ワーキング・ネームの変更である。名前の変更そのものが目的であるならば、「小林薫」でも「光宗薫」でも「庄司薫」でも「熊田薫」でも、或いは全くの「筆名」でも良さそうなものなのだが、恐らく考えるところがあっての「遠藤薫」名の選択であろう。

「制作」(創作)の「商標」であるワーキング・ネーム問題というのは、常に多く「女子」の「アーティスト」に降り掛かって来たものだ。「結婚」に伴って発生するリーガル・ネームの変更に当たって、ワーキング・ネームもリセットするべきか否かという問題に、多くの「女子」が直面して来たという「サイレント」な「歴史」がある。「男子」の「アーティスト」が、自らの名前の「氏」や「姓」に対し、他律的な理由で極めて自覚的にならざるを得なくなるケースは、「女子」に比べると圧倒的に少ない。バース・ネームをそのままワーキング・ネームとして使用する「男子」の「アーティスト」は、それに「家」(オイコス)の「秩序」(ノモス)が不可避的に張り付いている事に、「女子」程には自覚的にはならない。「本名」を持つ者は、生まれながらに「家」に「敗北」しているのだ。

「結婚」や「出産」を経てからのデビューというケースが事実上稀(注10)である為に、リーガル・ネームをそのままワーキング・ネームに採用した「女子」作家の多くは、商売(エコノミー/オイコノミア)上の「不利」を避ける為に「独身」時のそれを踏襲する。「アーティスト」のキャリアは多く「独身」時代に始まる。そして多くの場合、デビューよりも後にある「結婚」や「出産」は、そのキャリアに於いては「隠蔽」すべきものとして疎外される。「しごと」同様に。

(注10)「近代」以降の「アーティスト」のデビューは、「伸び代」(=「投資」)を勘案して事実上「若年」である事がその絶対条件になっている。「アーティスト」商売は、「若手」=新しい(個人の)才能として現れ、やがて「ベテラン」から「大御所」への道を突き進まんとする「アイドル」商売と同じだ。従ってあの「紅白歌合戦」のあの「ステージ」こそが、「アート・ワールド」という「ステージ」の縮図なのである。

「高木薫」は「遠藤薫」にワーキング・ネームを変えた。「個人」(ペルソナ)の「魂」――或いは「神」または「主体」――の領域であるとされる「制作」(創作)の「商標」を、「肉」――或いは「人」または「非主体」――の領域であるとされる「毎日の繰り返し」の「レイヤー」に一致させた。

一般的に思い做されている様に、「制作」(創作)という「魂」――生きるに値する生――の領域が、「毎日の繰り返し」という「肉」の領域と、位階的に隔絶されたものであるとするならば、「魂」の「商標」である「アーティスト」のワーキング・ネームが、「毎日の繰り返し」と独立したものである事に些かの問題も無い。「魂」の「肉」からの独立性を信じる「アート・ワールド」の商売人――「アーティスト」含む――の多くは、それに疑義を抱く事は無い。

しかし、「魂」(「制作」)と「肉」(「しごと」)の二分法を疑うところから始まっているだろう「クロニクル、クロニクル!」に於いて、「遠藤薫」はその「商標」を「商売」上の「不利」をも厭わず変更した。「高木薫」であり続ける事が、商売人として「賢い」選択であるにも拘わらず。

「高木薫」と「遠藤薫」に共通しているファースト・ネーム「薫」は、しかし変更されない「主体」的「人格」――「魂」――としての「個人」の部分を指すものではなく、「高木」や「遠藤」を接続する事で変更可能な非人称的な「何か」だ。「遠藤薫」は言わば「バカボンのパパ」や「バカボンのママ」に近い名前なのである――そして恐らく全ての名前はそうだ。斯くして「遠藤薫」は、「主体」を宿した同一性と見られ勝ちだった「高木薫」を解放し、且つ「遠藤薫」も同時に解放したのだ。

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・最初の生き物は、どうやって生まれたの?

 

 鳥、魚、虫、人間……。この星には、今わかっているだけで約200万種類の生き物がくらしています。しかし、すがたもくらし方も全然ちがう、これらの生き物の祖先をたどっていくと、じつはたったひとつの生命体にたどり着くといいます。
 その「地球上で最初の生命体」が、どのようにして生まれたのかは、まだよくわかっていませんが「それは海の中で生まれた」と考える説があります。
 しかし、今はこれよりも真実に近いといわれる説があります。生命は地球上にあるものから生まれたのではなく、宇宙からやってきたという説です。
 宇宙から飛んできたいん石を調べてみると、生命のもとではないかといわれているものと、よくにた成分が、たくさんふくまれていることがわかったのです。
 前のページの説では、地球ができてから数億年のうちに、海の中でぐうぜん生命が生まれたとしていますが、それよりも宇宙から生命のもとがやってきて進化したと考えるほうが、より自然だというわけです。
 もしこれが本当だったら、わたしたちは宇宙からやってきた「宇宙人」ということになるのかもしれませんね。

 

この説は「パンスペルミア仮説」とよばれています。

 

・ロケットのはじまりは?

 

 今のロケットに通じるアイデアを考えたのは、ロシアのコンスタンチン・ツォルコフスキーという科学者です。かれは、子どものころに病気で耳がほとんど聞こえなくなり、大すきな読書にふける中で『月世界旅行』という本に出合い、宇宙に行くことをゆめ見るようになります。そして、液体の燃料を使うことや、使い終わった燃料タンクやエンジンを次々と切りはなしていく「多段式ロケット」などの理論を打ち立てたのです。

 

たのしい!科学のふしぎ なぜ?どうして?3年生高橋書店

「クロニクル、クロニクル!」のレビューの多くは、1階の「リュミエール兄弟」や「吉原治良」の「緞帳」の複製画から始まり、2階、3階に関する記述を経て4階に至るという時系列の形を取るだろう。しかしここでは、敢えて「その」時系列を無視して4階から書き始める事にする。しかしそれは時系列に極めて忠実に則っているものではあるのだ。即ちそれは4階を見た後から始まる時系列――クロニクル――なのである。4階を見るまでの1階から3階までの「作品」に対する印象は、自分の中では4階を見た事で全てリセットされた。

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遠藤薫」という「人称」に――取り敢えず――紐付けられている行為者(注11)は、CCO クリエイティブセンター大阪の4階のフロアを変容させた。それは或る意味で「対象」的な〈奇跡〉に見えてしまうものでもあった。「会場マップ」の「作品」リストには「クロニクル、クロニクル!」展示の「外部」へと続く〈無題1(ドア)〉と〈無題2(ドア)〉しかリストアップされていない。CCO4階のフロアに残る「匿名」者達による造船図面の痕跡――それは「クロニクル、クロニクル!」の展示空間の空間的「内部」に存在する一方で、「クロニクル、クロニクル!」の「外部」である――の上に「インストール」されているものは、ここでは「作品」としてカウントされていない。つまり〈奇跡〉の様に見えるそれ自体は「作品」の様に見えて「作品」ではない。それもまた「クロニクル、クロニクル!」の「外部」に位置しているのだ。それを「作品」として見ようとしてしまう者を嘲笑うかの如く。

(注11)以下括弧で囲んだ作家の固有名詞は、「『◯◯』という「人称」に――取り敢えず――紐付けられている行為者」の略とする。それは「バカボンのパパ」が示唆する「メディア」としての「人称」である。

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そしてフロアマップには「回遊」の動線が描かれ(注12)、その終端近くに「隕石」と描かれた場所には、果たしてマキタの「ロボットクリーナー」があった。

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(注12)同様の「回遊」の動線が「会場マップ」に描かれたものに、2016年10月1日〜10月31日に開催されたの「はならぁと・こあ」(日本シリーズ第1戦:「遠藤水城」氏キュレーション)に於ける「雨宮庸介」氏の展示が上げられる。

フロアには大量の小麦粉による「人拓」が横臥/浮遊し、そこを「生命のもと」を運ぶ「隕石」によって、「人間」の与り知らない「法則」に基づいて駆け巡った航跡が、造船図面の線と呼応するかの様に記されている。

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ここで4階の「フロア」に立った者は、「クロニクル、クロニクル!」の入口で渡されたコンスタンチン・ツォルコフスキー(Константин Эдуардович Циолковский:1857〜1935)(注13)が1933年に「著」した「宇宙旅行アルバム」(Альбом космических путешествий)中の「1ページ」、《打ち上げ後のロケット内の様子(無重力状態)》をA3サイズに引き伸ばしたカラーコピーに目を落とす事になる。

(注13)銀河系に定住する事によって、種としての人類が完成し、不死性を獲得すると信じていたツォルコフスキーの論文の多くは、1908年に洪水で失われている。それはジェーン台風に見舞われたこの「CCO」や「荻原一青」氏とも重なるところだ。

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「人拓」で思い出されるのが「イブ・クライン」のそれだろう。

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“People Begin to Fly”, Yves Klein.

しかし「遠藤薫」の「小麦粉」による「人拓」は、「イブ・クライン」のそれに比べても極めて「不穏」である。フロアに撒かれている「白い粉」が、例えば「石膏」や「石灰」や「炭酸カルシウム」等の様な、IKB同様の無機物であったとすれば、これ程には「不穏」な印象にはならなかっただろう。

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「小麦粉」とは「小麦」の「粉」である。即ちそれは嘗て「生命」だったものの粉砕物――それが「人間」の「粉」なら「ソイレント・グリーン」という事にもなるのだろう――である。微粒子化した鉱物に、数限りない「生命」の「死骸」=嘗て「生命」を形作っていたものが混ざる事で形成されている「土」の「養分」――数多くの「死骸」が変成したもの――と、同じく「生命」が吐き出した二酸化炭素を取り入れる事でその「生命」を維持し、やがてその「次世代」を再生産するべく実らせた「種子」を、「人間」が己が「食物」とするべく収奪し粉砕したものがこの「白い粉」なのである。或る宗教観からすれば、そこに「無量大数」の「観音」が宿っているとされるかもしれないものだ。それ故にそれを「不穏」としなくて何としようか。

複数の「生命」が交錯しつつ並列する4階のフロア。その「壮大」極まりないその上を、「生命のもと」を触覚の様なブラシで履き溜めて運び続ける「隕石」がある。そして「見手」は元来た屋内階段、或いは〈無題2(ドア)〉を開け、外階段を通ってこのフロアを退出する。その靴の裏に「生命のもと」を付着させたまま。「見手」はその時から「隕石」になる。その靴の裏の「生命のもと」は、鉄骨階段や他のフロアの床面と擦れ合って零れ落ち、やがて風に舞って何処かへ飛んで行く。それは何かの体内に直接入ったり、土の上に着床したりして、やがて新たな「生命」に繋がって行く事になるのかもしれない。それは或る意味で「バタフライ効果」以上に無視し得る因果であるかもしれない。しかし我々自身をも含む「生命」が、極めて微小な「確率」によって生じた事を忘れてはならないだろう。

靴の裏の「生命のもと」を撒き散らしながら、外階段で3階に行く。

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外階段から3階フロアに入ると「絵画」の文字が重層的に書かれた黒板があった。「作品」タイトルも〈絵画的な風景2017――模倣(そして物語へ)。〉である。「絵画的」という言葉は、「絵の様な」とは異なる意味を持つのだろう。はてさて「絵画」が「絵画」という形で「問題」化したのは、数十万年の「人類史」に於いて何時頃からなのだろう。

恐らく本来的な「絵画」――或いは「彫刻」――は、小麦一粒の単位でこそ繰り返されて来たものだ。それは或る意味で他人――他の粒――に手渡せないものである。手渡せないからこそそれは常に繰り返される。「絵画」の「答え」の最終地点は正に「そこ」にある。本当にすぐ近くの「そこ」にある。そして「そこ」への距離は「ゼロ」である。「絵画」そのものへの近道は、何よりも一旦「筆を折る」事だ。「筆」という外在的テクノロジーへの精神的「従属」を、一旦とことんまで断ち切る事だ。

