キセイノセイキ

「MOT ✕ ARTISTS' GUILD の協働企画」である「キセイノセイキ」展は、「MOTアニュアル」枠に収めらている。

東京都現代美術館学芸員のキュレーションによって「日本の若手作家による新しい現代美術の動向を紹介する」というのが「MOTアニュアル」のこれまでのフォーマットだった。しかし今回の「キセイノセイキ」展は、「MOTアニュアル」と銘打たれてはいても、そのフォーマットに準拠する限りに於いては、「MOT ✕ ARTISTS' GUILD の協働企画」であるという点、更に「日本の(現代美術の)若手作家」とは言えない/言い難い作家が半数以上含まれている(注1)点で、実質的には「MOTアニュアル」とは別物の展覧会と見るのが良い様な気がする。事実上「MOTアニュアル」の2016は欠番という事になるかもしれない。従って、ここでの本展の名称は、「公式名」の「MOTアニュアル2016 キセイノセイキ」ではなく、単に「キセイノセイキ」とする。

(注1)11名の参加作家の平均年齢は――西暦2016年マイナス生年という大雑把な計算で――41.36歳(小数点2位以下切り捨て。以下同)になる。ここから2名の「外国人」を抜いた9名の平均年齢は38.88歳。更に「現代美術」にカテゴライズし難い横田徹氏、古屋誠一氏を除いた7名の平均年齢は34.14歳である。また美術界で慣例的に「若手」と「中堅」を分ける年齢とされてもいる35歳以下の作家は11名中4名(遠藤麻衣氏、増本泰斗氏、高田冬彦氏、齋藤はぢめ氏)であり、その平均年齢は30.00歳になる。更に本展出品作の制作当時の年齢から算出すれば、それぞれの平均年齢はこれらより少しだけ下がるだろう。

「キセイノセイキ」展の「展示企画・設計」は、参加作家も兼ねる1976生まれの小泉明郎氏(アーティスツ・ギルド)、1981年生まれの増本泰斗氏(アーティスツ・ギルド)の2名に加え、1969年生まれの森弘治氏(アーティスツ・ギルド)、1980年生まれの吉﨑和彦氏(東京都現代美術館)の4名(40歳、35歳、47歳、36歳。平均年齢39.5歳)によるものであると公式にアナウンスされている。「アーティスツ・ギルド(ARTISTS' GUILD)」所属を前面に押し出した3名と、「東京都現代美術館」の学芸員1名という構成だ。「キセイノセイキ」展の入口に提示されている、「アーティスツ・ギルド」名の宣言文めいたもの(注2)の表現に即して換言すれば、「無責任な立場」と自らを定義付けた3名と「組織にいる人間」と定義付けられた1名という事になるのだろうか。

(注2)

空気に隠されている本質を読み取れ。内なる炎を燃え立たせ、熟知していると思い込んでいる領域を改めて探検するのだ。許可を得ようとするな。赦してもらえればいいのだから。必要なら、一晩くらい拘置所で過ごすことも悪くはない。自分の運命は自分の手の内にある。己の「声」をたちあげよ。

 

組織にいる人間の恐れを垣間見ている。無責任な立場から。やがてその眼差しは逆照射される。果たして自分の正義は、振りかざせるほど正しくて強いのだろうか。ディレンマ。複雑だ。むしろ、そうした状況こそ、毛穴をかっぴらいて見つめなおすのだ。

 

自分の運命は自分で掴み取れ。

 

己の「声」をたちあげよ。

 

アーティスツ・ギルド

因みに同「宣言文」の参照元と書かれている Werner Herzog の “24 pieces of life advice" とは

1. Always take the initiative.
2. There is nothing wrong with spending a night in jail if it means getting the shot you need.
3. Send out all your dogs and one might return with prey.
4. Never wallow in your troubles; despair must be kept private and brief.
5. Learn to live with your mistakes.
6. Expand your knowledge and understanding of music and literature, old and modern.
7. That roll of unexposed celluloid you have in your hand might be the last in existence, so do something impressive with it.
8. There is never an excuse not to finish a film.
9. Carry bolt cutters everywhere.
10. Thwart institutional cowardice.
11. Ask for forgiveness, not permission.
12. Take your fate into your own hands.
13. Learn to read the inner essence of a landscape.
14. Ignite the fire within and explore unknown territory.
15. Walk straight ahead, never detour.
16. Manoeuvre and mislead, but always deliver.
17. Don't be fearful of rejection.
18. Develop your own voice.
19. Day one is the point of no return.
20. A badge of honor is to fail a film theory class.
21. Chance is the lifeblood of cinema.
22. Guerrilla tactics are best.
23. Take revenge if need be.
24. Get used to the bear behind you.

 というものである。

本展の「展示企画・設計」に、「アーティスツ・ギルド(ARTISTS' GUILD)」がその75%を占めるまでに「契約」された経緯は必ずしも明らかではない。そうした情報は公式レベルでは開示されていない。本展を紹介した一般ジャーナリズムや美術ジャーナリズムは、その状況に些かも疑いを挟む様子も見せずに、同展の広報紙/広報誌を買って出ている。

仮に橋本聡氏の本展出品作品「TVを置く」が美術館に開けられた「穴」であるとしても、普段なら他ならぬその「TV」に「検閲」や「規制」の存在を大いに感じ取り、そのジャーナリズムの「広報」化した「劣化」ぶりに暗澹としている様な人間が、美術館に置かれたオンエア中の「TV」を、「可能な限り偏りのない報道を行う」という横田徹氏の「努力」に思いを致さないまま、本展出品作品である小泉明郎氏の「オーラル・ヒストリー」中の、「誘導」に乗せられるままに乗せられたツルツルの唇から発せられるツルツルの言葉の様に、無邪気なまでに「穴」と言わねばならない程に、美術館はアンタッチャブルな「空気」であるという事なのだろうか。

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「キセイノセイキ」展の英語タイトルは、“Loose Lips Save Ships" という事になるらしい。それは第二次世界大戦時、アメリカの War Advertising Council(戦時広告評議会)によって作成された “Loose lips (might) sink ships"(緩い唇は船を沈める=情報を漏らすと味方の損害を招く≒口は災いの元)というプロパガンダの “sink" を “save" に反転したものなのだろう。“Loose Lips Save Ships" は「情報を漏らす事で味方の損害は防げる=緩い唇は船を助ける」というところだろうか。であるならば、本展では多くの “Loose lips" 、即ち多くの情報開示と、それによって生まれる相互了解へと至る議論の為のプラットフォーム構築こそが重要になる。

本展の藤井光氏の作品「爆撃の記録」でクローズアップされた、東京都の「東京都平和祈念館(仮称)」の建設が「凍結」されるに至った切っ掛けの一つは、その建設にあたっての情報開示の不徹底という「穴」を突かれた事による(注3)。そこから「史実とは言いがたい捏造された物語」(藤井光氏による「爆撃の記録」コメント。後掲)問題に発展し、その着地点が全く見えない「東京都平和祈念館(仮称)」建設の「凍結」が決定されるのである。“Loose Lips" =情報の公開性とその公共性を巡る議論の不徹底が「東京都平和記念館(仮称)」の「凍結」を結果的にもたらしたとすれば、果たして「東京都平和祈念館(仮称)」同様、「美術」を “sink" させない(という立場に彼等は立っているのだろう)為の “Loose Lips" は、この「キセイノセイキ」展で十分にされているだろうか。

(注3)参考:1997年10月23日、1997年12月18日、1998年3月18日、1998年4月23日、1998年7月30日、2012年2月17日東京都議会文教委員会議事録。

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「キセイノセイキ」展を見に行ったのは、「当事者」の片割れによる「事実」の「公表」が次々に始まる前の、4月21日という――今になって思えば――「中途半端」な日だった。美術手帖で本展のレビューを書いた沢山遼氏も、artscape で本展のレビューを書いた福住廉氏も、自分よりもより「中途半端」な日に、本展を見てそれらを書いたのだろう。

いずれにしても、東京都現代美術館のチケット売場に到着するまでに片道10時間掛かる――ほぼ羽田←→ロサンゼルス間という事になる――ところに居住している人間が、同館の開館日/開館時間に合わせて、数ある「東京地方」の展覧会の一つである同展に数時間を割けられるのはこの「中途半端」な日しか無かった。

但し実際には、4月21日までに何回か「行ける」日はあった。沢山氏や福住氏等によるレビュー、及び SNS 上の数々の報告を見ていて、本展の大まかな状況を把握していた為に、重くなってしまった腰が上げられなかったというのが本当のところだ。このまま同展を見に行かなくても一向に構わないとすら思ってはいたが、結局他の展覧会の合間についでにそれを見る――それでも結局3時間半はMOTにいた――という選択をした。

アルトゥル・ジミェフスキ氏の作品は、商業エンターテイメント的な撮り方や、同じく商業エンターテイメント的な落ちも含めて「楽しめた」。横田徹氏の作品では戦場に連れ去られた目になった。これらはこの「キセイノセイキ」展に「寄生」しなくても十分に機能し得る作品だ。

その一方で「美術館」(乃至は「美術」)相手に「戦っている」人達の方はと言えば、4月21日段階では「抽象直接行動198の方法(仮)のリスト」のペーパーは床に積まれていた。但し「ロサンゼルス」までそれを持って帰るのが難儀なので手には取らなかった。4月21日を前に、「抽象直接行動198の方法(仮)のリスト」の PDF を見てはいた。

沢山氏や福住氏が見たのと同様、相変わらず「空気」は「小泉明郎 空気 2016 アクリル/カンヴァス、空気」のキャプションのみの、使い古された自己言及的な「仄めかし」状態以上でも以下でもなかった。

「作家側と美術館側の間で著作権侵害の可能性について意見の相違があるため、現在、双方の間で出品について協議中」として非公開だった「✨今日から展示されています✨」の壁掛けの作品は、大山鳴動の後何事も無かったの様にそこにあった。

これらについては、事実として何が起きているのか/何が起きていたのかの “Loose Lips" が全くと言って良い程示されてはいなかった。この状態を元に生半な――自分が思いたい様に思う――「推測」をしない事を、美的な意味で自らに律するならば、「美術館では静かにしましょう」とも「テープで口を塞いでください」とも異なる、それらについて何事かを言う事を予め禁じられている様な「沈黙」を強いられているという気分(モヤり)にさせられるものだった。

もしかしたら、その全てが「規制」或いは「検閲」による「言論統制」の結果として見える様に「誘導」(その「誘導」を狙っているのだろう)されてしまう「キセイノセイキ」という魔法の言葉/呪いの言葉を掛けられた「欠如」の幾つかは、“Loose Lips" 以前に、単純に “Loose" でしかないものから生じている結果なのではないかとも思ったものの、しかし「当事者」的には「憶測」や「誤認」とされかねない「推測」でしかない為にそれを飲み込む事にした。

 それと同時に、その「欠如」の全てが何らかの「権力」による「規制」或いは「検閲」による「言論統制」故に生じているという「推測」も、当然の事ながら飲み込んだ。こうして本展に対しては、全ての「推測」を禁じる自己規制を発動させる/発動させられる事になった。

「ロサンゼルス」人が「キセイノセイキ」を見た2日後の2016年4月23日、東京都現代美術館近傍の「無人島プロダクション」からこの様なツィートがされた。

ツィート中のリンクを踏んでみると、そこには多くの者にとって2016年4月23日当日になって初めて知る事ばかりが書かれていた。曰く「キセイノセイキ」オープン後に、「無人島プロダクション」に対して小泉明郎氏が情報開示をする事で「小泉明郎展『空気』」展開催が決定された事。「キセイノセイキ」会場で何も無かった壁は、「展示することのかなわなかった」作品=「天皇の肖像」の痕跡である事(注4)。こうして数々の「事実」が、「当事者」の片割れである小泉明郎氏の視点を元にして報告された。

(注4)それより3日前(4月20日)に、吉崎和彦氏が不参加(注)の中で「密室」で行われた「美術手帖」2016年6月号「アーティスツ・ギルド」メンバーばかりの座談会(2016年5月中旬発売)「『MOTアニュアル2016 キセイノセイキ』展企画者と参加作家が語る、アートと自主規制」の中で、小泉明郎氏は「天皇の肖像作品」について触れている。
(注4の注)日本経済新聞5月11日付同展のレビューには、「なお、美術館は同展の個別取材に応じていない。『担当者の展示に関するコンセプトがいまだ深まっていない』のが理由という」とある。

この機を逃してはならじと、「無人島プロダクション」及び「キセイノセイキ」行きに腰を上げようとする者――主に「東京地方」在住者――が続出する。しかし「ロサンゼルス」人としては、片道10時間の「空気」展を見に行く為に、多くのリソースを割く事は現実として出来ない。遠方からこの「東京地方」の展覧会の成り行きを――ネット越しに――見るとも無く見る事にした。

「空気」展開催を知らせる「無人島プロダクション」によるツィートがされてから更にその4日後、紙媒体の「美術手帖」2016年5月号が発売されて10日ばかり後の4月27日、小泉明郎氏は、「沢山遼さんの美術手帖での批評文に対しての穴埋め(注5)という文章を、「アーティスツ・ギルド」のサイトで発表した。

(注5)そのURLは、“http://xxxmot.artists-guild.net/沢山遼さんの美術手帖での批評文での誤認につい/" である。

沢山遼氏の「憶測」/「誤認」(注6)を糺す/正す形で、ここでも「当事者」の片割れである小泉明郎氏の視点から観察された「事実」が列挙されている。沢山遼氏の「憶測」/「誤認」が美術手帖に掲載される事が無かったとしても、果たしてこの「事実」を記したレスポンスが――展覧会開催後約2ヶ月のタイミングで――出たかどうかは判らない。

(注6)沢山氏の文中では「推測」と表現されている。

2015年2月21日・22日に東京都現代美術館(MOT)で開催された、「ARTISTS' GUILD と共同企画」の「東京都現代美術館開館20周年記念」のトークセッション、「ARTISTS' GUILD:生活者としてのアーティストたち」からの流れで、「アートと生活」が「MOTアニュアル 2016」のテーマになるのではないかという「推測」/「憶測」もされ――沢山遼氏の「推測」はそこから来ていると思われる――、またその参加作家が「トークセッション:芸術の未来」の「若手」の中から出るのではないかという「推測」/「憶測」もされていた。

参考:「トークセッション『ARTISTS' GUILD:生活者としてのアーティストたち』をめぐるツイートいろいろ」 http://togetter.com/li/780056

沢山遼さんの美術手帖での批評文に対しての穴埋め」には、「MOTアニュアル 2016」に関して「労働やお金の問題を扱う展覧会」と「表現の自由を扱う展覧会」の両案があったものの(それは多くの者が2016年4月27日に初めて知る)、前者は「アーティストの労働やお金事情の展覧会をするには、組織内のお金の流れも扱わなければならなくなる可能性があり、そのような展覧会の設計は相当ハードルが高い」という理由から取り下げられ(それは多くの者が2016年4月27日に初めて知る)、「それでは表現の自由や検閲などを扱った展覧会はできないかということで、議論がすでに進められていた状況」(それは多くの者が2016年4月27日に初めて知る)であった矢先に「会田家作品撤去問題が起こった」(その先後関係は多くの者が2016年4月27日に初めて知る)。

一つの作品を決定し、その許可を得るのにどれだけの労力と時間が費やされてきたことか。一枚紙を展示空間に置くことにどれだけのエネルギーとストレスが費やされてきたことか。普通の展覧会を作るプロセスではありませんでした。そして、その裏でどれだけの欲望が断念されたか。それでも、美術館はこの展覧会企画を許諾し、数々の摩擦の中、展覧会は作られていきました。

2016年5月17日発売の「美術手帖」6月号に掲載された座談会「『MOTアニュアル2016 キセイノセイキ』展企画者と参加作家が語る、アートと自主規制」には、こういう箇所がある。

藤井 明郎さんはなぜ、経緯を会場で公開しなかったのですか?
小泉 展示プラン段階では、そうした展示できない理由も詳細に記し、誰の判断でなぜダメだったのか、ちゃんと理由を告白するような展示にしたいという意図がありました。しかし、アーティストが作品を取り下げることは、自分の判断の範囲で、ある意味では容易にできるし、そのことを口にすることもできる。ただ、キュレーターが却下をすることは、立場上、相当の覚悟が必要だと学びました。だから、そうした理由も展示してほしくないと言われ、長谷川さんを内面化したのかもしれない。まさに自主規制です。ゲリラ的に置くことも、できないことはない。でも、自分がなぜそれをやろうとしないのか。面と向かって「できない」と言われたとき、どうすればよかったのか。自分の身体も判断も硬直してしまいました。またこの流れで伝えなければならないのは、私は企画者の一人として、橋本聡さんにある作品を設置しないようにお願いしました。現場の状況が限界を超えたと判断してのことでしたが、表現を規制し管理する側にもなりました。

 この引用文(4月20日「美術手帖」座談会)は、その一つ前の引用文(4月27日「沢山遼さんの美術手帖での批評文に対しての穴埋め」)の「一つの作品を決定し〜」に「被害者」と「加害者」が入れ替わる形でループする。「欲望」を「断念」させられた人間が、他者の「欲望」の「断念」を即す側に回る。それは「キセイノセイキ」展に於ける「被害者」(それはまた「システム」の一部である)の言明の誠実性に関わる重要なファクトであり、何を置いてもこれをなおざりにしてはならないものだ。

無人島プロダクション」の「空気」展は、ギャラリー入口の画像ばかりを見せられた。2週間ばかりで再び非公開となった「天皇の肖像作品」が具体的にどの様な作品であるのかも、数枚のA4の紙に記されているらしい文章も、「ロサンゼルス」からは「空気」展や関連トークを「体験」した者による大雑把な報告、或いは備忘的な書き起こしの断片から「推測」するしか無い為に、それについても全ての判断を保留している/自己規制している。

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それを「作品」として良いとも悪いとも評する事はしないが、キャプションに打たれたコラム番号――例:コラム「A-3」が、「東京都平和祈念館(仮称)」建設を「凍結」させるに至らしめた「軍事都市」になっている――から判断するに、丹青社制作による展示プラン初期バージョン(後のバージョンでは「軍事都市」の記述が削られている)の「再現」であると思われる藤井光氏の作品「爆撃の記録」の「入口」には、この様な詩句が「無記名」で提示されている。

幾人が死んだのか?
その数を誰がわかろうか?
あなたの痛みから、
人の手による地獄の業火によって焼かれた
名もなき人々の苦しみを、
人々は知る。

 

How many died?
Who knows their number?
In your wounds we can see your agony
of the nameless who burned here
in a man-made hell.

 

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Wie viele starben? Wer kennt die Zahl?
An Deinen Wunden sieht man die Qual
Der Namenlosen die hier verbrannt
Im Höllenfeuer aus Menschenhand.

 そして作品の「出口」に「藤井光」名の文章があり、その文章の最後に、最初の文章の引用元が明かされている。

最後に、展示室の入り口の言葉は「ドレスデン爆撃はイギリス・アメリカ連合国によるホロコーストだ」と主張するネオナチ(注7)の聖地としても知られる、ドレスデン・ハイデ墓地にある空襲犠牲者のための慰霊碑に刻まれた言葉であることを記しておきます。

(注7)その「ネオナチ」の紋章の一つにはこういうものがある。飽くまでも図像的なレベルに限定して言えば、「ネオナチ」の “fist"と「アーティスツ・ギルド」のロゴの “fist"は重なってはしまう。果たして両者の “fist" 表現に託すメンタリティの共通性に関してはどうだろう。

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その直前のセンテンスにはこう書かれている。

この展示空間で想起された歴史は、戦争体験者や歴史家にとって史実とは言いがたい捏造された物語かもしれません。それでも、私自身がこの作品を作る勇気を得られたのは、爆撃で生じる各々の一回性の死を想像したからです。忘却に抗するのは、歴史認識の一致をみた正義なのか、それとも、各々の単独的な想起なのか、私は考え続けています。

やはりそれぞれの立場を、「加害者」と「被害者」、或いは一面的な「悪」と「善」に固定化しもする「正義」に繋がる「キセイノセイキ」という魔法の言葉/呪いの言葉=「誘導」はいらなかったのだ。

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敢えて「キセイノセイキ」展を2015年の「生活者としてのアーティストたち」からの流れで考えてみる。アーティストの生活は確かに概ね悲惨なものではあるだろう。しかしそんなアーティストにも原資というものはある。勿論「才能」は原資の一つだ。しかし或る意味でそれよりも重要な原資は「信用」である。

「信用」という原資はこれまでの多くのアーティストによって築き上げられ、また同時に多くのこれからのアーティストからも借りているものである。その共有財産としての「信用」こそが「表現の自由」を担保する。

「キセイノセイキ」展について言えば、随分と「信用」を食い潰してしまったという印象がある。そしてそれは、将来のアーティストの「信用」も多く含まれる。しかし改めて言えば、アーティストの原資たる「信用」の全ては「借り物」なのである。決してそれは無尽蔵ではない。使ったら使った分だけ補填する必要があるのだ。

「アート」が自縄自縛(=自己検閲)している戦略的要求者という在り方から、了解志向的要求者へと脱皮出来るのは、果たして何時の事になるのだろうか。

奥村雄樹個展「な」

終了してから1ヶ月以上経過した展覧会について書く。椹木野衣氏によるそのレビューが掲載された、印刷版の美術手帖が発売されてからも二週間以上が経過した。その展覧会を「過ぎ去ってしまったもの」として見るならば、これを今書く事は単純に遅れていると言わざるを得ない。それともそれは、29771日以降に更新されなくなったものに対して言及する事が「遅れている」様なものだろうか。

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観光ヴィザでアメリカにやって来た「私」が、ニューヨークで遭遇した人間として最初に記述したのは、「膝のぬけたジーンズを穿き、髪が縮れ、(…)真黒に日焼けした」男であった。男の人種は良く判らない。メキシコ人? プエルト・リコ移民? フィリッピン人? 東南アジア人? アメリカ・インディアン? しかしそれを殊更に詮索しない者にとっては、その男が何者であるかはどうでも良い。この国で生まれた訳ではないその男は、周囲からそれを殊更に詮索されない様に、痛々しい程に努力している。この「外地」で「完全な外国人」であり続ける為に。

正体不明の存在であり続けようとするその男を、五番街の「華やかなショーウィンドー」のリフレクションの中に見た後、「私」はそのアベニューを南下して「場末の安ホテル」に宿を取る。「私」がこの街で遭遇するのは「失業者らしい男」「黒人の子供ら」「ホモの連中」「ドアの隣に坐っている女」「娼婦たち」「エプロン姿の黒人のおばさん」「バナナの房を手にした子供」「雑貨屋の主人らしい男」「アルコール中毒らしい男たち」「四十歳ぐらいの白人女」等々である。「私は遭遇した」の列記。しかし「私」が遭遇したかれ・ら(彼・等)の「名」は、この “I MET"(或いは “I SAW")には記されていない。偶々「エズメラルダ」や「フランク」等といった固有名詞がこの “I MET" に記されたりはするが、しかしそれは人称代名詞に限りなく近いものだろう。

「私」は、日本語と英語と中国語と日本の南部地方の言葉の四ヶ国語が話せると言う。しかしその中国語は「ちょっと漢文が読める」程度という事だ。従って、事実上「私」がツールとして使用可能な言葉は、日本語と英語の二ヶ国語という事になる。「私」の “I MET" は日本語で書かれていたりするが、しかしそこで交わされている会話の――たった一つの例外的なケースを除いて――全てが英語で交わされている(注1)

(注1)果たしてニューヨークの娼婦たちに対して “apāto sagashiterundakedo donohenga yasuindai? " と日本語で尋ねたりする者はいるだろうか。

英語という、現下の地球上にあって「基軸通貨」である米ドルの如き言語は――少なくとも21世紀の初端までは――この地球上で「功」なり「名」を遂げる(注2)為に極めて有効に働く言語である一方で、己の「出自」や「足跡」を消す為にも有効な手段の一つとなり得る言語だ。

(注2)「功なり名を遂げる」は「老子」第九章の「功成名遂身退天之道(功成り名遂げて身退くは天の道なり)」からの出典。「功成名遂」と「身退」は、老子的な「天之道」に於いてセットになっている。

