クロニクル、クロニクル!「前編」

 

承前

ネスト 【 nest 】 入れ子 / ネスティング / nesting

  
 ネストとは、構造化プログラミングにおける、プログラムの構築手法のひとつ。複数の命令群をひとまとまりの単位にくくり、何段階にも組み合わせていくことでプログラムを構成する。このまとまりをネストという。主なネストの種類は、条件分岐(C言語などでは「if」文)、一定回数の繰り返し(同「for」文)、および条件つき繰り返し(同「while」文)である。ネストの内部に別のネストを何段階にも重ね、入れ子構造にしていくことを指して「ネスト」「ネスティング」と呼ぶことがある。
 
IT用語辞典-入れ子
http://e-words.jp/w/%E3%83%8D%E3%82%B9%E3%83%88.html

function LookupCode(code as string) as integer
    dim sLine, path as string
    dim return_value as integer
 
    path="C:\Test.csv"
    if FileExists(path) then
        open path for input as #1
        do while not EOF(1)
            line input #1, sLine
            if left(sLine, 3)=code then
                'Action(s) to be carried out
            End if
          loop
        close #1
    End if
    LookupCode=return_value
end function

 
Wikipedia(en) の “Nesting (computing)" に上げられているネスティングの “small and simple example"。
https://en.wikipedia.org/wiki/Nesting_(computing)

プログラムのコーティング(「ひと」が解釈可能な言語で記述する事)に於いて、「ひと」に対してネストの階層レベルを明示的なものとする基本的な方法論に、行頭に非表示文字(n個のタブやn個の半角スペース)を挿入するインデント(字下げ)がある。CやJavaPythonPHPPerl(以下略)使いならずとも、HTMLやCSSソースコード記述でそれをしない者を見掛ける事は余り無い。相対的に上位の入れ子であれば相対的にインデントは浅くなり、下位になる程にそれが深くなるというのが、コーディングに於ける標準的なお約束だ。

インデントの浅さ/深さは、基本的には階層レベルの上位/下位に対応する。インデントを行う事は、プログラムを書いた者を含めた「ひと」に対し、その構造が「理解し易い様に」という「親切心」の現れである。であるが故にそうしたコーディングに於けるインデントに対しては、「ひと」の世界では「美的評価」の対象ともなる。一方でそこに書かれている「こと」を実際に実行する機械には――最終的にその処理が遅くなろうが早くなろうが――その一切が関わり合いの無いものだ。

「クロニクル、クロニクル!」展もまたネストだった。それは「世界」から注意深い形で一段階だけインデント――論理的不連続を表わすインデントは所謂パレルゴンとしても機能する。或いはパレルゴンとはインデントの別名である――されていて、その中には様々な見えそうで見えない/見えなさそうで見える条件式が潜ませてある。

例えば「『外』からインデントされているこのネストに「拉致」される事で、美術的な『好奇』の眼差しの対象となったマネキンの剥き身を、マネキンが元いた『場所』と同じ『外』からこのネストの中に入って来る事で、『ネストの中の人』になる事を選択した『あなた』が『その様に』見てしまうのならば〜」という条件式がそこに「書かれて」いたりするかもしれない。或いは「『外』の世界で『あなた』がこれまでに一顧だにした事も無い『しごと』や『繰り返し』や『ものの移動』などといったものが、このインデントされたネストに於いて『見る対象』として『あなた』の目に映じ直されるのならば〜」という条件式もそこに「書かれて」いるだろうか。

それらの「ならば〜」の条件式が、何らかの「〜せよ」へと送られているとするならば、それは最終的には「自分自身が知らなかった自分自身へと立ち戻れ」というものになるだろう。プログラムの終了は、常にネストの「外」で完了する様に設計されている(end function)。仮説的に観察者としての「観客」が「主体」で、展覧会にある「作品」が「客体」としておいても別に構わないのだが、それにしたところで「それらの間」で生起する概念と実践――展覧会というネストは観客主体のネスト外に於ける実践をこそ期待している――に、展覧会というものの成否が掛かっている。ネストとしての展覧会を成功させるも失敗させるも、実践主体としての観客に掛かっている。展覧会にとって最も避けるべきは、「展覧会の中のものを見た」だけで観客が完結してしまう事だ。即ち展覧会を見る以前(「以前」こそが重要)の自らの立つ構造へ立ち返る(再帰する)事の「忘却」、展覧会の「以後」をしか見ない事こそが展覧会の「敵」なのである。

その意味で「クロニクル、クロニクル!」に一つとしてエキゾチックな見物で終わるものは無い。我々の住む「世界」から一段階インデントされているが為に、そこにあるものが観客のエキゾチシズムの対象に見えるだけの話でしかない。インデントは展覧会を見る者の「展覧会以前」の変化をもたらす「機会」を「機会」化する為の方法論なのである。

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この「クロニクル、クロニクル!」というネストの内部には、その「下位」に当たるネストが仕込まれていた。そのネストの中のネストは、少なくとも2階に1つ(乃至2つ)と、その始まりが4階に「ある」ものが1つである。

2階のネストは、「世界」から一段階インデントされている「クロニクル、クロニクル!」(以下適宜「クロクロ」)の中に、川村元紀氏がもう一段階インデントして作り上げている。であるが故に、それは最初に極めて意識的に階層化する事から始まっている以上、コンピュータ・プログラム中の第一のネストと第二のネストの “if" (それは同じであり違うものである)が、その論理階梯上、同じ「空間」内にあっても決して混ざり合わない様に、構造上はこの川村元紀氏によるネストは、一つ「上位」のネスト(例えば「会場」)に――重なってはいるものの――「溶け込む」事は無い。

例えば1階の瓦礫のコンクリート片(それはこのCCO総合事務棟の中を「移動」して集められている)の一つを取り出し、その取り出した後にティッシュを一枚敷いて(=「人為」を一つ加えて)「世界」から一段階インデントし、そしてそのティッシュの上に再び取り出したコンクリート片を載せた場合、そのコンクリート片がその「下」のコンクリート片の山や周囲環境に論理的に「溶け込む」事が無い様に。論理的にインデントされたティッシュの上のコンクリート片は条件式を見る者に示す。「このティッシュに載せられたコンクリート片が、他のコンクリート片と異なって『あなた』に見えるならば〜」。

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川村元紀氏のネスト構築は「搬出」から始まっている。それは「川村ネスト」の上位にある「クロクロネスト」の論理平面(空間的には地続き)上に「倉庫」の「中のもの」が「移動」したという事になる。「搬出」という行為は、(基本的には)下位ネスト(「内」)から上位ネスト(「外」)へとものを「移動」する事であり、一方で「搬入」という行為は(基本的には)上位ネスト(「外」)から下位ネスト(「内」)へものを「移動」する事である。CCOの「外」近傍の「ワカヰ配送センター」「田中梱包工業所」「オーエム工業」「マツヤ」「大阪屋家具」「セブンイレブン大阪北加賀屋5丁目店」等々に於ける「搬入」/「搬出」にしたところでそれは同じだ。「搬入」/「搬出」は単なるものの「移動」ではない。それは論理的な階層間の不連続な「跳躍」なのである。

「川村ネスト」は、現実的にも象徴的にもまずは「搬出」から始めねばならなかった。そして「真っ更」な「展示空間」にそこを変えた後(=インデントを掛けた後)、そこに「クロクロネスト」という「外」に留め置かれたものを「川村ネスト」という「内」に向けて「搬入」を開始する、即ち階層の「跳躍」を開始するのである。

「川村ネスト」でされている事の一つ一つは、「クロクロネスト」でされている事の、字義通りの「反復」(繰り返し)である。「クロクロネスト」にその上位である「世界」から「搬入」がされる様に、「川村ネスト」でも上位である「クロクロネスト」から「搬入」がされる。「クロクロネスト」で「作品」の配置に神経を尖らせている様に、「川村ネスト」でも物品の配置に神経を尖らせている。「クロクロネスト」にアシスタントが多く動員される様に、「川村ネスト」にも多くアシスタントが動員される。「クロクロネスト」が照明に拘る様に、「川村ネスト」も照明に拘りを見せる。存命作家の同展に向けた新作が「クロクロネスト」向けに作られる様に、「川村ネスト」でも同展に向けた川村元紀氏の新作が作られて「川村ネスト」内に入れられる。「クロクロネスト」で「賄い」を始めとする「摂取」が「見せる対象」となる様に、「川村ネスト」に「摂取」し掛け――或いは「摂取」し終わり――のペットボトルが置かれて「見せる対象」となる。……。

従って「川村ネスト」の「狭い部屋」の中に、吉原治良もリュミレール兄弟も斎藤義重も三島喜美代も荻原一青も牧田愛も清水九兵衞も大森達郎も清水凱子もジャン=ピエール・ダルナも笹岡敬も伊藤孝志も谷中祐輔も持塚三樹も鈴木崇も荒木悠も田代睦三も(高木薫も)、そのままの形で、或いは何なりの形で入っていても「おかしく」は無いのである。しかし「川村ネスト」の中にあるのはそれらの「作品」ではなく、椅子であったり机であったりボードであったり脚立であったりの「製品」だ。

更に「川村ネスト」の中には幾つか「容れ物」(オリコンやキャスターやラックやビニール袋等)があり、そこでまた「川村ネスト」の下位ネストを構築する「搬入」が行われ、それらを「オリコンネスト」「キャスターネスト」「ラックネスト」「ビニール袋ネスト」等々とする事で論理階層を複雑化させている。

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「川村ネスト」には「開口部」が最低2つ存在する。その一つは上位ネストである「クロクロネスト」に繋がるものである。「クロクロネスト」側から見れば「川村ネスト」は「出品作」の一つに見える。一方「川村ネスト」からその「開口部」を通して「クロクロネスト」を見れば、それは「川村ネスト」の中に書き込まれているかもしれない「ここにあるものが今の『あなた』に『そう見える』のならば〜」という条件式の一つ上位の参照先になる。

そしてもう一つが非常階段踊り場(外光=リュミエール)への開口部。それは「川村ネスト」の「外」であると同時に「クロクロネスト」の「外」でもある。しかしそこからは「外」の世界に “exit" 出来ない。そこは「外」へ向かう往路から二つのネストの「内」への復路へと引き返す「折返点」だからだ。その多くがスタート(入口)とゴール(出口)をスタジアムのライン上で同じくする五輪マラソンの「折返点」の様に、それは反転としての「逆走」を「ランナー」にもたらす。今まで上り坂だったところがそのまま下り坂になり、こちらに向かって走って来る他「ランナー」は先程までの自分の姿だ。その踊り場には「複数のネストを通って来て、ここから見える『外』の風景が『あなた』がこれまで親しんできたそれまでのものと何か違って見えるのならば〜」の条件式が書かれているかもしれない。そして観客はそこで折り返してネストを「逆走」する。

観客を「逆走」させる二重の「折返点」の構造は、それ自体「折返点」であろうとする4階の「高木薫ネスト」にも見える。しかしそこに「美的なもの」としてのモニュメンタルな何かがそこにある訳ではない。

 

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1964年東京オリンピックでマラソン「折返点」に置かれた「美的なもの」

改めて言うまでもなく、「クロニクル、クロニクル!」は一筆書きの「回遊型」ではなく「折返点」のある「往復型」の展覧会である。そのフロアは観客がCCO総合事務棟の「出口」へ「逆走」する為に折り返さざるを得ないところであるから、「反転」の契機である「折返点」をわざわざ示す「美的」な何ものもそこには必要無い。

この4階フロアは、嘗てここで図面を引いていた人の「入る」/「出る」の「折返点」でもあった。上り階段の往路と、下り階段の復路。「しごと」に「入る」為の上り階段。「しごと」から「出る」(階下の社食に向かう事を含む)為の下り階段。

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その折返点のフロアにはCCOを知る者に良く知られた、「外」に見える船渠に入っている船と同サイズに引かれた現図作成の跡(マキタのロボプロがこのフロアを健気に掃除しなければ、それはマン・レイの「埃の栽培」に見えなくもない)があり、またそれは例えば2つ下のフロアにある斎藤義重の図面に「逆走」的にフォーカスするかもしれない。

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会場案内図上では「無題1」とタイトル付けされて「作品」として明示的にされている(このフロア内、及びその周囲には「原状」的にはそこに無いものが明示的にされない形で幾つかある)パネル写真がある。それは「現図工場 名村造船所旧大阪工場の現図工場(昭和33年頃)」というものであり、CCO総合事務棟の建物「内」にあって「クロクロネスト」の「外」にある、同棟で「最初」の階段の右手にある2階「GUEST ROOM」から「搬出」され(「クロニクル、クロニクル!」の会期中は芳名帳が置かれていた「FOYER」側に面した「元の展示場所」が「空き」になっていた)、この写真に写っていると思えもするフロアに「搬入」されたものである。

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しかしそれを良く見れば、写真の中の建物と、それを見ている者がいる建物は大きく異なっている事が直ぐに判る。今ここにある観客が立っている建物は鉄骨だが、写真の中の建物は木骨だ。床から梁までの高さも異っている様であり、またフロア材やその張られ方(写真の中の床材は部屋の「斜め」方向に渡されている)も全く異なる。果たして写真の中の風景はここと「同じ」場所なのだろうか。そのフロアの位置は、写真の中のそれと、X,Y,Z軸的に1ミリたりとも変わっていないのだろうか。もしかしたら写真の中の人達は、今ここにあるベニア板フロアの数センチ上に浮きつつ(或いは数センチ下に潜りつつ)仕事をしているのかもしれない。ずれを伴う二重写し。往路で見て来た荒木悠「作品」を思い出す。

「無題2」とされているところにあるドア。

声を出さずに読んでください。

各会場で、当時の作業音が聞こえます。

このドアは開くことができます。

「当時」とは一体何時の「当時」だろう。

出口ドアを開く。

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ネストの「外」に出る。出口ドアを閉める。

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反転する「折返点」。

先程まで出口ドアだった入口ドアを開いてネストの「内」に入る。復路。そこに座って作業をしている「ひと」に声を出さずに声を掛けて部屋を出る。「失礼します」。部屋に入る時にはしなかった挨拶だ。

この二者の「しごと」は「構造」上のものである。「川村ネスト」の「乱雑」さや「高木ネスト」の「空虚」さ、或いは周囲の環境との「溶け込み」といった「現象」面から入って行くと、見逃してしまい勝ちになるものが多いと言えよう。「形体」の変形ではなく「構造」の変換がそこでは行われている。「展示」で見せるのではなく「想像」の力を掘り起こさせる事。「構造」の変換もまた「技法」なのだ。