床に散乱した珪素や水銀に「生命のもと」が混ざる。

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1時間以上「田代睦三」によるものの脇に置かれた折り畳み椅子で粘っていたが、定時に鳴るというジョン・ウィリアム・フェントン作曲の「君が代」を聞く事は叶わなかった。それは、江戸時代には単なる座興の祝い唄であり、また「鈴木春信」の春画風流艶色真似ゑもん」にも見られる様にエロチックな内容の歌としても解釈されていた「君が代」の、日本が「西洋」化する為に急拵えで作らねばならなかった「国歌」(national=anthem)への「昇格」に失敗したものだ。言わばそれは「イザナギ」と「イザナミ」から弾かれた――即ち「アマテラス」の系統には無い――「ヒルコ」であり「アハシマ」である。「荒木悠」のフェントン版「君が代」はカントリー調であったらしい。誠に「目出た目出たの若松様」に相応しい座興の歌ではある。

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数年間のオキュパイド・ジャパン。多くの日本人に「忘却」されてしまった時間。そのオキュパイド・ジャパン時代に作られた「さざれ石」の様な小さな陶器の野良犬。この「さざれ石」は声高な「歴史」=「巌」を形成する事は無い。仮に「さざれ石」が「巌」の様なものになったとしても、寧ろそれはイワシの群泳――「免疫」の良き模式である――の如きものなのである。

「さざれ石」は「さざれ石」のまま、即ち小麦の一粒は小麦の一粒のままで、イワシの一匹はイワシの一匹のままで、しかしそれは「皇紀」や「キリスト教暦」などと呼ばれるものよりも遥かに長大な時間系――少なくとも「4桁」は違うだろう――に極めて直接的に接続するのである。フォルムとしての「巌」――イワシの群泳の「外形」――をしか評価出来ない者は、一個の「さざれ石」や一匹の「イワシ」である時点で、既にその様な時間系の中に存在している事を見る事が出来ない。

靴の裏の「生命のもと」をここでもまた落とす。野良犬や段ボール箱に付着して、ここではない何処かへ運ばれて行く事を想像しつつ。

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遅い事で見えて来るものがある。例えば、画像伝送に於けるインターレース技術は、回線速度が遅い者程それを目撃する時間を多く得られる。インターレースの様々な「表現」は、「主役」の「画像」が出る前の「待ち時間」に、「客」に「期待」の「温度」の低下を生じさせない為の「前座」(オープニング・アクト)の「芸」である。2017年現在、Google 画像検索で、回線速度が遅い者程目撃出来るものが、その画像に於ける最も「支配」的な色を、単色のカラータイルとして表示する Google による「前座」の「芸」だ。

f:id:murrari:20170708041614p:plain「歯茎」のGoogle画像検索結果

「鈴木崇」は、その「遅れ」によって得られる「前座」のコンマ何秒を数十秒にまで引き伸ばして前面化し、字義通りの「ホワイト」な「キューブ」(注14)に「それ」を投影した。「主役」であるべき「鮮明」な「画像」は、ここでは何時まで経っても登場する事は無い。

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(注14)自分がその日「クロニクル、クロニクル!」で15分程目撃した「鈴木崇」の「K.A.A.B.A」は、機材トラブルで「投影」されるべき画像が表示されず、その画像の「投影」を待つ「白い立方体」だけが見えていた。

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例えば森を散策するのに、昨日の散策と今日の散策が代わり映えする必要はあるだろうか。明日は今日よりもより「良い」散策を目指そうとするものだろうか。恐らく「持塚三樹」の絵画もまた散策的なものとしてあるのだろう。その散策に於ける「1年間」は、例えば「美術」の「歴史」や「市場」に於ける「言説」――「お喋り」――によって「消費」される様な「1年間」とは全く別のものだ。散策には「成長」も「展開」も必要無い。

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石というものは大抵は「無名」のものだ。しかし石は時に見立て等によって「特別」なものとして「有名」化したりもする(注16)。「伊東孝志」は凡そ「特別」にはなりそうもない「無名」の石を、或る意味で「特別」のものとした。石を「殺した」事を「見せる」事で。

(注16)一例としては、2016年8月8日の所謂「天皇陛下のお気持ち表明」ビデオメッセージの背景に映っていた「瀬田川の虎石」を上げる事が出来るだろう。

鯨魚取 海哉死為流 山哉死為流 死許曽 海者潮干而 山者枯為礼
鯨魚取り 海や死にする 山や死にする 死ぬれこそ 海は潮干て 山は枯れすれ

 

万葉集」第十六巻三八五二 詠み人知らず

石哉死為流。石や死にする。石は死にますか。

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「彫刻」という「問題」。

美大や芸大の彫刻系学科の工房周囲は、想像上のブロンズ化を前提として制作された石膏製の人体彫刻で溢れ返っている/放置されている。それらの「学校」では人体彫刻を制作する事がカリキュラムの中に「伝統」的に組み込まれている。美大や芸大の新入生は首の塑像、半身の塑像、全身の塑像というステップを踏んで、一角(ひとかど)の「人体彫刻」の方法論を身に付ける。

キュレーターは、「開催概要」の「谷中祐輔」の項に「極東の日本において、彫刻家はロダンを避けることができない。とりわけ、近代化の鬼子である人体彫刻は、その輸入と国産化の過程において、今もなおロダンという存在との距離から始めるほかない。(略)人体彫刻をいかにアップデートするべきかという問いは、ともすれば彫刻の更新であるはるか手前、すなわち『日本の人体彫刻』のアップデートにとどまってしまう。」と書いていた。

但し現実的には近代化以降の日本の「彫刻家」のほぼ全ては、美大や芸大の教育プログラムを経て来た者である(注17)。即ち「ロダン」といわれるものは、明治以降の日本の「学校」に於いてこそ「問題」とされて来たものだ。従ってそれは飽くまでも「学校」を舞台とした、世代を跨いでの「インプリント」の対象なのであり――「彫刻家」は「ロダン」を「親鳥」と思い込んでしまった「雛鳥」である――、また事実上「ロダン」という「問題」こそが、「学校」という近代化の装置を延命させても来た。或る意味で、殆どの彫刻家――画家も同じ――は永遠の「学校」/「学習」の内部にいるか、その延長線上に位置する事で、何よりも「学校」の教育プログラムを永続的なものとして錯覚させる事に半ば意識的な形で加担している。

(注17)美大や芸大を卒業して石材業や仏具業に職を求めるという例は珍しいものではない。但しその「就職」の際に真っ先に捨て去らねばならないのは、「ロダン」という近代日本の「学校」内で「問題」化されてきたものである――マネキン業も同じだ。「地蔵」や「観音」や「仁王」を制作するのに「ロダン」という「問題」は掠りもしない。但し「ロダン」という「問題」を捨て切れず、「ロダン」からのパースペクティブで作られた「地蔵」や「観音」や「仁王」――それは所謂「日本画」にも通じる――を見掛ける事もある。

「問題」としての「ロダン」を「学校」で刷り込まれ、その「問題」に対する自分なりの「回答」を「学校」の外部で「発表」したいという欲望を持つ「学校」出の「彫刻家」は、教育プログラムによって身に付け(させられ)た「人体彫刻」の「学習」の「成果」を、「学校」の対概念としての「社会」に散布する。嘗て「朝倉文夫」は、「野外彫刻」について「(彫塑を)人々の眼に触れる機会を多くつくることであり、やがて彫塑芸術が社会に理解される第一歩になるものである。」と20世紀の前半に語ったとされるが、21世紀の現在に至るも未だ、それは「彫刻家」の「存在」意義を示す願望の最大のものの一つであり続けている。

斯くして日本の駅前を初めとした「公共空間」には「学校」的な「価値観」に基づく「彫塑芸術」の「人体彫刻」が溢れ返る事になる。しかし現在、「彫刻」に限らず凡そ「美術」と呼ばれているもので、「学校」的な「美術」から完全に自由である/あろうとする様なものはどれ程に存在するものだろう。

1.「1947年に最初のマネキンを制作されたとお聞きしておりますが、その時の動機についてお聞かせ下さい。」

 

ダルナ:「当時、私は若く野心に溢れてもいたし、それに戦争が終わったということで、あらゆるものが、新しい方向に変わる時期でもありました。当然私も、そのダイナミックな芸術運動に加わりました。あらゆる分野(たとえば写真、モード、絵画、詩)が、沸き立つような激動の中にありました。私達が師と崇めていたのは、アヴェドン、ペン、ピカソディオール、カルチェ・ブレッソンコクトー、レジェ等です。(略)」

 

七彩マネキン物語「第5話...ダルナとの7問7答」
http://www.nanasai.co.jp/company/story/005.html

「シニカル」な「笑い」の芸風を持つ「谷中祐輔」の1フロア下にインストールされた「マネキン」の数々。その「原型師」の一人である「ジャン・ピェール・ダルナ」は、晩年七彩からの質問にこの様に答えている。その「ダルナ」の「師」に「ロダン」は上げられてはいない。しかしそれは、「白樺派」を経由した日本人「彫刻家」が邪推するかもしれない様に、意図的に隠されているとも思えない。寧ろ単純に「ロダン」を「先駆者」の位置に引き上げた上で「問題」とする様な構えをする必要性が無かったのだろう。それはダルナにとっては「親鳥」ではなかったのだ。

「マネキン」の「原型師」としてではなく「彫刻家」としての「大森達郎」の仕事――キュレーターが以前住んでいた金沢の香林坊アトリオ前にも設置されている――は Google 画像検索でも幾つかヒットした。それらは相対的に「マネキン」的ではない「ロダン」的「彫刻」の系譜にある粘土付けをされていて、「大森達郎」の中で「マネキン」と「彫刻」がそれぞれ独立した形で住み分けられていた事を示している。

寧ろ「ジャン・ピェール・ダルナ」や「大森達郎」が所属していた七彩工芸(現:株式会社七彩)の初代社長でもあった「向井良吉」の「彫刻」作品、例えば大阪市北区のホテルプラザ(→ IDC 大塚家具)の1階ロビー壁面にインストールされていたアルミ鋳造の「花と女性」(現:世田谷美術館蔵)は、或る意味で――原型段階では――「アッサンブラージュ」的な作品とも言えるだろうが、そこに花や建築物等に混ざってアッセンブルされている人体の断片は、明らかに「ロダン」的な「人体彫刻」ではなく「マネキン」のそれ――実際に「マネキン」の「再利用」なのかもしれない――だ。

「向井良吉」が「マネキン」制作の手解きを受けたのは、日本で最初の洋マネキンを制作した島津マネキン顧問であった「彫刻家」の「荻島安二」――「東洋のロダン」とも称されている「朝倉文夫」の「門下」――である。彼は「ロダン」という「問題」からの脱出を図った表現主義的な「彫刻」を得意としていた。即ち日本の「マネキン」は、その出発点に於いて反「ロダン」/脱「ロダン」/非「ロダン」/外「ロダン」/無「ロダン」のいずれか、または全てなのである。

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「マネキン」が、日本語で「マネキン彫刻」とは決して呼ばれず「マネキン人形」と呼ばれるのは、それが「生き人形」の系譜にストレートに繋がっているからだろう。「人体彫刻」で常に「問題」として浮上する「着色」も、「人形」ならば何も「問題」にはならない。義眼を入れるのも、ヘアピースを付けるのも、時には「秘宝館」の様に「性具」とアッセンブルされるのも、全く「ノープロブレム」だ。それが「問題」とされるのは「人体彫刻」なる「学校」的な「問題」内に於いてのみなのである。

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Johann Joachim Winckelmann “Geschichte der Kunst des Alterthums" 1764
ヨハン・ヨアヒム・ヴィンケルマン「古代美術史」1764年