「私」にとっての「外地」に於ける “I MET" に記された「登場人物」達との会話は、一つの例外を除いて全てが「私」による日本語への翻訳である。日本語の会話をそのまま日本語の文字に書き起こした「南九州の噴火湾のへりにある、魚くさい漁師町」篇ではなく、「外地」篇の “I MET" の登場人物達は、一人称が「おら」であったりする矢追純一氏の UFO 番組に登場する「テキサスの農夫」の如き日本語に吹き替えられている。ニューヨークの娼婦達の英語の話し言葉は、恰も1956年の溝口健二の遺作「赤線地帯」の、若尾文子京マチ子の台詞の様な日本語で書き付けられている。

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匿名、或いは匿名扱いの人間ばかりが登場する、「私」の “I MET" =宮内勝典氏著の自伝的(autobiographical)な小説「グリニッジの光りを離れて」(絶版)は、しかしその「第7章」に入るや否や、明確なファースト・ネーム(「名」)+ラスト・ネーム(「名」)を持つ人物が、そのラスト・ネーム(「名」)の中にも「名」を入れて現れる。“I MET" の「外地」篇に於いて、例外的とも言えるその「名」の一人は「河名温(On Kawana)」。そしてもう一人は「河名温」夫人の「ヒロコ」である。

アメリカ行きの旅客機の窓の下に見える東京の街を見て、「ざまあみろ」と胸に呟きつつ「日本」と決別した「私」= “Jiro Sahara"(注3)にとっての「外地」――それは「内地」と対称的な関係にある――に於ける “I MET"。全てが英語でされている会話文を日本語に翻訳したこの “I MET" にあって、例外的とも言える「日本人」同士の日本語による遣り取りの箇所、英語が英語として発せられ、日本語が日本語として発せられている箇所を抜き出したもの。それが「河原温」氏の「肉体」と “MET" した奥村雄樹氏が、2016年2月20日(土)から3月21日(月・祝)まで、京都市立芸術大学ギャラリー @KCUA に於いて開催していた「」展に於ける「グリニッジの光りを離れて――河名温編」というオーディオ・ドラマ(監督・脚本:奥村雄樹)である。

(注3)「宙ぶらりんの名前、あっけらかんとした名前」「抽象的でどこか国籍の曖昧な響き」を意図した「私」の偽名 “Jiro Sahara" 。しかしそれは飽くまでも “Jiro"(次郎)であり “Sahara" (佐原)である。それはフランス語の Giraud でも、アラビア語の صَحْرَاء でもなく、「日本」からの「離脱」を意図した結果として生まれたものだ。因みに1965年東京国立近代美術館で開かれた「在外日本作家展」という田舎臭い名称の展覧会に出品された、「LAT. 31°25' N LONG84°1'E」という「河『原(ら)』温」の作品があるが、その緯度経度が示す場所は、アフリカ大陸の「サハラ」砂漠ではなく、中央アジアの某所である。

言うまでもなく「河名温(カワナオン)」は、奥村雄樹氏と同じく「河原温」氏の「肉体」と “MET" した宮内勝典氏がトレースして作り上げた「キャラクター」(注4)である。そしてまた、「ヒロコ」は「河原温」夫人の「弘子」氏を下敷きにしている「キャラクター」だ。但し、原作の小説で「Hiroko Kawana と、夫人の名前だけ一つぽつんと記してある」と書かれている箇所は、「名」に拘るこのオーディオ・ドラマでは、その “Hiroko Kawana" の「名」が丸々割愛され、それを音声化する事を注意深く避けている様に思える。「な」展のフライヤーに引用されている同箇所も、 “Hiroko Kawana" の「名」は「(中略)」「[snip]」 扱いになっている(注5)。何故ならば、「ヒロコ」のモデルである「河原温」夫人「弘子」氏のラスト・ネーム(「名」)は、“Kawara"(カワラ)ではないからだ。「弘子」氏が持つ複数の名前の中に、“Kawara"(カワラ)は無い。

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(注4)宮内氏にとって、「河原温」氏は「自己形成期に出会った最も重要な師(グル)のひとり」であるという。その一方で、この「グリニッジの光りを離れて」に於ける「河名温」という「キャラクター」には、ニューヨークという大都会でうごめく娼婦たちや、国籍も人種も雑多な人々の描写を前景化する為に「ちょっと三枚目」的な設定を与え、「本当の背丈よりも低く描いた」としている。

(注5)作品キャプションには「渡辺美帆子(河名弘子)」とある。

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御池通に面した広大なガラス窓を持つ「空っぽ」の展示室に入ると、そのオーディオ・ドラマの尻尾の部分が終わり、数十秒の無音の後に、定時から始まるループが再び始まった。5.1ch の「正面」に背を向けて座った。即ち、御池通を身体の左側に位置させた。遥か昔の極めて素朴な LR の「電蓄」の頃から、テクノロジーが主張する「正しい向き」に「拘束」される事が苦手なのだ。

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およそ北緯19度40分、西経99度メキシコ・シティで宇宙人のような地球人と知り合った。河名温という男で、ニューヨークに住んでいると言っていた。

私はその頃カリフォルニアで肉体労働に明け暮れていて、少し金が貯まると、いつも長距離バスに乗ってメキシコへ向かった。安いホテルに部屋を借りて、金が尽きるまで、長い小説を書き続けた。最後に滞在した時は、アメリカに戻ったら不法滞在者になる肚だったので、なかばやけくそな気分だった。

アナーキストの亡命者を訪ねたり、ピラミッドの見物に出掛けたり、娼婦、闘牛と遊び呆けた。その時、ホテルの階下に滞在していた奇妙な男。それが河名温だった。

あれから2年近くの月日が過ぎた。今では私もニューヨークに住んでいる。偽名を使ってスラム街にアパートを借り、トンプキンス公園の裏手にある場末のバーで働き始めた。勿論不法労働だ。日本人との付き合いを避けているが、河名温だけは何故か気になった。

メキシコで手帳に控えた住所を見てみると、“Three hundred forty East Thirteenth Street Apartment twelve" とある。私が住むイーストヴィレッジの西の端、丁度グリニッジ・ヴィレッジとの境になっていた。私はそこに向かって歩く事にした。河名温との出会いを思い出しながら。

タイトル音楽が流れる。そしてその音楽がフェイドアウトすると、メキシコ・シティホテル・モンテ・カルロの客室ドアをノックするSEが入る。中からは “Yes?" という男の声。それに対して「あの…上の階の者です。日本人で長期滞在している人がいると聞いて…」と日本語で返す「私」。“Yes?" を発したドアの向こうの男が、日本語モードに切り変わる。「そう?まあどうぞ」。その時(注6)からメキシコシティに於ける「私」と「河名温」の二人、そしてニューヨークに於ける「ヒロコ」を加えた三人による日本語の時間が開始される。

(注6)小説「グリニッジの光りを離れて」では、「私」が「河名温」に初めて出会った場所は、メキシコ・シティの「マヤ族の土器を展示している小さなギャラリー」であり、そこで「河名温」が「私」にホテル・モンテ・カルロを紹介した旨が書かれている。一方1998年に東京都現代美術館で行われた「河原温 全体と部分 1964-1995」展図録中の宮内氏の文章は、ホテル・モンテ・カルロがファースト・コンタクトの場所である様に読める。オーディオ・ドラマ「グリニッジの光りを離れて――河名温編」は、後者を下敷きにしていると思われる。但し同ホテルの緯度経度は「北緯19度40分、西経99度」ではなく、60進法で北緯19度25分49秒、西経99度8分10秒。10進法で19.4303679、-99.1382722である。

部屋へ入ると、「濃い灰色」(注7)で塗り潰されたキャンヴァスに、スペイン語で今日の日付――6 ABRIL, 1967(注8)――が濡れて光っている。

(注7)「な」展フライヤーの「裏面」(「表(おもて)面」なのかもしれない)は、その「濃い灰色」でベタ印刷(縁取あり)されている。ここにフライヤーを受け取った各々が日付を書けば(想像上でも)良いのだろうか。その場合、「河『原(ら)』温」ルールでは「現地の言葉で記す」から除外された非印欧語族である日本に於いて “Today" を実行しようとする者は、やはり「河『原(ら)』温」ルールに従って印欧語系のエスペラント語で記すべきであろうか。それとも「河『原(ら)』温」ルールを敢えて無視して、日本語で「1967年 4月 6日」の様に記すべきであろうか。加えてその日付は、イエス・キリストが生まれてから1800年後に、ようやくこの惑星に於ける暦の「基軸紀年法」となったキリスト紀元の形式で記すべきであろうか。因みに22世紀には地球上で最大勢力になるとも言われているイスラムの暦=ヒジュラ暦では、“6 ABRIL, 1967” というキリスト紀元の表記は “25 Zhj 1386" になる。「河『原(ら)』温」作品の “One Milion Years" に記された “AD" や “BC" は――それらは同作品の「朗読」による「展示」に於いては、読み上げられる数字の一つ一つに対して付け加えられて音声化される――、“anno Domini"(主=イエス・キリストの年に) や “before Christ"(イエス・キリスト以前)である。そしてその “AD" と “BC" が入れ替わるのは、“One Million Years [Past]" の最後の4ページになる。

(注8)「全体と部分」展図録中には “6 ABRIL, 1968" とある。

ハルビンからの引揚者だった父親に「ニューヨークで、イサム・ノグチという日本人が活躍しているんだ。おまえもあんなふうになれよ」と言われて育って来た「私」にも、その日付だけが描かれたキャンヴァスが何であるかが判らない。「私」は「あっけにとられて」尋ねた。

「なんですか、これ?」
「ん?…んまあ…、ペ、イーン、テイーン、グだよ」

眞島竜男氏が演ずる「河名温」は、その様に「ペインティング」を発音した。山辺冷氏が演ずる「私」は、それよりは “Painting" に近い発音をした。

この場面は、小説「グリニッジの光りを離れて」ではこの様に書かれている。

河名温は「うーん」と困惑したような声を洩らした。そして、つねに同じことを質問され、そのたびに同じ答をしているらしく、いたずらっぽく煙にまきつつ、こちらを試すようなある独特のニュアンスをこめて、
「Painting だよ」と言った。
「え、これが?」
と訊き返しながら、なにかしらぴんとくるものがあった。Painting――つまり絵であると言いながら、同時に、絵を描くという動詞を現在進行形にする ing の発音に力がこめられていた。

このオーディオ・ドラマに於ける「ペ、イーン、テイーン、グ」は、「ing の発音に力がこめられていた」とするには余りにも日本語訛りだ。果たして1967年4月6日に、メキシコシティのホテル・モンテ・カルロの一室で、宮内勝典氏が聞いた「河原温」氏の “Painting" が――「河原温」氏の口から実際に発せられたとして――その様に発音されていたのかどうかは判らない。

いずれにしても、眞島竜男/「河名温」による「ペ、イーン、テイーン、グ」は、日本語に挟まれて/日本語に引きずられて発せられる英語の特徴を良く捉えているとも言える。そして同時に、「河名温」の日本語の日常会話の中に挟まれる「アート」の用語が英語であるのは、何処まで行っても欧や米のものであり続ける事を止められない「アート」――欧や米のものである事を止めてしまったら、その瞬間に「アート」という概念そのものが消滅してしまうだろう――の世界に入り込んで行くには、「アート」の「基軸通貨」である英語への切り替えが不可欠であるという、“One Million Years [Past]" の最終ページのその末尾の辺りで確立された「アート」の「スタンダード」に合わせていると見る事も可能だ。「アート」の「スタンダード」である英語を発する事で、「河名温」は「On Kawa“Na”」に切り替わる。その時、1950年代の彼の仕事を憶えている日本人が、相変わらず漢字三文字で書いてしまう「河『名(な)』温」の重力圏からも離脱するのである。

“Painting" という現在時制の動詞は、未だにその着地点を見出だせないでいる「絵画」という日本語の名詞では翻訳し切れないものがある。「絵画」という日本語から発想していたら、何時まで経っても何処まで行っても、「アート」の「スタンダード」である英語の “Painting" には至り付かない。だからこそ「河『名(な)』温」の「絵画」(=日本語)は、「印刷絵画(insatsu-kaiga)」辺りで終わったのだろう。

「でも、あの、これ、毎日書くわけですか?」
「そう、終わりのないゲームなんだよ。死ぬまで楽しめるからな。ヘヘヘへへへヘヘ」

このオーディオ・ドラマに於ける「私」が宮内勝典氏(1944年10月4日生まれ)であったとして、1967年4月6日にホテル・モンテ・カルロで「河名温」の部屋を訪れた「私」は、常に「未満」の状態に居続けようとしている若干22歳の何者でも無い者だった。そしてその「私」は「河名温」が「何者」であるかを「知らない」。「私」にとって、目の前にいる36、7歳の日本人男性は、「宇宙人のような地球人」「奇妙な人間」「神に雇われた書記のような男」である。「河『名(な)』温」が「何者」であるかを「知っている」者――「河『名(な)』温」の部屋を訪れる者の多くはそうだろう。それは〈あの「河『名(な)』温」に会う〉といった様な訪れ方をする――とは全く異なるアプローチで「奇妙な男」と向かい合う「私」。「正体不明」の男と正体不明であろうとする男の関係。

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アーティスト「河『名(な)』温」の「名」を知らない、例えば「美術手帖」誌を隅から隅まで読む様な事をせず、同誌1965年12月号の「その後の河原温 ニューヨークのアトリエを訪ねて」(本間正義氏筆)の冒頭の「最近の河原温氏」の写真に目を通し、網点の掛かった「河『名(な)』温」の顔を知る事の無いコンテンポラリーアートの門外漢である「私」の前では、「宇宙人のような地球人」は殊更に「河『名(な)』温」に切り替わる必要性を感じなかったのかもしれない――但し実際には切り替わってはいる。「私」がその切り替わりを認識出来ないだけだ。

「私」と「宇宙人のような地球人」、そしてニューヨークのアパートメントに於ける「宇宙人のような地球人の妻」を交えたこのオーディオ・ドラマに於ける日本語による会話は、日本語が最も染み付いている者同士の等身大のものだ。

ホテル・モンテ・カルロでの出会いから暫く経ち、ニューヨークで “Jiro Sahara" の「偽名」で不法労働をする「私」は、「宇宙人のような地球人」が住む1900年に建てられたニューヨークのアパートメントのドアを叩く。中から “Yes?" の声がする。「私」は英語で尋ねる。“Is Mr. On Kawana here?"。“Who are you?" とドアの中の男の声。“My name is ..."。そこまで「私」は言い掛けたところで、突然スイッチを日本語モードに移し、自分が何者であるかを「名」ではない形で告げる。「あのー、メキシコで、ほら、モンテ・カルロ・ホテル」。その途端、ドアの奥の声もまた日本語モードになる。「ああ、その時の」。二重鍵を開け、鉄の突っかい棒を外すSE。

日本語の時間に「神に雇われた書記のような男の妻」が加わる。「神に雇われた書記のような男」が「私」の「名」の綴を尋ねる。彼の “I MET" にその「名」を記す為に。「私」は本名の綴を「神に雇われた書記のような男」に教える。

「パスポートの名前を書いたのは、ニューヨークに来てから初めてですよ。まるで宇宙空間へ流すタイムカプセルに自分の名前が登録されたような感じがするな」
「ああ。そう」

その日は突然やって来た。

昼が長くなってきた。アパートの入口に溢れる光を眺めていると、ひまわりが光の方へ首を回すように、北半球が私たちを載せたまま太陽ににじり寄っていく気がする。

その日、河名温はアルファベットや数字の洪水の中で、そのまとめに追われていた。絵葉書や電報を日付の順番通り、一枚ずつ小さな額縁に収めている。壁ぎわには、厖大な量の日付のキャンヴァスがぎっしり立て掛けてあった。

「あれ、今日は部屋の整理ですか?」
ニューヨーク近代美術館で展覧会が開かれるんだ。『概念美術の動向』っていうんだけど、それに作品を出すように招待されてね」
「えっ、作品?」
「うん。まあオープニングには出席しないけどね。僕の仕事は作品を作る事で、展覧会を作る事ではないからなあ」
「へえええ。そうですかあ」
「おいおい、100年のカレンダー、額から出してくれよ。ぎりぎりまで続けたいから」
「あら、そうだったわね。わかりましたよ」

作品? 美術館? そうか…。絵葉書も電報も、別に虚空へと発信された訳ではないんだ。それぞれの受取人が作品として保管していて、今度の展覧会の為に回収されたということか。なんの変哲もない日付を記し、出会った人々の名前を執拗に書きとめ、この惑星で生まれて死んだ全ての人々の為に、宇宙誌的な墓碑銘を刻んでいる様に見えた行為も、全て作品だったのだ。無名の一日一日を生きる俺が、神の日雇い書記によって記録されている。そう感じていたのに、まるで墓をあばかれたような気分だ。

「あのぉ。忙しそうだから、今日はこれで……」
「ばたばたしていて、ごめんよ。来週は暇になるから」
「ええ、また来ます」

 「途方もない奥行を孕んでいると思えたその行為が、あっさり社会化され、一種のからくりとなって美術館に納まることが淋しかった(宮内勝典グリニッジの光りを離れて)」。「神に雇われた書記のような男」ではなかった「河『名(な)』温」の前から立ち去る「私」。ドアのSE。溜息。

再び「河『名(な)』温」の部屋を訪れる「私」。預けていたパスポートを取りに来たのだ。「私」は空の青に「有機的な水の深さ」を孕んでいる「好きになりそうだった」この街、そしてこの国から出る事を決意した。

再入国を諦めたアメリカからメキシコに行き、そこからパナマまで降り、ヨーロッパ行きの船を探し、スペインから北アフリカに渡り、シルクロードを通ってインドまで行く。人間の生と死が光を放っている様な場所。一人の人間には余りに広過ぎる「空間」的広がりを持つこの惑星の上を、這う様に移動する「私」。

「河『名(な)』温」との別れの前に「河『名(な)』温」の “I MET" を再び見る「私」。

十日に一度ぐらいの間隔で、私の本名が記されていた。日付を見てもほとんど何にも憶いだせない。だが、スラム街の底でもだえ、バーで働き、娼婦たちを抱いた日々が、その余白に刻まれている気がした。この男はやはり神の日雇い書記だ。作品だろうと何だろうと、俺は確かに記録された。

ドアが閉まるSE。“I MET" = “ON KAWA'NA' MET" の「余白」。その「余白」に「俺は確かに記録された」。「名(日付)」と「名(日付)」の間に。

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「じゃあ、あっちに積み上がっている紙は何ですか? すごい量ですね。どうれどれ、BC 998129、BC 998128、BC 998127…。BCって事は紀元前の年号か。何です?これ」
「何って、えー、100万年分の年号だよ」
「ああああ、こっちは100年でなくて、100万年分」
「紙一枚に4段組で500年分タイプ出来るんだけど、それでも全部で2000ページになるんだな。でも人間の文明は、最後の10ページしか無いんだ。ハハハハハ」
「それにしても、その100万年の間に、一体何人の人間が生まれて死んでいったんだろうなあ」
「一説ではね。ざっと見積もって1000億人だって言うけれど、どの辺から人間に入れるのか、類人猿との境はどの辺で区切るのか、それがどうも曖昧で根拠が無いんだなぁ」

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2014年7月10日、デイヴィッド・ヅウィルナー・ギャラリー(David Zwimer Gallery)は “It is with great sadness that the gallery announces the passing of On Kawara" とアナウンスした。dead とは書かれていなかった。それはそのアナウンスが “On Kawara" に関するものだからだ。“On Kawara" が passing したのと全く同じ時間に dead したのは、別の名前を持つ人物であるという事なのだろう。

例えばここに“134 GREENE ST. NEW YORK" にオフィスを構える “ONE MILLION YEARS FOUNDATION INC" と「名」付けられた財団に関する公文書がある。

http://www.guidestar.org/FinDocuments/2014/134/177/2014-134177993-0c24252a-F.pdf

その “Part VIII Line 1" の “List all Officers, directors, trustees, foundation managers and their compensation" には、“AKITO KAWAHARA" “HIROKO KAWAHARA" “SAHE YOSHIOKA" “KASPER KONIG" と並んで、“ON KAWAHARA" という人物が記されている。2014年の compensation はゼロだ。

f:id:murrari:20160503085738p:plain“AKITO KAWAHARA" “HIROKO KAWAHARA" と同じラスト・ネーム(「名」)を持つ “ON KAWAHARA" 氏のアドレスは、“140 GREENE STREET NEW YORK" で前ニ者と共通している。

恐らく dead したと幾つかの公文書に記載されているのは、「肉体」を持つ “ON KAWAHARA" 氏という事になるのだろう。それは「1000億人」の中に組み入れられる死である。

一方「意識」としての「河『原(ら)』温」はまだ生きているという見解がある。デイヴィッド・ヅウィルナー・ギャラリーの “passing" という表現もそこから来ているのだろうか。勿論その「まだ生きている」はオカルト的な意味ではない。であれば、その「まだ生きている」はどの様にして可能になるのか。

例えば仏教経典の一つである「妙法蓮華経」、所謂「法華経」の「如来寿量品第十六」には、釈迦牟尼仏の「言葉」として「為度衆生故 方便現涅槃 而実不滅度 常住此説法(衆生を仏の世界へ導くために、教化の手段として入滅の姿を現したが、実際には入滅していない。私は常にここに留まって法を説き続けているのだ)」とある。“I AM STILL ALIVE"。それが「法身」という考え方を生み出したりもする。

しかし現実的に dead した釈迦牟尼仏を「久遠常住」させているのは、その法を伝えて行く釈迦牟尼仏ならぬ者による不断のアクティビティによる「繰り返し」である。「繰り返し」を担う人類が不在の場所では「法身」は意味を成さない。だからこそ仏教で重要視される「三宝」の中に、「仏(Buddha)」と並んで「法(Dharma)」と「僧(Sangha)」が入れられる。

「私はまだ生きている」は、それが確実に途切れてしまう現実と背中合わせだ。誰もが「1000億人」の死の中に組み入れられる。しかしだからこそ「私はまだ生きている」は普遍性を持つ。「1000億人」が「私はまだ生きている」を自分の言葉として発する事が出来る。“I AM STILL ALIVE" というツイートには、アーティストの発信者「名」は必要ない。それぞれの「名」に於ける「繰り返し」としてそれはある。“I AM STILL ALIVE" は、ウォルト・ディズニーが dead しても、ディズニーの「名」で作り続けられ、ディズニーのものとしてあり続ける「ミッキーマウス」とは違うのだ。“passing" とは球技に於ける「パス回し」の様な「受け渡し」なのではないだろうか。

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「自転(日)」の世界がズームアウトし、「公転(年)」の世界がズームアウトし、そして「名」の無い「余白」の世界に入って行く。

オーディオ・ドラマには「宇宙人のような地球人」という言葉があった。果たして「宇宙人」とは何処に済まい、何処までの行動範囲を持つ者の事を言うのだろうか。「神に雇われた書記」という言葉があった。その「神」はこの「余白」ばかりの遍きに等しく書記を送っているのだろうか。

「河『原(ら)』温」の “One Million Years" には、「地球」と呼ばれる平凡極まりない惑星の「公転」回数が[Past][Future]共に100万回ずつ記されている。全宇宙のスケールからしてみれば、非常に短い100万「年」だ。100万「年」というのは偏に「人類」の「起源」とその「進化」に即した時間である。だからこそ “One Million Years" には “For all those who have lived and died.”(Past)、 “For the last one.”(Future)と書かれている。「河『原(ら)』温」が扱う対象は、常にこの「地球」のこの「人類」スケールという「狭さ」に収められている。そして “Today" や “I ~" に於ける個人的(pesonal)/自伝的(autobiographical)なスケールは、この「地球」のこの「人類」の中に収められるものとしてある。

考えても見れば、「河『原(ら)』温」という「狭さ」としての「名」それ自体も「余白」であったのではないか。29771日の始まりと終わりの間に生じた「余白」。「名」付けるというのは「余白」の可視化だ。従って「河『原(ら)』温」という「名」は「狭さ」を伴ったものとしてなければならない。

「名」付けられた「余白」は、「名」付けられた別の「余白」と重なり合う。“I MET" を蝶番として。“A MET B" は即ち “B MET A" であり、“A MET C" は即ち “C MET A" である。そして “B MET C" があり、同時にそれは “C MET B" になる。そうした “MET" によって新たに「余白」に「名」が付けられる。