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【蛇足】

CCO総合事務棟の4階ドラフティングルームの北側壁、高木薫作品「無題1」の左側に「遺物」があった。今はなき「民社党」の1974年のカレンダーだ。今もそこにあるのか、今はもうそこに無いのかは判らない。因みに2015年の中頃に同スペースでロケをした映像にはそれは映ってはいない。従って少なくともそれ以降に誰かがここにその「遺物」をどこからか「搬入」したのだと思われる。

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カレンダーの下部に名を連ねているのは、「党大阪府連書記長」(当時)の岩見豊明氏(1928年〜2014年)と、「党本部機関紙局長」(当時)の和田春生氏(1919年〜1999年)だ。

岩見氏は、その前年の1973年の参議院議員補欠選挙、翌年1974年と1977年の参議院議員通常選挙に大阪選挙区から立候補しているもののいずれも落選している。その後大阪府議、大阪府議会副議長。

和田氏は、鳥羽商船学校を出た人で、その後山下汽船に入社。全日本海員組合に参加する。1969年の第32回衆議院議員総選挙で東京7区(中選挙区)から立候補し、最下位ながら当選しているが、次の1972年の第33回衆議院議員選挙では落選(注)。1974年の参議院議員通常選挙の全国区から立候補して当選するものの任期途中で辞職。選挙区を東京3区(中選挙区)に移した1979年、1980年の衆議院議員総選挙で落選。氏が再び国政に戻る事は無かった。因みに東京7区は自分が生まれ育った場所なので、和田氏の名前は当時の町の風景と共に記憶に残っている。

そうした意味で、岩見氏、和田氏国政選挙落選直後の1974年(実際には1973年に作られたと想像される)のこのカレンダーは、両者共に国政選挙に於ける「捲土重来」を期する為のツールでもあった事だろう。

岩見氏の御子息、岩見星光氏(1958〜)もまた大阪府議である。星光氏の祖父=豊明氏の父の岩見市松氏も大阪府議であった。三代繰り返される大阪府議。豊明氏は「社会主義」政党である民社党。一方星光氏は現在「自由民主党西淀川区支部 支部長」「自由民主党大阪府議会議員団 相談役」「自由民主党大阪府支部連合会 幹事長」「西淀川区民党代表」という事である。

西淀川区の星光氏の実家(兼事務所)はまた、最近まで大相撲花籠部屋の大阪場所の宿舎でもあった。しかし民社党同様、花籠部屋も今は無い。

各会場で聞こえるのは作業音ばかりでは無い。争議のシュプレヒコールも聞こえる。決して「しごと」の一点のみに収斂しないもの。それが「ひと」なのである。

(注)その次の第34回衆議院議員選挙(1976年)では、同選挙区に「市民運動家菅直人氏が立候補をして次点で破れている。そして4年後の1980年の第36回衆議院議員総選挙で初当選(トップ当選)する。

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【続く】

クロニクル、クロニクル!「長過ぎる序」

【長過ぎる序】

1月1日の「28年目」に続く文章がここに入る筈だった。それは「芸術」と「ひと」の関係を書こうとしたものだ。

そもそも「ひと」と関わり合う事でしか機能し得ない 「芸術」が認識している「ひと」、「芸術」にとっての「ひと」とは何なのだろうか。そうした事をつらつらと考えている内に、時間ばかりが過ぎていった。結局その文章は後に回す事にした。

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「ひと」を表わす言葉には幾つかある。カール・フォン・リンネ(カロルス・リンナエウス)の “Homo sapiens"(英知人)というのはその最も良く知られたものの一つだろうが、“sapiens"(英知)で規定されない “Homo"(人)であっても、それはそれで全体集合としての「ひと」ではある。従って “Ecce Homo"(「エッケ・ホモ=この「ひと」をみよ)の “Homo" を、「ひと」の形をした「全て」、即ち「ひとがた(人像)」―その「像」は “idea" のそれではなく、狭義の“image" である―と強引なまでに解釈し、事実上「このひとがたをみよ」としてしまう事すら可能と言えば可能だ。

“image" である「ひとがた」に留まらない「ひと」の「ひと」たる “idea" を説明するのに “sapiens" を含む、“Homo" に対する数々の修飾語(“idea”)が、数々の者によって考え出されて来た。曰く “Homo phenomenon / Homo noumenon"(現象人/本体人)、“Homo loquens"(発話人)、“Homo ludens"(遊戯人)、“Homo significance"(記号人)、“Homo patiens"(苦悩人)、“Homo religiosus"(宗教人)……。

その中にアンリ・ベルクソンの “Homo faber"(工作人)がある。彼の1907年の書「創造的進化」(“L’Évolution créatrice")の第2章「生命進化の分岐する諸方向―麻痺、知性、本能」中で、それは―一度だけ―記されている。

Si nous pouvions nous dépouiller de tout orgueil, si, pour définir notre espèce, nous nous en tenions strictement à ce que l’histoire et la préhistoire nous présentent comme la caractéristique constante de l’hom­me et de l’intelligence, nous ne dirions peut-être pas Homo sapiens, mais Homo faber. En définitive, l’intelligence, envisagée dans ce qui en paraît être la démarche originelle, est la faculté de fabriquer des objets artificiels, en particulier des outils à faire des outils et, d’en varier indéfiniment la fabri­cation.(CHAPITRE II “Les directions divergentes de l’évolution de la vie. Torpeur, intelligence, instinct.")

 
かりに私たちが思いあがりをさっぱりと脱ぎ捨てることができ、人類を定義するばあいその歴史時代および先史時代が人間や知性のつねにかわらぬ特徴として提示しているものだけに厳密にたよることにするならば、たぶん私たちはホモ・サピエンス(知性人)とは呼ばないでホモ・ファベル(工作人)と呼んだであろう。つまり、知性とはその本来の振舞いらしいものからみるならば人工物なかんずく道具をつくる道具を製作し、そしてその製作にはてしなく変化をこらす能力なのである。(第2章「生命進化の分岐する諸方向―麻痺、知性、本能」真方敬道訳)

 道具をつくる道具。即ちそれはまた道具が道具から作られている事を意味する。眼前にある道具を かつてつくった道具を かつてつくった道具を かつてつくった道具を かつてつくった道具……、そしてその眼前の道具によって これからつくられる道具によって これからつくられる道具によって これからつくられる道具によって これからつくられる道具……。「ひと」から「ひと」への「手渡し」。幾つもの波紋の重なり合い。「自然物」とは異なる「ひと」による「人工物」の固有の「面白さ」というのは、先ず以てそこにこそある。

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地球の軌道上に「静止」する「宇宙ステーション」ならずとも、「人類の夜明け(The Dawn of Man)」に於いて回転して宙を舞う一本の動物の大腿骨から、目の前にある取るに足らない一本の鉛筆がそこに出現するまでの気の遠くなる程の数の「ひと」―「そこにいないひと(=死んでしまったひと)」の方が圧倒的に多い―の「手渡し」の総体を想像してみよう。一本の鉛筆には一体どれ程の手渡しの「波紋」(ripples)が重なっているのだろうか。「椅子の歴史」には「固着具の歴史」も「接着剤の歴史」も「ワニスの歴史」も「機織りの歴史」も重なっている。それに触れない「椅子の歴史」があるとしたら、それは極めて退屈なものでしかない。

アートスクールで教えられている技術はそれ程多くない。アートスクールを出た者―出なかった者は言うまでもなく―がアーティストとなり、その「作品」を作り上げる際に頼りとなる技術そのものの大半は、アートスクール/アートワールドの外で獲得されたものだ。アートスクール/アートワールドの外で、アートスクール/アートワールドの中からは決して見えなかった/見ようともしなかった技術にアーティストは邂逅する。多くのアーティストを作り上げ鍛え上げるのは、アートスクール/アートワールドの外なのである。「bottega di Oriental Land」(オリエンタルランド工房)は事実として存在する。それは「生計の手段」というだけのものではない。

アートスクール/アートワールドの外の「波紋」は「作品」に確実に現れる。存命作家の「作品」の中に、そうしたものを幾らでも見る事が出来る。それは 「既成品を使った」という意味ではなく「既成術を使った」ものである。「複製品」でもなければ「複製技術」でもなく、技術そのものが複製なのである。アーティストに手渡されているものは名詞的対象ではなく動詞的行為だ。

一顧だにされないものの中にこそ真に見るべきものがある。それは固有名詞への収斂であるところの「主体」の獄に繋がれてしまう「才能」と呼ばれているものの限界を軽々と超えてしまう。仮に「才能」が「光を放つ」ものであるとするならば、「才能」はその無限なまでに広い水面の中にあってこそ初めてその「光を放つ」のである。であればこそ、人類の偉大な「手渡し」の到達点の「一つ」である「一本の鉛筆」を見る様に、「一個」の「作品」を見る事も可能なのだ。

Maybe nothing ever happens once and is finished. Maybe happen is never once but like ripples maybe on water after the pebble sinks, the ripples moving on, spreading, the pool attached by a narrow umbilical water-cord to the next pool which the first pool feeds, has fed, did feed, let this second pool contain a different temperature of water, a different molecularity of having seen, felt, remembered, reflect in a different tone the infinite unchanging sky, it doesn’t matter: that pebble’s watery echo whose fall it did not even see moves across its surface too at the original ripple-space, to the old ineradicable rhythm…(William Faulkner “Absalom, Absalom!" Chapter 7)

 

おそらくかつてなにごとかが起こってそれが成就されたというためしはないのだ。おそらくかつていちどなにごとかが起こったのではなく、小石が沈んで後に波紋が水面上をひろがっていき、一つの水たまりが細いへその緒のような水流で次の水たまりにつながっていくように、事は推移していくものなのだ、第二の水たまりの水温が違っていようと、分子の状態が違っていて、見たことも感じたことも憶えていることもみんな異なっていようと、無限の不変の空が異なった調子に映しだされようと、そんなことはどうでもいい、第二の水たまりは第一の水たまりがあくまで養ったものなのだ。第二の水たまりがぜんぜん関知しなかった小石の落下から生まれたこだまは、もとの消すことのできないリズムに合わせて、もとの波状を呈したまま、第二の水たまりの水面にもひろがっていく。(ウィリアム・フォークナー「アブサロム、アブサロム!」第7章:大橋吉之輔訳)

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 「人工物」の一つである「作品」を集めた「展覧会」。それ故に「作品」を新たにこの世界に投げ入れた「ひと」(と「ひと」との、そして「ひと」と「世界」との関係)こそをそこに見たいと思っている自分は、いつもの様に「ひと」を見に行くその「展覧会」へ向かう数十分の鉄道車輌の中で何を読もうかと思案した。手に取ったのは、今から40数年前に買った一冊の岩波文庫だった。理想社による洗練された活版で印字されている紙はすっかりアンバー色になり、その性(しょう)が抜け掛ける事で、紙ではない何かになりつつある。自分よりも一回り以上「若い」のにだ。

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鈴木大拙の「日本的霊性」(1944年)である。「通俗」とされる事もある「浄土系」の分析を軸の一つにした書であり、またその鈴木大拙自身が「通俗」とされる事もある。生涯で何度目かの209ページを捲る。「第四篇 妙好人」の「二 浅原才市」。妙好人とは「浄土系」の在俗の篤信者であり「思想をみずからに体得して、それに生きている人(鈴木大拙)」である。妙好人は「宗教のプロ」ではない。世俗の生活の中に信心を見出す人である。浅原才市は50歳頃までは舟大工であり、その後下駄作り及びその仕入れをしていた。

才市が仕事のあいまに鉋屑に書きつけた歌はだいぶんの数に上ったものらしい。法悦三昧、念仏三昧の中に仕事をやりつつ、ふと心に浮ぶ感想を不器用に書いたものである。しかし彼はこれがために仕事の事を怠ることは断じてなかった。人一倍の働きをやったという。いわゆる法悦三昧に浸っている人は、ことによるとその仕事を忘れて、お皿を壊したり、お針を停めたりなどして、実用生活に役に立たぬものも往々にある。才市は全然これとその選を異にしていた。仕事そのものが法悦であり念仏であった。(1「才市の生立ち」)

「仕事そのものが法悦であり念仏であった」。鈴木大拙はそれを「衆生済度」に絡めてこの様にも記している。

才市の衆生済度は、何かを計画して、外へ出掛けて行って、ああしてこうして、済度業を励まねばならぬというようなものではないのであろう。自分の仕事につれて、自分の信心の常住持続性を点検すること、それも遊戯三昧の心持でやって居るのが、才市の境涯であったに相違ない。(…)即ち才市の考えでは、衆生済度は自分をからにして、自分から外へ出て、何かと取計らいをすることではなくて、自分が念仏三昧の生活をすること、平常心をそのままに生かすこと、即ち行為すること、それが衆生済度だというのである。(7「衆生済度」)

「展覧会」に赴くというその事自体もまた「何かを計画して、外へ出掛けて行って、ああしてこうして」的なものだ。しかしそれは、どこまでも「自分の仕事」に生きる「在俗」を選択した者(「出家」しない=「世俗」を離れる事を選択しない「観客」や「アーティスト」を含む)自身が「遊戯三昧の心持」で「平常心をそのままに生かすこと、即ち行為すること」へと至る為の方便なのである。従って「展覧会」に於ける見せる者/見る者の「条件」が限りなく整えば、そこには多くの「作品」が詰まっている必要など何も無く、寧ろ何も「無い」方が良いとも言える。

才市の歌には「なむあみだぶつ」が頻繁に出て来る。

南無は帰命である。阿弥陀仏は無碍光如来であるなどと講義するのは、末の末である。(…)只の南無阿弥陀仏、それでよいのである。(…)南無阿弥陀仏は無義を義とするので、その中に何かの意義をもたせたり、また何かそこに在るだろうなどと考え出したら、六字の名号はもはや汝のものでなくて、白雲万里のあなたに去ってしまう。(…)分別計較を少しでも容れると、下駄が削られなくなり、働きがにぶる。才市は才市でなくなって、矛盾のみが意識せられて、気が荒む、心が塞ぐ、歓喜の出ようがなくなる。(2『なむあみだぶつ』の歌)

「生きること」としての「南無阿弥陀仏」、そして “art" 。であれば、只の(帰命としての)“art"、それでよいのではないか。その中に何かの意義をもたせたり、また何かそこに在るだろうなどと考え出したら、“art" の三文字はもはや汝のものでなくて、白雲万里のあなたに去ってしまうのではないか。

わしが阿弥陀になるじゃない、阿弥陀の方からわしになる。なむあみだぶつ。(浅原才市)