「人体彫刻」なる「問題」は、或る意味で「誤読」からスタートしているところがある。現在の我々が「人体彫刻」の理念的な「淵源」とされる「ギリシャ彫刻」にイメージするもの――「流行り」のフレーズで言えば、“Learning from Athens" となるのだろうか――は、しかし永年の風化作用や「クリーニング」等の人為によって「着色」が失われた状態のものである(注18)。或る意味で「ギリシャ彫刻」は単純に「ギリシャ人形」的なものだった。それは極めて「マネキン」――立体絵画――等に近いものである一方で、我々の「人体彫刻」――「二次元」表現と「三次元」表現の理念的峻別から始まっている――からは遠いものだった。我々は「製品」になる前の「人形」――「二次元」表現と「三次元」表現の「統合」的形態――の「シュポール」を、「人体彫刻」として見ているのかもしれない。

(注18)「エルギン・マーブル」がその一例。そして「彫刻」の「伝統」は作られる。ナチス・ドイツの「芸術」は、その様にして仮構された「アテネ」を「範」とする。これらに「リアル」な「アテネ」としての「着色」を施してみたらどうなるだろう。

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「マネキン」のフロア(2F)には他にも「彫刻」が数点ある。その幾つかが「清水九兵衞」である事を見るのは容易だろう。しかし「清水九兵衞」以外にもここには「彫刻」がある。その一つが「川村元紀」の「天秤」だ。

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「川村元紀」の「天秤」は「彫刻」だった。それは「彫刻」と呼ばれる「手品」の語法を最大限に利用していた。「彫刻」という「手品」は、「閉鎖系」としての「もの」の中に「思考」的な「生態系」を作り上げる。「彫刻」はそれを見るものの目を、「もの」に対するものではなく、恰も「生物」――「生きているもの」――に対するものに変換する。従って「彫刻」の語法には「免疫」のシステムが存在する。しかし「思考」の「循環」系を「内部」に作り上げるというのは、「彫刻」に限らず広く「芸術」の「条件」である。

昨年の「クロニクル、クロニクル!」に於ける「川村元紀」は、「思考」の「生態系」ではなく「もの」の相互性としての「生態系」を見せるものであり、それ故に或る意味で「反/彫刻」――「反/強いもの」=「反/ファロス」としての「弱いもの」――だった。しかし「弱いもの」の連鎖であるかもしれない「もの」の「生態系」の「提示」もまた、それが「提示」であるが故に「デザイン」的な意志に基く「営為」である事を避けられない。「営為」であるものは、寧ろそれが「営為」である事を何処かで明らかにしなければならない。「環境の名に於いて」という身の置き方があり得るにしても、それは往々にしてそれが「営為」である事を覆い隠してしまう。「天秤」にはそれが「営為」である事の「覚悟」が存在していた。

「川村元紀」はこの1年の間に、嘗て「ヨーロッパ」内で「彫刻」の「先進国」ともされていた「イタリア」に数ヶ月滞在したという。その「イタリア」からすれば、「ロダン」の「フランス」も、「バリー・フラナガン」の「イギリス」も、嘗ては共に「彫刻」の「後進国」ではあった。勿論「日本」はそれらからも二周三周「遅れ」で「後進国」だ。

恰も「近代」以降の「彫刻」という「問題」は、「彫刻」の「後進国」に生を受けた「彫刻家」の「制作」の「意欲」をドライブするエネルギーの源であるかの様な印象すらある。しかしそれはやはり何処かで「怨念」の産物ではあるのだ。

「怨念」とは無縁の底抜けの「彫刻」、即ち屈託と他愛の無い「彫刻」は可能だろうか。勿論それは可能ではあるのだが、しかしそうした屈託と他愛の無さを一旦 “contemporary art" という「文脈」で行おうとすると、途端にギクシャクとしたものが「彫刻家」に襲って来たりもする。

「問題」としての「彫刻」という「怨念」の消えるところを「天秤」は垣間見せてくれたりもする。しかしそれ以上に屈託と他愛の無い「彫刻」そのものの「出現」の瞬間を見せてくれるのは、やはり「クロニクル、クロニクル!」の入口――導入部――にある「斎藤義重」だ。昨年の「パート1」で書いた文章を再掲載する。

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Tout en introduisant l’enfant dans le monde de l’art, KAPLA stimule la créativité, les capacités de concentration, l’ingéniosité et les facultés d’adaptation que la vie exige de chacun. En construisant, on se construit soi-même.
Tom van der Bruggen – Inventor of KAPLA

 


カプラは芸術の世界に子供を導き入れ、誰もが人生にとって必要な創造力、集中力、独創力と適応力を刺激します。それ(カプラ)を構築する事は、あなた自身を構築する事なのです。(拙訳)

 


トム・ファン・デル・ブリューゲン - カプラ考案者
http://www.kapla.com/vitrine/jeu-kapla/kapla-histoire/

2009年4月8日〜5月16日まで、東京西新井の朋優学院 T&Sギャラリーで行われた「斎藤義重'09 複合体講義 創造と教育の交錯点 -中延学園・TSA・朋優学院-」展の朋優学園によるレポート「<展示風景>」には、飯塚八朗氏の以下の文章が「<講義1> 造形遊びの効用と教育」を説明するものとして上げられている。

“遊びの中の美術”ということに注目した授業の展開、それは造形遊びの楽しさを含んだものです。例えば迷路をつくる課題では、作品を友人たちと交換して迷路遊びをすることで、人と人を結ぶ働きを体験します。構成の課題では、積み木遊びを取り入れ、積み木をつくる、くみあわせるなど、この体験は数学や物理などの他教科と関連するものとなります。 −中略− 美術を知る、考える、自分発見の機会でもあります。身近な環境に美術を取り込む壁画の授業は、20年以上続けていますが、美術は広く生活や文化の中にあるものなのです。


 
斎藤義重'09 複合体講義 創造と教育の交錯点 -中延学園・TSA・朋優学院- <展示風景>
http://www.geocities.jp/hoyu_art/pages/rinen/gijyu09_2.html

加えてそのページの「<講義5> 開かれた教育環境」には同展「体験コーナー」のレポートとして「来場者や生徒が、斎藤義重の規格サイズのバルサを用いて、複合体マケット遊びを体験できる」とある。その画像中のバルサピースを見て、アッセンブル・トイ――「進行の状態がそのまま形態となる(斎藤義重)」トイ――のカプラを思い出した。

斎藤義重の規格サイズ」と言えば、「トム・ファン・デル・ブリューゲンの規格サイズ」(1:3:15 = 8 x 24 x 120mm の1サイズ)であるカプラも同じであり、またそれも「創造と教育の交錯点」にあるものである。「フランス文部科学省推薦教材としてフランスで国の教育システムで使われているペタゴジックトイ」であるカプラが教育に於いて目指すものは、斎藤義重氏が教育に於いて目指していたものと重なるところが多い。

フランスの “planchette magique" (魔法の板)で「斎藤義重」を作ってみた。

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これは現前(représentation)的な再現ではなく、反復(répétition)的な再現としての「斎藤義重」である。「クロニクル、クロニクル!」に言うところの「繰りかえし」は、「反復」としてのそれだろう。そして教育もまた、人類史的な発生や発達の「反復=手渡し」の中にある。

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「積み木」は「彫刻」を「する」事の「発生」的な「原点」の一つになる。であればこそ「積み木」は「享受」するものとしての「彫刻」というレベルからの脱出線になり得る。当然の事ながら「積み木」という「遊具」と、「滑り台」(例:イサム・ノグチの様な「彫刻家」の手になるそれ)という「遊具」は、「彫刻」の「発生」の次元に於いては「峻別」されなければならない。即ち「遊具」という共通点でのみ、それを一緒くたにするべきではない。

「彫刻家」による「滑り台」という「成果物」とは異なり、「積み木」は誰しもを「彫刻家」にする/していた。それは「彫刻」を「する」事に於ける「発生」段階に常に「立ち戻らせ」てくれる。少なくとも19世紀以降の発明物である「幼稚園」等の、「人は誰でも創作の主体としての可能性を有する」という、「人間」の「する」そのものの「掘り起こし」の「現場」に於いては、それがその「プログラム」そのものの根幹を形成している。

いずれにしても「クロニクル、クロニクル!」の導入部に於ける「斎藤義重」こそ、“contemporary art" としての「彫刻」の認識論的反転の装置だった。そして且つ「彫刻」の「共通祖先」の一つの提示だったのである。

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「彫刻」の「系統樹」の何処に住まっているのか。それが「彫刻家」――「遊具」で遊ぶ「幼児」含む――の「資質」を決定する。ならばこそ「彫刻家」は「幼児」よりも「枝葉末節」の「レベル」に留まってしまう――それを「専門」性とも呼んだりはする――事もあるだろう。

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「笹岡敬」。

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そして何にも増して、我々が「現実」の「虫」と共生/共存し、それらに「生かされている」事にこそ思いを致そう。「虫」がいなければ、実らない実がある。「虫」がいなければ生産性を維持出来ない土がある。

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九相図

 

九相図(九想図、くそうず)とは、屋外にうち捨てられた死体が朽ちていく経過を九段階にわけて描いた仏教絵画である。
名前の通り、死体の変遷を九の場面にわけて描くもので、死後まもないものに始まり、次第に腐っていき血や肉と化し、獣や鳥に食い荒らされ、九つ目にはばらばらの白骨ないし埋葬された様子が描かれる。九つの死体図の前に、生前の姿を加えて十の場面を描くものもある。

 

Wikipedia九相図

「牧田愛」。「完成後まもないもの」――それは「死後まもないもの」なのかもしれない――の昨年の展示と、その「風化」が進んだ今年の展示。取り敢えずそれは「二相図」というべきものであろうか。九相図が9チャンネルのステレオグラムであるとして、9色の眼鏡を掛けて観想する事でそこに浮かび上がる「立体像」は、或いは「無常」などという事にもなるのであろうか。

f:id:murrari:20170708104327p:plain2016年(左)/2017年(右)

「作品」として認識される事の無い CCO 4階のこれもまた、この1年間で「非情」なる「無常」を感じさせるものになっていた。

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2016年(左)/2017年(右)

「牧田愛」の「Form」という「ステレオグラム」の「新作」は、受付で印刷された紙(例:紙幣)と交換する事で入手出来るものだった。「20エレの亜麻布」(20 Ellen Leinwand)ではその交換条件を満たしていないかもしれない。

「左右の眼」という複数チャンネルがあればこその「立体視」。それは「左右の眼」を有しなければならないという点で「権利」的なものでもある。油断をしていると今すぐにでも消滅しそうな幽き「立体」。「立体」とは「幻視」的に――且つ「権利」的に――「生じる」ものなのかもしれない。「彫刻」はどうだろう。

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首都圏で隔年開催される「引込線」。その最寄駅は西武鉄道新宿線航空公園駅だ。その駅前広場には所謂「モニュメント彫刻」ではなく、それまで軍用機の設計では世界トップクラスにあった日本が、第二次世界大戦後に初めて開発した旅客(輸送)機 YS-11の静態保存機(エアーニッポン・ペイント)が設置されている。

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軽金属製の「清水九兵衞」モニュメントを見る度に思い出すのは、この YS-11 を始めとする軽金属製航空機の造形だ。YS-11ロールス・ロイスターボプロップエンジンを覆うカウルや、ダウティ・ロートル製のプロペラの一部が、その「機能」との連関性を消去されて公共空間に展示された瞬間、それは造形上の「抽象」性を獲得して「清水九兵衞」に「近い」ものにもなるだろう。或いは「清水九兵衞」は、そうしたエンジン・カウルやプロペラに「近い」ものでもあるだろう。

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f:id:murrari:20170708105848p:plain相対的に航空機よりもはるかに低速に移動する自動車のボディ・デザインが、狭義の「抽象彫刻」と同じ様な「表現」的な造形を「許されている」のとは全く異なり、航空機の造形は徹頭徹尾「数理」的なものから導き出されている。