同じ @KCUA で行われていた「グイド・ヴァン・デル・ヴェルヴェ個展 無為の境地」と「名」付られたものの「余白」の様な「な」と「名」付けられた展覧会。“killing time" MET “Na"/“Na" MET “killing time"。

“I MET [I MET]"。“I MET [I AM STILL ALIVE]"。MET は「受け渡し」としての passing である。「受け渡し」は「長引かせる事」とは異なる。そして「受け渡し」だけが「狭さ」を越えられる。その一点でのみ〈「河『原(ら)』温」はまだ生きている〉は正しい。

クロニクル、クロニクル!「後編」

承前

「クロニクル、クロニクル!」の「ルール」は、「ルール・1/『クロニクル、クロニクル!』は会期を1年間とする」、「ルール・2/「1年の会期のうち、展覧会を2度、名村造船所跡で行う」、「ルール・3/繰り返すこと、繰り返されることについて1年間考え続けること」の3つである。

それは学校の卒業式で交わす「10年後にまたここで会おう」という約束の様なものにも思える。その「10年後」の現実は、卒業式の日にそれぞれが漠然と/決然と思い描いていたものとは大いに違っている公算が高い。

「私は10年後には押しも押されもせぬ純粋芸術の彫刻家になり、その作品が世界中の美術館で展示される」と思っていたものが、実際の「10年後」には「今はマネキンの原型を作っている」や「今は伝統的な陶工の名跡を継いでいる」という「未来」になる事は十分にあり得る。「私は1年後も『現代美術』の人間である」もまた、現実的な「未来」に於いて極めて蓋然的なものでしかない。

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3階の「会場」に入ると、そのフロアのゲートウェイの正面に、伊東孝志氏の「刻跡」(2008年/810✕560mm/写真 〘水たまり、息、水紋〙)という写真作品があった。ウィリアム・フォークナー「アブサロム、アブサロム!」の、クェンティン・コンプソンの科白を思い出させられもする「水たまり」と「水紋」。そして作品タイトルの「刻跡」は、同展サイトに引用されている同小説の、ジュディス・サトペンの科白を想起させられもする。

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その手前に、作業台の様にがっしりと作られた「長机」があり、その上に「子供の絵」――会場マップの作品キャプションにはそうある(注1)――が置かれている。6歳〜7歳児位の子供が実際にこの場所で描いてそのままにしたものなのか、それとも別の場所で描かれたものを、その「状況」込みでここに移して来たものかは判らない。しかしそれを特定する必要も無いだろう。

(注1)同作品のキャプションは「無題/映像(産卵直後の有精卵を孵化適温38°Cで24時間温め、その後外気温ー5°Cの中、雪上に置く。12分25秒)、テーブル、椅子、子供の絵」となっている。

この「子供の絵」は何時頃描かれたものだろう。1960年代だろうか、1970年代だろうか、1980年代だろうか、1990年代だろうか、2000年代だろうか、2010年代だろうか。しかしそのいずれであっても良い気がするし、それ以前にその問いそのものが馬鹿げている。「子供の絵」は、その成立「年代」が時に極めて重要視されもする、「現代」という観念に翻弄され続ける「現代美術」とは異なるものだ。

子供が描く絵は「繰り返し」の中にある。祖父母の世代が6歳〜7歳児位の子供だった時の絵と、親の世代が6歳〜7歳児位の子供だった時の絵と、その子(孫)が6歳〜7歳児位の子供だった時の絵は、その根本に於いては「同じ」ものだ。1951年にロシア・ノヴゴロドで発掘された「白樺文書(berestyanye gramoty)」(注2)の中に含まれていた13世紀の6歳〜7歳の少年、オンフィム(Онфим)が描いたものともそれは「同じ」ものだ。個体発生は系統発生を反復する(エルンスト・ヘッケル)のである。

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オンフィム「パパとぼく」/白樺樹皮にインク 13世紀

(注2)売買契約、金銭貸借、家事や家政に於ける伝言、文字の練習等の書き付けであるその「アーカイブ」は、それらが「繰り返されること」であるが故に、公文書等に書かれた年代記(クロニクル)から漏れ落ちざるを得ないものだ。

その「左横」――動線の関係で「奥」として印象付けられる様にはなっていない――に「卵割」段階で「成長」を強制的に止められた卵の映像が映っている。子供に留まる(注3)という事でもあるのだろうか。

(注3)映像中の卵は子供にすらなっていないが。

「難しい」とされる「現代美術」を見る「秘訣」というものがあるとしたら、その一つは「子供の絵」を見る如くに見るという事になるかもしれない。「現代美術」が「難しい」とされるのは、或る意味で「子供の絵」を見る者自身が子供だった頃を思い出す事が「難しい」のと似ている。

子供の頃の自分を取り巻いていた世界はどの様に見えていたのか、子供の頃の自分の時間の感覚はどうだったのか、子供の頃の自分にとって他者はどの様な存在だったのか、子供の頃の自分は何が面白いと思っていたのか、子供の頃の自分の宝物のどこが宝物だったのか。そうした諸事を全て綺麗さっぱり忘却して大人の実利の中に生きる者が「子供の絵」を見る時、「子供の絵」の「平易」な解説を求めたりもし、またそれを見た途端に「ああ『子供の絵』ね」と遣り過ごして、隣の「現代美術」を見に行くのである。

しかし「子供の絵」というアウトプットを見て、「この様な絵」・「しか」・「描けなかった」子供の頃の自分を「思い出せる」事が出来ない者は、恐らく「現代美術」からも「思い出せる」事を引き出すのは「難しい」に違いない。「子供の絵」に「自己主張」は無い。何故ならば「自己主張」をしようにも、その「自己」自体が確立されていないからだ。しかしそれは所謂「無垢」的なものでも「か弱き」ものでもない事は、自らの子供時代を思い返せば判る事だろう。

このフロアのゲートウェイに「子供の絵」があるのは、恐らく何かの「導き」なのだと思う事にした。この「現代美術」ばかりのフロアを「子供に留まった」目で見て行こうか(注4)。「誰もが子供だった」は、紛れも無く「普遍」の一つではあるのだ。

(注4)「現代美術」の「表現」として差し出される事にも、それを「現代美術」の「表現」として見る事にも飽き飽きしている。

五十絡みのおっちゃんが、子供の様に水溜りに息を吹き掛けている写真――子供がそれをやっている程には楽しそうに見えないが――を再び見て、3階を反時計回りに回った。

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このエリアは1月25日の「クロニクル、クロニクル!」の「初日」にも訪れている。その時そこには、スライダックに弓を繋ぎ、カポックのブロックを削っている人がいた。それからそれによって出たガラを弓で小さくし、それを大きなビニール袋に入れていた。他にもう一人、マットが貼られたカポックの造形物に粘土付けをしている人がいた。二人ともこちらを一瞥し、そして次の瞬間またそれぞれの世界に入って行った。

そこには物流パレットが数枚「散らばった」形で置かれ、その「親亀」パレットの上に二回り程小さな「子亀」パレットが置かれたりもし、その上や周囲にペールや洗面器等が置かれている。それらはここで「制作」を進める為に存在しているのかもしれないが、しかし例えば造形業者の「石膏取り」の現場仕事で、この様な「不合理」な形に材料や道具置場をセッティングする者がいたら、直ちに親方は怒り出すに違いないし、場合によってはグーパンチの一つも出るに違いない。

ここで行われるのは「仕事」の体裁をした「儀式」なのである。そして「仕事」の様に見える「儀式」で思い出すのが、子供の「秘密基地」だ。「秘密基地」遊びというのは、何も日本の子供に限った話ではなく、David Sobel が “Children's Special Places: Exploring the Role of Forts, Dens, and Bush Houses in Middle Childhood” で調査報告している様に、世界各国にその例は見られ、「子供の絵」同様に「発達心理学」の研究対象にもなるものだ。

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子供の「秘密基地」で行われている事は、大人世界の「まねび(学び)」という側面もある。しかし同時に、それは大人からの「観察」や「理解」が不可能なところにある「秘密」でなければならない。即ち何らかの形で「大人は知らない/大人は判らない」という形の「秘儀」性がなければならない。それが「秘儀」的であるが故に「秘密=基地」なのである。「秘密基地」は、「秘密」という形でインデペンデントな体験だ。それは大人達が生暖かく見守っている「キッザニア」の「アクティビティ(職業体験)」とは似て非なるものなのである。

このエリアは谷中佑輔氏の「秘密基地」だ。「見世物」として公開されてはいるが、その「秘儀」性故に「秘密基地」だ。従って、物流パレットも、パレットの上のものも、床に渡された綱も、ここで「出来上がったもの」ものも、全ては「秘密基地」のそれだ。ローラースケートの「儀式」、食べ物を口に入れる「儀式」、象ったものをまた象る「儀式」…。連関には「意味」があるが、それは「儀式」性に於いてである。そしてそれは、それを見る「大人」の全てが、嘗てその中で生きていたものだ。

「秘密基地」は「日常における非日常性」だろうか。否、決してそうではないだろう。「それをしてはいけません(注5)」と社会化される事が、子供にとっては「非日常」の側にある。そしてその「非日常」が「教育」を通じてドリルされ、やがて我々の知る「日常」になって行くのである。我々が生きる「日常」のシェルは、嘗ての「非日常」だ。それを踏まえて「日常における非日常性」という言葉を再吟味すれば、「日常」と「非日常」はいとも容易く反転する。

(注5)「キセイ」。

「秘密基地」遊びは、「長机」の上にあった絵の「作者」と同じ年回りの “Middle Childhood" (6、7歳から11歳位まで)に現れる。それは「日常」と「非日常」を入れ替える為の「教育」が本格的に始まり(学齢到達)、それが一旦完了する(小学校卒業)時期に当たる。社会化の過程で子供の口から発せられる「秘密」という言葉には、子供の抗いが込められているのである。

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その童話はしばしば書店のビジネス書や自己啓発本の棚に置かれる事があるらしい。「成功者の絶対法則」や「偶然の幸運に出会う方法」や「幸運を生むタマゴ」等に混じって、「セレンディップの三人の王子たち―ペルシアのおとぎ話」(小学上級から)がそこで見つかったりもする。

クリストフォロ・アルメーノがペルシャ語からイタリア語に訳した “Peregrinaggio di tre giovani figliuoli del re di Serendippo" の冒頭部分にあるラクダの逃走とその回復譚は、或る意味で「名探偵コナン(“Case Closed"=一件落着)」に於ける推理場面の様な話なのだが、そのプロファイリングの箇所を、「源義家が糸引納豆を発見した」的な、「ふとした偶然をきっかけに、幸運をつかみ取ること」という寓意=「セレンディピティSerendipity)」に仕立てた(曲解した)のは、18世紀のイギリスの政治家であり小説家である第4代オーフォード伯爵ホレス・ウォルポール(Horace Walpole)である。

1754年1月28日に、ウォルポールは Horace Mann に宛てた手紙(注6)の中で、“they were always making discoveries, by accidents and sagacity, of things which they were not in quest of ..." (王子たちはいつも意外な出来事と遭遇し、彼らの聡明さによって、彼らがもともと探していなかった何かを発見するのです)と書いている。「名探偵コナン」がその様に読めるのであれば、「セレンディピティSerendipity)」を「コナニティ(Conanity)」としても良さそうだが、しかしやはり「名探偵コナン」からは「ふとした偶然をきっかけに、幸運をつかみ取ること」という寓意は得られるものではない。

それはさておき、いずれにせよ「意外」であろうがあるまいが、「聡明さ」 があろうが無かろうが、「もともと探して」いようがいまいが、子供の世界は「(略)出来事と遭遇し(略)何かを発見する」毎日であり、因果の法則性が内面化され切っていない――即ち「必然」というものが無い「偶然」ばかりの――その「生」自体が「セレンディピティ」的である。

(注6)http://www.gutenberg.org/cache/epub/4610/pg4610-images.html の“191 Letter 90 To Sir Horace Mann.”参照。

さても写真である。子供が最も関心を持つ写真の様態というのは、飽くまでも紙の上にプリント(焼付/印刷)されているそれという、経験から導かれた印象がある。スマートフォンを子供に渡せば、カメラアプリで撮影してその結果が液晶画面に映し出される不思議を面白がりはするものの、しかし撮影画像をより面白いものにしていこうという気は更々起こさない。絵を何枚も何枚も描く様には彼等は写真撮影しないのだ。子供にとって、写真はどこまでも身体性の延長にある物理的なものでなければならない。子供にとっての写真。それは「表現」の一意的なアウトプットとしての「像」ではなく、ハサミで切る対象として認識される「物」であるところから始まるのである。

こうして新聞折込チラシのマンションの写真と、ドミノ・ピザの写真と、ケルヒャーの高圧洗浄機の写真がハサミで切り取られ、並べられ――子供は並べる事が好きだ――、テープ止めされる。。

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“The Line Up Book" Marisabina Russo 

もしも折込チラシの中に「給水塔」の写真ばかり――それもまた子供っぽい「line up(ぎょうれつぎょうれつ)」である――のそれが入っていたら、子供はそれをハサミで切り取って「ぎょうれつぎょうれつ」させるかもしれない。

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そして子供は周りの大人に、「ぎょうれつぎょうれつ」する事で現れたその面白さ(注7)を共有してもらおうとして/認めてもらおうとして言う。「見て見て」。その時「見て見て」と言われた大人が取る態度は二つに別れる。一つは子供と一緒にそれを面白がる事の出来る――子供の面白さのポイントとは必ずしも一致しなくて良い――大人。もう一つは「何をやっているの。早くかたづけなさい」と言う大人である。しかしそれでも「昨日も同じことをやったでしょ」とか「それはおともだちもやってるでしょ」と言う大人は余りいない。

(注7)「何が写っているのかということより、写真となった被写体がどういうふうに知覚されるのか、またそこに写された情報は、見る人によってどう変化していくのか、ということに 興味があります。」鈴木崇氏ステートメント。 http://www.takashisuzuki.com/statement/index.htm

鈴木崇氏が「Fictum」シリーズを東京の IMA Gallery で発表した時、飯沢耕太郎氏はそれをこの様に評した。

影をテーマにした「ARCA」、新作の「Fictum」のシリーズが展示されていたのだが、どちらも「悪くはない」レベルに留まっている。特に、京都を中心に日本の都市の光景を断片化して切り取り、3面〜5面のマルチ・イメージとして並置した「Fictum」は、発想、仕上げともに既視感を拭えない。日本の都市環境を、瓦屋根のような伝統的な素材と近代的な素材とのアマルガム(混合物)として捉える視点が使い古されているだけでなく、その並置の仕方に工夫が感じられなかった。疑いなく、一級品の才能なのだから、それにさらに磨きをかけていってほしいものだ。

 

http://artscape.jp/report/review/10112932_1735.html

 子供がつまらないと思う事を、大人は決まり事の様に拘らなくてはならない。大人は辛い種族なのである。

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「クロニクル、クロニクル!」で公開されている田代睦三氏の経歴を引用する。生年以外の西暦の部分は年齢に変えてある。

1957年 埼玉県生まれ。
24–29歳 東京・田村画廊、真木画廊、ときわ画廊、画廊パレルゴン、コバヤシ画廊、名古屋・ASGほかで個展。
48歳 「リハビリテーション-空気の裏側/草」GAW V、新宿ゴールデン街、東京
53歳 「リハビリテーション-領域I」「リハビリテーション-個人的事情」GAW VII、兵庫西脇市
56歳 「本のウラガワ/書物のオモテ『風立ちぬ』」GAW VIII、新宿ゴールデン街、東京

 

http://www.chronicle-chronicle.jp/tag/%E7%94%B0%E4%BB%A3%E7%9D%A6%E4%B8%89

 「クロニクル、クロニクル!」の出品作品タイトルは「1985(27歳)/2013(56歳)/2016(59歳)――絵画的な風景」である(その時々の年齢を加えてある)。

「第2期」の「クロニクル、クロニクル!」(2017年1月23日〜2月19日)が始まって間もなく、その年の旧暦1月1日がやって来る。その日、1957年の旧暦1月1日以降に生まれた人間は数えで61歳になる。十干十二支が一巡し、再び1歳にリセットされる。人生の春があり、夏があり、秋があり、冬があった。そこで1回目の人生は終わり。2回目の1歳は、60年分を辿って来た1歳である。春がどういうものであり、夏がどういうものであり、秋がどういうものであり、冬がどういうものであるかを知っている1歳だ。

人生の全てを夏で止めて生き続けようとする抗いの形というものは確かに存在する。「あなたは老いてはならない」と、永遠の現在の顔をした夏という過去に留まり続けているかどうかを周囲から監視され続ける職業というものもある(例:ロック・スター、現代アーティスト)。しかし人生に四季が存在するというのはそんなに悪いものだろうか。一旦冬を経ないと、新たな春は巡って来ないのではないか。

「クロニクル、クロニクル!」に於ける田代睦三氏の作品の現れは、氏の夏を知っている身には感慨深いものがある。それは「リハビリテーション」(回復)の時代をも越えて、新たな春の=新たな子供時代の予感がする。1歳とは未来の別名である。そして2回目の1歳は、未来が死へ向かうベクトルの上にある事を自覚する。

半分塗り潰された堀辰雄の「風立ちぬ」、2011年3月11日に水を被ってラッピングされた過去作、内から外へと向かう長いビニール・ホースを流れる水、黒板に転写されたツイート書かれた呟きと床に散らばる白墨、天井から垂れ下がった電気コード、窓際の折り畳み椅子…。こうしたものの一々に眉間を寄せて相対する事も無かろう。そうしたものの間を、ビニールホースの為に開けられている窓から風が通って行く。Le vent se lève, il faut tenter de vivre. 風立ちぬ、いざ生きめやも。

やがて2回目の1歳を迎える者が手掛けたもの。夏の人が何としてでも入ろうとする美術館/美術史(それらは夏の人が好きだ)には恐らく入らないもの。

幸福だとか何んだとか云うような事は、嘗てはあれ程おれ達をやきもきさせていたっけが、もう今じゃあ忘れていようと思えばすっかり忘れていられる位だ。

 

堀辰雄風立ちぬ

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ハンス・クリスチャン・アンデルセンのフェアリーテール「天使(Englen)」。その冒頭は「よい子が死ぬたびに、神様のお迎えの天使がこの世におりてきて…(Hver Gang et godt Barn døer, kommer der en Guds Engel ned til Jorden ...)」と、死んだばかりの子供に天使が話し掛けるところから始まる。

死んだ子供は自分が一番好きだった場所に天使と一緒に行き、そして花を集めて神様――19世紀のデンマークデンマークノルウェー)人アンデルセンの書くこの「神様」は、キリスト教の「神様」だろうか、北欧神話の「神様」だろうか――のところへ持って行く。その道すがら、天使は自分の正体を明かす。そしてその死んだ子供もまた天使になり、死んだ子供を連れてくるのだと神様から告げられれる。

「天使」は、アンデルセンの友人の娘が幼くして死んでしまった事を切っ掛けにして書かれたともされる。まだ乳幼児の死亡率が極めて高かった時代だ。それは当時の人間にとっては極めて当たり前の現実だった。19世紀に於いても尚、何時死ぬかも判らない子供は、その将来が極めて蓋然的なものだったが故に、それを期待しようもなく、未だ未来を表象するものではなかった。少産少死が可能になる環境になるに至るまで、死は常に傍らにあり、生と死の距離は余りにも近かった。

アンデルセン童話やペロー童話と並び称されるグリム童話には「死」のテーマが多いと言われる。しかしグリム兄弟やアンデルセンやシャルル・ペローが拾い集めた民間伝承が成立し伝えられて来たのは、例えば17世紀イギリスのピューリタンの聖職者であり “A token for children: Being an exact account of the conversion, holy and exemplary lives, and joyful deaths of several young children(子供に語り残す話:くわしい回心の記録。数人の子どもたちの気高く模範的な生涯と、その喜ばしい死)" という「児童書」の著者ジェームス・ジェインウェイが嫌悪した世界だった。

荒木悠氏の「永遠の現在」。死んだクジラだけの映像と、死んだクジラとそれに群がる若者の映像の二重映し。そのいずれが「先」でいずれが「後」なのかは判らない。その「先」と「後」の間にどれ程の時間が経っているのかも判らない。いずれにしても群がる若者が不在の映像がある。彼等はどの様にこの画面を去って行ったのだろう。画面の右側に去って行ったのか、左側に去って行ったのか。

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アクシデントで死んだクジラの「永遠の現在」にしても、1匹/2匹の蝿がアクシデントで航空機の三重窓から出られなくなった「Fly」にしても、それらを前にしてどの様なフェアリーテール――生と死を語る物語――を、アクシデントと隣り合わせにいる子供に語る事が出来るだろうか。それは他ならぬ語る者の生死観を伝える事だ。

むかしむかし、あるところに、いっとうのくじらがおりました。……

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この階を反時計回りに回って来て、その一筆書きが終わるところに持塚三樹氏の絵があった。流し台の上にも何かがあった。やがてこの階の一周を終えようというその時、この階を伊藤孝志氏から時計回りに回って見たら、ここにある持塚三樹氏はどの様に見えるだろうかと思った。それは子供の絵の直後に持塚三樹氏があるという事になる。

ヴァンジ彫刻庭園美術館の2012年の個展の作家紹介にはこう書かれている。

持塚三樹(1974-)は、意味が定まる前のかたちや、光や空気の移ろいを豊かな色の層を重ねて描き出し、意識に残った日常のイメージの抽象的な残像をキャンバスに定着させます。深い森に差し込む光、陽光のもと鮮やかに浮かび上がる草花は、目に見えない空気感をたよりに、記憶のなかをたぐりよせながら描かれた情景です。折り重なる草花や木々の枝によって分割された色面から幾何学文様が生まれ、画面に配された人物や小動物のシルエットからその隙間の空間が広がります。作家の視点は常にものごとの区切りの曖昧さをとらえ、誰もが共有できるイメージや言葉の中間的なあり方を探ります。

http://www.vangi-museum.jp/kikaku/121103.html

 

 現在の「作風」に至る「前」の氏の絵を、ネット検索で見る事が出来る。それはこの解説文が必ずしも、或いは悉く当て嵌まらないものだ。ピエト・モンドリアンの木から水平/垂直線に至る「変化」の過程は良く知られている。持塚三樹氏の「変化」の過程は如何なるものであろうか。それは果たしてイメージ上の「変化」に留まるものなのだろうか。

子供の絵にイメージ上の「発達」を見るとして、その「発達」に大いに関係しているのが体の使い方の「発達」である。

http://www.annelieswisse.nl/wp-content/uploads/03_pen-grip-development.jpg

描画に際して、最初は肩の関節を軸にした描き方。次に肘を軸にした描き方。その次に肩と肘を同時に使う描き方。それからそこに手首の動きが加わった描き方。そして指先の関節を「自在」に使える様になるのである。

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2000年代までの持塚三樹氏の絵の描き方は、明らかに指先の関節が主となるものだった。その筆は親指と人差指と中指の “tripod" で保持されていただろう。換言すれば、それは「大人」の筆の持ち方だ。それ以外の保持の仕方で――例えば乳幼児の描画の初期段階に於ける様な、肩関節の回転のみを使い、筆はグー(cylindrical)持ちで――その絵を描こうとしても到底無理だ。

しかし2010年代になって、氏は――結果的にであったとしても――こうした「大人」の筆の持ち方から離れた様に思える。今の氏の絵は、「大人」の筆の持ち方――即ち指先と手首の関節のみで―ー描けるものではない。氏の筆使いは2000年代と2010年代では明らかに変わっている。描画に際して多く使う関節や筋肉も、根本的に変わっているだろう。或る意味で、それは子供へのフィジカルな「退行」であり、子供の「繰り返し」である。

絵画に於ける再現性(representation)が現実的なものになるには、親指と人差指と中指の “tripod" で保持された筆の持ち方でしか実現化されないとも言える。絵画の起源論争にしばしば引っ張り出されるこの女性すら、既に “tripod" なのである。グー(cylindrical)では影をトレース出来ない。

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目に見えない妖精は鏡にも映らなければ影も生じない。その様な意味の事を、非合理が世界から排除されつつあった時代の人であるギュスターヴ・クールベが言った様な気がする。

持塚三樹氏の筆使いの「退行」から見えるものは何だろうか。

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דער מענטש טראַכט און גאָט לאַכט.