「わし」が “art" になるのではなく、“art" の方から「わし」になる。その時、阿弥陀仏の彫刻(ひとがた)は必要条件ではないのである。

大阪市営地下鉄四つ橋線への乗換駅だ。「日本的霊性」を閉じる。

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 ご乗車ありがとうございます、この電車は住之江公園ゆきです、次は花園町、花園町です、出口は左側です、The next station is Hanazono-cho, Station number Y17, ……お客様にお願いします、座席は、できるだけ、譲り合ってお掛け下さい、また、お年寄りや、体の不自由な方などに、座席をお譲り下さいますよう、ご協力をお願いします、……皮フ科、アレルギー科、形成外科の田口クリニック、収集から中間処理まで、廃棄物収集運搬処分業、山田衛生へお越しの方は、次でお降り下さい、……交通局では、定期券ご利用の方におすすめ、利用額割引マイスタイルなど、PiTaPa割引サービスが充実、OSAKA PiTaPaなど便利でお得な、PiTaPaカードをご利用下さい、……花園町、花園町、左側の扉が開きます、ご注意下さい、

次は岸里岸里、出口は左側です、The next station is Kishinosato, Station number Y18, ……お客様にお願いします、やむをえず、急停車することがありますので、つり革手すりなどをお持ち下さい、……ご乗車ありがとうございます、大阪市交通局では、国土交通省と連携して、鉄道利用マナーUPキャンペーンを実施しております、皆様の優しいお心遣いをお願いいたします、……岸里岸里、左側の扉が開きます、ご注意下さい、

次は玉出玉出、出口は右側に変わります。The next station is Tamade, Station number Y19, …………お客様にお願いします、車内や、駅構内で、迷惑行為を受けられたり、見掛けられた方は、乗務員、または、駅係員まで、お知らせ下さい、……玉出玉出、右側の扉が開きます、ご注意下さい、

次は北加賀屋北加賀屋、出口は左側に変わります。The next station is Kitakagaya, Station number Y20, ……お客様にお願いします、車内、及び駅構内で、不審物を発見された場合は、触らず、ただちに、乗務員、または駅係員に、お知らせ下さい、……産業廃棄物中間処理工場の山田衛生山田衛生住之江工場へお越しの方は、次でお降り下さい、……北加賀屋北加賀屋、左側の扉が開きます、ご注意下さい、

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北加賀屋駅からクリエイティブセンター大阪(CCO:名村造船所跡)への「近道」は4番出口を出る事である。駅の案内板にも(そして「クロニクル、クロニクル!」の公式サイトにも)その様に記載されているが、これは勿論、階段を昇る事を選択した者に向けての案内であり、エレベーターやスロープの使用を選択する者/選択するしかない者に関してはそれが無効である事に注意したい。エレベーターで地上に出るコース(CCO方面とは逆方向の東改札側1番出口方面)を選択する者/選択するしかない者は、4番出口を階段で昇る/昇れる者よりも―片道3車線に中央分離帯が加わる広い南港通を渡る事も含めて―数百メートルCCOまでの距離が加わる。加えてそのCCOの中にエレベーター等の昇降装置が無い事にも注意したい。そこは嘗ては「仕事」に於ける「適否」(「『働ける』者」)が優先された場所でもあるからだ。エレベーターを使用するしか無い者は、展覧会場に事前電話連絡が必要になるかもしれない。
 
茶ばんだ文庫本より長くは生きているものの、まだ膝に痛みを抱えていない脚で、出口4の13段階段、6段階段を昇り通路を行くと、仮囲いが見えて来た。

 

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そしてその正面には「お知らせ」が貼られていた。

お知らせ

 

 ご利用ありがとうございます。
駅出入口付近で、津波ゲリラ豪雨対策工事を行います。
 工事期間中は工事用の仮囲いで、通路の一部が狭くなり、大変ご迷惑をおかけしますが、ご理解・ご協力をお願いいたします。

 

工事期間
 平成 27 年 9 月 15 日〜
  平成 28 年 3 月下旬(予定)

仮囲いの後ろでは重量級の防潮扉の設置が進んでいた。

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そこを左に折れて5段階段を昇れば、再び北加賀屋千鳥ビル(注)の入口に重量級の防潮扉である。

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(注)因みにこのビル地階の資料展示には、幾つかの「現代美術作品」に混ざって、北加賀屋周辺の古地図や、「工学博士 武田五一」氏作の「芝川又右衛門邸【増築部】配電盤」や「芝川又右衛門邸【増築部】炊事場の窓」等見るべきものが多くある。

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●わたしたちの住むまちは海面より下にある

大阪は“海面より低い土地”が多いため、高潮や津波による大きな災害にたびたび苦しめられてきました。

のぞいてみてください!海面より下にある、わたしたちのまちを。
想像してみてください!ここに海水が流れ込んだときの恐ろしさを。
●海抜0メートル地帯
海抜0メートル地帯とは、地表の高さが満潮時の平均海水面よりも低い土地のことをいいます。
大阪では昭和初期から工業用水として多量の地下水を汲み上げたため、地盤沈下が起こり深刻な問題となりました。
防潮堤が、海水面より低い住居地域を守っています。

 

●防潮堤の役割
大小多くの河川と海に囲まれている大阪は、人口や資産が海面より低い土地に集中しています。
防潮堤は、海岸や川岸に張り巡らされており、伊勢湾台風級の超大型台風による高潮にも十分対処できる高さで、大阪のまちを守っています。
●防潮水門方式(Tidal Gate and Pumping Station)
安治川、尻無川、木津川においては、一日に数多くの船舶の航行があり、それらを妨げず、また、強風や地震などの厳しい条件に有利なことから、アーチ型の大水門3門が建設されました。
これらの防潮水門は、高潮に備えて閉鎖すると、海水面の上昇による、河川の水位の上昇は抑えられますが、上流の寝屋川、第二寝屋川、平野川等の河川からの流出や市街地からの排水によって水位が上昇し、浸水氾濫が起こる恐れがあります。そこで、淀川と大川(旧淀川)の接続する毛馬の地に、毛馬排水機場を建設し、毎秒330立方メートルの水を大川から、淀川へ排水しています。

 

大阪府域の特徴
大阪は大阪湾のいちばん奥にあるため、台風による高潮被害が発生しやすい地形となっています。
また、大阪府の海岸線は約230kmあり、人口や産業も集中しているため、高潮や津波による浸水が大きな災害となりやすい傾向にあります。
大阪平野の地盤高(Ground Height of Osaka Plain)
西大阪地域には、標高0メートル以下の地域が約21平方キロメートル、また大阪湾の朔望平均満潮位以下の地域が約41平方キロメートルあります。

 

●忘れないで高潮災害の脅威
室戸台風は世界の気象観測史上でも例のないほど大型の台風で、大阪港の海水は河川の上流へと流れ込み、大阪城まで押し寄せました。高波は次々に人々や市街地をのみこんでいき、たくさんの人の命を奪い、くらしを破壊しました。

ジェーン台風が上陸したのは満潮時に近い時間帯で、高潮は強風にのって大阪湾から各河川に逆流し、市街地に押し寄せました。大阪はわずか3時間あまりの間に、浸水面積、死傷者数ともに室戸台風を超える大きな被害を受けました。

第2室戸台風は進路も規模も室戸台風とよく似た大型台風でしたが、急速に進んだ防潮堤整備などの高潮対策により被害は最小限に抑えられました。また、浸水が心配される地域の人々の早めの避難により、高潮を直接の原因よする死者はゼロでした。

 

「海より低いまち大阪」「災害をのりこえ着実な高潮対策」津波・高潮ステーション:大阪府

 
http://www.pref.osaka.lg.jp/nishiosaka/tsunami/tsuna-symbol.html
http://www.pref.osaka.lg.jp/nishiosaka/tsunami/tsuna-thema1.html

穂高、乗鞍、白馬の北アルプスの三山を越えてスペイン前の交差点に立つ。「クロニクル、クロニクル!」展が行われているクリエイティブセンター大阪(CCO:名村造船所跡)の敷地を、ギリシャ人 B. による「ストリートアート」 “b. friends on the wall" や NPO法人Co.to.hana の「NAMURA 152p」がペイントされ囲っているものは、「抑圧」や「疎外」を表象したりもする只の “wall" ではなく、「海面より下にある、わたしたちのまち」の生命線としての防潮堤(tide embankment)であり、総延長60キロメートル、防潮扉354基、水門8基、防潮堤天端高さ(O.P.+5.7メートル〜7.2メートル)のそれは、死亡・行方不明者221名、重軽傷者18,573名、建築物全壊5,120戸、流失731戸、半壊40,554戸、床上浸水41,035戸、床下浸水26,899戸、罹災家屋114,339戸、罹災者543,095人、沈没船舶数10隻、座礁揚陸船舶48隻、行方不明船舶15隻(以上「大阪市内」の数字)のジェーン台風被災を期に作られた被災地大阪の祈りでもある。それは善意によって救われねばならない殺風景ではなく、それ自体最大の敬意を払うべき対象なのだ。

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大阪市大阪府(1960):西大阪高潮対策事業

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「クロニクル、クロニクル!」展の1階から2階へ続く階段の踊り場では、「存在感」と題された名村造船所創業100周年を記念した社史「名村造船所百年史」を観客が手にする事が出来る。

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その81ページにはこの様な記述がある。

同年(著者注:1950年)9月初旬、ジェーン台風が西日本をおそい、徳島から淡路島、神戸を縦断して大きな被害をもたらした。この台風は最大風速50m/秒という風台風で、大阪湾岸は強風が吹き荒れ、それとともに高潮が発生して、被害が拡大した。当社工場でも木造艤装工場はじめ5棟が倒壊し、その他建物20棟、船渠、コンクリート塀なども損傷した。また浸水被害も、機械装置、工器具備品の損傷、在庫品の流出、廃棄などきわめて大きく、これらの復旧修繕費、在庫品の損害は総額929万2,000円に達した。さらに、台風通過時より長期間にわたり、電源の壊滅、船渠ポンプ室の浸水などで工場が長期間機能停止状態となるなど、ダメージは深かった。

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ジェーン台風翌年の名村造船所

クリエイティブセンター大阪の公式サイトに記された「施設特異性による注意事項」。

クリエイティブセンター大阪は、名村造船跡地内にあり、臨海地のため、敷地入口には防潮堤が設置されています。 台風などの気象条件により、行政の指示を受けた場合には防潮堤が閉鎖され、施設の利用が不可能となる可能性がございますので、予めご了承下さい。その際の利用料金の返却等は出来ません。

 

http://www.namura.cc/

大阪市ハザードマップによれば、南海トラフ巨大地震による津波が来襲した場合、木津川防潮堤の「外側」である名村造船所跡地は、その一部で3〜4メートルの「浸水」が「想定」されている。しかし飽くまでもそれは「想定」である。

一つだけ言えそうなのは、大地が大きく揺れたらこの建物に留まっていてはならないという事であろう。津波到達よりも早く北加賀屋駅前の高層建築の上層階まで逃げるに若(し)くは無い。

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2月14日に「クロニクル、クロニクル!」では「避難訓練」が行われた様だ。それを「サイトスペシフィック」云々とするも「リレーショナル」云々とする事も可能ではあるだろうが、しかしそれはやはり「避難訓練」なのである。「避難訓練」で何が不都合だろうか。

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クリエイティブセンター大阪から木津川を遡る形で川沿いの道を3キロ程行くと、日本最大級の防潮水門である木津川水門がある。


映像は「安治川水門」

そこから再び2キロ程木津川を遡上、木津川水門と同規模の防潮水門がある尻無川と合流する辺りに大正橋があり、その北東詰に「大地震両川口津浪記」という石碑が立てられている。

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安政元年(1854年)11月4日(旧暦)の安政南海地震の後に大阪を襲った津波の被害と教訓を記した(碑の西面中央部には「南无阿弥陀佛(南無阿弥陀仏)」の名号と「南無妙法連華経」の題目が刻まれている)もので、その翌年の安政2年7月に建立されている(現在の位置は建立時とは異なる)。その死者の数は数千から1万とも言われている。

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「大地震両川口津浪記」の碑文は、安政の南海地震の147年前(碑文では148年前)の1707年に起きた宝永の南海地震の際に発生した津波についても触れている。

今より百四十八年前、宝永四丁亥年十月四日大地震之節も小船乗津波ニて溺死人多しとかや。年月隔てハ伝へ聞人稀なる故、今亦所かはらす夥敷人損、いたま敷事限なし。後年又斗かたし。

 

今から148年前の宝永4年10月4日の大地震の時にも、小船に乗って避難した為に津波によって溺死した人が多かったという。長い年月が経過して、それを伝え聞く者も稀であったが為に、今また同じ場所で多くの人の命が奪われてしまった。痛ましい事に限りがない。将来も同様の悲劇が繰り返されるだろう。(拙訳)

高潮も地震も「ひと」の手を離れたところで繰り返される。その繰り返し自体は「ひと」には止められない。碑文はこの様に締められている。

水勢平日之高汐ニ違ふ事今の人能知所なれとも、後人之心得、溺死者追善傍、有の蛎節分儘拙文にて記し置。願ハくハ、心あらん人、年々文字よミ安きよう墨を入給ふへし。

 

津波の勢いは、通常の高潮とは違うという事を、今回被災した人々は良くわかっているが、後世の者もまたこの事を十分心得ておくべきであろう。犠牲になられた方々の御冥福を祈り、拙い文ではあるもののここに記しておく。願わくば、心ある人は毎年碑文が読み易い様に墨を入れて欲しい。(拙訳)

碑が立てられてから160年後の現在でも、大地震両川口津浪記念碑保存運営委員会が、毎年地蔵盆に石碑を洗い、刻まれた文字に墨を入れている。物理的風化を免れないその石は、やがてこの世を去る「ひと」による「繰り返さない」事(風化させない事)を期した「繰り返すこと」であるところの墨入れの儀によって、世代から世代へとそれを手渡す為の媒体なのである。

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「クロニクル、クロニクル!」展は「繰り返すこと」「繰り返されること」がテーマの一つだ。翻訳もまた「繰り返すこと」「繰り返されること」の中にある。
 
同展の公式サイトにはウィリアム・フォークナーの「アブサロム、アブサロム!」(第4章)中のジュディス・サトペン(Judith Sutpen)の科白が引かれている。「クロニクル、クロニクル!」のサイトには明記されていないが、これは藤平育子氏(1944年〜)による日本語訳文(2011年:岩波文庫)である。

「クロニクル、クロニクル!」が引用した箇所の原文はこうだ。

Because you make so little impression, you see. (...) because you keep on trying or having to keep on trying and then all of a sudden it's all over and all you have left is a block of stone with scratches on it provided there was someone to remember to have the marble scratched and set up or had time to, and it rains on it and the sun shines on it and after a while they don't even remember the name and what the scratches were trying to tell, and it doesn't matter. And so maybe if you could go to someone, the stranger the better, and give them something-a scrap of paper-something, anything, it not to mean anything in itself and them not even to read it or keep it, not even bother to throw it away or destroy it, at least it would be something just because it would have happened, be remembered even if only from passing from one hand to another, one mind to another, and it would be at least a scratch, something, something that might make a mark on something that was once for the reason that it can die someday, while the block of stone can never be is because it never can become was because it can't ever die or perish..