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CCO 2階の「清水九兵衞」は、ジェット機エア・インテークや内燃エンジンのマニホールドを思い出させもする。

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ここに実際のエア・インテークやマニホールド――それは名村造船所で日々製造されていたものと「同じ」ものだ――が、「道具」としての「全体」系から切り離された形で、即ち「機能」を「忘れる」形で「展示」されていたら果たしてどの様に見えるものだろうか。

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「配布テキスト」の「清水久兵衛」の直後に引かれていた引用文を再引用する。

「ひょっとしたら、誰かがイメージを発見したあとも、人類はそれを「継承」することなく、イメージの概念が人類から喪失してしまったかもしれない。だが、それでも、同じような「発見」の出来事は、何度でも反復されうる、すなわち、本来唯一無二であるはずのオリジナルの起源が、起源であるにもかかわらず、理論上、無限に反復、複製されうるのである。」

 

――佐藤啓介「オリジナルな起源 W・デーヴィスの「イメージ・メーキングの起源」論が問いかけるもの」
現代思想 特集 人類の起源と進化―プレ・ヒューマンへの想像力』2016所収

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「三島喜美代」。「これ」をどう「見る」べきか。所謂「絵画」の様に〈見る〉べきなのだろうか。それとも他の何か――例えば大量の背表紙がこちらに向けられた図書館の書架を「見る」様な――なのだろうか。

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とは言うものの図書館の書架に収められたものは、多かれ少なかれ「読み」の「反復」に耐え得るものではある。一方新聞記事生産者(及び雑誌記事生産者)は、〈忘れる〉べき「消費」のテクストを印刷技術に任せて日々大量に製造する。新聞販売店は御丁寧にも新聞購買者に紙袋やビニール袋を渡し、印刷されたテクストを「消費」した瞬間に、「新聞」が「新聞紙」という「ブツ」に変化すると読者に認識させ、それを「リサイクル」に回す事を即す事で、「新聞」のテクストを〈忘れる〉様に即す。そのテクストを介して一喜一憂し、それを読む事で自らの「ポジション」を作っていった事をも含め。

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「三島喜美代」は、〈忘れる〉様に最適化されている、情報企業によって製造されたテクスト商品を、キャンバス上に糊付けて「収納」してしまう。一旦「消費」してしまえば誰も顧みる事をしないテクスト――「リサイクル」すらされない――を。

「情報の洪水」と言われる様な事態が仮に存在するとして、しかしその「洪水」には恐らく「正体」がある。「三島喜美代」のキャンバスの上に貼られた僅かばかりのテクストの物理的断片。それこそが「情報の洪水」の本当の「正体」なのかもしれない。そしてそれもまた、「手品」の手法によって、そのテクストが「新商品」として「輝いて」いた頃は、極めて「重要」なものとして見せられた――近代政治はこの「手品」こそを最大限に利用して「世論」を「喚起」する――ものなのである。

果たして「第57回ヴェネチア・ビエンナーレ」や「ドクメンタ14」や「ミュンスター彫刻プロジェクト 2017」を記述した「重要」なテクストが「三島喜美代」のキャンバスに貼られていたとしたら、それらの「ブツ」はどう見えるものだろうか。

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「荻原一青」の「背表紙」が並ぶ。しかしインデックスに気を取られてはならない。「荻原一青」の筆の穂先にこそ彼の「奇跡」の時間はある。ここにあるのはその積み重なりだ。

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いよいよ帰ろう。ここに居続ける事は出来ないし、既に「会場」を〈出て〉から「4ヶ月半」も経っている。

吉原治良」の緞帳の「舞台」側――即ち「紙」の「裏」側――は無地の世界だ。「吉原治良」の緞帳の「リュミエール」は客席側に当たっている。

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リュミエール兄弟」の「工場の出口」は、リヨンにある彼等の父親の写真乾板工場の外から撮られている。映像中の彼等は賃労働の時間から彼等のそれぞれの時間に帰って行く。

f:id:murrari:20170712101610j:plainリュミエールの工場内部

f:id:murrari:20170710120159j:plainリュミエールの工場内部

f:id:murrari:20170708111120j:plainリュミエールの工場空撮

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クリエイティブ・センター大阪「空撮」

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f:id:murrari:20170710115456j:plainクリエイティブ・センター大阪「空撮」

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「奇跡」は近くにある。「奇跡」は距離「ゼロ」のところにある。

 

はならぁと こあ「人の集い」

我が国は2008年をピ―クに人口減少局面に入った。合計特殊出生率は、ここ数年若干持ち直しているものの1.43と低水準であり、2050年には人口が1億人を割り込み、約9700万人になると推計されている。また、これに伴って、人口の地域的な偏在が加速する。我が国の約38万km2の国土を縦横1kmのメッシュで分割すると、現在、そのうちの約18万メッシュ(約18万km2)に人が居住していることになるが、2050年には、このうちの6割の地域で人口が半減以下になり、さらにその1/3(全体の約2割)では人が住まなくなると推計される。

 

国土交通省「国土のグランドデザイン2050」

http://www.mlit.go.jp/common/001047113.pdf

 

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沿線自治体の補助金がその運営を支えている「第三セクター」の非電化路線(軌道幅1067ミリ)に6年前に乗って以来、久々に単線(軌道幅1067ミリ)の鉄路に乗った。生まれて初めての近畿日本鉄道吉野線。二両から四両編成の路線で、一日で最も運転本数の多い朝夕の「通勤・通学時間帯」に、一時間辺り上下線各数本の列車が運行される(注1)。

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(注1)JST同時間帯の東京の山手線――事実上の複々線――は、2016年時点で乗車率250%オ―バ―で1分から2分間隔で11両編成の列車が運行される。

自分が生まれ育ったところは「東京都」だが、半世紀以上前に通っていた町立小学校――二年生になって市立小学校(至現在)になる――の前を走る私鉄の路線もまた、軌道幅1067ミリの単線だった。駅間で電車が停まり、対向列車を待つ。その状況は21世紀の現在も全く変わっていない。半世紀前には運転手と車掌の二人体制だったものが、寧ろ今では乗務する「ひと」を減らしたワンマン運転に変わっている。

「東京都」を走るこの路線を、将来複線化する意味も無いだろう。何故ならば、その沿線の「東京都」の一帯は、2014年に発表された国土交通省の「国土のグランドデザイン2050」的な表現を借りれば、2010年/2050年比較で「0%以上50%未満減少」地域の中にすっぽりと入り込んでいるからだ。果たして「ひと」が減るばかりの「東京都」を通る鉄路を、これから複線化する様な経営者はいるだろうか。寧ろやがてはこれを廃線にしてコミュニティ・バス路線への切り替えをこそ視野に入れるべき過疎化の「東京都」ではないか。

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この一帯の「東京都」は、元々が畑作の農家ばかりであったところに、昭和30年(1955年)前後に他所から集まって来た「入植」者達によって急速に膨らんで作り上げられた町だ。「入植」者達の幾人かは店を構えた。畑と畑の間に新たに何軒もの八百屋が出来、魚屋が出来、肉屋が出来た。

その「東京都」が現在の町の形になってから60年以上になる。20年程前から「入植」者の第一世代は鬼籍に入る年齢になった。「入植」第一世代で最も若年だった「星野六子」ですら――生きていれば――75歳だ。昭和の20代から30代に掛けての「入植者」の強健な足で徒歩数分――80代になった足では徒歩10分強――の圏内にあった数十の「家族」経営の店を継ぐ者は誰一人としていない。「入植」第二世代の多くは――店の二代目になると見込まれていた者も含め――この「東京都」を離れて行った。その結果、全ての八百屋が消え、全ての魚屋が消え、全ての肉屋が消え、その代わりに80代の足で片道20分強を要する築50年のス―パ―が残った。

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現在「入植」第二世代で、駐車場等の転用も儘ならない空き家、或いは植物にすっかり覆われてしまった空き地の増えたこの界隈に残っているのは、第一世代と同居する60歳前後の独身者ばかりになった。

彼等から第三世代は生まれない。極めて近い将来、同じ家に二世代の年金生活者だけが住むという図が普通になるだろう。「老人」ばかりになったこの「東京都」に、新たに入って来ようという「現役」世代がいないが故に、小中学校の下校時間になっても子供の声は一向に聞こえない。半世紀以上前に自分が通っていた幼稚園は、21世紀に入って「ベネッセの有料老人ホ―ム」になった。自分が卒業した市立小学校の現在の生徒数は、その当時の1/4になった。2050年を待たずにひたすら進行して行く「0%以上50%未満減少」の「東京都」。

小学校のクラス数が増え続け、サザエさんが放映開始(1969年)した頃の「家族」観を反映した「二世帯住宅」として建てられたヘ―ベルハウス(例)が、肝心のその「二世帯」目――フグ田家(例)――が住む事も無く、建てて30年で――その物理的な耐用年数の到来を前に――「老人」となった第一世代が持て余す広さになり、やがてそのヘ―ベルハウス(例)は「ひと」が「もの」の増殖――「ひと」がその増殖に加担する――に敗北する「ゴミ屋敷」(注2)にもなって行くという「東京都」である。

(注2)この「東京都」への「入植」第一世代が若かった頃の経済成長時に、それを持つ事が「憧れ」であった耐久消費財、所謂「三種の神器」の「冷蔵庫」や「自動車」も、「老人」となった彼等が現在「所有」するそれらの内部は、往々にして通電したままやナンバ―プレ―トが付いたまま/タイヤのエアが抜け切ったままの「ゴミ屋敷」と化す。

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国土交通省「国土のグランドデザイン2050」の予測によれば、2050年になっても東京都で人口増加しているのは――目立ったところでは江東区中央区の全域、港区の一部、八王子市南東部位のものである。その中の港区にある六本木は、縮小し続ける東京都にあって例外的に人口増加が見込まれている地域だが、果たして2050年の六本木にも「六本木クロッシング」や「六本木ア―トナイト」は残っているだろうか。しかし、21世紀初頭の日本人が呼び習わしているところの所謂「アート」は、2050年には最早六本木位にしか残っていないという可能性も考えられなくはない。

 現在、多くの地方都市は、人口減少や少子・高齢化、過疎化等の問題を抱えており、そしてこれらに起因する社会・人口構造の変化や郊外型大規模ショッピングセンタ―の台頭等により、中心市街地の空洞化が加速するなど地域の活力が減退している。
 国も中心市街地活性化のための助成など対策を講じて支援しているところであるが、地域の活力を再び取り戻すため、地域の特性や環境にマッチしたさまざまな方策により地域再生地域活性化をめざす積極的な取り組みが全国各地の都市で展開されている。
そうしたなか、現代ア―トが地域活性化のシ―ズとして着目されるようになった。ヨ―ロッパでは 1980 年代より産業構造の転換をきっかけに多くの都市で芸術文化の持つ創造性に注目し、芸術文化と各都市の既存資源を組み合わせた都市再生戦略が組まれるようになり、バルセロナやボロ―ニャのように芸術文化のまちとしての地位を確立した都市も多い。そして、わが国でも横浜市金沢市等が、芸術文化による都市再生を標榜する「クリエイティブシティ(創造都市)」としての構想をいち早く掲げ、都市戦略を策定・実践し、地域活性化に向けた積極的な取り組みを進めている。

 

日本政策投資銀行「現代ア―トと地域活性化」(PDF)
http://www.dbj.jp/pdf/investigate/area/kyusyu/pdf_all/kyusyu1009_01.pdf