イディッシュの諺(Der mentsh trakht un Got lakht.:Man Plans and God Laughs:人は計画し神は笑う)

らいねんの こといへば おにがわらふ

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京都・上方いろはかるた

明日ありと 思う心の仇桜 夜半に嵐の 吹かぬものかは

 

親鸞

我々が良く知っている「現代美術」というシステムが1年後にも存在しているという信憑。それ故に美術館もギャラリーも1年後の計画を立てる事が可能になる。しかしその様な信憑は、神の笑いによって、鬼の笑いによって、嵐が訪れた如くに吹き飛ばされているかもしれない。確かに1年後は現実的ではないかもしれないが、ならば盛って100年後ならどうだろう。

「明日ありと思う心」が「現代美術」を辛うじて支えている。明日も美術館はある。明日もギャラリーはある。明日も美術市場はある。明日も美術史はある……。そうしたものの「価値」への信憑は、手許にあるこの紙切れや金属片で、いつでもあらゆる商品と交換が可能だと思われている貨幣という共同幻想と同じだ。そしてそうした共同幻想から完全に身を剥がして「現代美術」が生き残って行ける可能性は限りなく少ない。

子供はこの世に美術館やギャラリーが無くても日々ものを作っていける。100年前もそうだったし、1万年前もそうだっただろう。日々の繰り返しから何かを発見して行く実践でしかないもの。後にも先にも実践でしかない存在としての子供。その実践によって、自分の存在を日々自分で創造する子供。それが彼等の「未来」の在り方だ。

「1年後にまたここで会おう」。その1年後、このフロアの人達はどの様な実践主体になっているのだろうか。そしてそれを見る者もまた。

【一旦了】

3月29日追記

田代睦三氏から以下のツイートがされた。

「転写」は事実誤認であり、従って当該箇所を「黒板に書かれた呟き」に変更させて頂いた。作家及び関係者の方々にお詫び申し上げます。

クロニクル、クロニクル!「中編」

承前

日本独自のステージカーテンの進化形式である緞帳(注1)には表面と裏面があり、その表面を見る者(客席側)と裏面を見る者(舞台側)がいる。客席側に華やかな刺繍絵画が施される一方で、舞台側は素っ気ないグレーの裏地や「火気厳禁」等の注意書きばかりだ。やがて緞帳が開き、照明を落とされた客席の眼は、華やかな刺繍絵画を見ていたのと同じ視線で舞台上にその焦点を定める。舞台上にいる者は、それ自体が発光体として存在している。発光体の視線は、客席に眼の焦点を定めない。その視線は、両眼視差による立体視を「職業」上禁じられているマネキンの斜視のそれと同じだ。

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(注1)「緞帳芝居」や「緞帳役者」という日本語に残っている様に、「緞帳」は官許の証である「引幕」の使用を許可されなかった「下流」演劇への差別語でもあった。

吉原治良氏は見せる絵画の人である。見せる絵画の人であるから客席側から見えるものに心血を注ぐ。しかし見せる人である吉原治良氏自身が立っているところは舞台の側だ。見せる者としての絵描きは、常にカンヴァスの裏側(舞台)にいて表側に筆を入れる者の事を謂う。インデントを掛けたカンヴァスの裏側の世界(それはキュレーターが属している世界でもある)に生きる者は、同じ地平にいながらにして不連続な場所にいる。それは緞帳を必要としないもの――演者と観客が「地続き」に感じられる様に仕込まれた/仕込みでしかないもの――であっても変わらない。「畳の上で死ぬ」という日本語がある一方で、「板の上で死ぬ」という言い回しがある。見せるアーティストは「板の上で死ぬ」事を求められる――その訃報すらが客席によって消費される――舞台の上の者なのだ。

「大阪朝日会館」の緞帳(「朝の歓喜」)は、どれが最もオリジナルであろうか。吉原治良氏一人の手になると思われる「原画」がそのオリジナルで、下手側に「大丸」のロゴと文字が入った綴織緞帳がそのコピーという事になるのだろうか。であるならば、岡本太郎氏の原画が最もオリジナルで、吹田の万博公園に立つ「太陽の塔」がそのコピーという事になる。或いは草間彌生氏の原画が最もオリジナルで、直島の海岸にある「南瓜」がそのコピーという事にもなり、また成田亨氏の原画が最もオリジナルで、「ウルトラマン」の撮影用スーツがそのコピー(注2)という事にもなるのだろうか。しかし我々の記憶に残るそれらは、全てがそうした「コピー」の側にある。

(注2)いずれの「コピー」の制作現場にも「彫刻」が出自である者がいただろう。

それらの「原画」を複写するのも当然「コピー」である。しかしその「コピー」とは別系統の、万博公園に立つ「太陽の塔」をオリジンとする「コピー」の分岐――「太陽の塔ストラップ」の様に――もあるだろう。

吉原治良原画の「大阪朝日会館」の緞帳(日本最初の綴織緞帳)を制作した川島織物工業株式会社(現・株式会社川島織物セルコン)のものでは無いが、綴織緞帳についての住江織物株式会社の説明文を引く。

綴織緞帳(綴錦織、西陣本綴織緞帳)は、その豪華さ、その風格において他の追随を許さない美術織物の最高峰です。
そのゆえんは、機械に頼らず、300〜900色を超える織糸(おりいと)を、織り手(職人)が織り上げていく手工芸の技であり、デザイン効果を最大限に織物へ表現していく熟練した技術の結晶であるからです。
原画を緞帳製作の原寸大(製織用原図)に拡大し、使用する織糸の番号をその製織用原図に書き込み、経糸の裏側に設置し、番号通りの色と品質の織糸で織り込んでいきます。綴織緞帳の完成まで通常は4〜6ヶ月もの長い時間がかかり、職人によって心血を注がれた究極の手工芸品です。(太字強調は筆者)
 
「製品情報|緞帳」住江織物株式会社
https://suminoe.jp/doncho/product/doncho/index.html#a01

川島織物セルコンは、2012年に旧東急文化会館の映画館「パンテオン」にあったル・コルビジェ原画の綴織緞帳を1/5サイズで再現する際に、その大きなポイントとして「①(原画ではなく)緞帳の再現である ②1956年納入作品のプロジェクトの復元である」事を上げている。それは「原画」の複写による「コピー」の系統とはまた異なる系統の「コピー」だ。

世に子供じみた問答がある。「問:大阪城は誰が造ったか?」「答:大工さん」。しかしそれはこの「クロニクル、クロニクル!」に於いては極めてシリアス、且つラディカルに繰り返される通奏の一つなのである。

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パリ・オペラ座近くのホテル・スクリーブ(Hôtel Scribe)のグラン・カフェ(Grand Café)地階にあった、東洋風の装飾が施されたインドの間(Salon indien)。1895年12月28日、世界で最初の「映画」興行で映し出され、33人の観客が目撃したのは “La Sortie de l'usine Lumière à Lyon" というフィルムだった。日本語では通常「Lyon(リヨン)」や「Lumière(リュミエール)」を省略し、単に「工場の出口」と訳される。国によっては「リュミエール工場からの労働者の立ち去り」(立ち去り=移動、或いは搬入/搬出)という訳にされる事もある。

しかしそれは何故に “sortie"(出口/出力)なのだろうか。“porte"(「門」)とする事も可能だった筈なのに。“porte" ならば「工場の出入口」(「工場の開口部」)とする事も出来る。或いは “passerelle" というのはどうだろう。それは確かに「出口」ではある(「橋」という意味もある)が、一方でコンピュータ用語の “gateway" も意味する。プロトコルの異なるネットワークを接続する装置。それがゲートウェイというノードだ。

最初のインデントである「クロニクル、クロニクル!」のゲートウェイに、世界で最初に興行された/興行の為に整えられた――リヨンのリュミエール工場のゲートウェイが映し出される。「市民」と「観客」のプロトコル変換の場所に、「市民」と「労働者」のプロトコル変換が重ね合わされる。果たして展覧会の「内」/「外」とは何だろうか。

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アール・ブリュット」というプロモートは、事実上或る種の「傾向」を条件とするところがある。それは「既知」のものとされる「文明」に対する「未知」の「野生」を記述しようとする人類学的視線の不可避的な限界を内包する。そこには二重化された「他者」――「我々」の関心を引く「他者」――が存在する。それはどこまでも「他者」でなければならないものであるが故に、「それを見ている『我々=文明』には重ならないもの」として留め置かれる。

その「傾向」の一つに「稚拙」(=非文明)がある。「稚拙」でなくては「アール・ブリュット」足り得ないとすら思われている節があり、実際多くの「アール・ブリュット」展は、事実上「稚拙」展となっている。であれば、さしずめ荻原一青(「制作者」としての名)/荻原信一(「労働者」としての名)氏は「アール・ブリュット」には組み入れられないのかもしれない。

荻原一青/荻原信一氏は尼崎城(注3)址に建つ尼崎第一尋常小学校を卒業後、大阪・天下茶屋の蛭川芳雲画塾で友禅の下絵描きを修行した。即ち氏は紛れも無く「『専門』的な『美術』の教育を受けて来た」と言える。仮に「『専門』的な『美術』の教育を受けていない」事が「アール・ブリュット」の「アール・ブリュット」たる事の譲れない条件であるならば、氏は「アール・ブリュット」である資格を有していない。

(注3)「クロニクル、クロニクル!」の会場では、その尼崎城の復元画のコピーのみが「額装」されていた。

しかし「描く」事がその生に於いて或る意味で自目的化している、即ち「つくることが生きること」であるところの荻原一青/荻原信一という在り方を、ジャン・デュビュッフェの在り方ではなく、ヘンリー・ダーガー(例)の在り方と敢えて並べてみる事は可能かもしれない。その時「アール・ブリュット」の定義中の条件分岐は違った構文になる。

荻原一青/荻原信一氏の心の城の原画は、「こうあって欲しかったもの」が1/1で現実化してしまった、おとぎの城=熱海城2階の「日本城郭資料館」に、マッチ棒(JIS で定められた規格サイズの木片)で作られた姫路城、松本城名古屋城(1959年外観復元)、大阪城(「こうあって欲しかったもの」が1/1で現実化したおとぎの城:昭和復興天守)と共にある。

荻原一青/荻原信一氏が卒業した第一尋常小学校は現在の尼崎市立明城小学校である。その校門を入って右手に、教職員と児童が古写真等を元に協働制作したコンクリート製の尼崎城天守閣の模型がある。1940年(昭和15年)4月から7月の1学期間に作られたものだという。それは太平洋戦争中の度重なる尼崎空襲を「生き延びて」来た「城」だ。

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Tout en introduisant l’enfant dans le monde de l’art, KAPLA stimule la créativité, les capacités de concentration, l’ingéniosité et les facultés d’adaptation que la vie exige de chacun. En construisant, on se construit soi-même.
Tom van der Bruggen – Inventor of KAPLA
 
カプラは芸術の世界に子供を導き入れ、誰もが人生にとって必要な創造力、集中力、独創力と適応力を刺激します。それ(カプラ)を構築する事は、あなた自身を構築する事なのです。(拙訳)

トム・ファン・デル・ブリューゲン - カプラ考案者

http://www.kapla.com/vitrine/jeu-kapla/kapla-histoire/

 2009年4月8日〜5月16日まで、東京西新井の朋優学院 T&Sギャラリーで行われた「斎藤義重'09 複合体講義 創造と教育の交錯点 -中延学園・TSA・朋優学院-」展の朋優学園によるレポート「<展示風景>」には、飯塚八朗氏の以下の文章が「<講義1> 造形遊びの効用と教育」を説明するものとして上げられている。

“遊びの中の美術”ということに注目した授業の展開、それは造形遊びの楽しさを含んだものです。例えば迷路をつくる課題では、作品を友人たちと交換して迷路遊びをすることで、人と人を結ぶ働きを体験します。構成の課題では、積み木遊びを取り入れ、積み木をつくる、くみあわせるなど、この体験は数学や物理などの他教科と関連するものとなります。 −中略− 美術を知る、考える、自分発見の機会でもあります。身近な環境に美術を取り込む壁画の授業は、20年以上続けていますが、美術は広く生活や文化の中にあるものなのです。
 
斎藤義重'09 複合体講義 創造と教育の交錯点 -中延学園・TSA・朋優学院- <展示風景>

http://www.geocities.jp/hoyu_art/pages/rinen/gijyu09_2.html

加えてそのページの「<講義5> 開かれた教育環境」には同展「体験コーナー」のレポートとして「来場者や生徒が、斎藤義重の規格サイズのバルサを用いて、複合体マケット遊びを体験できる」とある。その画像中のバルサピースを見て、アッセンブル・トイ――「進行の状態がそのまま形態となる(斎藤義重)」トイ――のカプラを思い出した。

斎藤義重の規格サイズ」と言えば、「トム・ファン・デル・ブリューゲンの規格サイズ」(1:3:15 = 8 x 24 x 120mm の1サイズ)であるカプラも同じであり、またそれも「創造と教育の交錯点」にあるものである。「フランス文部科学省推薦教材としてフランスで国の教育システムで使われているペタゴジックトイ」であるカプラが教育に於いて目指すものは、斎藤義重氏が教育に於いて目指していたものと重なるところが多い。

フランスの “planchette magique" (魔法の板)で「斎藤義重」を作ってみた。

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これは現前(représentation)的な再現ではなく、反復(répétition)的な再現としての「斎藤義重」である。「クロニクル、クロニクル!」に言うところの「繰りかえし」は、「反復」としてのそれだろう。そして教育もまた、人類史的な発生や発達の「反復=手渡し」の中にある。

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ゴミ屋敷。それは家という物理的容器に於ける「インプット(搬入)」と「アウトプット(搬出)」のバランス崩壊から生じる。「アウトプット」が何らかの理由で限りなく細り、その結果留まる事を知らない「インプット」(注4)が、相対的に超過した状態がゴミ屋敷として顕現する。或る意味で「抜群の強度」を持つゴミ屋敷からは、しかしそれに至らしめた者の熱量を感じる事は無い。

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(注4)例えばタイムセールや100円ショップが「『賢い』消費者」に向けてプレゼンテーションする「お買得」感――今日的な「消費」サイクルの在り方を前提とする所謂「もったいない」主義――への全面的敗北がそれを加速させてしまう。ゴミ屋敷の住人は、「インプット」が超過状態である事を「悦楽」(或いは「倫理」=ものを「大切」にする)の対象として強迫的に発見する事で、それに自目的的に「落ちてしまう」のである。

ゴミ屋敷の中からその断片を拾い上げる様に「インプット」の一部を抜き出して「主題」化し、その為の方法論を「コントラーブル」に「ソフィスティケート」して行く作品になる以前の三島喜美代氏の「平面」作品は、それ自体「インプット」超過の「バランスの悪さ」の上にある。その絵画は、20世紀半ばの氏の日常にあって、印刷や出版といった情報産業の全面化によって生じた、相対的に「コスト」の低い(=流通量の飛躍的上昇によってデフレーションした)多くの「情報」の生活への「インプット」を、どの様に「アウトプット」の形で表わせば良いのかという戸惑いの中にある様に見える。今日的な「有り合わせ」の技術は、都市化の亢進によって生じた余剰物の存在を前提とする――「買い置き」という消費スタイルや「作り置き」という生活スタイルを可能にしたテクノロジー=冷蔵庫(注5)の「残り物」で作ったカロリーの高い料理の様に。

(注5)多かれ少なかれ空間恐怖症的にゴミ屋敷化した大型冷蔵庫(=生ゴミの保存装置)というのは、その機械を持つどの家庭にも存在する。そしてまた大型冷蔵庫同様、テラバイトのハードディスクも、ギガバイトのストレージやメモリーカードやオンラインストレージも、凡そ「蓄積」に適したものは全てがゴミ屋敷化するのである。

他ならぬそれを売る者によって、同時代の市民であれば共有されるべきとされる「情報」と呼ばれる「商品」が、伝統社会に於いては揺るぎなく頼もしい存在として存在していた、文字通り “firewall" としての煉瓦造りの「壁」で守られていた筈の「私空間」にまで、舟底に穴の空いた小舟に入り込んで来る水の様に無遠慮に雪崩れ込む。

小舟を沈ませる大量の水を、砂遊びのそれの様に極めて小さなバケツで掻き出し、その掻いた水の僅かばかりをカンヴァスに貼り付けて「絵画」というアウトプットにする。それもまた「つくることが生きること」の「症候」として「生の芸術」であろう。

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「川村ネスト」の「外」にある非常階段の踊り場に出た者は、眼下にある鋼鉄製の構造物――嘗て「ウィンチ」として機能していたもの――の造形に心奪われてしまうかもしれない。

仮にこの構造物を「廃棄」するとして、しかしここまで錆付いてしまうと、最早それを「分解」する事は難しいだろう。元々それは構成要素(「部品」)を「組立(アッセンブル)」して構成されたものであり、またそれは逆順的に「分解(ディスアッセンブル)」可能なものであった。アッセンブリーに於いて、締める為のボルトはそのまま緩める為のボルトである。アッセンブリーは――基本的に――「組立」と「分解」の反復(繰り返し)を前提とする(そうでないと「修理」が出来ない)。錆付きによって構成要素が一体化し、反復的な「分解」の道が閉ざされる――「分解」する意味も無い――事で、溶断等によって「解体」するしか無くなってしまったこの鋼鉄製の構造物は、それ故に「オブジェ」として「美しい」客体なのである。

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「清水久兵衛彫刻」の造形原理は、工業製品と同じアッセンブリーだ。従ってそれが車の生産ライン(注6)の様なところで作られていてもおかしくはない。清水九兵衞「京空間」の月産4万個(プリウスと同じ)は――そうした需要がありさえすれば――その作られ方からして可能なのである。

(注6)清水九兵衞に先行する彫刻家でもあるデイヴィッド・スミスは、その10代から20代に掛けて(1920年代半ば)自動車工場のアッセンブリー・ラインで働いた事がある。そのエピソードは彼の彫刻に於ける造形原理を説明する形で、彼の評伝に必ずと言って良い程に引かれている。例えば晩年の彼の彫刻の表面処理と、彼がアッセンブリーラインに立っていた頃に流行っていたエンジン・ターニング加工を結び付ける事は、強ち意味の無い事ではないだろう。

石を投げれば清水九兵衞に当たる様な関西地方だが、その巨大な朱色のアッセンブリーはそのままの形でその場所に到着したのではなく、建築資材の様に複数のトラックで運ばれて来て現場でアッセンブルされているものだ。実際、この「クロニクル、クロニクル!」で展示されていた作品「京空間B」も、「部品」の形でこのCCOに「搬入」され、そこでスタッフ(=「組立工」)によって「完成車」の様にアッセンブルされている。

そして「第1クロニクル」(2016年1月25日〜2月19日)終了の際には、それは「組立工」によってボルト(注7)を緩められて再び「部品」になり、その「部品」が大阪府江之子島芸術総合センターに向けて「搬出」される。「クロニクル、クロニクル!」はそのアッセンブル/ディスアッセンブルの作業をも見せる「展覧会」だ。

(注7)斎藤義重氏の「複合体」(「本物」)の「素材」キャプションは「ラッカー,木・ボルト」であり、ボルトが「ボルト」として明記されている。一方、清水九兵衞氏の「京空間」のそれは「アルミニウム」としか書かれていない。ボルトの扱いに於ける両者の差異を、作品に関する考察の対象とする事は十分に可能だ。

アッセンブリーとしての「清水九兵衞彫刻」。それは「分解」をしたくなる彫刻なのである。少なくとも時計を「分解」したくなる様な子供はそう思うに違いない。そして〈観念〉としての「時計」が、子供の「失敗」により二度と組み上がらない様に、〈観念〉としての「清水九兵衛彫刻」が二度と組み上がらなくても、それはそれで反復の中に生きる、「失敗」を「失敗」として認識しない子供――「失敗」を主題的に浮上させる様なロマンティシズムに決して陥らない者――にとってはどうでも良い話だ。そしてその時、「清水九兵衛彫刻」は(子供にとっては)「準=芸術品」としての「プロトタイプ」の地位を得るのかもしれない。

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「クロニクル、クロニクル!」のマネキンは裸だった。それは本来マネキンにとって決して人様の前に出して良い姿ではない。

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その裸の姿は、マネキン工場やクローズされる事で客の視線が及ばない閉店後の店内等の中でこそ、露わにして良い姿である。一般的に、彩色される事で完成するマネキンとは、裸を見せない「リカちゃん」や「バービー」同様、マネキンという「職業」を指しているのであり、それは「職業」意識の全く異なる彫刻に於ける人体の意味とは重ならない。昨今の洋品売場を席巻中の、平和マネキンによる「きゃらもあ2」は、「キャラ設定込み」という点も含めてマネキンという職業の今日的な在り方を示しているが、しかしそれを裸にしても得るところは殆ど無いだろう。

クラシカルなマネキンを客体的な意味での「彫刻」として見る事。それは美大や美大予備校――ルーブルの様な美術館(日本のそれは含まれない)の展示室内でも良いのだが――で、「ギリシャ時代」や「ローマ時代」等の、その時代なりに理想化されたプロポーションを持つ「人体」彫刻(として再発見された「マネキン」)を、イーゼルを立ててデッサンする者の視線と同じものを「彼女」たちに投げ掛ける事になる。

但し正確に言えば、石膏デッサンに代表される彫刻デッサンに於いては、描く対象である「彫刻」に対して「彼女」という人称的な認識はされない。イーゼルを挟んで見る「ミロのビーナス」は「彼女」としては存在しない。剰えイーゼルの向こうに「ある」ものが生身のヌードモデルであったとしても、「美術」ではそれを「彼女」として描く事は禁じられている。それは後にも先にも「人体」の造形的な〈観念〉でしかないものだ。

アカデミーの石膏デッサンで育った者がマネキンを作る訳であるから、そこに彫刻的に見るべきところが現れもするだろう。それは大衆音楽の歌い手である淡谷のり子藤山一郎の歌唱に、クラシック唱法的に聞くべきところが現れる様なものだろうか。とは言え、彫刻が求める非人称性と、マネキンが求められる非人称性は、根本的に異なるものであるという事実は最低限抑えておく必要がある。

その上で、2017年の1月にクラシカルな「彼女」達がこの会場に再び呼ばれる事を拒まないとして、その時「彼女」達は2016年の同展同様に、再び「美術」的な対象としての裸の姿でここに立っているだろうか。であれば、次はイーゼルを立てての「マネキンデッサン」のワークショップなのかもしれない。

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credule, quid frustra simulacra fugacia captas? quod petis, est nusquam; quod amas, avertere, perdes! ista repercussae, quam cernis, imaginis umbra est: nil habet ista sui; tecum venitque manetque; tecum discedet, si tu discedere possis!