「アブサロム、アブサロム!」には、藤平訳の他にも幾つか日本語訳がある。大橋吉之輔(1924年〜1993年)訳、篠田一士(1927年〜1989年)、高橋正雄(1921年〜)訳がその代表的なものになる。2011年の藤平訳はそれらの訳から数十年ぶりの新訳という事になるが、大橋訳(富山房「フォークナー全集」)以外の篠田訳、高橋訳は、それぞれ河出書房「池澤夏樹=個人編集 世界文学全集」、講談社文芸文庫で、現在も新刊書で読む事が出来る。
 
1965年の大橋吉之輔氏(物故)訳。(大橋氏41歳時のしごと)

人間というものは、しょせん、はかないものです。(…)とにかく生きている間はやりつづけなければならないので、そればかりを気がかりにして生きていると、とつぜん、すべてが終わってしまって、あとに残るのは、なにやら字がきざみこんである一塊の石で(それもだれかがおぼえてくれていて、墓石を立ててくれるだけの余裕があった場合の話ですが)、そのうちに雨がふり日が照って、墓の下にねむっているのがだれやら、墓の上に何という文字が書いてあるのやら、だれにもわからなくなってしまうのです。ですから、もしできることなら、だれかのところへいってー知らぬ人であればあるだけそれだけいいのですがー一枚の紙でも何でも手渡しておけば、その紙自身に何の意味があろうと、また読まれようと保管されて いようと、棄てられようと焼かれようと、とにかくすくなくとも、手渡したという行為があり、ひとりの心から他の心へとなにごとかが伝えられたということだけでも、それがたとえ一枚の紙にしるされた走り書きであったとして、それはいつかは消えてなくなるという理由のために、過去のものとしての価値をもっているわけですが、墓石のほうは、消え去ることができないので、けっして過去のものになることはできず、したがって、現在に生きることもできないのです……

その1年後、1966年の篠田一士氏(物故)訳。(篠田氏39歳時のしごと)

どうせ人間なんてたいして代りばえしませんものね。(…)でもそれをつづけてやってゆかなければならないとしたらそれは大事なことにちがいなく、そのうちに突然なにもかもおしまいになってあとにはなにか刻んだ石ころしか残らず、それもだれか大理石になにか刻んで据えたことをおぼえていてくれる暇なひとがあればいいんですが雨が降ったり日が照ったりしているうちにやがて名前も忘れられ刻まれた字も判読できなくなってしまいますよ、まあそれもいいでしょう。ですからだれか、まあ知らないひとのほうがかえっていいんですが、だれかの所へ行って、なにかー紙きれみたいなものでもーあげることができたとしても、なにか、なんでもいいんですが、そんなものはそれだけではなんの意味もなく、そのだれかだってそれを読んだりとっておいてくれたりするかどうかわかりませんし、それをわざわざ投げ捨てるだけの労もいとうかもしれませんが、でもすくなくともそういうことがあって、ひとの手から手へと渡ればそのひとたちの記憶にとどめられるわけですし、すくなくともなにか書かれたもの、なにか、いずれそのうち死ぬこともあるという理由から、それがかつて存在した証拠となるかもしれないようなものは残るわけで、それにたいしてただの石ころでは死んだり消えたりできませんから存在したということはありえませんから存在することはないわけでして……

その4年後、1970年の高橋正雄氏(存命)訳。(高橋氏49歳時のしごと)

だって人間なんてだれしも、そう変わったものではありませんからね。(…)だって、だれもがやりつづけるか、つづけなければならないうちに、突然すべてが終わり、その人があとに残すのはその上に字の刻まれた一塊りの石だけになるでしょうから。その石にしても、それに字を刻ませて立てるのを忘れないか、それだけの暇のある人がいればの話で、それを立てて貰っても、その石の上に雨が降ったり日が照らしたりしているうちに、間もなくするとだれもその名前を思い出さなければ、刻まれた文字の意味も忘れてしまい、そんなものは取るに足らないものになるでしょう。ですから、もしだれかのところへ行き、それも他人の方が好都合ですが、その人になにかをー一枚の紙切れでもーなんでもいいからなにかを渡すことができれば、たとえそのもの自体はなんの意味もなく、それを渡された人が読みもしなければしまってもおかず、わざわざ投げ捨てたり破ったりさえしなくとも、そうすることは少なくともなんらかの意味があるでしょう。というのは、よしんば一人の手から別の手へ、一人の心から別の心へ渡されるだけでも、それは一つの出来事として記憶されるでしょうし、それは少なくとも一つの刻みに、なにかに、かつて存在したあるものをそれがいつかは死ぬことができるという理由で記憶させることができるかも知れないなにかに、なることでしょうから。それにひきかえ、石の塊りの方は、それが死ぬことも亡びることもできないために、過去の存在になれないので、現在の存在にもなれないのです……

そして「クロニクル、クロニクル!」サイトに掲載されている、高橋訳から41年後の2011年(東日本大震災の年である事は、ジェーン台風程には風化していない)に世に出された藤平育子氏(存命)訳。(藤平氏67歳時のしごと)

だって、人は生きた印を残すことなどほとんどできないのですもの。(…)だって、人はやり続けるか、続けなければならないうちに、突然すべてが終わり、結局その人があとに残すのは、その上に文字が刻まれた一塊の石ころだけになるでしょうからね、それにその石ころだって、そこに文字を刻んで建てるのを忘れないか、それだけの暇のある人がいればの話で、石を建ててもらっても、その石の上に雨が降ったり、太陽が照らしたりしているうちに、しばらく経てば、彫られた名前も思い出さなければ、ひっかき傷の意味も忘れてしまい、そんなものは取るに足りないものになります。ですから、もし誰かのところへ行き、それも他人の方が好都合なのですけれど、その人に何かをー一枚の紙きれでもー何でもいいから何かを手渡すことができれば、たとえそのもの自体は何の意味もなく、それを預かった人が読みもしなければ、しまってもおかず、わざわざ捨てたり破ったりさえしなくても、手渡すという行為があったというだけで、少なくともそれには何かの意味があるのです、と申しますのは、一つの手から別の手へ、一つの心から別の心へと渡されるだけでも、それは一つの出来事として記憶されるでしょうし、それは少なくとも一つのひっかき傷に、何がしかのものに、それがいつかは死ぬことができるという理由から、かつてあったという印をどこかに刻みつけるかもしれない、何がしかのものになるでしょう、それに比べますと、一塊の石ころは死んだり消えたりできませんから、かつてあったことにはなれません、ですから今あることもできないのです

高橋訳と重なるところの多い藤平訳である。この藤平訳は翻訳者という職能を可能にする最低条件の更新を示しているとも言える。その中にあって、これまで意訳の対象であった “scratches" ―それは「大地震両川口津浪記」碑で墨を入れられ続けているものでもある―を「ひっかき傷」とするところに、藤平氏による「繰り返し」の意味の一つがあると言えるだろう。

Maybe nothing ever happens once and is finished. (William Faulkner)=おそらくかつてなにごとかが起こってそれが成就されたというためしはないのだ。(William Faulkner/大橋吉之輔)=もしかすると一度起こったことは終わるということがないかもしれない。(William Faulkner/篠田一士)=たぶん一度起こったことで完了したものはなに一つないんだから。(William Faulkner/高橋正雄)=もしかしたら一度起こったことでそれで完結するものなんて何もないんだ。(William Faulkner/藤平育子)=……………。

藤平育子訳の後に出るだろう “Absalom, Absalom!" の次なる「日本語訳」は、この第二次世界大戦前のアメリカで書かれた小説を、如何なる同時代の日本語に変換するだろうか。Maybe nothing ever happens once and is finished.

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「クロニクル、クロニクル!」展の「会場」内には、「会場」の「外」へと繋がる「開口部」が幾つかある。少なくとも明示的なものとしては、二階の倉庫奥に一つ、三階の窓に一つ、四階の南壁に一つである。三階のものは人の出入りが出来ないが、他の二つはこの「会場」であるCCO総合事務棟の「非常階段」の踊り場=「外」に出られる形になっている。

しかしそれら踊り場へのドアを「開放」したいずれの作家も、その踊り場が「作品」の「内」にあるとは言ってはいない。そこは飽くまでも「外」であらねばならないのだ。少なくともそれらの「開口部」は「作品」の「外」への「延長」を意図されてはいないだろう。

「アブサロム、アブサロム!」の「核」となる人物の一人であるトマス・サトペン(Thomas Sutpen)は、ヨクナパトーファ郡の「まだ誰も手をつけていない、この地方で最上の川沿いの低地(the best virgin bottom land in the country)」の100平方マイルを、僅かばかりのスペイン金貨でチカソーインディアンから手に入れ、嘗て「神」―チカソーインディアンにとっては神でも何でも無い―が「光あれ(Be Light)」と言って天地を創造した様に「サトペン荘園(Sutpen's Hundred )」を作り上げて行く。

それは他者の空間(即ちそれは「処女地」などではない)を、自らの生産体系の拡大の為の領域に変えて行くものであり、それを約めて言えば「征服(conquest)」という事になる。ローザ・コールドフィールド(Rosa Coldfield)の話を聞くクエンティン・コンプソン(Quentin Compson)の脳内は、それを「血の匂いのしない(bloodless)平和的征服(peaceful conquest)」と呼んだ。

「開口部」から「外」に出て、大阪の町(他者の空間/アートの処女地)に向かって「光あれ(Be Light)」ならぬ「アートあれ(Be Art)」と叫ぶのも良いだろう。その「アートあれ」の形の一つが、名村造船所を囲む「アート」に結実している。

しかし「クロニクル、クロニクル!に開けられた「開口部」、目張りをされていない「窓」からは、寧ろ「外」からの「波紋」が「内」に流入して来るのである。

「クロニクル、クロニクル!」の「外」について書いた「長過ぎる序」を終わる。

【続く】

28年目

これもまた嘗てあった事だ。とは言え「つい最近」の話である。現在日本の「現代美術界」で「若手」と呼ばれている人達の多くが、この世に生を受けた後の話になる。少なくとも71年以上も前の事ではない。

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日本の「80年代美術」はいつ「終わった」のだろうか。「80年代美術」が「未だ続いている」とは誰も思わないから、何処かでそれは何らかの形で「終わった」筈である。一体何をして「80年代美術」は「終わった」とされるのだろうか。

所謂「バブル経済」が1991年に崩壊したその時に、それが「終わった」という見方は可能だ。1989年11月9日の「ベルリンの壁崩壊」を以って、「西側」文化の一変種としてのその成立基盤が、多少なりとも揺らいだという事もあるだろう。では、日本の「80年代美術」の「終わり」が1989年1月7日の「昭和」の「終わり」と軌を一にしているというのはどうだろうか。

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「昭和」の「終わり」。即ち今から27年前から28年前に掛けての話である。その当時の日本は有史以来何回目かの自信に満ちていた。今では見る影も無いが、日本は世界で1、2を争える「大国」であると自ら大いに認めていたし、また実際に周囲からも世界有数の「大国」であると認識されていたのは確かだ。ニューヨークのロックフェラー・センターのビルは全て三菱地所が所有していた。ソニーはアップルよりも遥かに格上のブランドだった。ホンダの RA168E エンジンは、それを競走自動車に搭載したイギリスの競争自動車製造者に自動車競争世界選手権に於けるシーズン16戦中15勝をもたらした。アメリカのエンタテイメント・コンテンツでは、「会社のオーナーが日本企業」「借家のオーナーが日本人」といったモチーフが頻繁に使われたりもした。「21世紀は日本の時代になる」という、日本の自意識を満足させる複数の「観測」が、日本の自信満々を支えていた。大八州の希望は踊っていたのである。

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一つ一つの才能の話ではなく、日本が世界の現代美術をリードして行くという事も、半ば夢想としてではなく語られていた。WW2前にパリがあり、WW2後にニューヨークがあり、そして21世紀はそれが東京になると、まことしやかに語られる事もあった。経済的に「大国」となった後も、相変わらず欧米の美術雑誌上では、日本からのレポートはメインのコンテンツには到底ならなかったものの、それは欧米人の美術に対するスタンスの限界故にであるという見方が日本でされてもいた。だからこそ、例えばフランス人 “Jean-Hubert Martin" によるフランスの美術展 “Magiciens de la Terre” に「取り上げられた」 “Terre" 側の人間は、それに対して過剰なまでの意味を見出し、また周縁的存在としての日本人アーティストがフランスの注目の企画展に「ノミネート」される事に対して、当時の日本・現代・美術は、記憶すべき「時代の変化」を見て取った。

「国内」的には「私たちの絵画」という、峯村敏明氏の筆が送り出した文字列が公にされた1980年代。その「私たち」は、多くは「日本」という内実を全く欠いたフィクショナルなイメージにも読み替えられ、それに快哉を送る空気も存在したりもした。「日本」が様々な形を伴った単調なイメージで浮上する。

一方で、その「私たち」の先を見据えようとする美術の人達の中には、「アジア」に目を向け始めた人もいた。欧米の美術状況に常に目を向け、或いはそこで認められようとする事には最早大きな意味は無い。これからは「アジア」に注目だ。但しその「アジア」は、欧米圏が言うところの “Turkey" から始まる “asia" ではなかった。

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事実上その「アジア」は、日本・韓国・中国の「東アジア」及びその周辺国を意味し、その中心には「アジア現代美術」の「盟主」である日本が位置しているというものではあった。

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この時代を映像化しようとすれば、必ずと言って良い程東京証券取引所の立会場の手サインがインサートされ、マハラジャ、キング&クイーン、MZA有明辺り(ジュリアナ東京は平成に入ってからオープン)がインサートされ、時には土井たか子氏が日本社会党の委員長になった映像――後の平成の「マドンナ旋風」に繋がり、参院で与党を過半数割れに追い込む――がインサートされもする。いずれにしても、1980年代の日本を、誰一人として「暗い時代」として描く事はしないだろう。