 これは藤田直哉氏編著の「地域ア―ト」でも紹介されている日本政策投資銀行の2010年のレポ―ト「現代ア―トと地域活性化」の冒頭部である。その最初のセンテンスに書かれている様に、「地域の活力」が「減退」する主因は、「人口減少や少子・高齢化、過疎化」にある事に誤りは無い。そして非情の予測である「国土のグランドデザイン2050」が描く2050年には、その様な「人口減少や少子・高齢化、過疎化」は、21世紀初頭の様な「地方都市」に限った話ではなくなる。

仮に「現代ア―トが地域活性化のシ―ズ」として有効視されるのであれば、2050年には「首都圏」を含む日本のあらゆる場所が「地域活性化」の「種」を切実に望む事になるだろう。近い将来、その「種」は日本全国に遍く撒かれる事になるのかもしれない。しかし果たして「地域活性化」を求めて止まない地――(例)2050年の「東京都」――に住む者が、他の「地域活性化」を求めて止まない地――(例)2050年の「瀬戸内」――に出掛けて行って「互助」的に金を落とすものだろうか。いずれにせよ、その様な「活力」創出の「地域活性化」策では、「人口減少や少子・高齢化、過疎化」を止める根本的な手段には到底ならないだろう。「関係性の美学(例)」と「人口減少や少子・高齢化、過疎化」は凡そ別位相にあるからだ。

有りがちな人類滅亡のシナリオの様に、人類間の大規模な相互殺戮が起こらずとも、微生物を含めた未知の不明生物が前触れ無く出現せずとも、人間の能力を超えた電子計算機が人間に対して叛乱を起こさずとも、地球環境が人類の生息に適さないまでに激変せずとも、そうした創作物映えするトピックを一切経由せずに、「結婚」や「出産」を経験した者がそれらを良きものとして口にする事が最大級のハラスメントの一つになった日本列島では――人類全体の頭数が増える一方で――僅か30数年1世代で――あの「太平洋戦争」を含む「15年戦争」の戦没者とほぼ同数の――300万人の人間がだらだらと知らぬ間に減り、後に残るのは「老人」ばかりになって行くというのは、疑い無きものとされてきたものを疑う事を良しとする(注3)という、「先進国」的な「ひと」の「習慣」の必然的結果の一つでしかない。リアルな「ロスト・ヒュ―マン」とは、まさしく現在進行形の「習慣」の中にこそあるものなのである。

(注3)当然の事ながら「ア―ト」もその「習慣」の内にある。

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以下の「はならぁと」の「こあ」、「人の集い」に関する記述は、それが始まって間も無い10月初旬段階での話になる。「捩子ぴじん」氏のパフォーマンスも見ていない。複数の「人の集い」に関する報告例を見たところでは、「バ―ジョン・アップ」はその終了の日(10月31日)までに様々にされていた様だ。それらの報告例を見る限りに於いて、始まって間も無い時点で自分が体験したものと異なっているところもある。

但し「機会」というものは、誰に対しても「均しい」ものには決してならない。そして「機会」が、商取引に於ける公平性の如き「均しい」ものになど決してならないというところに、「人の集い」が指し示すものの一つはあるだろう。

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初めての近鉄吉野線の、壺阪山という初めての駅を降りる。ICカード対応自動改札機を自分を含めた3人が通る。読み取り部にチケットが溜まった PASMO をタッチする。

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同駅は「はならぁと 2016」の「こあ」=「人の集い」の「降車駅」であると「はならぁと」公式サイトには書かれている。

これから赴く場所は、「国土のグランドデザイン2050」では「50%以上100%未満減少」の地域とされている。1970年に9,413人だった当地の人口は、2016年には7,083人という事らしい。これから数十年で「東京都」ですら起きる事が、ここでは始まって既に久しい。「全国の年齢別人口分布」で目立つ「団塊ジュニア」のピ―クはここには無い。或る意味で、ここは「都市部」の「未来」を数十年先取りしている「最先端」の地なのである。

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Wikipedia「高取町」のスクリ―ンショット

さても「人の集い」の会場に向かうにはどうすれば良いのか。しかしこの日、駅構内にも駅周辺にもそれらしき案内は皆無だ。駅舎の中のパンフレット・ラックにも「はならぁと」のものは無かった。

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駅舎を出てすぐ左に「町家のかかし巡り」を案内する「かかし」がいた。ただしそれは農作物を荒らす「カラス」等の「害獣避け」を目的とした生活の中のものではなく、既に「かかし」という概念を拡張した等身大の「人形」だった。しかし恰もそこに「人間」がいると一瞬錯覚させる――一方は「害獣」に対して、一方は「ひと」に対して――という点のみで言えば、両者は恐らく同じものである。

いずれにしても高取の地元にあっては、「はならぁと」<<<<「町家のかかし巡り」という扱いなのだろうと判断し、仕方が無いので、スマ―トフォンを出して「はならぁと」の公式サイトを表示し、自らの進むべき方向を探ろうと思ったその時、案内「かかし」の右手奥、駐車場のフェンスに「町家のかかし巡り」の看板が括り付けられている事に気付いた。そして同時に、その看板の中央に「奈良・町家の芸術祭 はならぁと 同時開催!」の文字を発見する。

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察するところがあった。

急いで案内「かかし」まで戻る。そして「かかし」の前のテ―ブルに用意されていた「町家のかかし巡り」のマップ(B4サイズ/片面印刷)を一枚取る。手に取って「ああ、やはり」と思った。その「町家のかかし巡り」のマップは「はならぁと」のマップを兼ねていた。「町家のかかし巡り」のマップの中に、「牛の居る所」や「じいちゃん・ばあちゃんの館」等に混じって、フェンスの看板には記されていなかった「はならぁと作品展示」の位置が書かれている。

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「はならぁと」の「こあ」は、「町家のかかし巡り」の「同時開催」の位置にある。或いはその位置にある事を装っている。「敵」――「余所者」ーー認定で終わってしまう事を避ける為のその政治的戦略――全方位的に成功しているか否かは別にして――こそが「はならぁと」の「こあ」に於けるキュレ―ションの「こあ」の一つを形成している。壺阪山駅の改札を通った瞬間に、キュレ―ションとキュレ―ションが戦う場の中に既にいたのだ。

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内側と外側が反転した「驚異の部屋」と化した駅前食堂(双葉食堂)を抜けて国道169号を渡る。幾つかのシャッタ―の閉じられたままの建物を過ぎる。土佐街道の「入口」/「出口」――古地図には存在していないセンタ―ラインが引かれた道の「入口」/「出口」でもある――には、「土佐街道周辺景観住民協定 土佐街道まちなみ作法 七つの心得」なる立て札があった。「この協定は住民の自主的なル―ルであり、法的規制ではありません」と書かれている。その立て札が立つ交差点の周辺をぐるりと見渡してみて、テ―マパ―ク内のデザイン規制にまでは至らないその「協定」の拘束力を確認する。

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高取城跡に向かって上り坂になっている元城下町土佐街道の「入口」/「出口」にある「協定」の向かいの「牛の居る所」には、その日――印象として――平均70歳の一群で溢れていた。聞けば「町家の案山子めぐり」バスツア―の人達であるという。そこから土佐街道の道一杯に広がって、互いの顔を見合わせておしゃべりに興じつつ「散策」を始める時速2キロメ―トルで道一杯に進む一群を、2頭の30代と思しき牧羊犬(ツア―コンダクタ―)が率いていて、「は〜い、クルマが通りますよ〜。端に寄って下さ〜い」とバウワウ吠えている。

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2015年10月11日の朝日新聞記事によれば、今年で8回目となった「町家のかかし巡り」は2009年に始まっているらしい。

60歳以上の会員を中心につくる「天の川実行委員会」が、地域の活性化につなげようと活動している(略)実行委員会は、春には民家にひな人形を飾る「町家の雛(ひな)めぐり」を開催している。07年以降、土佐街道沿いには新たに6軒の飲食店などができ、活気が戻ってきた。代表の野村幸治さん(73)は「定年になった人の時間を有効活用して町を活気づけたい。町がにぎやかになれば、お年寄りも元気がもらえる」と話している。(朝日新聞 2015年10月11日)

60歳以上が作り、平均70歳が見に来る――10月1日から同月31日までの――「地域活性」。確かにこの日の土佐街道は「にぎやか」だった。高取にやって来たゲストの平均70歳の一群は――それぞれ自身の懐旧譚を口に――とても楽しそうに振る舞って――互いに楽しさを交換可能なものとしてプレゼンテ―ションし合って――いて、また当然の事ながらホストの60歳以上もとても楽しそうだ。不透明的な「未来」に向けての話ではなく、透明的なものと信じ込んでいる「過去」に向けての話ばかりが飛び交う、「お年寄り」で「にぎやか」な町の風景。しかしそれは既に、日本の何処でも見られる普通の光景だ。

「お年寄り」がここにバスを仕立ててまでやって来るのは、「幸福」で「愉快」で「無邪気」(公式ガイドブック:遠藤水城氏のテクストから)なものを、それとして再確認しに来るからだ。「幸福」や「愉快」や「無邪気」(それらを合わせたものとして、以後それを「心地の良さ」とする)とされるものは、他ならぬそれを求める者自身の「心地の良さ」観に基いて認識される。即ち「心地の良さ」は、「条件と限界」(遠藤水城氏)、即ち “requirement"(要件=環境)の内にある。「見たいものをしか見ない」というのが「心地の良さ」の正体だ。

「お年寄り」が「心地の良さ」を求めて物見遊山でこの地にやって来なければならないのは、彼等自身の「心地の良さ」それ自体が「条件と限界」= “requirement" の内にあるが故に、「心地の良さ」の「条件」の成立が困難なものになり、その「限界」が露呈してしまった21世紀の日本の彼等の日々の生活の中で、すっかり非日常になってしまっているからだ。

やがて「50%以上100%未満減少」という、或る意味で「心地の良さ」の対極状態になる事が事実上決定的なもの=宿命になってしまっているこの町――「町家」という「ひと」が住む(最低限「資産として所有する」でも良い)場所の保全には、人口流入を含むこの地の「ひと」の「世代交代」が極めて現実的な絶対条件となる――を、些かの厚みも持たない開店祝の花輪の如き――花輪の花はそこには根付かない。宴が終わればそれは捨てられる――「にぎやか」によって「活気づけたい」60歳以上の「お年寄り」の「心地の良さ」観は、この催しに集う平均70歳の「お年寄り」も多く共有する。

この「町家のかかし巡り」が、キュレ―ションされたものである事は言を俟たない。そこに集っている「かかし」は、60歳以上の高取町の「善男善女」による「オ―ディション」を「無事」に通過しているものばかりだ。この土佐街道、この高取町、或いは隣の「神武天皇陵」――「天皇制」の近代的「整備」と並行して行われた明治以降の「京都御苑」「伊勢神宮」「熱田神宮」「皇居」等の「整備」同様、大正年間に現在見られる様な「清浄」な空間/景観に「整備」される事で「聖蹟」となった(注4)――がある橿原市、或いはまた奈良県近畿地方や日本全国や世界全体の歴史を少しでも浚ってみれば、「心地の良さ」が条件である「町家のかかし巡り」に集う権利を持たされていない多くの「かかし」の存在を想像する事は十分に可能だ。

(注4)参考「吾等は、窮天極地、此山の尊厳を持續して、以て天壊無窮に、日東大帝國開創の記念としたいと思ふ。驚く可し。神地、聖蹟、この畝傍山は、甚しく、無上、極點の汚辱を受けて居る。知るや、知らずや、政府も、人民も、平氣な顔で澄まして居る。事覽はこうである。畝傍山の一角、しかも神武御陵に面した山脚に、御陵に面して、新平民の墓がある、それが古いのでは無い、今現に埋葬しつゝある、しかもそれが土葬で、新平民の醜骸はそのまま此神山に埋められ、靈土の中に、爛れ、腐れ、そして千萬世に白骨を残すのである。土臺、神山と、御陵との間に、新平民の一團を住まはせるのが、不都合此上なきに、之に許して、神山の一部を埋葬地となすは、事こゝに到りて言語道斷なり。聖蹟圖志には、此穢多村、戸数百二十と記す、五十餘年にして、今やほとんど倍數に達す。こんな速度で進行したら、今に靈山と、御陵の間は、穢多の家で充填され、そして醜骸は、をひ\/霊山の全部を浸蝕する。」後藤秀穂「皇陵史稿」(1913・大正2年)