Metamorphoses: Publius Ovidius Naso

 

浅はかな少年よ、なぜ、いたずらに、儚い虚像を捕まえようとするのか? お前が求めているものは、何処にもありはしない。お前が背を向ければ、お前の愛しているものは、無くなってしまう。お前が見ているものは、水に映ったumbra(影)でしかない。そのものは、固有の実体を持たず、お前と共に来て、お前と共に留まっているだけだ。

変身物語:オウィディウス

西洋絵画の主要な主題の一つとして存在する「自画像」は、畢竟「鏡面」を描く事を意味している。ただそれを見ている者(画家自身すら)が、それが「鏡面」である事を意識していないだけの話だ。

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Autoritratto entro uno specchio convesso: Parmigianino(1524)

「牧田愛」に、牧田愛氏(やそのカメラ)は映り込んでいるだろうか。当然それらは「映っている」筈である。しかしそれは「浅はかな少年」(ナルキッソス)の静まり返った水面とは全く異なる波打つ水面だ。波打つ鏡面ビックリハウスの鏡は「アンチ・ナルシス」だ。

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遠からずこの世から失われてしまう/それまでは世界にあり続ける儚げな鏡を描く。それは遠からずこの世から失われてしまう/それまでは世界に生き残っている自分を描く事でもある。

「牧田愛」を見ている背中に鏡の存在を感じた。

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瞳の中に自分が映り込んでいる。誰かに「見られている」という感覚は、こうしたところからも来るのかもしれない。瞳の中に映り込んでいる「牧田愛」をバックにした、遠からずこの世から失われてしまう/それまでは世界に生き残っている自分――2017年の「第2クロニクル」時にこの世に生き残っていない可能性は当然ある――を写真に撮った。

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二つ目の「川村ネスト」を見た後、CCO二階の最後の部屋で斎藤義重に遡行的に繋がった

あの天井から電源コードで宙吊りになっていた――床から離されていた――60ワットの電球は、重力に全面的に身を委ねていて、床に着地する事が出来た「同じ電気」を分け合う650ワットに照らされていた。それらの反射光の減衰の度合いによって感じられる空間的な距離感が、それらをして空間内に位置する「実体」であるかの様に思わせていた。

その天井から電源コードで宙吊りになっている電球は、あの電球とは違って飛ぶ事が出来る。但し「リード」に繋がれている為に、その動きは動物園の動物を思わせたりもする。野生の蛍とは違うのだ。

その飛び回る電球は、そこにあるものが「実体」として落ち着こうとする事を常に妨げようとする。空間に於ける位置の基準点として存在しないその電球は、壁を、床を、天井を常に不安定なものにする。加えてそこにある大小様々な鏡が、その電球の光をてんでばらばらに「増幅」する事で、それらの不安定さはいや増しになる。当然この部屋に入り込んだ者も同じだ。

恐らく所謂「聖書」に書かれているところの “Dieu dit : « Que la lumière soit » et la lumière fut."(神は「光あれ」と言われた。すると光があった)の「光」は、こうした不安定極まりない「光」を想定してはいなかっただろう。しかし所謂「聖書」が想定しているだろう「光」を放つ、地球星人に「太陽」と呼ばれているところの、しかし「全宇宙」的には極めて平凡な恒星―ー「聖書」という古代の聞き書きが、「太陽」よりも「上位」にある現実的な「光源」を想定しているとは到底思えない――は、複雑に重畳した「周回」を回る「リードに繋がれた電球」でしかないのである。

この部屋に置かれていた「鏡」の全ては「平面鏡」だった。「鏡」=「平面鏡」という、あのナルシスから始まる観念的な「縛り」は、それだけ人類にとって強力なものだ。仮にそこに「牧田愛」の「鏡」があったらどうだったのだろうか。

【続く】

クロニクル、クロニクル!「前編」

 

承前

ネスト 【 nest 】 入れ子 / ネスティング / nesting

  
 ネストとは、構造化プログラミングにおける、プログラムの構築手法のひとつ。複数の命令群をひとまとまりの単位にくくり、何段階にも組み合わせていくことでプログラムを構成する。このまとまりをネストという。主なネストの種類は、条件分岐(C言語などでは「if」文)、一定回数の繰り返し(同「for」文)、および条件つき繰り返し(同「while」文)である。ネストの内部に別のネストを何段階にも重ね、入れ子構造にしていくことを指して「ネスト」「ネスティング」と呼ぶことがある。
 
IT用語辞典-入れ子
http://e-words.jp/w/%E3%83%8D%E3%82%B9%E3%83%88.html

function LookupCode(code as string) as integer
    dim sLine, path as string
    dim return_value as integer
 
    path="C:\Test.csv"
    if FileExists(path) then
        open path for input as #1
        do while not EOF(1)
            line input #1, sLine
            if left(sLine, 3)=code then
                'Action(s) to be carried out
            End if
          loop
        close #1
    End if
    LookupCode=return_value
end function

 
Wikipedia(en) の “Nesting (computing)" に上げられているネスティングの “small and simple example"。
https://en.wikipedia.org/wiki/Nesting_(computing)

プログラムのコーティング(「ひと」が解釈可能な言語で記述する事)に於いて、「ひと」に対してネストの階層レベルを明示的なものとする基本的な方法論に、行頭に非表示文字(n個のタブやn個の半角スペース)を挿入するインデント(字下げ)がある。CやJavaPythonPHPPerl(以下略)使いならずとも、HTMLやCSSソースコード記述でそれをしない者を見掛ける事は余り無い。相対的に上位の入れ子であれば相対的にインデントは浅くなり、下位になる程にそれが深くなるというのが、コーディングに於ける標準的なお約束だ。

インデントの浅さ/深さは、基本的には階層レベルの上位/下位に対応する。インデントを行う事は、プログラムを書いた者を含めた「ひと」に対し、その構造が「理解し易い様に」という「親切心」の現れである。であるが故にそうしたコーディングに於けるインデントに対しては、「ひと」の世界では「美的評価」の対象ともなる。一方でそこに書かれている「こと」を実際に実行する機械には――最終的にその処理が遅くなろうが早くなろうが――その一切が関わり合いの無いものだ。

「クロニクル、クロニクル!」展もまたネストだった。それは「世界」から注意深い形で一段階だけインデント――論理的不連続を表わすインデントは所謂パレルゴンとしても機能する。或いはパレルゴンとはインデントの別名である――されていて、その中には様々な見えそうで見えない/見えなさそうで見える条件式が潜ませてある。

例えば「『外』からインデントされているこのネストに「拉致」される事で、美術的な『好奇』の眼差しの対象となったマネキンの剥き身を、マネキンが元いた『場所』と同じ『外』からこのネストの中に入って来る事で、『ネストの中の人』になる事を選択した『あなた』が『その様に』見てしまうのならば〜」という条件式がそこに「書かれて」いたりするかもしれない。或いは「『外』の世界で『あなた』がこれまでに一顧だにした事も無い『しごと』や『繰り返し』や『ものの移動』などといったものが、このインデントされたネストに於いて『見る対象』として『あなた』の目に映じ直されるのならば〜」という条件式もそこに「書かれて」いるだろうか。

それらの「ならば〜」の条件式が、何らかの「〜せよ」へと送られているとするならば、それは最終的には「自分自身が知らなかった自分自身へと立ち戻れ」というものになるだろう。プログラムの終了は、常にネストの「外」で完了する様に設計されている(end function)。仮説的に観察者としての「観客」が「主体」で、展覧会にある「作品」が「客体」としておいても別に構わないのだが、それにしたところで「それらの間」で生起する概念と実践――展覧会というネストは観客主体のネスト外に於ける実践をこそ期待している――に、展覧会というものの成否が掛かっている。ネストとしての展覧会を成功させるも失敗させるも、実践主体としての観客に掛かっている。展覧会にとって最も避けるべきは、「展覧会の中のものを見た」だけで観客が完結してしまう事だ。即ち展覧会を見る以前(「以前」こそが重要)の自らの立つ構造へ立ち返る(再帰する)事の「忘却」、展覧会の「以後」をしか見ない事こそが展覧会の「敵」なのである。

その意味で「クロニクル、クロニクル!」に一つとしてエキゾチックな見物で終わるものは無い。我々の住む「世界」から一段階インデントされているが為に、そこにあるものが観客のエキゾチシズムの対象に見えるだけの話でしかない。インデントは展覧会を見る者の「展覧会以前」の変化をもたらす「機会」を「機会」化する為の方法論なのである。

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この「クロニクル、クロニクル!」というネストの内部には、その「下位」に当たるネストが仕込まれていた。そのネストの中のネストは、少なくとも2階に1つ(乃至2つ)と、その始まりが4階に「ある」ものが1つである。

2階のネストは、「世界」から一段階インデントされている「クロニクル、クロニクル!」(以下適宜「クロクロ」)の中に、川村元紀氏がもう一段階インデントして作り上げている。であるが故に、それは最初に極めて意識的に階層化する事から始まっている以上、コンピュータ・プログラム中の第一のネストと第二のネストの “if" (それは同じであり違うものである)が、その論理階梯上、同じ「空間」内にあっても決して混ざり合わない様に、構造上はこの川村元紀氏によるネストは、一つ「上位」のネスト(例えば「会場」)に――重なってはいるものの――「溶け込む」事は無い。

例えば1階の瓦礫のコンクリート片(それはこのCCO総合事務棟の中を「移動」して集められている)の一つを取り出し、その取り出した後にティッシュを一枚敷いて(=「人為」を一つ加えて)「世界」から一段階インデントし、そしてそのティッシュの上に再び取り出したコンクリート片を載せた場合、そのコンクリート片がその「下」のコンクリート片の山や周囲環境に論理的に「溶け込む」事が無い様に。論理的にインデントされたティッシュの上のコンクリート片は条件式を見る者に示す。「このティッシュに載せられたコンクリート片が、他のコンクリート片と異なって『あなた』に見えるならば〜」。

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川村元紀氏のネスト構築は「搬出」から始まっている。それは「川村ネスト」の上位にある「クロクロネスト」の論理平面(空間的には地続き)上に「倉庫」の「中のもの」が「移動」したという事になる。「搬出」という行為は、(基本的には)下位ネスト(「内」)から上位ネスト(「外」)へとものを「移動」する事であり、一方で「搬入」という行為は(基本的には)上位ネスト(「外」)から下位ネスト(「内」)へものを「移動」する事である。CCOの「外」近傍の「ワカヰ配送センター」「田中梱包工業所」「オーエム工業」「マツヤ」「大阪屋家具」「セブンイレブン大阪北加賀屋5丁目店」等々に於ける「搬入」/「搬出」にしたところでそれは同じだ。「搬入」/「搬出」は単なるものの「移動」ではない。それは論理的な階層間の不連続な「跳躍」なのである。

「川村ネスト」は、現実的にも象徴的にもまずは「搬出」から始めねばならなかった。そして「真っ更」な「展示空間」にそこを変えた後(=インデントを掛けた後)、そこに「クロクロネスト」という「外」に留め置かれたものを「川村ネスト」という「内」に向けて「搬入」を開始する、即ち階層の「跳躍」を開始するのである。

「川村ネスト」でされている事の一つ一つは、「クロクロネスト」でされている事の、字義通りの「反復」(繰り返し)である。「クロクロネスト」にその上位である「世界」から「搬入」がされる様に、「川村ネスト」でも上位である「クロクロネスト」から「搬入」がされる。「クロクロネスト」で「作品」の配置に神経を尖らせている様に、「川村ネスト」でも物品の配置に神経を尖らせている。「クロクロネスト」にアシスタントが多く動員される様に、「川村ネスト」にも多くアシスタントが動員される。「クロクロネスト」が照明に拘る様に、「川村ネスト」も照明に拘りを見せる。存命作家の同展に向けた新作が「クロクロネスト」向けに作られる様に、「川村ネスト」でも同展に向けた川村元紀氏の新作が作られて「川村ネスト」内に入れられる。「クロクロネスト」で「賄い」を始めとする「摂取」が「見せる対象」となる様に、「川村ネスト」に「摂取」し掛け――或いは「摂取」し終わり――のペットボトルが置かれて「見せる対象」となる。……。

従って「川村ネスト」の「狭い部屋」の中に、吉原治良もリュミレール兄弟も斎藤義重も三島喜美代も荻原一青も牧田愛も清水九兵衞も大森達郎も清水凱子もジャン=ピエール・ダルナも笹岡敬も伊藤孝志も谷中祐輔も持塚三樹も鈴木崇も荒木悠も田代睦三も(高木薫も)、そのままの形で、或いは何なりの形で入っていても「おかしく」は無いのである。しかし「川村ネスト」の中にあるのはそれらの「作品」ではなく、椅子であったり机であったりボードであったり脚立であったりの「製品」だ。

更に「川村ネスト」の中には幾つか「容れ物」(オリコンやキャスターやラックやビニール袋等)があり、そこでまた「川村ネスト」の下位ネストを構築する「搬入」が行われ、それらを「オリコンネスト」「キャスターネスト」「ラックネスト」「ビニール袋ネスト」等々とする事で論理階層を複雑化させている。

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「川村ネスト」には「開口部」が最低2つ存在する。その一つは上位ネストである「クロクロネスト」に繋がるものである。「クロクロネスト」側から見れば「川村ネスト」は「出品作」の一つに見える。一方「川村ネスト」からその「開口部」を通して「クロクロネスト」を見れば、それは「川村ネスト」の中に書き込まれているかもしれない「ここにあるものが今の『あなた』に『そう見える』のならば〜」という条件式の一つ上位の参照先になる。

そしてもう一つが非常階段踊り場(外光=リュミエール)への開口部。それは「川村ネスト」の「外」であると同時に「クロクロネスト」の「外」でもある。しかしそこからは「外」の世界に “exit" 出来ない。そこは「外」へ向かう往路から二つのネストの「内」への復路へと引き返す「折返点」だからだ。その多くがスタート(入口)とゴール(出口)をスタジアムのライン上で同じくする五輪マラソンの「折返点」の様に、それは反転としての「逆走」を「ランナー」にもたらす。今まで上り坂だったところがそのまま下り坂になり、こちらに向かって走って来る他「ランナー」は先程までの自分の姿だ。その踊り場には「複数のネストを通って来て、ここから見える『外』の風景が『あなた』がこれまで親しんできたそれまでのものと何か違って見えるのならば〜」の条件式が書かれているかもしれない。そして観客はそこで折り返してネストを「逆走」する。

観客を「逆走」させる二重の「折返点」の構造は、それ自体「折返点」であろうとする4階の「高木薫ネスト」にも見える。しかしそこに「美的なもの」としてのモニュメンタルな何かがそこにある訳ではない。

 

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1964年東京オリンピックでマラソン「折返点」に置かれた「美的なもの」

改めて言うまでもなく、「クロニクル、クロニクル!」は一筆書きの「回遊型」ではなく「折返点」のある「往復型」の展覧会である。そのフロアは観客がCCO総合事務棟の「出口」へ「逆走」する為に折り返さざるを得ないところであるから、「反転」の契機である「折返点」をわざわざ示す「美的」な何ものもそこには必要無い。

この4階フロアは、嘗てここで図面を引いていた人の「入る」/「出る」の「折返点」でもあった。上り階段の往路と、下り階段の復路。「しごと」に「入る」為の上り階段。「しごと」から「出る」(階下の社食に向かう事を含む)為の下り階段。

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その折返点のフロアにはCCOを知る者に良く知られた、「外」に見える船渠に入っている船と同サイズに引かれた現図作成の跡(マキタのロボプロがこのフロアを健気に掃除しなければ、それはマン・レイの「埃の栽培」に見えなくもない)があり、またそれは例えば2つ下のフロアにある斎藤義重の図面に「逆走」的にフォーカスするかもしれない。

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会場案内図上では「無題1」とタイトル付けされて「作品」として明示的にされている(このフロア内、及びその周囲には「原状」的にはそこに無いものが明示的にされない形で幾つかある)パネル写真がある。それは「現図工場 名村造船所旧大阪工場の現図工場(昭和33年頃)」というものであり、CCO総合事務棟の建物「内」にあって「クロクロネスト」の「外」にある、同棟で「最初」の階段の右手にある2階「GUEST ROOM」から「搬出」され(「クロニクル、クロニクル!」の会期中は芳名帳が置かれていた「FOYER」側に面した「元の展示場所」が「空き」になっていた)、この写真に写っていると思えもするフロアに「搬入」されたものである。

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しかしそれを良く見れば、写真の中の建物と、それを見ている者がいる建物は大きく異なっている事が直ぐに判る。今ここにある観客が立っている建物は鉄骨だが、写真の中の建物は木骨だ。床から梁までの高さも異っている様であり、またフロア材やその張られ方(写真の中の床材は部屋の「斜め」方向に渡されている)も全く異なる。果たして写真の中の風景はここと「同じ」場所なのだろうか。そのフロアの位置は、写真の中のそれと、X,Y,Z軸的に1ミリたりとも変わっていないのだろうか。もしかしたら写真の中の人達は、今ここにあるベニア板フロアの数センチ上に浮きつつ(或いは数センチ下に潜りつつ)仕事をしているのかもしれない。ずれを伴う二重写し。往路で見て来た荒木悠「作品」を思い出す。

「無題2」とされているところにあるドア。

声を出さずに読んでください。

各会場で、当時の作業音が聞こえます。

このドアは開くことができます。

「当時」とは一体何時の「当時」だろう。

出口ドアを開く。

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ネストの「外」に出る。出口ドアを閉める。

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反転する「折返点」。

先程まで出口ドアだった入口ドアを開いてネストの「内」に入る。復路。そこに座って作業をしている「ひと」に声を出さずに声を掛けて部屋を出る。「失礼します」。部屋に入る時にはしなかった挨拶だ。

この二者の「しごと」は「構造」上のものである。「川村ネスト」の「乱雑」さや「高木ネスト」の「空虚」さ、或いは周囲の環境との「溶け込み」といった「現象」面から入って行くと、見逃してしまい勝ちになるものが多いと言えよう。「形体」の変形ではなく「構造」の変換がそこでは行われている。「展示」で見せるのではなく「想像」の力を掘り起こさせる事。「構造」の変換もまた「技法」なのだ。

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【蛇足】

CCO総合事務棟の4階ドラフティングルームの北側壁、高木薫作品「無題1」の左側に「遺物」があった。今はなき「民社党」の1974年のカレンダーだ。今もそこにあるのか、今はもうそこに無いのかは判らない。因みに2015年の中頃に同スペースでロケをした映像にはそれは映ってはいない。従って少なくともそれ以降に誰かがここにその「遺物」をどこからか「搬入」したのだと思われる。

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カレンダーの下部に名を連ねているのは、「党大阪府連書記長」(当時)の岩見豊明氏(1928年〜2014年)と、「党本部機関紙局長」(当時)の和田春生氏(1919年〜1999年)だ。

岩見氏は、その前年の1973年の参議院議員補欠選挙、翌年1974年と1977年の参議院議員通常選挙に大阪選挙区から立候補しているもののいずれも落選している。その後大阪府議、大阪府議会副議長。

和田氏は、鳥羽商船学校を出た人で、その後山下汽船に入社。全日本海員組合に参加する。1969年の第32回衆議院議員総選挙で東京7区(中選挙区)から立候補し、最下位ながら当選しているが、次の1972年の第33回衆議院議員選挙では落選(注)。1974年の参議院議員通常選挙の全国区から立候補して当選するものの任期途中で辞職。選挙区を東京3区(中選挙区)に移した1979年、1980年の衆議院議員総選挙で落選。氏が再び国政に戻る事は無かった。因みに東京7区は自分が生まれ育った場所なので、和田氏の名前は当時の町の風景と共に記憶に残っている。

そうした意味で、岩見氏、和田氏国政選挙落選直後の1974年(実際には1973年に作られたと想像される)のこのカレンダーは、両者共に国政選挙に於ける「捲土重来」を期する為のツールでもあった事だろう。

岩見氏の御子息、岩見星光氏(1958〜)もまた大阪府議である。星光氏の祖父=豊明氏の父の岩見市松氏も大阪府議であった。三代繰り返される大阪府議。豊明氏は「社会主義」政党である民社党。一方星光氏は現在「自由民主党西淀川区支部 支部長」「自由民主党大阪府議会議員団 相談役」「自由民主党大阪府支部連合会 幹事長」「西淀川区民党代表」という事である。

西淀川区の星光氏の実家(兼事務所)はまた、最近まで大相撲花籠部屋の大阪場所の宿舎でもあった。しかし民社党同様、花籠部屋も今は無い。

各会場で聞こえるのは作業音ばかりでは無い。争議のシュプレヒコールも聞こえる。決して「しごと」の一点のみに収斂しないもの。それが「ひと」なのである。

(注)その次の第34回衆議院議員選挙(1976年)では、同選挙区に「市民運動家菅直人氏が立候補をして次点で破れている。そして4年後の1980年の第36回衆議院議員総選挙で初当選(トップ当選)する。

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【続く】

クロニクル、クロニクル!「長過ぎる序」

【長過ぎる序】

1月1日の「28年目」に続く文章がここに入る筈だった。それは「芸術」と「ひと」の関係を書こうとしたものだ。

そもそも「ひと」と関わり合う事でしか機能し得ない 「芸術」が認識している「ひと」、「芸術」にとっての「ひと」とは何なのだろうか。そうした事をつらつらと考えている内に、時間ばかりが過ぎていった。結局その文章は後に回す事にした。

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「ひと」を表わす言葉には幾つかある。カール・フォン・リンネ(カロルス・リンナエウス)の “Homo sapiens"(英知人)というのはその最も良く知られたものの一つだろうが、“sapiens"(英知)で規定されない “Homo"(人)であっても、それはそれで全体集合としての「ひと」ではある。従って “Ecce Homo"(「エッケ・ホモ=この「ひと」をみよ)の “Homo" を、「ひと」の形をした「全て」、即ち「ひとがた(人像)」―その「像」は “idea" のそれではなく、狭義の“image" である―と強引なまでに解釈し、事実上「このひとがたをみよ」としてしまう事すら可能と言えば可能だ。

“image" である「ひとがた」に留まらない「ひと」の「ひと」たる “idea" を説明するのに “sapiens" を含む、“Homo" に対する数々の修飾語(“idea”)が、数々の者によって考え出されて来た。曰く “Homo phenomenon / Homo noumenon"(現象人/本体人)、“Homo loquens"(発話人)、“Homo ludens"(遊戯人)、“Homo significance"(記号人)、“Homo patiens"(苦悩人)、“Homo religiosus"(宗教人)……。

その中にアンリ・ベルクソンの “Homo faber"(工作人)がある。彼の1907年の書「創造的進化」(“L’Évolution créatrice")の第2章「生命進化の分岐する諸方向―麻痺、知性、本能」中で、それは―一度だけ―記されている。

Si nous pouvions nous dépouiller de tout orgueil, si, pour définir notre espèce, nous nous en tenions strictement à ce que l’histoire et la préhistoire nous présentent comme la caractéristique constante de l’hom­me et de l’intelligence, nous ne dirions peut-être pas Homo sapiens, mais Homo faber. En définitive, l’intelligence, envisagée dans ce qui en paraît être la démarche originelle, est la faculté de fabriquer des objets artificiels, en particulier des outils à faire des outils et, d’en varier indéfiniment la fabri­cation.(CHAPITRE II “Les directions divergentes de l’évolution de la vie. Torpeur, intelligence, instinct.")