1980年代は、元号的には昭和50年代(昭和56年)から昭和60年代(昭和64年)という事になる。「三丁目の夕日」の時代が昭和30年代と言われ、決して1950年代や1960年代と言われないのとは対照的に、1980年代を昭和50年代や昭和60年代で表わす事を日本人の殆どは誰もしない。先の東京オリンピックは「1964年」よりも「昭和39年」の方が年配者を中心に未だに通りが良かったりもするが、その6年後の日本万国博覧会は「1970年」(=昭和45年)の方が断然通りが良い。日本に於ける元号と西暦の比重が入れ替わったのは、三波春夫(他)の歌声による「1970年のこんにちわ」の前後であると自分の印象的には記憶している。

それ以降、元号はノスタルジーの対象として――例えば「昭和酒場」の様な形で――、或いはそれでなければ万事が進まない日本の「公」の書類の中にのみ生き残る形になり始めたのが1970年代でもあった。即ちそれは、日本社会に於ける「天皇」という部族的権威の後景化を意味する。そして1980年代はその後景化が完了した時代だった。完了した筈だった。

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「それ」は突然やって来た。かの様に振る舞われた。極めて理性的に考えれば「それ」がやって来ない方がおかしいし、事実として民間ではその1年程前から、報道機関等が「それ」に対して多かれ少なかれ「体制」を組んではいた。

1988年9月19日、その御方は大量吐血された。「Xデー」という新語が生まれたが、その隠語表現的な「Xデー」が具体的に何の日を意味しているのかは、日本国民の殆どが知っていた。従って事実上それは隠語にも何にもなっていなかったものの、しかしそれでもそれを明示的に口にする事が「不敬」に相当する、そしてそれについて「留意」している事を示す機能が少なくともその言葉にはあった。

「歌舞音曲」という古めかしい言葉が浮上し、それは「歌舞音曲自粛」という形で用いられた。明治時代であればそれは「歌舞音曲停止(かぶおんぎょくちょうじ)」とされていた。

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太后陛下 崩御ニ付本日ヨリ左ノ通歌舞音曲ヲ停止ス

一 營業ニ係ルモノハ十五日間
但シ御發棺及御埋棺此ノ期間後ナルトキハ其ノ當日尚之ヲ停止ス
二 其ノ他ノモノニ在テハ三十日間
明治三十年一月十二日 內閣總理大臣伯爵松方正義

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 明治時代に於いては、この明治30年(1897年)の英照皇太后崩御による服喪が最も長いものになる。「營業ニ係ルモノ」即ち「歌舞音曲」のプロフェッショナルには15日間の、「其ノ他ノモノ」即ちアマチュアには30日間の「歌舞音曲停止」が下された。プロとアマに於けるこの日数の差は、「歌舞音曲」を演ずる事によって税金を収めているか否かによっている。プロフェッショナルの倍の日数である服喪期間の30日間に於いて、アマチュアが路上等で歌舞音曲を演じたりすれば、巡査がたちどころにやって来て拘引される。大喪の礼の形式(明治以前は仏式)も含め、全ては明治以降に構築された日本の「伝統」である。

明治8年(1875年)の東京府による「本府布達」にはこうある。

第二号 市在各区
戸長
区長

俳優人ヲ始別紙〔抄記〕営業之者、本年ヨリ賦金上納申付候間、各区限り無遺漏人員取調、集金之末、月々二十五日出納課江可相納、此旨相違候事。
明治八年一月八日 東京府知事 大久保一翁

一、俳優人 上等壱人二付月々 金五円
      中等壱人二付月々 金金弐円五拾銭
      下等壱人二付月々 金壱円
一、音曲諸芸師金
            月々 五拾銭
一、筆談井義太夫、其外賓七出稼之者
      上等壱人二付月々 金五拾銭

明治8年の巡査の初任給が4円(2015年は高卒で20万円超)とも言われているので、「俳優人(上等)」の月々の税額5円はそれよりも高い(警官初任給指数に基づけば、現在の価格で25万円超。年額で300万円超の税金)という事になる――「俳優人(下等)」では年額60万円超。こうした高い「ハードル」を明治の行政が設けたのは、半ば「歌舞音曲」を生活の中心とする者にその世界にいる事を諦めさせ、近代日本に役立つ「正業」に就かせる為にである。勤勉の日本がここに始まる。

明治維新により、武家の式楽として幕府や藩の庇護の元にあった能楽は、その後ろ盾を失い極端に衰微した。禄と芸の後ろ盾を失った能役者達は、文明開化後も何とか自分が身に付けた能や謡で生活したいと思っていた。その幕末から近代に掛けて初世梅若実によって書かれた「梅若実日記」の明治5年5月の「挿入紙」にはこう書かれている。

明治五午年
   勤番組之頭江
元能役者共此地江移住相願御聞届ニ相成候ハ猿楽能業前二付御聞届二相成候義ニハ無是。能御用ハ以後無之事二付三十郎始名々文武之内可心掛所移住後モ於寺院等二而能暁子等時々相催侯敬二相聞不都合之事二侯間頭支配より篤卜可為申談置之事。
   六月
今般別紙之通被令候。然ニハ御自分ニハ右様之義有之間敷候得共猶此義御書付趣厚ク相心得候様頭衆被相達候間此段申達候。以上。
   午六月      滝川虎雄
     観世新九郎拝

文明開化した近代日本に於いては、「文武之内」で「正業」に就くべきであるが故に、徳川慶喜に従って静岡に移った能役者が寺院等で能囃子などを演じているのは「不都合」である。従って頭支配はそれを厳重に諌める様にという「観世新九郎」(=芸術家)による申し入れである。

東京府による「本府布達」と同じ明治8年10月には「諸藝人名錄」が刊行されるが、これはその8ページ目に「諸藝賦金毎月上納髙」がある様に、税金を収めている者(近代日本に貢献する者)だけが事実上「藝人」とされた事を意味する。

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時は下り、明治天皇崩御(1912年7月30日)の直後に発行された、東京音楽学校(現東京藝術大学)の学友会誌である「音楽」(1912年11月号)の「編集室」(牛山充氏による執筆と見られる)には、「歌舞音曲停止」が実際にどの様に「日本の『芸術』」に対して機能したかについて以下の様に書かれている。この東京音楽学校講師の書く文章は、明治以降の「日本の『芸術』」が社会が繋がろうとする――その殆どは「芸術」の側から一方的に望まれている一方で、その逆のケースは殆どと言って無い――ところに於いて、様々に重要な示唆を含んでいると思われるので、長文だが引く。

(略)明治天皇崩御の御事がありましてから畏れ多くも主上には五日の廃朝を仰せ出されまして一般に歌舞音曲をその間御停止になりました。誠に勿體ないことで何れも深甚な哀悼のなげきの聲のほかに、此深い、厳粛なユニヴァーサルサイレシスを破るものはありませんでした。これもとより然るべきことでございます。そしてその間は音を以てお上に仕へ奉り、音を以て人心の教養に當ってをる徴臣共も、謹しんで口に唱聲を絶ち、手を樂器に觸れませんでした。

五日間の御廃朝が終りまして、歌舞音曲禁止の令がとかれまして、もはや差し支へないとのお布令がありましたのは、そのためにこれを生業としてをる下民が、若しも停止のために難渋してはとの有り難い大御心と承りまして私共は感涙に咽びました。そしてこれを生業としてをる下々の者迄も大御心のあまり尊く有難さに、なほ勿體なく思ってずっと御遠慮申し上げて居った向も尠くなかったとの話。有り難いお上の御思召しに對する、下民の美しい感謝の至情の發露として、又我國に於てのみ見るを得べき尊き現象として喜びました。

併し乍ら全くこれによって僅かに糊口の資を得て居る、音樂の師匠、僅かに一管の尺八や、一提の三絃を以て親子三人の露命を繋いてゐる門付けや、縁日のほのくらい小路に土座して見えない目に涙を流し乍ら、覺束なげの追分けや松前の一と節に、鬼のやうな丈夫の腸さへ九回の思あらしめる可隣な尺八吹きを忘れることは出來ませんでした。それと同時に音樂を以てライデング・ヂェネレーションの精神教育に従事してゐる我満天下の音樂教員諸氏の苦衷を思ひやらないわけには参りませんです。

聞くところに依れば文部省の夏季講習會で得た音樂の智識を、九月の新學期よりの小學校の唱歌教授に間に合せるために、急いであの盛夏三伏の炎暑の候をも顧みず、それぞれ國へ歸って小學教員の講習をするために、自宅でピアノを弾いたからと云って早速不謹慎呼ばはりをした新聞があったさうである。甚だしきは不忠の二字を冠らしめた賢明なる社會の木鐸を以て任ずる記者があったさうである。

もとより斯の様な新聞の言説は私共の一願をも價しないものであることは十分承知してゐます。従って彼等に向って今更に教へるところがあらうとするほど愚かでありません。然し世の中にはかゝる愚論にさへ迷はされる人の多い此の世ですから少しばかり自分の考へてることを云ってみたいと思ひます。

第一に私共の取り扱ってゐる音樂は、少くとも學校音樂は(成るべく私は厳格な意味の音樂全體を意味したいのであるが今便宜のため特に學校音樂として置く)國家を擧げて深厳な喪に服すべき時と雖も決して廃すべき性質のものではない。否一日と雖もこれなくしてはあるべからざるほどの権威と力とを有ってゐるものとしたい。私共の取り扱ってゐる音樂は御遠慮申し上げて居っても差し支へのない様な所謂歌舞音曲とは全然其性質を異にしてゐるものと解釈したい。

古への聖帝明王がこれを以て國を治め、古への聖人賢者がこれを以て人の心を高きに導いたその神聖なる音樂、これが私共の一生を賭して守るべく養ふべき音樂ではあるまいか。即ちこれなくしては一日たりとも國を治めることは出來ない、これなくしては人の心を浄化することが出來ない、さうした貴い力、さうした神聖権威、これが私共の音樂ではないだらうか。

私共の音樂は徒らに慰さみ半分に弄ぶ賤妓や蕩兒の音曲ではない、大きく云へば治國平天下、人心教化の聖力として、至高至上の権威であるからして、これを行使するに方って何等〓々たる俗論を顧慮して居る必要があらう。最も細心の熟慮の後、最も大膽に私共の天職の遂行のために勇往邁進すべきではありませんか。そして完全に此天職を爲し遂げた時、私共は私共の天皇陸下に對し奉って最っも善長な、忠臣となり、又人道のために最も偉大な勇者とも仁者ともなれるのではありますまいか。

若し私共の取り扱ってゐる「音樂」が、他の「歌舞音曲」とか「鳴り物」とか云ふやうな極めて哀れな立脚地しか有って居ないものと同じ名の下に御遠慮を強いられてこれに盲従して居なければならない様な無價値な、無権威のものならば、早速そんなものを数へるために貴い時間と勞力と金銭とを費すやうな學制を改めて、貨殖理財の道でも教えて、金のモウカル法でも知らせるやうにした方が賢いやり方ではないでせうか。

人間はパンばかりでは生きて居られるものではないとはどこやらの利口者が千年も昔に云っておきました。人間の心には色々の食べ物が大切です、世の中が文明になればなるほど此心の食べ物に不自由させないやうに、そしてそれもよい心の食べ物を喰べさせてやるやうにカめること、これが明君賢宰相の念頭を去ってはならぬ最大の心配でなくてはならないのです。そして私共は此よい心の食べ物を與へ、その食べ方を教へてやる貴い天職を帶びて來てゐるのであります。皆さんどうして此貴い神聖な務めを一日たりとも怠ってなるものですか。

愚かな新聞記者――彼等の多くは憐れむべき學者顔をした無識者です――の間違った議論などが恐いのですか、あなた方は此貴い天職を怠る罪の更らに大なるのを恐れませんか。勇ましくお進みなさい、そうすれば障〓は向ふから城を明け渡して逃げて參ります。

諒闇中だからと云って畫をかくのを止めろと云った新聞のあるのをきゝません、詩を作るのを遠慮しろと云った記者があるのをも耳にしません、小説を出し劇を作るのを不忠である、不謹慎であると叱った社会の木鐸のあると云ふことをも不幸にして語られません。何故社會は私共にばかりかうした片手落ちのやり方をするのでせう。畫かきが顔料と線とを以てその思想感情を發表し、詩人、小説家、戯曲家が文字を以てこれを發表し、彫刻家が石膏とマーブルを以てこれを發表する如く、私共は音と云ふ材料をつかって私共の悲しみも喜びも表はします。

さうです私共は音を以て私共の悲しみも喜びも發表します。それをなぜ私共ばかりが遠慮しなければ不忠の臣といふきくも恐ろしい汚名を甘受すべく餘義なくされるのでせう。

愚かな俗人は音樂とさへ云へばと陽氣なもの、他人の悲しみも嘆きも知らぬ樣に小面悪く響くものとか傳習的に間違って思ひひがめて居ます。そして私共の胸一杯の悲しびを籠めて弾く一つ一つの音の傳へる誠實な嘆きの聲にも彼等の耳は聾なのです。四分の二拍子の長調の舞踊曲にも無限の哀愁が絡れてひゞくのを聽いて落涙するやうな心耳を有ってはゐないのです憐れなものですよ。

又一方から考へてみますと、私共の先人があまりに浅薄過ぎて崇厳沈痛荘重の調べを貽さなかったことにも罪があらうと思ひます。そしてたゞ俗人が好くからと云って軽薄な似而非音樂を濫作した結果音樂は他人の悲嘆の時には遠慮すべきものなりなどゝ云ふ間違った断定をころへさせたものとも思はれます。そしてかうした断定の出るのもつまりは『音樂』が人の心に次ぼす権威の至大なるものを認めてゐるからのことです。ですからこれらの軽佻浮薄な似而非音樂に代ふるに崇高の調、荘重な音を以てしたならば私共が有ってゐる最大の悲しみ最深の嘆きを致さなくてはならないやうな場合に於て、先づ第一に要求されるものは我音樂であるべきことは疑を納れないだらうと思ひます。

さうしたならば世の中に『音樂は悲しみの時に奏すべきものに非ず』などゝ云ふ様なわけのわからぬ有司も俗人もなくなって、一にも音樂二にも音樂と云ふことになり、従ってそれらの崇高、幽玄、荘重、安偉の音樂が人心に與へる感動より來る好結果は測り識ることが出來ないやうになるだらうと思ひます。

かう云ってみると矢っ張り罪は半分私共音樂者の方にあるのです。ですから私共は前に云ったやうな、俗衆の下劣な趣味に媚びるやうな俗悪極まる、軽佻浮薄な似而非音樂をすて、高い人類の霊的生活に至大至重の交渉を有するやうな眞の大音樂を造り出さうではありませんか。そして私共のさし向き携はってゐる學校音樂に於ても、少くとも此抱負を以ってコツコツとその土台の建説に盡して戴きたいものです。