「町家のかかし巡り」には、「お年寄り」の資産を虎視眈々と狙う「振り込め詐欺」の「かかし」はいない様だ。「デイケア」の介護士の「かかし」も探したものの見付からなかった。「アニヲタ」の「かかし」もここにはいない。もしかしたら「同性愛」者の「かかし」もいないかもしれない。19世紀の「開国」以降――現在までに――近隣の国から来た「外国人」の「かかし」はどうだろう。しかしそうした「現実」的な存在は、「心地の良さ」を何よりも尊ぶ「天の川実行委員会」のキュレ―ションによって「見えない」ものとされている。

会期中に41歳になった――2050年には75歳になる――キュレ―タ―がキュレ―ションした「人の集い」――その参加作家の全ても2050年には(存命であれば)「老人」である――は、この「心地の良さ」に基づいてキュレ―ションする「お年寄り」達と、敢えて同居する事を選択した。その結果、所謂「地域ア―ト」に期待されもする「地域活性化」の役目を、「地元」の「町家のかかし巡り」に全面的に委ねる事で、「地域アート」とされるものが、「地域」に於ける「にぎやか」を「創出」しなければならないという軛から逃れられてもいる。

豪壮だった山城が嘗て聳えていた方向に向かう、名目的には明治6年の高取城の廃城まで「城下町」だった土佐街道のだらだら坂を登って行く。「町家のかかし巡り」の「かかし」の数は、今回250体とも言われている。その一方で町中で出会う「生きている」地元住民はそれよりも遥かに少なく思える。

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「はならぁと」のフライヤ―、及び公式ガイドブックの表紙のイラストは、この地(注5)に生活の根を下ろしていない事が一目瞭然の、極めて幅の狭い年齢層(20代〜30代前半)のツ―リスト――前掲70代のツアー客ばかりの土佐街道の画像とのギャップを見よ――、及び「はならぁと」の関係者だけが「この世」の存在として描かれていて、そうした彼等を迎える筈の「この世」に現実的に生きている地元住民(60代〜70代が人口構成のピ―ク)の代わりに、恐らく死者であろう「この世」ならぬものが出迎えたりすれ違ったりしている。

(注5)イラストが使用している「町並み」は、「高取土佐町並み」(「こあ」)ではなく、橿原市(2050年に対2010年比で0%以上50%未満減少)の「今井町」(「ぷらす」)のもの。

「この世」の地元住民のボリュ―ムを遥かに凌駕する様にも見える、過去の「心地の良さ」をセレクトして再現した懐旧の対象としての「かかし」。「町家のかかし巡り」の「かかし」は、嘗てこの地に住んでいて、今は不在となった者達の極めて一面的な象りだ。その不在の象りを挟んで、60歳以上のホストと70歳のゲストが、それぞれの己が内に留まる既知の「心地の良さ」を相補的に確かめ合う。

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恐らく嘗ては飲食店であっただろうと想像される――建物の中にカウンタ―がインスト―ルされている――「遺跡」の前では、「かかし」が神輿を囲んで祭り支度だ。その「遺跡」と「かかし」の組み合わせを見て、その対極にあるだろうポンペイの「石膏像」を想起した。肉体が脱型されて空ろになった火山灰の型に、石膏を流し込んで「人像」として見せているあのポンペイ遺跡の「石膏像」である。

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ポンペイの遺跡の「石膏像」と、高取の店の遺跡の前の「かかし」の違い。それは「ひと」を巡る「環境」を多弁なまでに示すものと、それを敢えて欠落させたものとの違いだろう。「かかし」は「環境」を忘却する為にこそ存在する。仮に「町家のかかし巡り」に「我が子を守る母親」の「かかし」があったとしても、それはポンペイの「石膏像」のそれの様には決して見えない。その「かかし」は、「心地の良さ」に満ちた母子間の「愛情」の部分だけを生暖かくクロ―ズアップさせるに留まるだろう。「ひと」と「もの」との関係に永遠に立ち入る事が出来ない「人像」のイマ―ジュが、ここで「かかし」と呼ばれるものなのだ。

デュオニソスから超能力を授けられたミダス王の如く、「かかし」が触れるものの全ては「かかし」になってしまう。それは恐るべき “Kakashi touch" だ。「町家のかかし巡り」では、「人像」をした「かかし」に触れられた犬や牛もまた「かかし」化する。それどころか薬屋の薬箱も子供の自転車も井戸もベンチも座布団も麺棒も町並みですらもが、全て「かかし」になってしまう。私(「かかし」)が触れるものは、全て「心地の良いもの」になれ。こうして10月の土佐街道は、「環境」(「もの」の世界)と共にある「ひと」が後景化し、それに代わって全てが「かかし」的なものになったのである。

明治期に払い下げられた高取城藩主下屋敷の表門が移築された皮膚科医院をの前を通り過ぎて暫く行くと、最初の「はならぁと作品展示」(「島崎ろでぃ―」)がされている「下土佐公民館別館」が見えて来た。3年前の2013年のストリ―トビュ―を見ると、そこは街道に面した塀の殆どが取り払われる事で「関係性」/「交流」(注6)/「交渉」(以下「リレ―ショナル」)の空間となった「公民館」(コミュニティ・スペ―ス)ではなく、まだそれらを可能にする条件としての「ひと」の生活拠点である「民家」(プライベ―ト・スペ―ス)だった。「協定」からは遠い「町家」を否定した作りである。

(注6)「はならぁと」と同時期、岡山市では「岡山芸術交流 2016」が行われていた。同「交流」会場周辺の人口は、2050年には「0%以上50%未満減少」とされている。「駐車場」であったところに何か「異物」が落ちて来たとしても、2050年にはその「異質性」を「異質性」として認識する「ひと」自体がそこにいなくなっているかもしれない。

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果たしてこの先も、「主体」の量的ボリュ―ムが縮小する一方の――であればこその――この地には、「リレ―ショナル」の空間と、「リレ―ショナル」の技術ばかりが増え続け、そればかりが恒久的に残り続けて行くのだろうか。私が触れるものは全て「リレ―ショナル」を体現するものになれ。しかしあのミダス王は、金を価値付ける条件を失った金ばかりになってしまった世界を呪ったのである。

「はならぁと」のインフォメ―ション拠点でもあるそこで、「公式」の「町家のかかし巡り」のマップに「似せた」――しかしそれが「本物」では無い事が、直ちに判明する様には作られている――輪転B4サイズ(B4の「公式」より若干大きい)の「町家のかかし巡り」マップが置かれていた。キュレ―ションの存在を感じるそれを手に取ってみると、輪転B4サイズだと思われたものは、実際には輪転B3サイズを二つ折りしたものだった。折りを広げると、マップの下に Takuya Matsumi 氏の photo が現れた。そしてその裏側が、「日本シリ―ズ第1戦」の謎掛けを伴った「人の集い」のポスタ―になっている。

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そしてもう1枚のマップが、折り畳み机の上にあった。それは「はならぁと こあ 展覧会『人の集い』 会場案内図」とされるものである。これで「はならぁと」の「こあ」のマップは計3枚になる。

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その3枚目のマップには「動線」が記されていた。即ち「はならぁと」の「こあ」は「何処から見ても良い」ものではないという事を示している。空間的な布置関係として、①の次に見たくなるだろう⑤は、しかし②、③、④を経て最後に見なければならない事が、ここでは明確に示されている。このクロスした「動線」にキュレ―ションの存在がある。⑤のみが建物の中にまで矢印が入り込んでいるところにキュレ―ションの存在がある。同マップ裏面の「会場図」で、⑤のみに動線が示され、且つ「終点」の位置までが明記されているところにキュレ―ションの存在がある。

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そうしたキュレ―ションを敢えて無視して見て回る事も勿論可能だ。「終点」まで足を伸ばさなくても良いかもしれない。事実「町家のかかし巡り」目当てに訪れ、「同時開催」の「はならぁと」に接した70歳の全員がキュレ―ションを無視している。しかしそれは、この細長い街道上で編集されたものの編集が示す何かを読む機会を失ってしまう事になる。ペ―ジの順序を守る事にした。

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①会場。「町家のかかし巡り」も「町家の芸術祭」も、「下土佐公民館別館」の内縁から先に上がり込む事を禁じていた。畳敷きの部屋の中央には座布団に座った「町家のかかし巡り」の車座があった。その車座の「かかし」越しに「2015.06.22 新基地建設反対運動(沖縄・辺野古)」と題された「島崎ろでぃ―」撮影のコンクリ―トの上の車座の「写真」が見える。座っている/座っている。

「写真」を見ると、反射的に身構えてしまう自分がいる。ミダス王となった「かかし」同様、「写真」に触れられた者の多くは「写真」の脳になってしまい、前後左右や先後から切り離された「写真」をこそ唯一的な原点として物事を考える様にされてしまうからだ。それもまた裏返った「心地の良さ」になってしまう。だからこそ全ての「写真」は、「写真」の外にある「間」こそを見なければならない。

全てを「心地の良さ」に回収しようとする「かかし」と、「心地の良さ」への回収を拒む「写真」の「間」にあるものを見る。そこには「かかし」と「写真」が、それぞれの「良心」に基づいて捨てた、14ギガパ―セクに至るまでの全方向的な前後左右や、全てのものの始まりから終わりに至るまでの先後がある。「間」だけがその前後左右先後に通じている。

「町家のかかし巡り」と「町家の芸術祭」の「間」にあるものを見る為の「町家の芸術祭」という自己言及の形がこの「同時開催」にある。「町家の芸術祭」の入口にある、「かかし」と「写真」の極めて違和的な同居は、「町家の芸術祭」で見るべき「間」を見る為の、エレメンタリ―なトレ―ニングの場なのだろう。

「下土佐公民館別館」の前景の「かかし」に見入っていた70歳の2人が、後景の「写真」を訝しげに思ったのだろう。「はならぁと」インフォメ―ションに詰めている「受付嬢」に、それが何であるかを尋ねていた。「受付嬢」はそれを「美術」であると説明した。それを聞いた瞬間に、70歳の中で前景と後景が切り離され、「間」へ到る道が閉ざされてしまった事が見て取れた。更なるスキルが必要だと感じた。

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軒先で〈1ケ〉¥80のコロッケや、〈¥5ケ入り〉¥150のチキンナゲットや、〈ワンカップ〉200円のハリケ―ンポテトが売られている会場②だ。その日は若干汗ばむ気候であった為に、そこで¥100のサンガリア「一休茶屋 あなたのお茶 500ml」を買った。大学の学園祭の模擬店辺りでも売られている様な揚げ物三兄弟には手が出なかった。唐揚げやフライドポテトやポテトチップスを喜んで食べる様な年回りではない。串こんにゃくやしし汁やくず餅や柿の葉寿司といった、この「地」の「力」を幾許かでも感じられる――そこが「海」や「山」と繋がりもする「石垣克子」の軒先であるだけに――ものが欲しかったが、しかしそれは無い物ねだりというものだろう。

外観は「町家」ではある。しかしここはシャッタ―が備え付けられた「西川ガレ―ジ」だ。

沖縄生まれで沖縄在住の作家の②会場は、沖縄を写した東京都杉並区在住の写真家の①会場とは異なり、「かかし」の数がぐっと少なくなる。ベビ―カ―を押した上下デニム・ペアルックの若い蚤の夫婦の一家の「かかし」だけがそこにいる。「石垣克子」を眺めているという図だ。