 
かりに私たちが思いあがりをさっぱりと脱ぎ捨てることができ、人類を定義するばあいその歴史時代および先史時代が人間や知性のつねにかわらぬ特徴として提示しているものだけに厳密にたよることにするならば、たぶん私たちはホモ・サピエンス(知性人)とは呼ばないでホモ・ファベル(工作人)と呼んだであろう。つまり、知性とはその本来の振舞いらしいものからみるならば人工物なかんずく道具をつくる道具を製作し、そしてその製作にはてしなく変化をこらす能力なのである。(第2章「生命進化の分岐する諸方向―麻痺、知性、本能」真方敬道訳)

 道具をつくる道具。即ちそれはまた道具が道具から作られている事を意味する。眼前にある道具を かつてつくった道具を かつてつくった道具を かつてつくった道具を かつてつくった道具……、そしてその眼前の道具によって これからつくられる道具によって これからつくられる道具によって これからつくられる道具によって これからつくられる道具……。「ひと」から「ひと」への「手渡し」。幾つもの波紋の重なり合い。「自然物」とは異なる「ひと」による「人工物」の固有の「面白さ」というのは、先ず以てそこにこそある。

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地球の軌道上に「静止」する「宇宙ステーション」ならずとも、「人類の夜明け(The Dawn of Man)」に於いて回転して宙を舞う一本の動物の大腿骨から、目の前にある取るに足らない一本の鉛筆がそこに出現するまでの気の遠くなる程の数の「ひと」―「そこにいないひと(=死んでしまったひと)」の方が圧倒的に多い―の「手渡し」の総体を想像してみよう。一本の鉛筆には一体どれ程の手渡しの「波紋」(ripples)が重なっているのだろうか。「椅子の歴史」には「固着具の歴史」も「接着剤の歴史」も「ワニスの歴史」も「機織りの歴史」も重なっている。それに触れない「椅子の歴史」があるとしたら、それは極めて退屈なものでしかない。

アートスクールで教えられている技術はそれ程多くない。アートスクールを出た者―出なかった者は言うまでもなく―がアーティストとなり、その「作品」を作り上げる際に頼りとなる技術そのものの大半は、アートスクール/アートワールドの外で獲得されたものだ。アートスクール/アートワールドの外で、アートスクール/アートワールドの中からは決して見えなかった/見ようともしなかった技術にアーティストは邂逅する。多くのアーティストを作り上げ鍛え上げるのは、アートスクール/アートワールドの外なのである。「bottega di Oriental Land」(オリエンタルランド工房)は事実として存在する。それは「生計の手段」というだけのものではない。

アートスクール/アートワールドの外の「波紋」は「作品」に確実に現れる。存命作家の「作品」の中に、そうしたものを幾らでも見る事が出来る。それは 「既成品を使った」という意味ではなく「既成術を使った」ものである。「複製品」でもなければ「複製技術」でもなく、技術そのものが複製なのである。アーティストに手渡されているものは名詞的対象ではなく動詞的行為だ。

一顧だにされないものの中にこそ真に見るべきものがある。それは固有名詞への収斂であるところの「主体」の獄に繋がれてしまう「才能」と呼ばれているものの限界を軽々と超えてしまう。仮に「才能」が「光を放つ」ものであるとするならば、「才能」はその無限なまでに広い水面の中にあってこそ初めてその「光を放つ」のである。であればこそ、人類の偉大な「手渡し」の到達点の「一つ」である「一本の鉛筆」を見る様に、「一個」の「作品」を見る事も可能なのだ。

Maybe nothing ever happens once and is finished. Maybe happen is never once but like ripples maybe on water after the pebble sinks, the ripples moving on, spreading, the pool attached by a narrow umbilical water-cord to the next pool which the first pool feeds, has fed, did feed, let this second pool contain a different temperature of water, a different molecularity of having seen, felt, remembered, reflect in a different tone the infinite unchanging sky, it doesn’t matter: that pebble’s watery echo whose fall it did not even see moves across its surface too at the original ripple-space, to the old ineradicable rhythm…(William Faulkner “Absalom, Absalom!" Chapter 7)

 

おそらくかつてなにごとかが起こってそれが成就されたというためしはないのだ。おそらくかつていちどなにごとかが起こったのではなく、小石が沈んで後に波紋が水面上をひろがっていき、一つの水たまりが細いへその緒のような水流で次の水たまりにつながっていくように、事は推移していくものなのだ、第二の水たまりの水温が違っていようと、分子の状態が違っていて、見たことも感じたことも憶えていることもみんな異なっていようと、無限の不変の空が異なった調子に映しだされようと、そんなことはどうでもいい、第二の水たまりは第一の水たまりがあくまで養ったものなのだ。第二の水たまりがぜんぜん関知しなかった小石の落下から生まれたこだまは、もとの消すことのできないリズムに合わせて、もとの波状を呈したまま、第二の水たまりの水面にもひろがっていく。(ウィリアム・フォークナー「アブサロム、アブサロム!」第7章:大橋吉之輔訳)

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 「人工物」の一つである「作品」を集めた「展覧会」。それ故に「作品」を新たにこの世界に投げ入れた「ひと」(と「ひと」との、そして「ひと」と「世界」との関係)こそをそこに見たいと思っている自分は、いつもの様に「ひと」を見に行くその「展覧会」へ向かう数十分の鉄道車輌の中で何を読もうかと思案した。手に取ったのは、今から40数年前に買った一冊の岩波文庫だった。理想社による洗練された活版で印字されている紙はすっかりアンバー色になり、その性(しょう)が抜け掛ける事で、紙ではない何かになりつつある。自分よりも一回り以上「若い」のにだ。

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鈴木大拙の「日本的霊性」(1944年)である。「通俗」とされる事もある「浄土系」の分析を軸の一つにした書であり、またその鈴木大拙自身が「通俗」とされる事もある。生涯で何度目かの209ページを捲る。「第四篇 妙好人」の「二 浅原才市」。妙好人とは「浄土系」の在俗の篤信者であり「思想をみずからに体得して、それに生きている人(鈴木大拙)」である。妙好人は「宗教のプロ」ではない。世俗の生活の中に信心を見出す人である。浅原才市は50歳頃までは舟大工であり、その後下駄作り及びその仕入れをしていた。

才市が仕事のあいまに鉋屑に書きつけた歌はだいぶんの数に上ったものらしい。法悦三昧、念仏三昧の中に仕事をやりつつ、ふと心に浮ぶ感想を不器用に書いたものである。しかし彼はこれがために仕事の事を怠ることは断じてなかった。人一倍の働きをやったという。いわゆる法悦三昧に浸っている人は、ことによるとその仕事を忘れて、お皿を壊したり、お針を停めたりなどして、実用生活に役に立たぬものも往々にある。才市は全然これとその選を異にしていた。仕事そのものが法悦であり念仏であった。(1「才市の生立ち」)

「仕事そのものが法悦であり念仏であった」。鈴木大拙はそれを「衆生済度」に絡めてこの様にも記している。

才市の衆生済度は、何かを計画して、外へ出掛けて行って、ああしてこうして、済度業を励まねばならぬというようなものではないのであろう。自分の仕事につれて、自分の信心の常住持続性を点検すること、それも遊戯三昧の心持でやって居るのが、才市の境涯であったに相違ない。(…)即ち才市の考えでは、衆生済度は自分をからにして、自分から外へ出て、何かと取計らいをすることではなくて、自分が念仏三昧の生活をすること、平常心をそのままに生かすこと、即ち行為すること、それが衆生済度だというのである。(7「衆生済度」)

「展覧会」に赴くというその事自体もまた「何かを計画して、外へ出掛けて行って、ああしてこうして」的なものだ。しかしそれは、どこまでも「自分の仕事」に生きる「在俗」を選択した者(「出家」しない=「世俗」を離れる事を選択しない「観客」や「アーティスト」を含む)自身が「遊戯三昧の心持」で「平常心をそのままに生かすこと、即ち行為すること」へと至る為の方便なのである。従って「展覧会」に於ける見せる者/見る者の「条件」が限りなく整えば、そこには多くの「作品」が詰まっている必要など何も無く、寧ろ何も「無い」方が良いとも言える。

才市の歌には「なむあみだぶつ」が頻繁に出て来る。

南無は帰命である。阿弥陀仏は無碍光如来であるなどと講義するのは、末の末である。(…)只の南無阿弥陀仏、それでよいのである。(…)南無阿弥陀仏は無義を義とするので、その中に何かの意義をもたせたり、また何かそこに在るだろうなどと考え出したら、六字の名号はもはや汝のものでなくて、白雲万里のあなたに去ってしまう。(…)分別計較を少しでも容れると、下駄が削られなくなり、働きがにぶる。才市は才市でなくなって、矛盾のみが意識せられて、気が荒む、心が塞ぐ、歓喜の出ようがなくなる。(2『なむあみだぶつ』の歌)

「生きること」としての「南無阿弥陀仏」、そして “art" 。であれば、只の(帰命としての)“art"、それでよいのではないか。その中に何かの意義をもたせたり、また何かそこに在るだろうなどと考え出したら、“art" の三文字はもはや汝のものでなくて、白雲万里のあなたに去ってしまうのではないか。

わしが阿弥陀になるじゃない、阿弥陀の方からわしになる。なむあみだぶつ。(浅原才市)

「わし」が “art" になるのではなく、“art" の方から「わし」になる。その時、阿弥陀仏の彫刻(ひとがた)は必要条件ではないのである。

大阪市営地下鉄四つ橋線への乗換駅だ。「日本的霊性」を閉じる。

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 ご乗車ありがとうございます、この電車は住之江公園ゆきです、次は花園町、花園町です、出口は左側です、The next station is Hanazono-cho, Station number Y17, ……お客様にお願いします、座席は、できるだけ、譲り合ってお掛け下さい、また、お年寄りや、体の不自由な方などに、座席をお譲り下さいますよう、ご協力をお願いします、……皮フ科、アレルギー科、形成外科の田口クリニック、収集から中間処理まで、廃棄物収集運搬処分業、山田衛生へお越しの方は、次でお降り下さい、……交通局では、定期券ご利用の方におすすめ、利用額割引マイスタイルなど、PiTaPa割引サービスが充実、OSAKA PiTaPaなど便利でお得な、PiTaPaカードをご利用下さい、……花園町、花園町、左側の扉が開きます、ご注意下さい、

次は岸里岸里、出口は左側です、The next station is Kishinosato, Station number Y18, ……お客様にお願いします、やむをえず、急停車することがありますので、つり革手すりなどをお持ち下さい、……ご乗車ありがとうございます、大阪市交通局では、国土交通省と連携して、鉄道利用マナーUPキャンペーンを実施しております、皆様の優しいお心遣いをお願いいたします、……岸里岸里、左側の扉が開きます、ご注意下さい、

次は玉出玉出、出口は右側に変わります。The next station is Tamade, Station number Y19, …………お客様にお願いします、車内や、駅構内で、迷惑行為を受けられたり、見掛けられた方は、乗務員、または、駅係員まで、お知らせ下さい、……玉出玉出、右側の扉が開きます、ご注意下さい、

次は北加賀屋北加賀屋、出口は左側に変わります。The next station is Kitakagaya, Station number Y20, ……お客様にお願いします、車内、及び駅構内で、不審物を発見された場合は、触らず、ただちに、乗務員、または駅係員に、お知らせ下さい、……産業廃棄物中間処理工場の山田衛生山田衛生住之江工場へお越しの方は、次でお降り下さい、……北加賀屋北加賀屋、左側の扉が開きます、ご注意下さい、

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北加賀屋駅からクリエイティブセンター大阪(CCO:名村造船所跡)への「近道」は4番出口を出る事である。駅の案内板にも(そして「クロニクル、クロニクル!」の公式サイトにも)その様に記載されているが、これは勿論、階段を昇る事を選択した者に向けての案内であり、エレベーターやスロープの使用を選択する者/選択するしかない者に関してはそれが無効である事に注意したい。エレベーターで地上に出るコース(CCO方面とは逆方向の東改札側1番出口方面)を選択する者/選択するしかない者は、4番出口を階段で昇る/昇れる者よりも―片道3車線に中央分離帯が加わる広い南港通を渡る事も含めて―数百メートルCCOまでの距離が加わる。加えてそのCCOの中にエレベーター等の昇降装置が無い事にも注意したい。そこは嘗ては「仕事」に於ける「適否」(「『働ける』者」)が優先された場所でもあるからだ。エレベーターを使用するしか無い者は、展覧会場に事前電話連絡が必要になるかもしれない。
 
茶ばんだ文庫本より長くは生きているものの、まだ膝に痛みを抱えていない脚で、出口4の13段階段、6段階段を昇り通路を行くと、仮囲いが見えて来た。

 

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そしてその正面には「お知らせ」が貼られていた。

お知らせ

 

 ご利用ありがとうございます。
駅出入口付近で、津波ゲリラ豪雨対策工事を行います。
 工事期間中は工事用の仮囲いで、通路の一部が狭くなり、大変ご迷惑をおかけしますが、ご理解・ご協力をお願いいたします。

 

工事期間
 平成 27 年 9 月 15 日〜
  平成 28 年 3 月下旬(予定)

仮囲いの後ろでは重量級の防潮扉の設置が進んでいた。

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そこを左に折れて5段階段を昇れば、再び北加賀屋千鳥ビル(注)の入口に重量級の防潮扉である。

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(注)因みにこのビル地階の資料展示には、幾つかの「現代美術作品」に混ざって、北加賀屋周辺の古地図や、「工学博士 武田五一」氏作の「芝川又右衛門邸【増築部】配電盤」や「芝川又右衛門邸【増築部】炊事場の窓」等見るべきものが多くある。

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●わたしたちの住むまちは海面より下にある

大阪は“海面より低い土地”が多いため、高潮や津波による大きな災害にたびたび苦しめられてきました。

のぞいてみてください!海面より下にある、わたしたちのまちを。
想像してみてください!ここに海水が流れ込んだときの恐ろしさを。
●海抜0メートル地帯
海抜0メートル地帯とは、地表の高さが満潮時の平均海水面よりも低い土地のことをいいます。
大阪では昭和初期から工業用水として多量の地下水を汲み上げたため、地盤沈下が起こり深刻な問題となりました。
防潮堤が、海水面より低い住居地域を守っています。

 

●防潮堤の役割
大小多くの河川と海に囲まれている大阪は、人口や資産が海面より低い土地に集中しています。
防潮堤は、海岸や川岸に張り巡らされており、伊勢湾台風級の超大型台風による高潮にも十分対処できる高さで、大阪のまちを守っています。
●防潮水門方式(Tidal Gate and Pumping Station)
安治川、尻無川、木津川においては、一日に数多くの船舶の航行があり、それらを妨げず、また、強風や地震などの厳しい条件に有利なことから、アーチ型の大水門3門が建設されました。
これらの防潮水門は、高潮に備えて閉鎖すると、海水面の上昇による、河川の水位の上昇は抑えられますが、上流の寝屋川、第二寝屋川、平野川等の河川からの流出や市街地からの排水によって水位が上昇し、浸水氾濫が起こる恐れがあります。そこで、淀川と大川(旧淀川)の接続する毛馬の地に、毛馬排水機場を建設し、毎秒330立方メートルの水を大川から、淀川へ排水しています。

 

大阪府域の特徴
大阪は大阪湾のいちばん奥にあるため、台風による高潮被害が発生しやすい地形となっています。
また、大阪府の海岸線は約230kmあり、人口や産業も集中しているため、高潮や津波による浸水が大きな災害となりやすい傾向にあります。
大阪平野の地盤高(Ground Height of Osaka Plain)
西大阪地域には、標高0メートル以下の地域が約21平方キロメートル、また大阪湾の朔望平均満潮位以下の地域が約41平方キロメートルあります。

 

●忘れないで高潮災害の脅威
室戸台風は世界の気象観測史上でも例のないほど大型の台風で、大阪港の海水は河川の上流へと流れ込み、大阪城まで押し寄せました。高波は次々に人々や市街地をのみこんでいき、たくさんの人の命を奪い、くらしを破壊しました。

ジェーン台風が上陸したのは満潮時に近い時間帯で、高潮は強風にのって大阪湾から各河川に逆流し、市街地に押し寄せました。大阪はわずか3時間あまりの間に、浸水面積、死傷者数ともに室戸台風を超える大きな被害を受けました。

第2室戸台風は進路も規模も室戸台風とよく似た大型台風でしたが、急速に進んだ防潮堤整備などの高潮対策により被害は最小限に抑えられました。また、浸水が心配される地域の人々の早めの避難により、高潮を直接の原因よする死者はゼロでした。

 

「海より低いまち大阪」「災害をのりこえ着実な高潮対策」津波・高潮ステーション:大阪府

 
http://www.pref.osaka.lg.jp/nishiosaka/tsunami/tsuna-symbol.html
http://www.pref.osaka.lg.jp/nishiosaka/tsunami/tsuna-thema1.html

穂高、乗鞍、白馬の北アルプスの三山を越えてスペイン前の交差点に立つ。「クロニクル、クロニクル!」展が行われているクリエイティブセンター大阪(CCO:名村造船所跡)の敷地を、ギリシャ人 B. による「ストリートアート」 “b. friends on the wall" や NPO法人Co.to.hana の「NAMURA 152p」がペイントされ囲っているものは、「抑圧」や「疎外」を表象したりもする只の “wall" ではなく、「海面より下にある、わたしたちのまち」の生命線としての防潮堤(tide embankment)であり、総延長60キロメートル、防潮扉354基、水門8基、防潮堤天端高さ(O.P.+5.7メートル〜7.2メートル)のそれは、死亡・行方不明者221名、重軽傷者18,573名、建築物全壊5,120戸、流失731戸、半壊40,554戸、床上浸水41,035戸、床下浸水26,899戸、罹災家屋114,339戸、罹災者543,095人、沈没船舶数10隻、座礁揚陸船舶48隻、行方不明船舶15隻(以上「大阪市内」の数字)のジェーン台風被災を期に作られた被災地大阪の祈りでもある。それは善意によって救われねばならない殺風景ではなく、それ自体最大の敬意を払うべき対象なのだ。

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大阪市大阪府(1960):西大阪高潮対策事業

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「クロニクル、クロニクル!」展の1階から2階へ続く階段の踊り場では、「存在感」と題された名村造船所創業100周年を記念した社史「名村造船所百年史」を観客が手にする事が出来る。

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その81ページにはこの様な記述がある。

同年(著者注:1950年)9月初旬、ジェーン台風が西日本をおそい、徳島から淡路島、神戸を縦断して大きな被害をもたらした。この台風は最大風速50m/秒という風台風で、大阪湾岸は強風が吹き荒れ、それとともに高潮が発生して、被害が拡大した。当社工場でも木造艤装工場はじめ5棟が倒壊し、その他建物20棟、船渠、コンクリート塀なども損傷した。また浸水被害も、機械装置、工器具備品の損傷、在庫品の流出、廃棄などきわめて大きく、これらの復旧修繕費、在庫品の損害は総額929万2,000円に達した。さらに、台風通過時より長期間にわたり、電源の壊滅、船渠ポンプ室の浸水などで工場が長期間機能停止状態となるなど、ダメージは深かった。

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ジェーン台風翌年の名村造船所

クリエイティブセンター大阪の公式サイトに記された「施設特異性による注意事項」。

クリエイティブセンター大阪は、名村造船跡地内にあり、臨海地のため、敷地入口には防潮堤が設置されています。 台風などの気象条件により、行政の指示を受けた場合には防潮堤が閉鎖され、施設の利用が不可能となる可能性がございますので、予めご了承下さい。その際の利用料金の返却等は出来ません。

 

http://www.namura.cc/

大阪市ハザードマップによれば、南海トラフ巨大地震による津波が来襲した場合、木津川防潮堤の「外側」である名村造船所跡地は、その一部で3〜4メートルの「浸水」が「想定」されている。しかし飽くまでもそれは「想定」である。

一つだけ言えそうなのは、大地が大きく揺れたらこの建物に留まっていてはならないという事であろう。津波到達よりも早く北加賀屋駅前の高層建築の上層階まで逃げるに若(し)くは無い。

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2月14日に「クロニクル、クロニクル!」では「避難訓練」が行われた様だ。それを「サイトスペシフィック」云々とするも「リレーショナル」云々とする事も可能ではあるだろうが、しかしそれはやはり「避難訓練」なのである。「避難訓練」で何が不都合だろうか。

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クリエイティブセンター大阪から木津川を遡る形で川沿いの道を3キロ程行くと、日本最大級の防潮水門である木津川水門がある。


映像は「安治川水門」

そこから再び2キロ程木津川を遡上、木津川水門と同規模の防潮水門がある尻無川と合流する辺りに大正橋があり、その北東詰に「大地震両川口津浪記」という石碑が立てられている。

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安政元年(1854年)11月4日(旧暦)の安政南海地震の後に大阪を襲った津波の被害と教訓を記した(碑の西面中央部には「南无阿弥陀佛(南無阿弥陀仏)」の名号と「南無妙法連華経」の題目が刻まれている)もので、その翌年の安政2年7月に建立されている(現在の位置は建立時とは異なる)。その死者の数は数千から1万とも言われている。

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「大地震両川口津浪記」の碑文は、安政の南海地震の147年前(碑文では148年前)の1707年に起きた宝永の南海地震の際に発生した津波についても触れている。

今より百四十八年前、宝永四丁亥年十月四日大地震之節も小船乗津波ニて溺死人多しとかや。年月隔てハ伝へ聞人稀なる故、今亦所かはらす夥敷人損、いたま敷事限なし。後年又斗かたし。

 

今から148年前の宝永4年10月4日の大地震の時にも、小船に乗って避難した為に津波によって溺死した人が多かったという。長い年月が経過して、それを伝え聞く者も稀であったが為に、今また同じ場所で多くの人の命が奪われてしまった。痛ましい事に限りがない。将来も同様の悲劇が繰り返されるだろう。(拙訳)

高潮も地震も「ひと」の手を離れたところで繰り返される。その繰り返し自体は「ひと」には止められない。碑文はこの様に締められている。

水勢平日之高汐ニ違ふ事今の人能知所なれとも、後人之心得、溺死者追善傍、有の蛎節分儘拙文にて記し置。願ハくハ、心あらん人、年々文字よミ安きよう墨を入給ふへし。

 

津波の勢いは、通常の高潮とは違うという事を、今回被災した人々は良くわかっているが、後世の者もまたこの事を十分心得ておくべきであろう。犠牲になられた方々の御冥福を祈り、拙い文ではあるもののここに記しておく。願わくば、心ある人は毎年碑文が読み易い様に墨を入れて欲しい。(拙訳)

碑が立てられてから160年後の現在でも、大地震両川口津浪記念碑保存運営委員会が、毎年地蔵盆に石碑を洗い、刻まれた文字に墨を入れている。物理的風化を免れないその石は、やがてこの世を去る「ひと」による「繰り返さない」事(風化させない事)を期した「繰り返すこと」であるところの墨入れの儀によって、世代から世代へとそれを手渡す為の媒体なのである。

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「クロニクル、クロニクル!」展は「繰り返すこと」「繰り返されること」がテーマの一つだ。翻訳もまた「繰り返すこと」「繰り返されること」の中にある。
 
同展の公式サイトにはウィリアム・フォークナーの「アブサロム、アブサロム!」(第4章)中のジュディス・サトペン(Judith Sutpen)の科白が引かれている。「クロニクル、クロニクル!」のサイトには明記されていないが、これは藤平育子氏(1944年〜)による日本語訳文(2011年:岩波文庫)である。

「クロニクル、クロニクル!」が引用した箇所の原文はこうだ。

Because you make so little impression, you see. (...) because you keep on trying or having to keep on trying and then all of a sudden it's all over and all you have left is a block of stone with scratches on it provided there was someone to remember to have the marble scratched and set up or had time to, and it rains on it and the sun shines on it and after a while they don't even remember the name and what the scratches were trying to tell, and it doesn't matter. And so maybe if you could go to someone, the stranger the better, and give them something-a scrap of paper-something, anything, it not to mean anything in itself and them not even to read it or keep it, not even bother to throw it away or destroy it, at least it would be something just because it would have happened, be remembered even if only from passing from one hand to another, one mind to another, and it would be at least a scratch, something, something that might make a mark on something that was once for the reason that it can die someday, while the block of stone can never be is because it never can become was because it can't ever die or perish..