單に思想の遊戯に過ぎない樣なものならば、私共にはそんな音樂は要りませんと思ひます。

参考:http://rasensuisha.cocolog-nifty.com/kingetsureikou/2015/06/_11-62f3.html

 東京音楽大学で教えられている様な「音樂」に携わる者に対して、社会から「不忠の臣といふきくも恐ろしい汚名を甘受すべく餘義なくされる」のは、「無價値」「無権威」な「徒らに慰さみ半分に弄ぶ賤妓や蕩兒の音曲」である「軽佻浮薄な似而非音樂」と、「高い人類の霊的生活に至大至重の交渉を有するやうな眞の大音樂」が、「無識者」である「愚かな俗人」によって混同されているからである。その「一日と雖もこれなくしてはあるべからざるほどの権威と力とを有ってゐるもの」としての「眞の大音樂」は、「よい心の食べ物を與へ、その食べ方を教へてやる貴い天職を帶びて來てゐる」という「治國平天下、人心教化の聖力として、至高至上の権威」を持つが故に、「私共は私共の天皇陸下に對し奉って最っも善長な、忠臣となり、又人道のために最も偉大な勇者とも仁者ともなれる」のである。

「芸術」と「天皇」という二つの「至高至上」――「貴い天職」の者がそう思っている/思わされているところの「芸術」という「至高至上」と、「無識者」までもが疑いも無いかたちでそれを「至高至上」としている/させられているもの――を強引に重ね合わせる事。そして「天皇」という西欧部族的な意味でマイナーで日本部族的な意味でメジャーな「至高至上」の名によって、「芸術」という西欧部族的な意味でメジャーで日本部族的な意味でマイナーな「至高至上」の、日本に於ける社会的価値が引き上げられているという捻くれた構図をこの文章に見る事は可能だ。そして「治國平天下、人心教化の聖力」の形で「役立つ」という形で「社会」に関わる事が、「芸術」の本分であると。

いずれにしてもここでも明らかなのは、日本社会に於いては「芸術」は常に脅かされているという、「日本の『芸術』」の認識である。「日本の『芸術』」を脅かすものは、ここでは「無識者」や「愚かな俗人」という語で表されている。「無識者」や「愚かな俗人」によって「芸術」は社会から疎外されている。

しかしこれは、この21世紀に至っても連綿と続く「日本の『芸術』」に於ける極めて一般的な了解ではあるだろう。展覧会の打ち上げ(内覧会含む)で必ず出る定番のぼやきは、常にその様な「無識者」や「愚かな俗人」に対する嫌悪や怨嗟の話ばかりだ。即ち明治維新後「日本の『芸術』」を取り巻く環境と、それに対する「日本の『芸術』」のぼやきは1ミリたりとも変わってはいないのである。そして百数十年変わらない「日本の『芸術』」によるぼやきばかりが、「無識者」や「愚かな俗人」の目の届かない場所で、事実上密かに何百万回も再生される。「無識者」や「愚かな俗人」を目の前にして、「神聖権威」である「日本の『芸術』」が面と向かって「愚民」や「田吾作」や「反知性主義」と言い放った事は無い。仮に現在の SNS でそれをやれば、炎上するしか無いのはその火を見るよりも明らかだ。この文章が「東京音楽学校学友会誌」という「鍵」の掛かった場所ではなく、広く世間に公開される事になってしまえば、単純に燃料にしかならない事を、大正元年の牛山充氏もまた十分に知っていただろう。SNS という相互監視の娯楽が行き渡った今ならば、「無識者」や「愚かな俗人」と言ったというその一点をあげつらわれて、彼の東京音楽学校講師生命、後の音楽評論家生命が尽きさせられたりもするかもしれない。

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とんぼの本」という軽めの装丁でありながら、新潮社の「画家たちの『戦争』」は良書である。「戦後65年」で「民主党政権」下で「東日本大震災」前という「中途半端」な年(2010年)に発行されている事による信頼性というものがある。そこに引かれている証言の数々に厳密な整合性が無いというのも良い。重層化した窟である現実とはそういうものだからだ。「集合住宅」に住む者の誰もが、その「集合住宅」全体は語れないのである。仮に「語れる」という者がいたら、その「かたれる」は何処かで「騙れる」でしかない。

同書中から河田明久氏の文章「戦争美術とその時代・一九三一〜一九七七」を引く。これもまた極めて示唆に富むものなので長文引用になる。

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 もちろん表面上戦争に無関心な画家たちにも、戦争協力の意思くらいはあったかもしれない。しかしこの段階(引用者注:満州事変や第一次上海事変当時)で「彩管報国」といえば、それは軍への献画か、作品の売上代金を恤兵金として軍に納めることをさしていた。絵は絵にすぎず、それがそのまま戦力になるというような考えは、いまだ軍にも画家にもなかったからだ。
 美術家にとって当面の脅威は、むしろ美術界そのものにあった。各種の公募団体展は、限られた入選者の席を目指して殺到する画学生(引用者注:帝国美術学校を始めとする私立美術学校の開校等による芸術家志望の若者の急増により「芸術家」の需給バランスが崩れ始めていた)でどこもごった返していたが、その肝心の展覧会が、この時期、軒並み観客数を減らしていたという証言がある。理由は、美術の大衆化を後押しした一九三〇年代の都市大衆文化そのものだった。

 春と秋にまとめて開かれる団体展は、ジャーナリズムのなかで、いつしか映画の封切りかシーズンスポーツのように語られる存在になっていた。当事者たちにとっては一大事でも、大衆からすれば、美術は、大衆文学の挿絵や商業美術、映画などと並ぶ知的消費財の一つにすぎない。メディアの一つと割り切られてしまえば、美術と社会をつなぐ回路はあまりにも心細いものでしかなかった。いかにしてこの回路を回復するか。これこそが、心ある美術家には、戦争協力にもまさる最大の関心事だった。

 同時代の美術を常設展示する美術館もなく、商業画廊も未発達だった当時、官展や在野の公募団体展は、いわば美術のすべてだった。その展覧会が「興行」としての魅力を失い、大衆から見放されつつあるという現実に直面して、画家たちは、では大衆にとって真に魅力ある美術とは何なのかと、あらためて自らに問いかけることになる。一九三一年七月に始まる日中戦争は、この問いに皮肉なかたちで突破口を与えた。

 開戦(引用者注:日中戦争)の直後から始まった美術家の従軍は、日を追って増え続けた。一年後の一九三八年六月、かれらを集めて大日本陸軍従軍画家協会が結成された時点で、従軍画家は数十名。翌一九三九年四月に同郷会が陸軍美術協会へと発展的解消を遂げるころには、二百名を超える画家が戦地へおもむいていた。

 従軍が始まった当初、現地軍の側では、押し寄せる美術家を受け入れる体制がいまだ整っていなかった。開戦の年に戦地行きを申し出た鶴田吾郎は、まだそうした制度がないことを理由にいったんは断られているし、同じころ個人の資格で従軍した向井潤吉も、必要な経費はすべて自弁したという。等々力巳吉という従軍画家にいたっては、連絡の手違いがもとで日本軍の取り調べを受けている。海軍への従軍画家からは、岩倉具方や斎藤八十八のように市街戦に巻き込まれて命を落とすものまであらわれた。従軍志願者の急増ぶりは軍のほうで制限せざるを得ないほどだったと、当時上海におかれていた陸軍の中支那派遣軍報道部の責任者であった馬淵逸雄は、著書『報道戦線』(改造社、一九四一年)で明かしている。

 国家総動員法(一九三八年)による国民徴用令(一九三九年)で美術家が初めて「徴用」されるのは、じつは真珠湾攻撃も間近な一九四一年晩秋のこと。それ以前の従軍画家は、だから決して「駆り出された」わけではない。にもかかわらず、これほど多くの画家が戦地まで押しかけた理由の一つは、総力戦でありながら戦争目的が一般には浸透しないという、日中戦争のあいまいな性格にあった。

 

 「日本の『芸術』」にとっての最大の「敵」は、総力戦としての「大義」が見出し難い中国大陸ではなく、まさしく「芸術」を無視し蔑ろにする「無識者」や「愚かな俗人」といった「日本の『大衆』」「日本の『公共』」にあったと言えよう。「日本の『芸術』」を死守する事。「芸術」と「社会」を繋ぐ回路を「回復」する事。それが「日本の『芸術』」にとっての最大且つ唯一の「大義」である。十五年戦争時の「日本の『芸術』」の心を占めていた最前線は、従軍先の戦地ではなく、日本国内の「日本の『芸術』」を巡る環境にあった。日中戦争時の戦地には、或る意味でそれを描く事で「日本の『芸術』」自らが奮い立てる様な何ものも存在しなかった。従って彼等は戦地まで出掛けて行っても「やさしい絵」(「戦争画とニッポン」会田誠氏)を描くしか無かったとも言える。「敵」はそこにはいない。憎むべき鬼畜(畜群)は「日本の『大衆』」や「日本の『公共』」だ。押し掛け紛いの戦地行きを志願して、自らのアイデンティティを確立しようとした「従軍画家」は、まだ様々な意味で不安定な存在だった。

社会との絆を何としてでも獲得したい、出来ればその最前面に位置したいと思ってしまうところが、現在に至るまでの「芸術」の最大の弱点であり、それはまたその弱点を利用しようとする者にいとも容易く付け入れられてしまうところでもある。所謂「戦争画」は、如何にして「『無識者』や『愚かな俗人』ばかりの日本」の中で「芸術」を「根付かせる/支持させる」かという、21世紀の現在に至っても未だ終わらない、「日本の『芸術』」の自目的化した試行錯誤の形の一つの例なのである。そして時にそれは「日本の『芸術』」の最大の「敵」である――そして最大の潜在的支持者と想定されている(でなければ「意のままにならない」彼等に対して苛つく事はあり得ない)――「無識者」や「愚かな俗人」に対して利敵的にも振る舞わなくてはならない。

その「日本の『芸術』」の「大義」と、日本社会の「大義」の橋渡しをしたものの一つは、「日本の『芸術』」に理解――社会の中に於ける「地位」を欲して止まない「芸術」の弱点を良く知るものという意味も含む――を示す朝日新聞(現在も同じく「芸術」の弱点を良く知る)であった。

社内の学芸部や社会部に蓄積された美術界の人脈をいかして公式の従軍画家、作戦記録画家をあっせんすると同時に、戦争美術の公募展を開催し、そこに並んだ作戦記録画や一般の入選作を展覧会に仕立てて列島内外を巡回させるという戦争美術の一般的なあり方は、ある意味、戦時下における朝日新聞社の独占的な文化事業だった。ちなみに真珠湾攻撃一周年を記念して開かれた第一回大東亜戦争美術展の巡回展までふくめた延入場者数は、官展の約十倍にあたる三百八十万人に上ったとされる。

前掲河田論文

 近代に於ける新聞という存在は、「無識者」や「愚かな俗人」を「教化」する機能をも持つ。明治天皇崩御の際には、新聞は「歌舞音曲」を「不謹慎呼ばはり」する世論を形成したりもした訳だが、その「無識者」や「愚かな俗人」の側に立ちもする新聞が/であるが故に、1930年代末からその持てる力(当時)を駆使して「無識者」や「愚かな俗人」を焚き付け、当時の日本社会の「大義」――これは真珠湾攻撃以降は「世界の富を壟断するもの(高村光太郎)」としての「強豪米英一族の力(同)」を「否定(同)」する「東亜10億人の代表(徳富蘇峰)」という「大義」にバージョンアップする――である「聖戦」「義戦」と呼ばれる「至高至上」の「歴史」を描いた「歴史・画」の「美術展」に向かわせるのであるから、「芸術」の「社会」への影響力という側面からのみ考えれば、「無識者」や「愚かな俗人」から無視され続けてきた近代以降の「日本の『芸術』」的には、或る意味で願ったり叶ったりの環境の実現ではあった。所謂「戦争美術」というのは、「日本の『芸術』」の夢の裏返しではある。「日本の『芸術』」が「日本の『社会』」に於いて「大いなる」ものであろうと欲したその時、それは別のレイヤーの「大いなる」ものと結託せざるを得なくなるのだ。

その事を極めて戦略的に自覚していたのは、事実上この時代の「日本の『美術』」で最も「大いなる」ものを欲していた藤田嗣治以外には日本にいなかったとは言える。彼は「無識者」や「愚かな俗人」のものである新聞というメディアが持つ力の使い方を良く心得ていた。その為の演出を厭う事も無かった。その上で西欧世界の「至高至上」の一つである「芸術」の「大義」(例:「歴史画」)を、その画面上で次々と推し進めていけたのである。「昔の巨匠のチントレットやドラクロアでもルーベンスでも 皆んな 本当の戦争を写生した訳でもないに異いない(略)私なんぞはそのおえらい巨匠の足許にも及ばないが これは一つ 私の想像力と兼ねてからかいた腕試しと言ふ処をやってみよう(藤田嗣治)」。

しかし「チントレット」や「ドラクロア」や「ルーベンス」とは異なり、画面の中に登場するのは、凡そ絵心を刺激されない華やかさに全く欠けたカーキー色の軍服の兵卒ばかりである。そしてその「英雄」であるべき兵卒の多くは、一方で「日本の『芸術』」の真の「敵」である「無識者」や「愚かな俗人」なのだ。藤田嗣治の画面中に於ける兵卒の扱いは、その両面性を表している様に思える。

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部落會町内會等整備要領

第一 目的
 一 隣保團結ノ精神ニ基キ市町村内住民ヲ組織結合シ萬民翼贊ノ本旨ニ則リ地方共同ノ任務ヲ遂行セシムルコト
 二 國民ノ道徳的錬成ト精神的團結ヲ圖ルノ基礎組織タラシムルコト
 三 國策ヲ汎クく国民ニ透徹セシメ國政萬般ノ圓滑ナル運用ニ資セシムルコト
 四 國民経済生活ノ地域的統制單位トシテ統制経済ノ運用ト國民生活ノ安定上必要ナル機能ヲ發揮セシムルコト

昭和15年9月11日内務省訓令第17号

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「歌舞音曲自粛」の期間には、明治や大正の「歌舞音曲停止」の時代とは異なり、その期間に「歌舞音曲」を演じていたとしても、流石に警官が飛んで来て拘留されるという事は無かった。しかしそこでは「自主的判断」によって「歌舞音曲」に対する相互監視が十分以上に働いていた。「民」の間で内面化した「歌舞音曲停止」は、当局による監視のコストを事実上ゼロにした。

NHK を始めとするテレビ各局は、1988年9月19日から1989年1月7日まで終夜放送体制となる。「大正天皇崩御」までの様に「Xデー」からそれが始まるのではなく、「Xデー」に至るまでもが「歌舞音曲」が躊躇われる事を広く共有させる事に、1980年代のメディアは有史以来初めて成功した。