何処かから運ばれて来て、そこに立たされた形でインスト―ルされている「かかし」。懸命に具象的な「個」であろうと欲する「かかし」。「へのへのもへじ」の顔や、「藁束」や「竹竿」の身体を捨てた「かかし」。されど「彫刻」であるが故に「不気味の谷」にまでには決して到れない「かかし」。「サンゴコルク人」の対極にある「かかし」。

その後ろ姿が、一瞬実在の「観客」に見えてしまうのならば、それは実在する「現代美術」の「観客」の多くもまた、何処かで「へのへのもへじ」や「藁束」/「竹竿」である事を捨てた「かかし」になってしまっているからだろう。実在する「観客」と同じ様に作品を見ている「かかし」なのではなく――事態は全く逆で――「かかし」と同じ様に作品を見ている実在の「観客」なのだ。何処かから運ばれて来て、そこに立たされた形でインスト―ルされている「現代美術」の「観客」。「美術」ばかりを「かかし」と同じポ―ズで「観察」する者。それは恐らく「石垣克子」に描かれた「黄色い人」から遥かに遠い存在とも言える。この「かかし」と一緒にセルフィ―写真を撮れば、「観客」は決して「黄色い人」の様には写らず、「かかし」と見分けの付かない「彫刻」になってしまうだろう。

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一点の「石垣克子」の上に蜘蛛が佇んでいた。恐らく先住者なのだろう。蜘蛛は蜘蛛の眼で「石垣克子」を見ている。その眼を通して世界と関わって来た蜘蛛だ。「人の集い」の会期が終われば「石垣克子」は沖縄に――手厚く梱包されて――帰る。そして蜘蛛はこの地に留まる。

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⑤を素通りする。丸ポストのあるT字路に差し掛かった。近世の街道と現代の二車線道路がぶつかる交差点だ。

T字路には「ギネス ワールドレコーズ 高取城」というトリッキーな看板――それが示す矢印の先には「高取城跡」は無い――と共にトリッキーな「かかし」達がいて、「かかし巡り」の人々を一瞬だけ混乱させもする。そこに一本の立て札があった。

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土佐町由来

 六世紀の始め(原文ママ)頃、大和朝廷の都造りの労役で、故里土佐国を離れこの地に召し出されたものの、任務を終え帰郷するときには朝廷の援助なく帰郷がかなわず、この地に住み着いたところから土佐と名付けられたと思われる。

 故郷を離れて生きて行く生活を余儀なくされた人達のたった一つの自由な意志は故里の名を今の場所につけることであった。(略)

 

望郷の想ひむなしく役夫らのせめて準う土佐てふその名

海の見える土佐の国から、海と全く無縁の――従って「柿の葉寿司」が当地の名産となっている――この山間の地に「税制」によって強制的に集められた人々の無念を偲ばせもする伝承だ。高取には「土佐」の他にも「薩摩」や「吉備」の地名もある。

この山間の地から遥かに遠い地の人々を徴発出来るまでには「権力」となっていた6世紀の「朝廷」が定め、「雇役」の民が築いた「都」や「古墳」。

草枕 旅の宿どりに 誰が夫か 国忘れたる 家持たまくに」(柿本人麻呂

往還が自弁という「理不尽」な「雇役」(注7)が終わり、それぞれの故里へ帰る道々には、志半ばで病死した者の死体が転がっていたのだろう。「文化」は「文化」であろうとする時、しばしば血塗られたものになる。「古墳」の多さを誇る事は、同時に「無念」の多さを誇る事でもある。「日本の歴史」は「都の歴史」や「古墳の歴史」の側にあるだけではない。

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(注7)「崇高」なるものへの「奉仕」である飛鳥・奈良時代「雇役」から更に給与支払いを省けば、同じく「崇高」なるものへの「奉仕」である2020年東京オリンピック・ボランティアの待遇になる。

しかし土佐の人々の生活を破綻させてまで造った「飛鳥」の「都」は、造られて程無くして他所に遷都される事になる。やがてここが嘗ての「都」であった事を示すものは跡形も無くなる。その「都」がどの様なものであったのかを、21世紀人の誰も想像する事は出来ない。

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街の駅「城跡」(KISEKI)が「町家のかかし巡り」のメイン会場になる。ジブリのキャラクタ―造形のガイドラインから絶妙に外れ――従って「町家のかかし巡り」のインフォメ―ションには “© Studio Ghibli" が入れられていない――、「心地の良さ」ばかりとなってしまった「トトロの世界」が、元「JA上土佐支店」の農機具倉庫の中に展開されている。

その元JAの隣が、毎年11月23日に行われる「たかとり城まつり」の「日本百名城写真展」会場になる元「高取町商工会館支所」(現:天の川実行委員会 事務所)の建物――「町家」からは程遠い――であり、そこが今回の「はならぁと『こあ』」の③会場になっている。

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ほぼ2015年11月23日の「日本百名城写真展」の儘にされていると思われる室内には、「高取町観光ガイド・エリアガイド」の Facebook にある【町家のかかし達 Making】動画で見られる、椅子に座って「日本百名城写真展」を見る「かかし」達はいなかった。①会場の13体/13人の「かかし」、②会場の3体/3人の「かかし」、そして③に至って遂に「かかし」は0体/0人となった。「かかし」に代わって出待ちのひいなちゃん(脱魂状態)がそこにいた。

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その代わりに、そこでは――死体や幽霊や神をも含めた――如何なる者でもあり得る「ひと」が柔道をしていたりした。

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一方これは、北米大陸オハイオ州)のフォ―ト・エンシェント文化(紀元900年〜1550年頃)の人が描いた「ひと」だ(レオ・ペトログリフ)。

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この最大で1000余年前の「ひと」が、「懐旧」を可能にする時間と「高取」という空間の中に押し込められた「かかし」の横にいたら、それは単に「1000余年前」の「北米大陸」の人が描いた「プレヒストリカル」な「プリミティブ」を表象するイメ―ジになってしまうかもしれない。しかし「本山ゆかり」の「画用紙(柔道)」の左右どちらかの「ひと」と、このフォ―ト・エンシェントの「ひと」が入れ替わったとしても、「AD2010」年代の人が描いた「ひと」と「AD900」年の人が描いた「ひと」は、容易に柔道が出来るのである。それは絵柄の共通性以上のものが、最大限の可能性/可塑性を持つ形象としてあるそれらの「ひと」と「ひと」との「間」にあるからだ。「ひと」が可能性としての「ひと」として集まる事。恐らくそれが「人の集い」というものなのであり、或いはその様にしか「ひと」は集えない。

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2015年11月23日のまま時間が停止している「日本百名城写真展」を見る。壁面の百名城には、近代日本国家の宝となって絶えずメンテナンスされ続けている城がある。近代日本市民の宝として再びこの世界に往時の姿をシミュレ―トして現れた城もある。その中に植物の時間の中にある天空の城、高取城があった。

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明治6年の廃城決定の瞬間から、難攻不落とも言われた城を、植物が極めて静かに攻め立てている。元城主植村氏によって撮影された廃城後10数年経過した高取城の写真には、既にその予兆が見えている。

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飛行石の存在が無くても、多かれ少なかれ高取城は植物によって覆われ、その物理的破壊力で石積みは崩壊して行くだろう。この世(此岸)とあの世(彼岸)の――少なくとも――2つの “n" の境界上にある高取城跡。

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「在りし日の高取城」という大判CG出力がラティスの上に展示されていた。

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高度500メ―トルのヘリコプタ―から、20万発/秒のレ―ザ―を照射する事で高取城の地形を計測。そのデ―タに基づいて赤色立体地図が作られた(PDF)。「ひと」の手を離れてから100数十年程度では、「ひと」によって平坦化された地形への浸食作用の影響はまだ少ない。

平成27年7月8日、奈良県橿原考古学研究所アジア航測株式会社は、上空からレ―ザ―光を照射し、樹木に覆われて見えない日本一の山城高城城の現在の姿を初めて視覚的に明らかにした。

「日本百名城写真展」キャプション

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植物(生物)は根こそぎ剥ぎ取られ、火星の如き惑星の表面――豊富な水の存在が生み出した地形ではある――が現れた。

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それを元に「たかとり観光ボランティアガイドの会」と奈良産業大学(現・奈良学園大学)の産学協同「高取城CG再現プロジェクト」が、古写真や縄張図等の資料と照らし合わせて「ペ―パ―クラフト」の如き空箱群を出現させた。

この一見したところでは正確なものに見える、しかし逞しい想像力でその大部分が構成されている、「確からしさ」のテクスチャを貼られた空箱で構成された「再現」イメ―ジからは、「ひと」の存在が除外されている。そこに「ひと」が常住していたからこそ、辛うじて植物の侵攻や侵食を食い止められていた城であるというのに。

高取城高取城である為の外せない条件である「ひと」を、無人の「在りし日の高取城」CGに加えるとする。それはどの様に表現されるのが良いだろうか。例えば「たかとり城まつり」のコスプレ時代行列にも通じる、意味と価値ですっかり重くなった――それは甲冑の重さではない――武者のイメ―ジをそこに配置すれば良いのだろうか。しかしあらゆる可能性を捨て、「確からしさ」という同一性へ常に向かおうとする不安障害は、――多かれ少なかれ――「捏造」に陥る不安に脅かされる「再現」を吐き出すに留まってしまう。

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平戸城」17世紀

逆説めいてはいるが、そうした不正確であり続けるしかない「確からしさ」――例えば2016年日本の「確か」なイメ―ジを誰が描く事が出来るだろうか――を可能な限り避けられるものは、同一性に至り付く事が凡そ不可能である様な可塑性の中にある表現法――棒人間の様な――こそが最適解の一つになるだろう。ジョヴァンニ・バッティスタ・ピラネ―ジは、その「描けてしまう」という――しばしばそれは悲劇的でもある――能力を放棄して、棒人間をこそ自らの想像上の古代ロ―マの中に描くべきだったのだ。

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④会場は「野口家」というらしい。①会場と同様の形式で「町家」を否定した作りの建物だ。

2013年のストリ―トビュ―との異同は、今から3年前には存在していた可憐な花壇――「野口家」の存在を伺わせる――が、2016年の「はならぁと」の日々にあってはすっかり取り払われてしまっている――代わりに「はならぁと」のタテカンがそこにある――ところと、僅か3年で劇的に変わってしまったカ―テンに対する趣味である。「動線」はここが「折り返し地点」になっている。

土佐街道にすっかり開け放たれて、「リレーショナル」の空間となった「野口家」には、4体/4人の「かかし」と、①に続いて再度登場の「島崎ろでぃ―」による「2015.08.30 安保関連法案反対行動(国会前)」が同居していた。

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脳内で戯れに「かかし」の「4体」を「4人」の姿にすっかり変身させて、「2015.08.30 安保関連法案反対行動(国会前)」の「写真」の中に放り込んで座らせてみた。彼等はその「写真」の中の何処かにいる筈なのだが、何処にいるのか判らなくなった。

それから今度は「2015.08.30 安保関連法案反対行動(国会前)」の「写真」の中の人達を「かかし」にして、「野口家」の土間に座らせてみた。瞳孔の開き切った――ボタンの眼――全員の顔を東北東の方向に向ける。置き薬屋の薬箱の代わりにラウドスピ―カ―、手には「アベ政治を許さない」。向こうの方では「鉄柵決壊」していて、道路交通法に言うところの歩道と車道の区別を無くしている。ネコバスではない大型車両「かかし」の車列の前には、機動隊員の「かかし」もいる。これだけの数の「かかし」がいれば、カラスは田圃の米を狙うのを永久に止めるだろうか。

「反対運動」を象った「かかし」で溢れ返った「野口家」の土間には、空気を震わせるラップもジャンベも聞こえない。静かだ。その静かさは、国会前の大群衆の中にも確実に存在していた「間」で感じた、底の無い「音」がする静かさに似ていた。