「アブサロム、アブサロム!」には、藤平訳の他にも幾つか日本語訳がある。大橋吉之輔(1924年〜1993年)訳、篠田一士(1927年〜1989年)、高橋正雄(1921年〜)訳がその代表的なものになる。2011年の藤平訳はそれらの訳から数十年ぶりの新訳という事になるが、大橋訳(富山房「フォークナー全集」)以外の篠田訳、高橋訳は、それぞれ河出書房「池澤夏樹=個人編集 世界文学全集」、講談社文芸文庫で、現在も新刊書で読む事が出来る。
 
1965年の大橋吉之輔氏(物故)訳。(大橋氏41歳時のしごと)

人間というものは、しょせん、はかないものです。(…)とにかく生きている間はやりつづけなければならないので、そればかりを気がかりにして生きていると、とつぜん、すべてが終わってしまって、あとに残るのは、なにやら字がきざみこんである一塊の石で(それもだれかがおぼえてくれていて、墓石を立ててくれるだけの余裕があった場合の話ですが)、そのうちに雨がふり日が照って、墓の下にねむっているのがだれやら、墓の上に何という文字が書いてあるのやら、だれにもわからなくなってしまうのです。ですから、もしできることなら、だれかのところへいってー知らぬ人であればあるだけそれだけいいのですがー一枚の紙でも何でも手渡しておけば、その紙自身に何の意味があろうと、また読まれようと保管されて いようと、棄てられようと焼かれようと、とにかくすくなくとも、手渡したという行為があり、ひとりの心から他の心へとなにごとかが伝えられたということだけでも、それがたとえ一枚の紙にしるされた走り書きであったとして、それはいつかは消えてなくなるという理由のために、過去のものとしての価値をもっているわけですが、墓石のほうは、消え去ることができないので、けっして過去のものになることはできず、したがって、現在に生きることもできないのです……

その1年後、1966年の篠田一士氏(物故)訳。(篠田氏39歳時のしごと)

どうせ人間なんてたいして代りばえしませんものね。(…)でもそれをつづけてやってゆかなければならないとしたらそれは大事なことにちがいなく、そのうちに突然なにもかもおしまいになってあとにはなにか刻んだ石ころしか残らず、それもだれか大理石になにか刻んで据えたことをおぼえていてくれる暇なひとがあればいいんですが雨が降ったり日が照ったりしているうちにやがて名前も忘れられ刻まれた字も判読できなくなってしまいますよ、まあそれもいいでしょう。ですからだれか、まあ知らないひとのほうがかえっていいんですが、だれかの所へ行って、なにかー紙きれみたいなものでもーあげることができたとしても、なにか、なんでもいいんですが、そんなものはそれだけではなんの意味もなく、そのだれかだってそれを読んだりとっておいてくれたりするかどうかわかりませんし、それをわざわざ投げ捨てるだけの労もいとうかもしれませんが、でもすくなくともそういうことがあって、ひとの手から手へと渡ればそのひとたちの記憶にとどめられるわけですし、すくなくともなにか書かれたもの、なにか、いずれそのうち死ぬこともあるという理由から、それがかつて存在した証拠となるかもしれないようなものは残るわけで、それにたいしてただの石ころでは死んだり消えたりできませんから存在したということはありえませんから存在することはないわけでして……

その4年後、1970年の高橋正雄氏(存命)訳。(高橋氏49歳時のしごと)

だって人間なんてだれしも、そう変わったものではありませんからね。(…)だって、だれもがやりつづけるか、つづけなければならないうちに、突然すべてが終わり、その人があとに残すのはその上に字の刻まれた一塊りの石だけになるでしょうから。その石にしても、それに字を刻ませて立てるのを忘れないか、それだけの暇のある人がいればの話で、それを立てて貰っても、その石の上に雨が降ったり日が照らしたりしているうちに、間もなくするとだれもその名前を思い出さなければ、刻まれた文字の意味も忘れてしまい、そんなものは取るに足らないものになるでしょう。ですから、もしだれかのところへ行き、それも他人の方が好都合ですが、その人になにかをー一枚の紙切れでもーなんでもいいからなにかを渡すことができれば、たとえそのもの自体はなんの意味もなく、それを渡された人が読みもしなければしまってもおかず、わざわざ投げ捨てたり破ったりさえしなくとも、そうすることは少なくともなんらかの意味があるでしょう。というのは、よしんば一人の手から別の手へ、一人の心から別の心へ渡されるだけでも、それは一つの出来事として記憶されるでしょうし、それは少なくとも一つの刻みに、なにかに、かつて存在したあるものをそれがいつかは死ぬことができるという理由で記憶させることができるかも知れないなにかに、なることでしょうから。それにひきかえ、石の塊りの方は、それが死ぬことも亡びることもできないために、過去の存在になれないので、現在の存在にもなれないのです……

そして「クロニクル、クロニクル!」サイトに掲載されている、高橋訳から41年後の2011年(東日本大震災の年である事は、ジェーン台風程には風化していない)に世に出された藤平育子氏(存命)訳。(藤平氏67歳時のしごと)

だって、人は生きた印を残すことなどほとんどできないのですもの。(…)だって、人はやり続けるか、続けなければならないうちに、突然すべてが終わり、結局その人があとに残すのは、その上に文字が刻まれた一塊の石ころだけになるでしょうからね、それにその石ころだって、そこに文字を刻んで建てるのを忘れないか、それだけの暇のある人がいればの話で、石を建ててもらっても、その石の上に雨が降ったり、太陽が照らしたりしているうちに、しばらく経てば、彫られた名前も思い出さなければ、ひっかき傷の意味も忘れてしまい、そんなものは取るに足りないものになります。ですから、もし誰かのところへ行き、それも他人の方が好都合なのですけれど、その人に何かをー一枚の紙きれでもー何でもいいから何かを手渡すことができれば、たとえそのもの自体は何の意味もなく、それを預かった人が読みもしなければ、しまってもおかず、わざわざ捨てたり破ったりさえしなくても、手渡すという行為があったというだけで、少なくともそれには何かの意味があるのです、と申しますのは、一つの手から別の手へ、一つの心から別の心へと渡されるだけでも、それは一つの出来事として記憶されるでしょうし、それは少なくとも一つのひっかき傷に、何がしかのものに、それがいつかは死ぬことができるという理由から、かつてあったという印をどこかに刻みつけるかもしれない、何がしかのものになるでしょう、それに比べますと、一塊の石ころは死んだり消えたりできませんから、かつてあったことにはなれません、ですから今あることもできないのです

高橋訳と重なるところの多い藤平訳である。この藤平訳は翻訳者という職能を可能にする最低条件の更新を示しているとも言える。その中にあって、これまで意訳の対象であった “scratches" ―それは「大地震両川口津浪記」碑で墨を入れられ続けているものでもある―を「ひっかき傷」とするところに、藤平氏による「繰り返し」の意味の一つがあると言えるだろう。

Maybe nothing ever happens once and is finished. (William Faulkner)=おそらくかつてなにごとかが起こってそれが成就されたというためしはないのだ。(William Faulkner/大橋吉之輔)=もしかすると一度起こったことは終わるということがないかもしれない。(William Faulkner/篠田一士)=たぶん一度起こったことで完了したものはなに一つないんだから。(William Faulkner/高橋正雄)=もしかしたら一度起こったことでそれで完結するものなんて何もないんだ。(William Faulkner/藤平育子)=……………。

藤平育子訳の後に出るだろう “Absalom, Absalom!" の次なる「日本語訳」は、この第二次世界大戦前のアメリカで書かれた小説を、如何なる同時代の日本語に変換するだろうか。Maybe nothing ever happens once and is finished.

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「クロニクル、クロニクル!」展の「会場」内には、「会場」の「外」へと繋がる「開口部」が幾つかある。少なくとも明示的なものとしては、二階の倉庫奥に一つ、三階の窓に一つ、四階の南壁に一つである。三階のものは人の出入りが出来ないが、他の二つはこの「会場」であるCCO総合事務棟の「非常階段」の踊り場=「外」に出られる形になっている。

しかしそれら踊り場へのドアを「開放」したいずれの作家も、その踊り場が「作品」の「内」にあるとは言ってはいない。そこは飽くまでも「外」であらねばならないのだ。少なくともそれらの「開口部」は「作品」の「外」への「延長」を意図されてはいないだろう。

「アブサロム、アブサロム!」の「核」となる人物の一人であるトマス・サトペン(Thomas Sutpen)は、ヨクナパトーファ郡の「まだ誰も手をつけていない、この地方で最上の川沿いの低地(the best virgin bottom land in the country)」の100平方マイルを、僅かばかりのスペイン金貨でチカソーインディアンから手に入れ、嘗て「神」―チカソーインディアンにとっては神でも何でも無い―が「光あれ(Be Light)」と言って天地を創造した様に「サトペン荘園(Sutpen's Hundred )」を作り上げて行く。

それは他者の空間(即ちそれは「処女地」などではない)を、自らの生産体系の拡大の為の領域に変えて行くものであり、それを約めて言えば「征服(conquest)」という事になる。ローザ・コールドフィールド(Rosa Coldfield)の話を聞くクエンティン・コンプソン(Quentin Compson)の脳内は、それを「血の匂いのしない(bloodless)平和的征服(peaceful conquest)」と呼んだ。

「開口部」から「外」に出て、大阪の町(他者の空間/アートの処女地)に向かって「光あれ(Be Light)」ならぬ「アートあれ(Be Art)」と叫ぶのも良いだろう。その「アートあれ」の形の一つが、名村造船所を囲む「アート」に結実している。

しかし「クロニクル、クロニクル!に開けられた「開口部」、目張りをされていない「窓」からは、寧ろ「外」からの「波紋」が「内」に流入して来るのである。

「クロニクル、クロニクル!」の「外」について書いた「長過ぎる序」を終わる。

【続く】

28年目

これもまた嘗てあった事だ。とは言え「つい最近」の話である。現在日本の「現代美術界」で「若手」と呼ばれている人達の多くが、この世に生を受けた後の話になる。少なくとも71年以上も前の事ではない。

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日本の「80年代美術」はいつ「終わった」のだろうか。「80年代美術」が「未だ続いている」とは誰も思わないから、何処かでそれは何らかの形で「終わった」筈である。一体何をして「80年代美術」は「終わった」とされるのだろうか。

所謂「バブル経済」が1991年に崩壊したその時に、それが「終わった」という見方は可能だ。1989年11月9日の「ベルリンの壁崩壊」を以って、「西側」文化の一変種としてのその成立基盤が、多少なりとも揺らいだという事もあるだろう。では、日本の「80年代美術」の「終わり」が1989年1月7日の「昭和」の「終わり」と軌を一にしているというのはどうだろうか。

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「昭和」の「終わり」。即ち今から27年前から28年前に掛けての話である。その当時の日本は有史以来何回目かの自信に満ちていた。今では見る影も無いが、日本は世界で1、2を争える「大国」であると自ら大いに認めていたし、また実際に周囲からも世界有数の「大国」であると認識されていたのは確かだ。ニューヨークのロックフェラー・センターのビルは全て三菱地所が所有していた。ソニーはアップルよりも遥かに格上のブランドだった。ホンダの RA168E エンジンは、それを競走自動車に搭載したイギリスの競争自動車製造者に自動車競争世界選手権に於けるシーズン16戦中15勝をもたらした。アメリカのエンタテイメント・コンテンツでは、「会社のオーナーが日本企業」「借家のオーナーが日本人」といったモチーフが頻繁に使われたりもした。「21世紀は日本の時代になる」という、日本の自意識を満足させる複数の「観測」が、日本の自信満々を支えていた。大八州の希望は踊っていたのである。

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一つ一つの才能の話ではなく、日本が世界の現代美術をリードして行くという事も、半ば夢想としてではなく語られていた。WW2前にパリがあり、WW2後にニューヨークがあり、そして21世紀はそれが東京になると、まことしやかに語られる事もあった。経済的に「大国」となった後も、相変わらず欧米の美術雑誌上では、日本からのレポートはメインのコンテンツには到底ならなかったものの、それは欧米人の美術に対するスタンスの限界故にであるという見方が日本でされてもいた。だからこそ、例えばフランス人 “Jean-Hubert Martin" によるフランスの美術展 “Magiciens de la Terre” に「取り上げられた」 “Terre" 側の人間は、それに対して過剰なまでの意味を見出し、また周縁的存在としての日本人アーティストがフランスの注目の企画展に「ノミネート」される事に対して、当時の日本・現代・美術は、記憶すべき「時代の変化」を見て取った。

「国内」的には「私たちの絵画」という、峯村敏明氏の筆が送り出した文字列が公にされた1980年代。その「私たち」は、多くは「日本」という内実を全く欠いたフィクショナルなイメージにも読み替えられ、それに快哉を送る空気も存在したりもした。「日本」が様々な形を伴った単調なイメージで浮上する。

一方で、その「私たち」の先を見据えようとする美術の人達の中には、「アジア」に目を向け始めた人もいた。欧米の美術状況に常に目を向け、或いはそこで認められようとする事には最早大きな意味は無い。これからは「アジア」に注目だ。但しその「アジア」は、欧米圏が言うところの “Turkey" から始まる “asia" ではなかった。

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事実上その「アジア」は、日本・韓国・中国の「東アジア」及びその周辺国を意味し、その中心には「アジア現代美術」の「盟主」である日本が位置しているというものではあった。

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この時代を映像化しようとすれば、必ずと言って良い程東京証券取引所の立会場の手サインがインサートされ、マハラジャ、キング&クイーン、MZA有明辺り(ジュリアナ東京は平成に入ってからオープン)がインサートされ、時には土井たか子氏が日本社会党の委員長になった映像――後の平成の「マドンナ旋風」に繋がり、参院で与党を過半数割れに追い込む――がインサートされもする。いずれにしても、1980年代の日本を、誰一人として「暗い時代」として描く事はしないだろう。

1980年代は、元号的には昭和50年代(昭和56年)から昭和60年代(昭和64年)という事になる。「三丁目の夕日」の時代が昭和30年代と言われ、決して1950年代や1960年代と言われないのとは対照的に、1980年代を昭和50年代や昭和60年代で表わす事を日本人の殆どは誰もしない。先の東京オリンピックは「1964年」よりも「昭和39年」の方が年配者を中心に未だに通りが良かったりもするが、その6年後の日本万国博覧会は「1970年」(=昭和45年)の方が断然通りが良い。日本に於ける元号と西暦の比重が入れ替わったのは、三波春夫(他)の歌声による「1970年のこんにちわ」の前後であると自分の印象的には記憶している。

それ以降、元号はノスタルジーの対象として――例えば「昭和酒場」の様な形で――、或いはそれでなければ万事が進まない日本の「公」の書類の中にのみ生き残る形になり始めたのが1970年代でもあった。即ちそれは、日本社会に於ける「天皇」という部族的権威の後景化を意味する。そして1980年代はその後景化が完了した時代だった。完了した筈だった。

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「それ」は突然やって来た。かの様に振る舞われた。極めて理性的に考えれば「それ」がやって来ない方がおかしいし、事実として民間ではその1年程前から、報道機関等が「それ」に対して多かれ少なかれ「体制」を組んではいた。

1988年9月19日、その御方は大量吐血された。「Xデー」という新語が生まれたが、その隠語表現的な「Xデー」が具体的に何の日を意味しているのかは、日本国民の殆どが知っていた。従って事実上それは隠語にも何にもなっていなかったものの、しかしそれでもそれを明示的に口にする事が「不敬」に相当する、そしてそれについて「留意」している事を示す機能が少なくともその言葉にはあった。

「歌舞音曲」という古めかしい言葉が浮上し、それは「歌舞音曲自粛」という形で用いられた。明治時代であればそれは「歌舞音曲停止(かぶおんぎょくちょうじ)」とされていた。

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太后陛下 崩御ニ付本日ヨリ左ノ通歌舞音曲ヲ停止ス

一 營業ニ係ルモノハ十五日間
但シ御發棺及御埋棺此ノ期間後ナルトキハ其ノ當日尚之ヲ停止ス
二 其ノ他ノモノニ在テハ三十日間
明治三十年一月十二日 內閣總理大臣伯爵松方正義

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 明治時代に於いては、この明治30年(1897年)の英照皇太后崩御による服喪が最も長いものになる。「營業ニ係ルモノ」即ち「歌舞音曲」のプロフェッショナルには15日間の、「其ノ他ノモノ」即ちアマチュアには30日間の「歌舞音曲停止」が下された。プロとアマに於けるこの日数の差は、「歌舞音曲」を演ずる事によって税金を収めているか否かによっている。プロフェッショナルの倍の日数である服喪期間の30日間に於いて、アマチュアが路上等で歌舞音曲を演じたりすれば、巡査がたちどころにやって来て拘引される。大喪の礼の形式(明治以前は仏式)も含め、全ては明治以降に構築された日本の「伝統」である。

明治8年(1875年)の東京府による「本府布達」にはこうある。

第二号 市在各区
戸長
区長

俳優人ヲ始別紙〔抄記〕営業之者、本年ヨリ賦金上納申付候間、各区限り無遺漏人員取調、集金之末、月々二十五日出納課江可相納、此旨相違候事。
明治八年一月八日 東京府知事 大久保一翁

一、俳優人 上等壱人二付月々 金五円
      中等壱人二付月々 金金弐円五拾銭
      下等壱人二付月々 金壱円
一、音曲諸芸師金
            月々 五拾銭
一、筆談井義太夫、其外賓七出稼之者
      上等壱人二付月々 金五拾銭

明治8年の巡査の初任給が4円(2015年は高卒で20万円超)とも言われているので、「俳優人(上等)」の月々の税額5円はそれよりも高い(警官初任給指数に基づけば、現在の価格で25万円超。年額で300万円超の税金)という事になる――「俳優人(下等)」では年額60万円超。こうした高い「ハードル」を明治の行政が設けたのは、半ば「歌舞音曲」を生活の中心とする者にその世界にいる事を諦めさせ、近代日本に役立つ「正業」に就かせる為にである。勤勉の日本がここに始まる。

明治維新により、武家の式楽として幕府や藩の庇護の元にあった能楽は、その後ろ盾を失い極端に衰微した。禄と芸の後ろ盾を失った能役者達は、文明開化後も何とか自分が身に付けた能や謡で生活したいと思っていた。その幕末から近代に掛けて初世梅若実によって書かれた「梅若実日記」の明治5年5月の「挿入紙」にはこう書かれている。

明治五午年
   勤番組之頭江
元能役者共此地江移住相願御聞届ニ相成候ハ猿楽能業前二付御聞届二相成候義ニハ無是。能御用ハ以後無之事二付三十郎始名々文武之内可心掛所移住後モ於寺院等二而能暁子等時々相催侯敬二相聞不都合之事二侯間頭支配より篤卜可為申談置之事。
   六月
今般別紙之通被令候。然ニハ御自分ニハ右様之義有之間敷候得共猶此義御書付趣厚ク相心得候様頭衆被相達候間此段申達候。以上。
   午六月      滝川虎雄
     観世新九郎拝

文明開化した近代日本に於いては、「文武之内」で「正業」に就くべきであるが故に、徳川慶喜に従って静岡に移った能役者が寺院等で能囃子などを演じているのは「不都合」である。従って頭支配はそれを厳重に諌める様にという「観世新九郎」(=芸術家)による申し入れである。

東京府による「本府布達」と同じ明治8年10月には「諸藝人名錄」が刊行されるが、これはその8ページ目に「諸藝賦金毎月上納髙」がある様に、税金を収めている者(近代日本に貢献する者)だけが事実上「藝人」とされた事を意味する。

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時は下り、明治天皇崩御(1912年7月30日)の直後に発行された、東京音楽学校(現東京藝術大学)の学友会誌である「音楽」(1912年11月号)の「編集室」(牛山充氏による執筆と見られる)には、「歌舞音曲停止」が実際にどの様に「日本の『芸術』」に対して機能したかについて以下の様に書かれている。この東京音楽学校講師の書く文章は、明治以降の「日本の『芸術』」が社会が繋がろうとする――その殆どは「芸術」の側から一方的に望まれている一方で、その逆のケースは殆どと言って無い――ところに於いて、様々に重要な示唆を含んでいると思われるので、長文だが引く。

(略)明治天皇崩御の御事がありましてから畏れ多くも主上には五日の廃朝を仰せ出されまして一般に歌舞音曲をその間御停止になりました。誠に勿體ないことで何れも深甚な哀悼のなげきの聲のほかに、此深い、厳粛なユニヴァーサルサイレシスを破るものはありませんでした。これもとより然るべきことでございます。そしてその間は音を以てお上に仕へ奉り、音を以て人心の教養に當ってをる徴臣共も、謹しんで口に唱聲を絶ち、手を樂器に觸れませんでした。

五日間の御廃朝が終りまして、歌舞音曲禁止の令がとかれまして、もはや差し支へないとのお布令がありましたのは、そのためにこれを生業としてをる下民が、若しも停止のために難渋してはとの有り難い大御心と承りまして私共は感涙に咽びました。そしてこれを生業としてをる下々の者迄も大御心のあまり尊く有難さに、なほ勿體なく思ってずっと御遠慮申し上げて居った向も尠くなかったとの話。有り難いお上の御思召しに對する、下民の美しい感謝の至情の發露として、又我國に於てのみ見るを得べき尊き現象として喜びました。

併し乍ら全くこれによって僅かに糊口の資を得て居る、音樂の師匠、僅かに一管の尺八や、一提の三絃を以て親子三人の露命を繋いてゐる門付けや、縁日のほのくらい小路に土座して見えない目に涙を流し乍ら、覺束なげの追分けや松前の一と節に、鬼のやうな丈夫の腸さへ九回の思あらしめる可隣な尺八吹きを忘れることは出來ませんでした。それと同時に音樂を以てライデング・ヂェネレーションの精神教育に従事してゐる我満天下の音樂教員諸氏の苦衷を思ひやらないわけには参りませんです。

聞くところに依れば文部省の夏季講習會で得た音樂の智識を、九月の新學期よりの小學校の唱歌教授に間に合せるために、急いであの盛夏三伏の炎暑の候をも顧みず、それぞれ國へ歸って小學教員の講習をするために、自宅でピアノを弾いたからと云って早速不謹慎呼ばはりをした新聞があったさうである。甚だしきは不忠の二字を冠らしめた賢明なる社會の木鐸を以て任ずる記者があったさうである。

もとより斯の様な新聞の言説は私共の一願をも價しないものであることは十分承知してゐます。従って彼等に向って今更に教へるところがあらうとするほど愚かでありません。然し世の中にはかゝる愚論にさへ迷はされる人の多い此の世ですから少しばかり自分の考へてることを云ってみたいと思ひます。

第一に私共の取り扱ってゐる音樂は、少くとも學校音樂は(成るべく私は厳格な意味の音樂全體を意味したいのであるが今便宜のため特に學校音樂として置く)國家を擧げて深厳な喪に服すべき時と雖も決して廃すべき性質のものではない。否一日と雖もこれなくしてはあるべからざるほどの権威と力とを有ってゐるものとしたい。私共の取り扱ってゐる音樂は御遠慮申し上げて居っても差し支へのない様な所謂歌舞音曲とは全然其性質を異にしてゐるものと解釈したい。

古への聖帝明王がこれを以て國を治め、古への聖人賢者がこれを以て人の心を高きに導いたその神聖なる音樂、これが私共の一生を賭して守るべく養ふべき音樂ではあるまいか。即ちこれなくしては一日たりとも國を治めることは出來ない、これなくしては人の心を浄化することが出來ない、さうした貴い力、さうした神聖権威、これが私共の音樂ではないだらうか。

私共の音樂は徒らに慰さみ半分に弄ぶ賤妓や蕩兒の音曲ではない、大きく云へば治國平天下、人心教化の聖力として、至高至上の権威であるからして、これを行使するに方って何等〓々たる俗論を顧慮して居る必要があらう。最も細心の熟慮の後、最も大膽に私共の天職の遂行のために勇往邁進すべきではありませんか。そして完全に此天職を爲し遂げた時、私共は私共の天皇陸下に對し奉って最っも善長な、忠臣となり、又人道のために最も偉大な勇者とも仁者ともなれるのではありますまいか。

若し私共の取り扱ってゐる「音樂」が、他の「歌舞音曲」とか「鳴り物」とか云ふやうな極めて哀れな立脚地しか有って居ないものと同じ名の下に御遠慮を強いられてこれに盲従して居なければならない様な無價値な、無権威のものならば、早速そんなものを数へるために貴い時間と勞力と金銭とを費すやうな學制を改めて、貨殖理財の道でも教えて、金のモウカル法でも知らせるやうにした方が賢いやり方ではないでせうか。

人間はパンばかりでは生きて居られるものではないとはどこやらの利口者が千年も昔に云っておきました。人間の心には色々の食べ物が大切です、世の中が文明になればなるほど此心の食べ物に不自由させないやうに、そしてそれもよい心の食べ物を喰べさせてやるやうにカめること、これが明君賢宰相の念頭を去ってはならぬ最大の心配でなくてはならないのです。そして私共は此よい心の食べ物を與へ、その食べ方を教へてやる貴い天職を帶びて來てゐるのであります。皆さんどうして此貴い神聖な務めを一日たりとも怠ってなるものですか。

愚かな新聞記者――彼等の多くは憐れむべき學者顔をした無識者です――の間違った議論などが恐いのですか、あなた方は此貴い天職を怠る罪の更らに大なるのを恐れませんか。勇ましくお進みなさい、そうすれば障〓は向ふから城を明け渡して逃げて參ります。

諒闇中だからと云って畫をかくのを止めろと云った新聞のあるのをきゝません、詩を作るのを遠慮しろと云った記者があるのをも耳にしません、小説を出し劇を作るのを不忠である、不謹慎であると叱った社会の木鐸のあると云ふことをも不幸にして語られません。何故社會は私共にばかりかうした片手落ちのやり方をするのでせう。畫かきが顔料と線とを以てその思想感情を發表し、詩人、小説家、戯曲家が文字を以てこれを發表し、彫刻家が石膏とマーブルを以てこれを發表する如く、私共は音と云ふ材料をつかって私共の悲しみも喜びも表はします。

さうです私共は音を以て私共の悲しみも喜びも發表します。それをなぜ私共ばかりが遠慮しなければ不忠の臣といふきくも恐ろしい汚名を甘受すべく餘義なくされるのでせう。

愚かな俗人は音樂とさへ云へばと陽氣なもの、他人の悲しみも嘆きも知らぬ樣に小面悪く響くものとか傳習的に間違って思ひひがめて居ます。そして私共の胸一杯の悲しびを籠めて弾く一つ一つの音の傳へる誠實な嘆きの聲にも彼等の耳は聾なのです。四分の二拍子の長調の舞踊曲にも無限の哀愁が絡れてひゞくのを聽いて落涙するやうな心耳を有ってはゐないのです憐れなものですよ。