それまで最長だった英照皇太后崩御の30日間の「歌舞音曲停止」を遥かに上回る、昭和天皇崩御の日までの120日間の「歌舞音曲自粛」は「上意下達」ではないものだった。繰り返しになるが、それは全く「民」の「自主的判断」によるものである。

 昭和天皇のご病気で自粛ムードが高まる中、10月2日から開催される予定の東京の「大銀座まつり」が中止になった。43年に政府主催の明治100年記念式典の一環として始まった銀座きってのイベント。実行委員会を組織する銀座通連合会の事務局長、石丸雄司(60)は「銀座は皇居のおひざ元。ご用達業者も多い。陛下に特別の親近感を持っており『自粛するのが銀座の見識』という声が幹部の一致した意見だった」と説明する。

 中止決定後、石丸は外国メディアから「圧力があったのではないか」と取材攻勢を受けた。「親が病気のときにはしゃぐ子供はいない」。だが「理解してはもらえなかった」。

 江戸時代から続く佐賀県唐津市の「唐津くんち」。11月2日夜から始まった巡行の指揮をとる唐津曳山(やま)取締会の総取締、瀬戸利一(76)は直前に県警の公安担当刑事から警告を受けた。「行列から外れないように。さもないと、身の安全は保障できない」

 自粛ムードの中でくんちを強行したからだった。曳山を持つ14カ町は当初「中止」が大勢だった。しかし、10月3日夜、唐津神社に招集された取締会総会で、瀬戸はこう言った。「くんちをやるのもご快癒祈願。右へならえして自粛するのではなく、唐津っ子の意気を示してはどうか」。2日後の氏子総代会で「実施」が決定された。

 瀬戸の自宅の電話は鳴り通しだった。「非国民」「殺すぞ」。抗議の手紙も何百通と届いた。瀬戸は振り返る。「放火を危惧(ぐ)して、水を入れたプラスチックのタンクを用意した。期間中に崩御されたら、喪章を付けてでも曳山を引く計画だった」

 唐津くんちの実施が決定された直後の10月8日、皇太子殿下(現天皇陛下)は「陛下のお心にそわないのではないかと心配している」と、自粛の広がりに憂慮の念を示された。

「戦後史開封」昭和天皇崩御
産経新聞(1995年12月26日から連載)

或る意味で「歌舞音曲自粛」という「民」の相互監視は、「民」がそれを競う事でエスカレートしていったところがある。ここでは皇太子(当時)の「言葉」よりも「歌舞音曲自粛」という「状態」の方が重要なのだ。「自粛」というのは、「自」らがその「状態」に身を投じ「粛」している様子を、他者に対してプレゼンテーションする為のものである。「状態」化した口が発する「非国民」「殺すぞ」もまた同じである。それらは「民」のナルシシズムを満足させる「鏡」なのだ。その中身はどうでも良い。

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私は新開雑誌方面で、紙は商品にあらずといふことを説いた一人である。単なる商品にあらず、思想戦の弾薬なり、同じことが映画に出て来た。ヒルムは単なる商品にあらずといふことを言ひたいと思ふ。今度はもう一歩行くと絵具は単なる商品にあらずといふこと言ひたいと思ふ。言ふことを聴かないものには配給を禁止してしまふ。又展覧会を許可しなければよい。さうすれば飯の食い上げだから何でも彼でも蹤いて来る。

鈴木庫三(1894〜1964)

 鈴木庫三という人物は「日本思想界の独裁者」ともされた情報局情報官であった。石川達三の小説「風にそよぐ葦」に於いて、「佐々木少佐」という「悪役」の形で戯画化されたその人物の生涯については、中公新書言論統制―情報官・鈴木庫三と教育の国防国家」に詳しい。極貧の生活から刻苦勉励し、日本大学大学院で倫理学を学び、その後東京帝大教育学研究室で教育学を学んだ。

雑誌「みづゑ」434号=1941年1月号の、秋山邦雄少佐、鈴木庫三少佐、黒田千吉郎中尉、批評家の荒木季夫、『みづゑ』編集部の上郡卓による座談会「国防国家と美術 ー画家は何をなすべきかー」中のこの鈴木庫三少佐の言葉は、「戦後70年」の2015年に様々なところで変奏を伴いつつ繰り返し引用された。「戦後70年」は「軍靴の音」が聞こえる「暗い時代」である「戦前」を思い出されるとされ、当時と同じ条件が整っているとも言われた。

しかし「佐々木少佐」の様な判り易い「悪」のキャラクターは、「バブルに浮かれ」ていた「歌舞音曲自粛」の時代には必要では無かった。「軍靴の足音」も「ファシズム」も「右傾化」も必要条件ではなかった。その「圧力」は「民」が「自主」的に向けるものだ。ここに至っては「展覧会を許可しなければよい」ではなく「展覧会を自粛させればよい」(注)のである。「飯の食い上げ」になろうがなるまいが、そんな事は当事者以外にとってはどうでも良い話だ。「自粛」を求める声に「飯の食い上げ」を願う様な主体など存在しない。その「飯の食い上げ」という「懲罰」は、「私刑」によるものですらないものだ。

1988年、昭和天皇重病による「歌舞音曲自肅」の嵐の中、すっかり仕事のなくなったコントグループ3つが仕方ないので集結し、国内外の政治、経済、事件、芸能・・・モロモロの社会情勢を笑いに転換すべく結成したコントグループ『THE NEWSPAPER』(ザ・ニュースペーパー)。

コント集団 THE NEWSPAPER サイト
http://www.t-np.jp/profile/thenewspaperprofile.html

 「歌舞音曲自粛」の時代。各地に昭和天皇の病気平癒を願う記帳所が設けられた。或る日、artscape の「現代美術用語辞典ver.2.0」にも名前が掲載されている「80年代作家」が、皇居前の記帳所に行って記帳して来た旨を銀座のギャラリーで吹聴されていた。周囲にそういう事を行った作家や関係者が全くいなかったので非常に珍しがられた。そしてそれを聞いた時、自分は自分の中の「80年代美術」が「終わった」と感じたのである。

昭和天皇崩御の日から程なくして、テレビは通常放送に戻り、その年の12月29日(大納会)には日経平均3万8915円の最高値を記録した。昭和天皇崩御を挟んで「明るい時代」は続いていた。「自粛」は一旦、日本社会の奥底に封じられたのである。「風」で飛ばされそうな極めて剥がれ易い護符によって。

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2015年、多くの戦争美術関連の展覧会があった。実はその殆どを見ていない。それらが「見るべき展覧会」とされるのであれば、それを未見である事は怠慢として謗られるべきであろうか。そういうのは「非国民」ならぬ「非美術民」と呼ばれるのだろうか。

当然実見していないものを評する事はしない。しかし一つだけ気になるのは、それらの展覧会では、可能性としてあり得るとは言える「その時」がやって来た時に、それらの展覧会に関わっている他ならぬ自分達はどうするのかという展示がされていたかどうかだ。それは或る意味で企画者や参加作家にとって最もリスクを伴うものになるだろう。

先人が「あの時」にどうしたかというのは、確かに戦争美術の一面に対して重要なアプローチではある。「あの時」の道具立てで「あの時」を見せようというのも悪くはない。戦争というものはこういうものであるという絵解きも興味深くはある。しかしそこには70年分の緩衝が働く事で傍観者的な位置が約束されてはいないだろうか。

これから「その時」がやって来て、「美術家」や「美術評論家」や「美術館学芸員」や「美術ジャーナリスト」である為の条件を改めて示された時の、それぞれの心構えは如何なるものになるのだろう。多くの戦争美術の画家は「あの時」に画家であり続ける事を選び、カンバスと絵具を手に入れた。みづゑ座談会に出た美術評論家も美術誌編集者もそれであり続ける事を選んだ。斎藤義重は「あの時」に作品を作る事を止めていたという。

【続く】

(注)1988年に東京で行われる予定だった比較的大規模な現代美術の展覧会は、その展示会場を所有する法人の「歌舞音曲の類の自粛」通達により、開催延期の決定がされた。1988年当時は、私企業を始めとした法人が現代美術を「サポート」する事が「流行って」いた頃でもあったが、それは一方でこの様な事態に対して極めて脆弱な基盤しか持たない事の証左でもあった。
その一方で、現代美術もまた「日本の『社会』」的には「歌舞音曲」の「類(範疇)」にあるのである。そして恐らくこれは21世紀も全く変わるところは無いだろう。

現実のたてる音

承前

現実のたてる音を「聞き」に展覧会に行くというのは、甚だ倒錯的な行為ではある。現実のたてる音ならば、わざわざ展覧会に行かなくても、既にそこかしこに〈現実のたてる音〉として存在しているからだ。

しかし求められなければならない倒錯というものはある。「現実のたてる音」と題された展覧会を「聞き」に行き、そこでようやく現実の〈現実のたてる音〉に注意を払い、それに聞き耳を立てる事が可能になるというのが、人間の能力の極めて平均的な在り方ではあるからだ。多かれ少なかれ、展覧会にはそうした人間の平均的な能力のレベルに対する見極めが何らかの形で組み込まれている。何故ならば、展覧会は未だに優れて/劣って啓蒙の産物ではあるからだ。啓蒙であるからには展覧会は蒙である者の為にこそ存在する。キュレーターの仕事のステージは恐らくそこにしか無い。

但し啓蒙は教化と同一視されるべきではない。展覧会に於ける啓蒙が目指すものは、蒙が啓かれた先を真理として明示的に提示するのではなく、如何に自分達(これにはアーティストやキュレーターも含まれる)が蒙でしかないかを各々に各々の形で自覚化させる、いずれは捨て去らなければならない階梯なのだ。展覧会は決して親切な解答を必要とする人間向きに存在しているものでは無いし――親切な解答を作品中に親切な形で入れ込もうとする作家はいない筈だ――、また互いの答えを突き合わせてそれらを総合させて行く事も無意味だ。百の蒙には百通りの蒙がある。そしてその百の道の先に轍は無い。

全ての〈現実のたてる音〉に対して常にセンシティブであり続けていたら、場合によっては普段の生活に支障を来すかもしれない。だからこそ展覧会という普段の生活とは「異なる」、梯子を立て掛け易い倒錯の場所で、倒錯的な形でそれは顕にされなければならない。

但し倒錯の場所を離れたと同時に、再び〈現実のたてる音〉と疎遠な「使用前」の生活にリセットされるというのも寂しい話ではある。例えば「現実のたてる音」で〈現実のたてる音〉を「聞いた」のであるならば、帰家した後にも――その記憶が鮮明であれば――〈現実のたてる音〉は相対的に大きく聞こえる筈だ。誠実な人間であればあるだけ、余りにもそれが聞こえ過ぎる事で、場合によってはその者の精神を病ませる事になるかもしれない。展覧会を見るというのは原理的にはその様に危険極まり無いものなのである。

危険な場所では決して足元を見てはならない。それは自分が見なければならないと思うもの――自分の足――を見ようとして、その遥か下に広がる遠くを見てしまうからだ。そこで立っている為には、顔を上げて遠くをしっかり見る。そして意識を目で見ていない自分の足の指に集中させる。その時〈現実のたてる音〉は耳で聞かないものになる。

しかし一種の定力的なものによって得られる音の聞き分けの能力もまた蒙である。己が心臓の音が聞こえるというのはほんの入口でしか無い。金の上と、木の上と、灰の上に落ちた灰の音が異なっているという聞き分けは、センサーの感度が上がっただけに過ぎない。

何も無い 音も無い。「現実のたてる音」の英語タイトル “nothing but sounds" を捩って言えば、“nothing nothing"。その最初の “nothing" は “empty" を意味せず、二つ目の “nothing" は “silence" を意味しない。そして二つの “nothing" の間にあるのは “but" でもなければ “so" でもないのだ。

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勅令第八百三十五號

朕金屬類回収令ヲ裁可シ茲ニ之ヲ交付セシム

裕仁

御璽

昭和十六年八月二十九日

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「大東亞戰爭終結ノ詔書」の昭和天皇による朗読録音放送、所謂「玉音放送」によって、殆ど全ての「臣民」は、事実上初めて昭和天皇の肉声を聞いた。その宮中祭祀祝詞に発する独特の節回しや、声のピッチの高さに少なからぬ「臣民」は戸惑いを隠せなかった。「臣民」それぞれの頭の中には、それぞれに「天皇陛下」の「玉音」がイメージされてもいただろうが、その殆どは昭和20年8月15日正午のラジオ放送で初めて流された裕仁天皇の肉声とは大きく隔たっていたに違いない。

御真影」なる天皇の「像」が相対的に広く行き渡っていたのに対し、天皇の「音」は「憚りあり」として長く秘すべきものとされた。しかし想像してもみようではないか。ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ(「マホメット」)、イイスス・ハリストス(「イエス・キリスト」)、ゴータマ・シッダッタ(「釈迦牟尼仏陀」)の肉声録音が残り、それぞれの肉体に「声」が帰せられてしまうかもしれない様な事態を。「声」こそが重要とされる様な世界では、それらの「声」は、それぞれの脳内に預言や経典や勅令といったエクリチュールの音声変換の形式――一種のボコーダー的な――としてあるべきであるが故に、その様な〈現実のたてる音〉(=肉声)は排除されねばならないのである。

脳内で当てられた「玉音」が「朕金屬類回収令ヲ裁可シ茲ニ之ヲ交付セシム」と言う。仮に「朕金屬類回収令ヲ裁可シ茲ニ之ヲ交付セシム」が、昭和天皇の肉声によって読まれ、それが「臣民」に勅令の内容を広く告げるという理由でラジオ放送されていたらどうだっただろうか。そうなった時、逆に京都市山科区の福應寺の梵鐘にも、3つの穴が開けられなくて済んだのかもしれない。

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分厚い「本」が低めの彫刻台の上に置かれていた。「河原町VOXビル新築工事 竣工図」という「表紙」のこの分厚い「本」は、1981年12月時点での「河原町VOXビル」の完成形を表している。それはこのビル建設に関わった数々の人々の仕事のアーカイブでもある。

測量から始まり、床養生を剥がすところまでの工程がそこに詰まっている。建築現場というものに親しい者なら、この青焼きを見て、脳内に〈現実のたてる音〉が再生されもしよう。それは油圧ショベルのバケットがたてる音かもしれないし、結束線ハッカーの回転音かもしれないし、コンクリート打設の音かもしれないし、安全帯を足場に引っ掛ける音かもしれないし、ピータイル接着剤のヘラをコンクリート床に擦り付ける音かもしれないし、マスキングテープを千切る音かもしれないし、通電時に各種機器が上げる唸り音かもしれない。

そして尚も建築現場というものに親しければ、「気まぐれ」という店名のイタリア料理店の窓際の席に座り、そのガラスを固定しているコーキング剤を見て、それがガラスに擦り付けられる音を脳内で再生する者がいるかもしれない。

河原町VOXビル」というアーカイブ。何よりもそこに関わった/関わっている者達のアーカイブ。

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If you ever plan to motor west, 

Travel my way, take the highway that is best.
Get your kicks on Route sixty-six.