無数にある「間」を見る。耳を澄ませば「間」の「音」がする。

今日の少なからぬ「現代美術」は、「作品」自体が「物神」的「価値」を持つ――「作品」と呼ばれる有形物を売らなければならないという強迫はここから始まる――「極点」になってはならないという理念を多かれ少なかれ持つ。その理念に於いては、「作品」という異物の出現――世界の「間」をこじ開ける「作用」の出現――にこそ「価値」は生じる。即ちそれは、本来的には大道芸人――メディウムを売る人――の帽子に投げ込むコインの様な類いの「価値」である。果たしてここでコインを投げるべき対象は何になるのだろう。

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④から100メ―トルばかりを戻る/進む。2013年のストリ―トビュ―では「工房いろは」「地域の居間」となっている建物の前まで来ると、物見の存在を感じた。玄関に立つ「はならぁと」スタッフのものではない視線。ボタンの眼の「かかし」でもない――「かかし」にはそうした力は無い。見上げると2階の格子窓に視線の送り手がいた。

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この日最初で最後の鰻の寝床(総二階)に入る。

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格子戸を潜ってすぐ左の部屋に動く「もの」があった。その隣の部屋に続く襖が開け放たれ、その隣の部屋にも動く「もの」があった。

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「ひと」が座った高さの「もの」。「首」を振りながら、「背」の側にある空気を「腹」の側に吐き出す「もの」。空気の流れを作り出している――「呼吸」している――が故に、これまでに見て来た累々たる「かかし」の様には死んでいない「もの」。「気」(空気)を発してそこにいる「もの」。この地が「50%以上100%未満減少」に到達する2050年の5年前の2045年には、人間の知能を超えているかもしれない「もの」。それ故に、2045年には「ひと」にとって「意識」を持った「隣人」になるかもしれない「もの」。

空気の流れの「間」にあるその「もの」は、何かを見ている様にも見える。最初の部屋の「もの」は、訪問者の方を向いてはいるが、その「眼」は訪問者の頭の上の辺りを「見て」いる様だ。「首」を振るその「視界」には引き戸も入っているかもしれない。次の部屋の「もの」は、その最初の部屋にいる「もの」に「目配せ」しつつ、襖絵も「鑑賞」している様だ。その隣の部屋にも「もの」がいるが、それはホワイトボ―ド上の「集い〈スケッチ〉」と題された絵を「見て」いる。

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一瞬この「集い〈スケッチ〉」は誰が描いたものだろうかと思った。2045年の「勝利」を待ち切れなかった「もの」達が集い――「『もの』の集い」――、これまでにその「眼」で見て来たものを、気儘に寄せ描きしたのではないかという妄想がよぎった。或いは「もの」達に成り代わった「雨宮庸介」が描いたのだろうか。いずれにしても、この絵には描かれていないものがある。それは「ひと」と呼ばれるものだ。ここには「『ひと』ではない諸々」しか描かれていない。或いは画面右側に描かれた「かかし」が、「もの」にとっては「ひと」なのだろうか。

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中庭の木々や石灯籠を「気」を発して「見て」いる「もの」がある。こんなにも自分の周囲の広がりへ、積極的に自分を解き解して関わろうとする「人の集い」を見に来た「観客」は恐らくいない。繰り返しになるが、「観客」とは「観察」するばかりの者の事を言う。「観察」――見たものを自己同一的と思い做された己が意識に仕舞い込んでしまう事――の眼であるから、それはボタンの眼で十分だと言える。②会場の「石垣克子」を「観察」するデニム上下の「観客」が典型的な例だ。

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「美術」と呼ばれるものの多くもまた、「ひと」を「観客」という「かかし」にしてしまう。ならば「ひと」が「かかし」にならない様にするにはどうすれば良いのか。

「座れ」と言っている緋毛氈に座ると、目の前には見事な「花」が咲いていた。

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座敷に座った「もの」が、リボン様のものが描かれた「木炭デッサンによる322枚からなる作品『併走論』」を「見て」いる。その「視線」の先には、もう一人別の「もの」がいる。「集い(スケッチ)」にも描かれていた「もの」だ。

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この「もの」だけが、ガードにリボンを結び付けて、「木炭デッサンによる322枚からなる作品『併走論』」のリボンと呼応しようと働き掛けている。或いは、この「もの」が「もの」達の「気」を描いたものが「木炭デッサンによる322枚からなる作品『併走論』」なのだろうか。いずれにしても、「観客」であろうとすればする程、ここでは「ひと」は疎外感に苛まれる事になる。「観客」はリボンを「観察」対象としてしか見ない。リボンの様に生きる事には躊躇するばかりの存在であるからだ。

奥へと進む。「集い(スケッチ)」に描かれていたものがそこかしこにある。

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階段を登る。

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「もの」がいた。

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「もの」は畳の上の何かを「見て」いる。

蔓。

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蔓が来た方向を見る。

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窓の隙間から蔓は部屋の中に入り込んでいる。植物に覆われた高取城が頭をよぎる。

蔓が向かっている方向を見る。

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襖。数千年前――紀元前2000〜1000年のエジプトとも言われる――の「ひと」がそれを考案し、奈良時代に日本に渡来した文様の様式である唐草文様。「ひと」の生活の中に、植物の持つ旺盛な生命力を生活の中に取り込みたいという、数千年来の「ひと」の望みが形になったもの。伸び行く蔓とそれを「見て」いる「もの」を「間」に挟んで、窓外の植物と唐草文様の襖の植物が向かい合う。

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今、この34年後の「50%以上100%未満減少」の地の町家の二階で、唐草文様という――時に相互に敵対視しもする世界の複数の信仰が、共にデザイン技法として使用するところの――「ひと」の望みは、この様な形で植物からアプローチされる事でその結実の在り方の一つを得た。

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後は「ひと」がその植物からのアプローチにどう応えるかだ。間もなく現実化する「50%以上100%未満減少」の時代、或いはまた「技術的特異点」の時代、即ち「ひと」が世界の「最前列」から退く――「神は死んだ」の完全なる完成――時代に於いて、「『ひと』ではない諸々」との共存は如何にして可能になるのだろうか。

「ひと」が世界の「最前列」から退いたその時には、「関係性」と呼ばれるものは、「ひと」と「ひと」の「間」に無媒介的に存在するものではなくなる。「ひと」と「ひと」の「間」には、必ず「『ひと』ではない諸々」が存在する。その時「人の集い」は、「ひと」/「ひと」ではなく、「ひと」/「『ひと』ではない諸々」/「ひと」の形で実現する。そこでは「『ひと』ではない諸々」と「『ひと』ではない諸々」の「間」にあるものだけが、辛うじて「ひと」と呼ばれるのである。

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諸星大二郎「生物都市」

階段を降りる。

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「併走論」の前にある卓の下の唐草の上を通り、かそけき楓と桜に心和み、稲の実りへの尊びの仕草に一礼し、再び見事な花を目出、ガラスの上の唐草の横を通り、「ひと」が意志的に植物を招き入れた空間である裏庭に出る。

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ここが「人の集い」の「終点」。そこから来し方を振り返ると、「公式ガイドブック」の裏表紙の風景があった。

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「もの」達が首を振って、「『ひと』ではない諸々」と「ひと」に「気」を送っていた家の屋根の上には、鯱の代わりに蔓があった。

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「ひと」が誰もいなくなり、取り壊される直前の高取城を想像した。

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我々の周りから「ひと」はいなくなる。それは現在進行形で現実化している。その一方で、この惑星のレベルでは「人口」が爆発的に増える。しかし極めて実際的に言えば、「アート」というのは、これから先「ひと」がいなくなる文化圏――恐らくこの惑星全体の数%以下――に特有の思考の産物なのだ。即ち「アート」という信憑は、極めて「条件」的でしかないものであり、従ってその「条件」が満たされるべき「限界」の中にある。

他方、増え続ける「人口」の方はと言えば、彼等は「アート」という思考の形式=「条件と限界」を全く必要としない。彼等は「アート」から遥かに「遅れて」いるかもしれない一方で、「アート」よりも遥かに「進んで」いるかもしれない人々だ。

「条件」を満たした「ひと」の「専制」の持続こそを前提にしていたこれまでの「アート」という思考の形式は、それを信憑していた文化圏の人々が、他ならぬ「ひと」を減らす事――少子化――を現実的なものとして「選択」した時から、世界からの「退場」を余儀なくされていた。「ひと」がいなくなったところに、「ひと」の「専制」を依然として信憑する様な「アート」(創造)だけが残り続けるのは、極めて悪い冗談でしかない。

「ひと」の同一性を前提とする「作者」なるものは、「解体」する対象――その「解体」のプロセスが「物語」になり、その「物語」が「作者」なる存在を何処かで依然として信憑する人々の間で「消費」の対象となってしまう様な――ではなく、単純に一切の「物語」を生まない、事実的に「解消」されるしかないものなのだ。

だからこそ「アート」の「解体」ならぬ「解消」という身も蓋も無い「現実」からスタートして、改めて「アート」の人々は――これまでの「ひと」に対する一切の信憑を拭い去った、新たな共存的世界の条件下に於いての「ひと」である事を含めて――「アート」という思考の形式を、全くのゼロベースで構築し直さなければならない必要性に直面する事を避けられない。当然「ひと」の「専制」を前提とした、これまでに書かれた「アート」に関する思考の所産を寄る辺とする事は出来ない。現在起きている事態は、「ひと」と「『ひと』ではない諸々」との「間」の「関係性」の全面的なリセットによる、「ひと」という存在自体の全き刷新なのだ。

現在「アート」と呼ばれるものそれ自体が、「ひと」に対する反動的なまでの思い込みに「条件」付けられている事に関して無頓着な人々が、多かれ少なかれ例外無く「自分の経歴の充実化」という「自己同一性の堅固化」に日々勤しんでいる「間」にも、「アート」の「条件」である「ひと」は、「アート」を置き去りにして、日々「解き解れた」ものへとシフトして行くのである。

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帰りは土佐街道を通らないルートにした。土佐街道を遡行して帰れば、①で「かかし」と一緒に記念撮影が出来たらしいのだが、しかしチェキに写るのはボタンの眼をした「かかし」の顔でしかない事が容易に想像出来た。「公式ガイドブック」に掲載された「こあ」のキュレーターですら「かかし」の顔になってしまっている。何をどうしようとも「黄色い人」の様にも、「棒人間」の様にも、「首」を振る「もの」の様にも写る事が出来ないチェキの中の無様な自分を見る事で、油断をすればボタンの眼になってしまう――「美術」の「観客」になってしまう――自分を自覚し、それを以て日々の反省の糧とするのも悪くは無いものの、しかしこれ以上「かかし」に付き合う事も無いだろうと思ってのルート選択だ。こうして、石材屋のショールームを思わせる土佐恵比寿神社の前を通るルートを外れて、壺阪山駅に向かう事になった。

21世紀の産業道路である国道169号を通る。そこで何かの遺構を発見した。「飛鳥」時代のものではない事は確かだが、何を目的に作られたものかは判らない。

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この「ひと」の作ったものを植物が覆っている。この植物の中に、「ひと」にとって「くすり」になる草はあるだろうか。「『ひと』ではない諸々」の中に「ひと」にとっての「くすり」を発見する事。「ひと」が「くすり」を通じて「『ひと』ではない諸々」の持つ能力に自らの生死や判断を委ねる事。嘗て「ひと」はその様にして生きて行く存在だった。

その後、「ひと」の「脳」は「『ひと』ではない諸々」を遮断し、自らを個別的なものとして思い込む様になる。世界から疎外されたその様な「脳」が「創造」という概念を生み、それを元にして「アート」が生まれた。しかし恐らく「ひと」は、早晩孤独な「脳」を持つ以前のものに再び還って行く事になるのだろう。

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再び「くすりの町」のゲートを潜り、単線の鉄路で高取町を後にした。