又一方から考へてみますと、私共の先人があまりに浅薄過ぎて崇厳沈痛荘重の調べを貽さなかったことにも罪があらうと思ひます。そしてたゞ俗人が好くからと云って軽薄な似而非音樂を濫作した結果音樂は他人の悲嘆の時には遠慮すべきものなりなどゝ云ふ間違った断定をころへさせたものとも思はれます。そしてかうした断定の出るのもつまりは『音樂』が人の心に次ぼす権威の至大なるものを認めてゐるからのことです。ですからこれらの軽佻浮薄な似而非音樂に代ふるに崇高の調、荘重な音を以てしたならば私共が有ってゐる最大の悲しみ最深の嘆きを致さなくてはならないやうな場合に於て、先づ第一に要求されるものは我音樂であるべきことは疑を納れないだらうと思ひます。

さうしたならば世の中に『音樂は悲しみの時に奏すべきものに非ず』などゝ云ふ様なわけのわからぬ有司も俗人もなくなって、一にも音樂二にも音樂と云ふことになり、従ってそれらの崇高、幽玄、荘重、安偉の音樂が人心に與へる感動より來る好結果は測り識ることが出來ないやうになるだらうと思ひます。

かう云ってみると矢っ張り罪は半分私共音樂者の方にあるのです。ですから私共は前に云ったやうな、俗衆の下劣な趣味に媚びるやうな俗悪極まる、軽佻浮薄な似而非音樂をすて、高い人類の霊的生活に至大至重の交渉を有するやうな眞の大音樂を造り出さうではありませんか。そして私共のさし向き携はってゐる學校音樂に於ても、少くとも此抱負を以ってコツコツとその土台の建説に盡して戴きたいものです。

單に思想の遊戯に過ぎない樣なものならば、私共にはそんな音樂は要りませんと思ひます。

参考:http://rasensuisha.cocolog-nifty.com/kingetsureikou/2015/06/_11-62f3.html

 東京音楽大学で教えられている様な「音樂」に携わる者に対して、社会から「不忠の臣といふきくも恐ろしい汚名を甘受すべく餘義なくされる」のは、「無價値」「無権威」な「徒らに慰さみ半分に弄ぶ賤妓や蕩兒の音曲」である「軽佻浮薄な似而非音樂」と、「高い人類の霊的生活に至大至重の交渉を有するやうな眞の大音樂」が、「無識者」である「愚かな俗人」によって混同されているからである。その「一日と雖もこれなくしてはあるべからざるほどの権威と力とを有ってゐるもの」としての「眞の大音樂」は、「よい心の食べ物を與へ、その食べ方を教へてやる貴い天職を帶びて來てゐる」という「治國平天下、人心教化の聖力として、至高至上の権威」を持つが故に、「私共は私共の天皇陸下に對し奉って最っも善長な、忠臣となり、又人道のために最も偉大な勇者とも仁者ともなれる」のである。

「芸術」と「天皇」という二つの「至高至上」――「貴い天職」の者がそう思っている/思わされているところの「芸術」という「至高至上」と、「無識者」までもが疑いも無いかたちでそれを「至高至上」としている/させられているもの――を強引に重ね合わせる事。そして「天皇」という西欧部族的な意味でマイナーで日本部族的な意味でメジャーな「至高至上」の名によって、「芸術」という西欧部族的な意味でメジャーで日本部族的な意味でマイナーな「至高至上」の、日本に於ける社会的価値が引き上げられているという捻くれた構図をこの文章に見る事は可能だ。そして「治國平天下、人心教化の聖力」の形で「役立つ」という形で「社会」に関わる事が、「芸術」の本分であると。

いずれにしてもここでも明らかなのは、日本社会に於いては「芸術」は常に脅かされているという、「日本の『芸術』」の認識である。「日本の『芸術』」を脅かすものは、ここでは「無識者」や「愚かな俗人」という語で表されている。「無識者」や「愚かな俗人」によって「芸術」は社会から疎外されている。

しかしこれは、この21世紀に至っても連綿と続く「日本の『芸術』」に於ける極めて一般的な了解ではあるだろう。展覧会の打ち上げ(内覧会含む)で必ず出る定番のぼやきは、常にその様な「無識者」や「愚かな俗人」に対する嫌悪や怨嗟の話ばかりだ。即ち明治維新後「日本の『芸術』」を取り巻く環境と、それに対する「日本の『芸術』」のぼやきは1ミリたりとも変わってはいないのである。そして百数十年変わらない「日本の『芸術』」によるぼやきばかりが、「無識者」や「愚かな俗人」の目の届かない場所で、事実上密かに何百万回も再生される。「無識者」や「愚かな俗人」を目の前にして、「神聖権威」である「日本の『芸術』」が面と向かって「愚民」や「田吾作」や「反知性主義」と言い放った事は無い。仮に現在の SNS でそれをやれば、炎上するしか無いのはその火を見るよりも明らかだ。この文章が「東京音楽学校学友会誌」という「鍵」の掛かった場所ではなく、広く世間に公開される事になってしまえば、単純に燃料にしかならない事を、大正元年の牛山充氏もまた十分に知っていただろう。SNS という相互監視の娯楽が行き渡った今ならば、「無識者」や「愚かな俗人」と言ったというその一点をあげつらわれて、彼の東京音楽学校講師生命、後の音楽評論家生命が尽きさせられたりもするかもしれない。

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とんぼの本」という軽めの装丁でありながら、新潮社の「画家たちの『戦争』」は良書である。「戦後65年」で「民主党政権」下で「東日本大震災」前という「中途半端」な年(2010年)に発行されている事による信頼性というものがある。そこに引かれている証言の数々に厳密な整合性が無いというのも良い。重層化した窟である現実とはそういうものだからだ。「集合住宅」に住む者の誰もが、その「集合住宅」全体は語れないのである。仮に「語れる」という者がいたら、その「かたれる」は何処かで「騙れる」でしかない。

同書中から河田明久氏の文章「戦争美術とその時代・一九三一〜一九七七」を引く。これもまた極めて示唆に富むものなので長文引用になる。

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 もちろん表面上戦争に無関心な画家たちにも、戦争協力の意思くらいはあったかもしれない。しかしこの段階(引用者注:満州事変や第一次上海事変当時)で「彩管報国」といえば、それは軍への献画か、作品の売上代金を恤兵金として軍に納めることをさしていた。絵は絵にすぎず、それがそのまま戦力になるというような考えは、いまだ軍にも画家にもなかったからだ。
 美術家にとって当面の脅威は、むしろ美術界そのものにあった。各種の公募団体展は、限られた入選者の席を目指して殺到する画学生(引用者注:帝国美術学校を始めとする私立美術学校の開校等による芸術家志望の若者の急増により「芸術家」の需給バランスが崩れ始めていた)でどこもごった返していたが、その肝心の展覧会が、この時期、軒並み観客数を減らしていたという証言がある。理由は、美術の大衆化を後押しした一九三〇年代の都市大衆文化そのものだった。

 春と秋にまとめて開かれる団体展は、ジャーナリズムのなかで、いつしか映画の封切りかシーズンスポーツのように語られる存在になっていた。当事者たちにとっては一大事でも、大衆からすれば、美術は、大衆文学の挿絵や商業美術、映画などと並ぶ知的消費財の一つにすぎない。メディアの一つと割り切られてしまえば、美術と社会をつなぐ回路はあまりにも心細いものでしかなかった。いかにしてこの回路を回復するか。これこそが、心ある美術家には、戦争協力にもまさる最大の関心事だった。

 同時代の美術を常設展示する美術館もなく、商業画廊も未発達だった当時、官展や在野の公募団体展は、いわば美術のすべてだった。その展覧会が「興行」としての魅力を失い、大衆から見放されつつあるという現実に直面して、画家たちは、では大衆にとって真に魅力ある美術とは何なのかと、あらためて自らに問いかけることになる。一九三一年七月に始まる日中戦争は、この問いに皮肉なかたちで突破口を与えた。

 開戦(引用者注:日中戦争)の直後から始まった美術家の従軍は、日を追って増え続けた。一年後の一九三八年六月、かれらを集めて大日本陸軍従軍画家協会が結成された時点で、従軍画家は数十名。翌一九三九年四月に同郷会が陸軍美術協会へと発展的解消を遂げるころには、二百名を超える画家が戦地へおもむいていた。

 従軍が始まった当初、現地軍の側では、押し寄せる美術家を受け入れる体制がいまだ整っていなかった。開戦の年に戦地行きを申し出た鶴田吾郎は、まだそうした制度がないことを理由にいったんは断られているし、同じころ個人の資格で従軍した向井潤吉も、必要な経費はすべて自弁したという。等々力巳吉という従軍画家にいたっては、連絡の手違いがもとで日本軍の取り調べを受けている。海軍への従軍画家からは、岩倉具方や斎藤八十八のように市街戦に巻き込まれて命を落とすものまであらわれた。従軍志願者の急増ぶりは軍のほうで制限せざるを得ないほどだったと、当時上海におかれていた陸軍の中支那派遣軍報道部の責任者であった馬淵逸雄は、著書『報道戦線』(改造社、一九四一年)で明かしている。

 国家総動員法(一九三八年)による国民徴用令(一九三九年)で美術家が初めて「徴用」されるのは、じつは真珠湾攻撃も間近な一九四一年晩秋のこと。それ以前の従軍画家は、だから決して「駆り出された」わけではない。にもかかわらず、これほど多くの画家が戦地まで押しかけた理由の一つは、総力戦でありながら戦争目的が一般には浸透しないという、日中戦争のあいまいな性格にあった。

 

 「日本の『芸術』」にとっての最大の「敵」は、総力戦としての「大義」が見出し難い中国大陸ではなく、まさしく「芸術」を無視し蔑ろにする「無識者」や「愚かな俗人」といった「日本の『大衆』」「日本の『公共』」にあったと言えよう。「日本の『芸術』」を死守する事。「芸術」と「社会」を繋ぐ回路を「回復」する事。それが「日本の『芸術』」にとっての最大且つ唯一の「大義」である。十五年戦争時の「日本の『芸術』」の心を占めていた最前線は、従軍先の戦地ではなく、日本国内の「日本の『芸術』」を巡る環境にあった。日中戦争時の戦地には、或る意味でそれを描く事で「日本の『芸術』」自らが奮い立てる様な何ものも存在しなかった。従って彼等は戦地まで出掛けて行っても「やさしい絵」(「戦争画とニッポン」会田誠氏)を描くしか無かったとも言える。「敵」はそこにはいない。憎むべき鬼畜(畜群)は「日本の『大衆』」や「日本の『公共』」だ。押し掛け紛いの戦地行きを志願して、自らのアイデンティティを確立しようとした「従軍画家」は、まだ様々な意味で不安定な存在だった。

社会との絆を何としてでも獲得したい、出来ればその最前面に位置したいと思ってしまうところが、現在に至るまでの「芸術」の最大の弱点であり、それはまたその弱点を利用しようとする者にいとも容易く付け入れられてしまうところでもある。所謂「戦争画」は、如何にして「『無識者』や『愚かな俗人』ばかりの日本」の中で「芸術」を「根付かせる/支持させる」かという、21世紀の現在に至っても未だ終わらない、「日本の『芸術』」の自目的化した試行錯誤の形の一つの例なのである。そして時にそれは「日本の『芸術』」の最大の「敵」である――そして最大の潜在的支持者と想定されている(でなければ「意のままにならない」彼等に対して苛つく事はあり得ない)――「無識者」や「愚かな俗人」に対して利敵的にも振る舞わなくてはならない。

その「日本の『芸術』」の「大義」と、日本社会の「大義」の橋渡しをしたものの一つは、「日本の『芸術』」に理解――社会の中に於ける「地位」を欲して止まない「芸術」の弱点を良く知るものという意味も含む――を示す朝日新聞(現在も同じく「芸術」の弱点を良く知る)であった。

社内の学芸部や社会部に蓄積された美術界の人脈をいかして公式の従軍画家、作戦記録画家をあっせんすると同時に、戦争美術の公募展を開催し、そこに並んだ作戦記録画や一般の入選作を展覧会に仕立てて列島内外を巡回させるという戦争美術の一般的なあり方は、ある意味、戦時下における朝日新聞社の独占的な文化事業だった。ちなみに真珠湾攻撃一周年を記念して開かれた第一回大東亜戦争美術展の巡回展までふくめた延入場者数は、官展の約十倍にあたる三百八十万人に上ったとされる。

前掲河田論文

 近代に於ける新聞という存在は、「無識者」や「愚かな俗人」を「教化」する機能をも持つ。明治天皇崩御の際には、新聞は「歌舞音曲」を「不謹慎呼ばはり」する世論を形成したりもした訳だが、その「無識者」や「愚かな俗人」の側に立ちもする新聞が/であるが故に、1930年代末からその持てる力(当時)を駆使して「無識者」や「愚かな俗人」を焚き付け、当時の日本社会の「大義」――これは真珠湾攻撃以降は「世界の富を壟断するもの(高村光太郎)」としての「強豪米英一族の力(同)」を「否定(同)」する「東亜10億人の代表(徳富蘇峰)」という「大義」にバージョンアップする――である「聖戦」「義戦」と呼ばれる「至高至上」の「歴史」を描いた「歴史・画」の「美術展」に向かわせるのであるから、「芸術」の「社会」への影響力という側面からのみ考えれば、「無識者」や「愚かな俗人」から無視され続けてきた近代以降の「日本の『芸術』」的には、或る意味で願ったり叶ったりの環境の実現ではあった。所謂「戦争美術」というのは、「日本の『芸術』」の夢の裏返しではある。「日本の『芸術』」が「日本の『社会』」に於いて「大いなる」ものであろうと欲したその時、それは別のレイヤーの「大いなる」ものと結託せざるを得なくなるのだ。

その事を極めて戦略的に自覚していたのは、事実上この時代の「日本の『美術』」で最も「大いなる」ものを欲していた藤田嗣治以外には日本にいなかったとは言える。彼は「無識者」や「愚かな俗人」のものである新聞というメディアが持つ力の使い方を良く心得ていた。その為の演出を厭う事も無かった。その上で西欧世界の「至高至上」の一つである「芸術」の「大義」(例:「歴史画」)を、その画面上で次々と推し進めていけたのである。「昔の巨匠のチントレットやドラクロアでもルーベンスでも 皆んな 本当の戦争を写生した訳でもないに異いない(略)私なんぞはそのおえらい巨匠の足許にも及ばないが これは一つ 私の想像力と兼ねてからかいた腕試しと言ふ処をやってみよう(藤田嗣治)」。

しかし「チントレット」や「ドラクロア」や「ルーベンス」とは異なり、画面の中に登場するのは、凡そ絵心を刺激されない華やかさに全く欠けたカーキー色の軍服の兵卒ばかりである。そしてその「英雄」であるべき兵卒の多くは、一方で「日本の『芸術』」の真の「敵」である「無識者」や「愚かな俗人」なのだ。藤田嗣治の画面中に於ける兵卒の扱いは、その両面性を表している様に思える。

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部落會町内會等整備要領

第一 目的
 一 隣保團結ノ精神ニ基キ市町村内住民ヲ組織結合シ萬民翼贊ノ本旨ニ則リ地方共同ノ任務ヲ遂行セシムルコト
 二 國民ノ道徳的錬成ト精神的團結ヲ圖ルノ基礎組織タラシムルコト
 三 國策ヲ汎クく国民ニ透徹セシメ國政萬般ノ圓滑ナル運用ニ資セシムルコト
 四 國民経済生活ノ地域的統制單位トシテ統制経済ノ運用ト國民生活ノ安定上必要ナル機能ヲ發揮セシムルコト

昭和15年9月11日内務省訓令第17号

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「歌舞音曲自粛」の期間には、明治や大正の「歌舞音曲停止」の時代とは異なり、その期間に「歌舞音曲」を演じていたとしても、流石に警官が飛んで来て拘留されるという事は無かった。しかしそこでは「自主的判断」によって「歌舞音曲」に対する相互監視が十分以上に働いていた。「民」の間で内面化した「歌舞音曲停止」は、当局による監視のコストを事実上ゼロにした。

NHK を始めとするテレビ各局は、1988年9月19日から1989年1月7日まで終夜放送体制となる。「大正天皇崩御」までの様に「Xデー」からそれが始まるのではなく、「Xデー」に至るまでもが「歌舞音曲」が躊躇われる事を広く共有させる事に、1980年代のメディアは有史以来初めて成功した。

それまで最長だった英照皇太后崩御の30日間の「歌舞音曲停止」を遥かに上回る、昭和天皇崩御の日までの120日間の「歌舞音曲自粛」は「上意下達」ではないものだった。繰り返しになるが、それは全く「民」の「自主的判断」によるものである。

 昭和天皇のご病気で自粛ムードが高まる中、10月2日から開催される予定の東京の「大銀座まつり」が中止になった。43年に政府主催の明治100年記念式典の一環として始まった銀座きってのイベント。実行委員会を組織する銀座通連合会の事務局長、石丸雄司(60)は「銀座は皇居のおひざ元。ご用達業者も多い。陛下に特別の親近感を持っており『自粛するのが銀座の見識』という声が幹部の一致した意見だった」と説明する。

 中止決定後、石丸は外国メディアから「圧力があったのではないか」と取材攻勢を受けた。「親が病気のときにはしゃぐ子供はいない」。だが「理解してはもらえなかった」。

 江戸時代から続く佐賀県唐津市の「唐津くんち」。11月2日夜から始まった巡行の指揮をとる唐津曳山(やま)取締会の総取締、瀬戸利一(76)は直前に県警の公安担当刑事から警告を受けた。「行列から外れないように。さもないと、身の安全は保障できない」

 自粛ムードの中でくんちを強行したからだった。曳山を持つ14カ町は当初「中止」が大勢だった。しかし、10月3日夜、唐津神社に招集された取締会総会で、瀬戸はこう言った。「くんちをやるのもご快癒祈願。右へならえして自粛するのではなく、唐津っ子の意気を示してはどうか」。2日後の氏子総代会で「実施」が決定された。

 瀬戸の自宅の電話は鳴り通しだった。「非国民」「殺すぞ」。抗議の手紙も何百通と届いた。瀬戸は振り返る。「放火を危惧(ぐ)して、水を入れたプラスチックのタンクを用意した。期間中に崩御されたら、喪章を付けてでも曳山を引く計画だった」

 唐津くんちの実施が決定された直後の10月8日、皇太子殿下(現天皇陛下)は「陛下のお心にそわないのではないかと心配している」と、自粛の広がりに憂慮の念を示された。

「戦後史開封」昭和天皇崩御
産経新聞(1995年12月26日から連載)

或る意味で「歌舞音曲自粛」という「民」の相互監視は、「民」がそれを競う事でエスカレートしていったところがある。ここでは皇太子(当時)の「言葉」よりも「歌舞音曲自粛」という「状態」の方が重要なのだ。「自粛」というのは、「自」らがその「状態」に身を投じ「粛」している様子を、他者に対してプレゼンテーションする為のものである。「状態」化した口が発する「非国民」「殺すぞ」もまた同じである。それらは「民」のナルシシズムを満足させる「鏡」なのだ。その中身はどうでも良い。

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私は新開雑誌方面で、紙は商品にあらずといふことを説いた一人である。単なる商品にあらず、思想戦の弾薬なり、同じことが映画に出て来た。ヒルムは単なる商品にあらずといふことを言ひたいと思ふ。今度はもう一歩行くと絵具は単なる商品にあらずといふこと言ひたいと思ふ。言ふことを聴かないものには配給を禁止してしまふ。又展覧会を許可しなければよい。さうすれば飯の食い上げだから何でも彼でも蹤いて来る。

鈴木庫三(1894〜1964)

 鈴木庫三という人物は「日本思想界の独裁者」ともされた情報局情報官であった。石川達三の小説「風にそよぐ葦」に於いて、「佐々木少佐」という「悪役」の形で戯画化されたその人物の生涯については、中公新書言論統制―情報官・鈴木庫三と教育の国防国家」に詳しい。極貧の生活から刻苦勉励し、日本大学大学院で倫理学を学び、その後東京帝大教育学研究室で教育学を学んだ。

雑誌「みづゑ」434号=1941年1月号の、秋山邦雄少佐、鈴木庫三少佐、黒田千吉郎中尉、批評家の荒木季夫、『みづゑ』編集部の上郡卓による座談会「国防国家と美術 ー画家は何をなすべきかー」中のこの鈴木庫三少佐の言葉は、「戦後70年」の2015年に様々なところで変奏を伴いつつ繰り返し引用された。「戦後70年」は「軍靴の音」が聞こえる「暗い時代」である「戦前」を思い出されるとされ、当時と同じ条件が整っているとも言われた。

しかし「佐々木少佐」の様な判り易い「悪」のキャラクターは、「バブルに浮かれ」ていた「歌舞音曲自粛」の時代には必要では無かった。「軍靴の足音」も「ファシズム」も「右傾化」も必要条件ではなかった。その「圧力」は「民」が「自主」的に向けるものだ。ここに至っては「展覧会を許可しなければよい」ではなく「展覧会を自粛させればよい」(注)のである。「飯の食い上げ」になろうがなるまいが、そんな事は当事者以外にとってはどうでも良い話だ。「自粛」を求める声に「飯の食い上げ」を願う様な主体など存在しない。その「飯の食い上げ」という「懲罰」は、「私刑」によるものですらないものだ。

1988年、昭和天皇重病による「歌舞音曲自肅」の嵐の中、すっかり仕事のなくなったコントグループ3つが仕方ないので集結し、国内外の政治、経済、事件、芸能・・・モロモロの社会情勢を笑いに転換すべく結成したコントグループ『THE NEWSPAPER』(ザ・ニュースペーパー)。

コント集団 THE NEWSPAPER サイト
http://www.t-np.jp/profile/thenewspaperprofile.html

 「歌舞音曲自粛」の時代。各地に昭和天皇の病気平癒を願う記帳所が設けられた。或る日、artscape の「現代美術用語辞典ver.2.0」にも名前が掲載されている「80年代作家」が、皇居前の記帳所に行って記帳して来た旨を銀座のギャラリーで吹聴されていた。周囲にそういう事を行った作家や関係者が全くいなかったので非常に珍しがられた。そしてそれを聞いた時、自分は自分の中の「80年代美術」が「終わった」と感じたのである。

昭和天皇崩御の日から程なくして、テレビは通常放送に戻り、その年の12月29日(大納会)には日経平均3万8915円の最高値を記録した。昭和天皇崩御を挟んで「明るい時代」は続いていた。「自粛」は一旦、日本社会の奥底に封じられたのである。「風」で飛ばされそうな極めて剥がれ易い護符によって。

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2015年、多くの戦争美術関連の展覧会があった。実はその殆どを見ていない。それらが「見るべき展覧会」とされるのであれば、それを未見である事は怠慢として謗られるべきであろうか。そういうのは「非国民」ならぬ「非美術民」と呼ばれるのだろうか。

当然実見していないものを評する事はしない。しかし一つだけ気になるのは、それらの展覧会では、可能性としてあり得るとは言える「その時」がやって来た時に、それらの展覧会に関わっている他ならぬ自分達はどうするのかという展示がされていたかどうかだ。それは或る意味で企画者や参加作家にとって最もリスクを伴うものになるだろう。

先人が「あの時」にどうしたかというのは、確かに戦争美術の一面に対して重要なアプローチではある。「あの時」の道具立てで「あの時」を見せようというのも悪くはない。戦争というものはこういうものであるという絵解きも興味深くはある。しかしそこには70年分の緩衝が働く事で傍観者的な位置が約束されてはいないだろうか。

これから「その時」がやって来て、「美術家」や「美術評論家」や「美術館学芸員」や「美術ジャーナリスト」である為の条件を改めて示された時の、それぞれの心構えは如何なるものになるのだろう。多くの戦争美術の画家は「あの時」に画家であり続ける事を選び、カンバスと絵具を手に入れた。みづゑ座談会に出た美術評論家も美術誌編集者もそれであり続ける事を選んだ。斎藤義重は「あの時」に作品を作る事を止めていたという。

【続く】

(注)1988年に東京で行われる予定だった比較的大規模な現代美術の展覧会は、その展示会場を所有する法人の「歌舞音曲の類の自粛」通達により、開催延期の決定がされた。1988年当時は、私企業を始めとした法人が現代美術を「サポート」する事が「流行って」いた頃でもあったが、それは一方でこの様な事態に対して極めて脆弱な基盤しか持たない事の証左でもあった。
その一方で、現代美術もまた「日本の『社会』」的には「歌舞音曲」の「類(範疇)」にあるのである。そして恐らくこれは21世紀も全く変わるところは無いだろう。