“Route 66": Bobby Troup

 

アイスランドのセルフガソリンスタンドチェーン、“Olís" (Olíuverzlun Íslands hf)。そのアイスランド北西部スカガストロント(Skagaströnd)店のストリートビューである。アイスランドでは、ガソリンスタンドが外食に於ける重要な場所の一つだ。“Olís" ガソリンスタンドに併設されている同資本経営のレストラン・チェーンの名称は “Grill 66" である。この名称からも店のロゴのデザインからも明らかな様に、この “66" は1960年代にアメリカでテレビドラマにもなったアメリカの “Route 66" ――世界で最も有名な道と言われたりもされている――から取られている。

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“ROAD MOVIE" と題された “plan to west" なムービー。現実の “HOLLYWOOD" から 6,940km 離れたアイスランドの地で、“CHICAGO" から "LOS ANGELES” までの一つ一つを「訪ね」て行く若者達。

そのムービーには、 "Grill 66" スカガストロント店の店内でブームマイクを振り回して音を拾っている人の姿が「映り込んで」いて、スタッフロールの “Sound" には “Rachel Lin Weaver" の名前もある。しかし彼等の仕事はこの展示空間の空気を震わせてはいない。音のスタッフは、聞かせる事の無い音を懸命に拾って見せている様にも見える。サウンド・ムービーのスタッフというロールを、サイレント・ムービーの中で演じる為に。

サイレント・ムービーであるが故に成立するジャンルに、スラップスティックがある。所作が音との連関性を失った時、その身体が因果の条理から外れた過剰なものに映ってしまうというのは、映画の発明期から感じられていた――歩く姿をフィルムに収めるだけでそれは過剰な所作に見えてしまう――ところのものだろう。「現実のたてる音」に於ける “ROAD MOVIE" は、正に「体を張った演技」で成立しているスラップスティックなのである。所作は音から開放され、その事で音もまた所作から開放される。

その時突然「河原町VOXビル」内に響き渡る楽器の演奏が始まった。何処かで誰かが今夜のステージのリハーサルをしているのだろうか。

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“ROAD MOVIE" の左に続く仮設壁(その真裏に「福應寺梵鐘」がある)に、みっしりと隙間無く埋められている多数のものがある。それはキャンバスに描かれているところから、その一事を以ってその一つ一つを「絵画」として良いだろうか。

しかしこれは「ディスプレイ」と言うよりも「タイリング」の方法論である。「タイリング」という「仕打ち」によって「タイル」にされた「絵画」。「タイル」が埋められたこの壁は、隣の “ROAD MOVIE" のディスプレイが掛かったそれや、他の「白色」のそれとは異なり、ここだけが「黒色」で塗られているところに「仕打ち」の周到が示されているとも言える。

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「陶壁」にも見える「タイリング」から抜かれたものなのだろうか。「陶壁」と “ROAD MOVIE" の間には、 “ROAD MOVIE" の「白色」の壁の上に1枚の「陶板」がインストールされ、再び「絵画」として「復活」しているかの様にも見える。

美術史は「タイリング」によって「物語」(=「説話」)を形成して行く事例を幾つも教えてくれる。パルテノンのフリーズ部に埋められたレリーフは、そうしたものの一例である。凡そ神話や逸話や教義を説話的な形で示す時、「タイリング」という展示のテクニックが用いられたりもする。「タイリング」によって生じる「説話」。そしてそこから弾かれた「絵画」。

1970年代後半から1980年代前半に掛けて、日本の津々浦々の新築ビルで多用された建築意匠である「螺旋階段」を登る。それを登る事で得られた視点から、見落としがちな「陶壁」上部のコンストラクションが見えて来た。

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そして次の「見物」のコンストラクションも。

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先程来からビル内に響いている「今夜のステージのリハーサル」の音は、この隙間から見えるコンクリート打ちっ放しの壁に投影された映像とのシンクロの加減から、その確証は極めてあやふやなものながらも、このデバイスが出力していると結論付けた。

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螺旋階段を上がったところに架けられたその「橋」は、果たして滝壺の様な場所だった。目の高さに映像はあるものの、ここは展望台としては極めて幅が狭い。それは滝の上から観光する事にした。

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ART ZONE" の本体という事になるのであろうか。扉を開けて入るとそこは極めて「騒々しい」部屋だった。

「ああ」と思った。それから同展のフライヤーに書かれていたキュレーター氏の「騒々しい」テキストを読み直してみた。

当然の事ながら、その「騒々しい」テキストには〈現実のたてる音〉が一つも書かれていない。そこにあるのはオノマトペだけである。「ドン」も、「キュルキュル」も、「ぴっ」も、「キュン」も、「ざくっ」も、「どくん」も ......、その全てが21世紀の日本に於ける「擬声語」或いは「擬態語」的な表現だ。

大鏡」には「過去聖霊は蓮台の上にてひよと吠えたまふらむ」とある。少なくとも「大鏡」が編纂された平安時代後期までの犬の鳴き声を表わすオノマトペは「ひよ」だった。彼の時代の日本人には「ワンワン」や “Bow Wow” や “نبح " などとは聞こえなかったのである。我々がこのフライヤーの文章の「ドン」の箇所を読み、「ドン」であるとそれぞれの脳内で解釈し直す〈現実のたてる音〉は、果たして平安時代にはどの様に聞こえていたのであろうかと平安京の地で考える。

長い壁と相対的に短い壁がぶつかる隅に、まるで彫刻の場所の暗さから追い立てられたかの如く複数の「絵画」――明るくなくては生きていけないもの――が固まっている。これもまた1階の「陶壁」で見た「絵画」への「仕打ち」と同じであり、追い立てられなかったものは、柱の厚み分しか無い「壁」や、エレベーターに続くドア付近の壁に「避難」している。この「絵画」の追い立てのオノマトペはどういうものになるだろう。「ジョジョ」の「ドドドドド」や「ゴゴゴゴゴ」になるのだろうか。

この部屋の「絵画」を見て観者が感じるオノマトペは「ズリズリ」であったりもするだろう。金属の塊から21世紀日本の観者が感じるオノマトペは何だろうか。

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壁裏には〈現実のたてる音〉を掻き立て、それを拾ってアンプリファイアーするシステムがあった。音の出処は見に行けない。自宅にはこの様なシステムは置けないから、各自は努力してそこにある石の音を聞く力を養う様にしよう。

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すこしお洒落で、すこしかっこよくて、すこしホッとする。そんな隠れ家的Bar」。良く切れる包丁が水回りの隙間に刺さっているその店内に「糸」が張り巡らされていた。

「隠れ家的Bar」の一番奥にあるシングルコーンの「スピーカー」が、様々な周波数を出力している事が、そのコーン紙の震えによって観察された。そのコーン紙が出力する周波数を、「隠れ家的Bar」の店内に張り巡らされた糸が、光の明滅による「幻影」と合わせて「可視化」している。

そのコーン紙が動く周波数の一つに 1Hz〜2Hz位のものが「ある」様に観察出来た。この周波数はまた、人間の大人の正常時の心拍数である。そして心拍数で思い出されるのは町中の交差点だ。

車のウィンカーの点滅速度、或いは歩行者信号のそれは、その「人間の大人の正常時の心拍数」よりも幾分か速く設計されている。それを見ている者の緊張を促し急がせる為にだ。人間の心拍を引っ張りだした、〈現実のたてる音〉の極めて現実的な運用例と言えよう。やんちゃな人達の乗る車のウィンカーが、メーカー製のそれよりも速めの点滅速度にチューニングされているのも、それを見ている者の緊張度をより上げより不安にさせる為にである。振動としての人間。

会場で配布されているテキストには、ジュゼッペ・ペノーネの言葉として「視覚で理解した形は、触ることで必ず修正される」とある。それに続けて「やってみて欲しいこと」として「糸にそっと触れてみる」ともある。次のセンテンスには「指をそっと近づけてみる」ともある。自分も糸に触れてみた。但し彫刻家であるペノーネが「触ること」に対して想定していただろう手(それは彫刻を生み出す場所でもある)でそれをする事は避けた。センスには、目の専制同様、手の専制というものもあるからだ。だから頬の頬骨辺りでそれに触れるとも無く触れた。触覚は決して手だけのものではない。糸は虫が羽音を立てる様にやって来た。より官能の器官である舌先で触れたらどうだろうかと思ったもののそれは自重した。

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「隠れ家的Bar」を出ると「滝」の上の展望台である。滝をずっと見ていて飽きない人がいるのと同様、この映像をずっと見ていて飽きない人がいる。作品の音は、このビルの中にあっては、滝の音(=〈現実のたてる音〉)と化していた。

配布テキストに「私たちは窓をひとつ増やしました」とある様に、映像の左隣には「本場」ローマから 9,710km 余り離れた――即ちアイスランドの地方都市であるスカガストロントとハリウッド間よりも遥かに遠い、極東の島国の地方都市である京都の――イタリア料理店「伊太利亜飯店 華婦里蝶座」の嵌め殺しの窓があり、そのまた左隣にも緑色の枠を施された同店の窓がある。

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一番左の窓には会計カウンターが見え、真中の窓の右奥には厨房がある。同店のウェイター氏は左の窓から真中の窓へと移り、そのまま窓の右端に消えると、再び料理を持って左側の窓の人になる。そしてまた右側の窓に食器を下げに行き、それから左側の窓に舞い戻って客の会計の相手をする。それが終わると右の窓の厨房に入る。自分はそこで、そのまま投影された映像の中に氏が登場する様な錯覚を覚えたりもした。

この「滝」は「伊太利亜飯店 華婦里蝶座」の店内から見るのが良かったのかもしれない。「伊太利亜飯店 華婦里蝶座」の窓という「滝」の裏(「ウォータースクリーン」の裏)から他の「滝」を眺め、滝壺や展望台から覗いている人達を観察するというのは中々に乙なものであろう。そしてその背後では、それ自体を映像作品にしたくなってしまう様な、行ったり来たりを延々とし続けているウェイター氏がいるのである。アイスランドの “Grill 66" の “TULSA" “GARDNER" “FONTANA" よりも遥かに洗練されている様な印象を受ける、“ENALC Hotel School" 仕込みの本多征昭氏「直伝」のピザを次々に注文し、「伊太利亜飯店 華婦里蝶座」のウェイター氏の、その勤務時間に於ける氏の全てを見届けるというのも一興ではあろう。

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現実の滝のウォータースクリーンの背後に岩盤が見え隠れする様に、投影された映像もその背後の「打ちっ放しのコンクリート壁」を見せている。そこは展望台であるから椅子は無い。16時間を立つかしゃがむか。

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滝の展望台から階段で屋上に向かう。ここから先は、通常「河原町VOXビル」が「関係者」以外には立ち入らせたくない場所だ。その「バックヤード」が「期間限定」で公開されていた。階段を折れ、階段を折れ、或る人にとってはとても重要で、或る人にとってはさして重要ではないものが次々と目に入る。

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河原町VOXビル」の屋上に到着する。「投身自殺のメッカ」にはなり得なさそうな凡庸な屋上である。風に乗って「これはわたしのちではありません」が流れて来る。

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小屋。SPF材が剥き出しのその作りは極めて内装的だ。これを作った人は、このオープンエアにあって、明らかに何よりも先ず内側を仕上げる事を目標にしている。シェルに囲まれていなければ成立しないものを、摘出された内臓の様に露天に置く。現実の内臓がたてる音(空腹音等)が外に聞こえる場合もある様に、この「内臓」からも音が聞こえている。或いはこれもまた一種の位相反転的な「宇宙の缶詰」なのであろうか。

「内蔵」に入る(その「内臓」の中では、最終日にポルノ映画が流れ、人々が寝ていた)。「引込線2015」で見た映像が流れていた。投影されるのは表面処理をされていないベニヤ板。映像の中に目を射抜く投影光を返すコーススレッドの点。ループするショットとショットの間にベニヤ板は現れ、映像が現れるとそれは消える。「引込線2015」とは異なり、ここにも椅子は無い。10分余りを立つかしゃがむか。

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「これはわたしの血ではありません」。その時、果実から作られたものを指して「これはわたしの血である」と決然と言った――その録音は残っていない――とされる人物がいた事を思い出した。その人は穀物で作られたものを指して「これはわたしの体である」と言った――その録音は残っていない――ともされている。「わたし」の「血」を飲みなさい。「わたし」の「体」を食べなさい。『内蔵』に入れるのは葡萄酒でもパンでもないものだ。

こうして自分の中で最初の部屋の “ROAD MOVIE" にループするのである。

「内臓に入れよ」「内臓に入れよ」「内臓に入れよ」「内臓に入れよ」「内臓に入れよ」「内臓に入れよ」「内臓に入れよ」「内臓に入れよ」「内臓に入れよ」「内臓に入れよ」「内臓に入れよ」「内臓に入れよ」「内臓に入れよ」「内臓に入れよ」「内臓に入れよ」「内臓に入れよ」「内臓に入れよ」「内臓に入れよ」「内臓に入れよ」「内臓に入れよ」「内臓に入れよ」「内臓に入れよ」「内臓に入れよ」「内臓に入れよ」「内臓に入れよ」「内臓に入れよ」「内臓に入れよ」「内臓に入れよ」「内臓に入れよ」「内臓に入れよ」「内臓に入れよ」「内臓に入れよ」「内臓に入れよ」「内臓に入れよ」「内臓に入れよ」「内臓に入れよ」。

録音可能な「音」ではない「声」がそれを言う。「これはわたしの血である」が発せられた建物の外を彷徨く犬の声は、2,000年前のエルサレムの人々にはどの様に聞こえていたのだろうか。

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「現実のたてる音」展の作品は、数々の「仕打ち」(キュレーションとも言う)によって常に何かを「剥奪」されていた。これらの作品が「美術館」で展示される事があれば、映像作品はコンクリート壁やベニヤ板に直接投影させられたりはしないだろう。そして映像作品を鑑賞する観客には椅子が必ず与えられる。絵画作品は一点一点の間を程良い形で離され、白い壁の上に目の高さで掛けられたに違いない。一つの部屋の中に、極めて明るい場所と極めて暗い場所を同時に作るという事がされる事は無い。作品の大まかな解釈に関係が無いと思われる要素は極力排除され、作品は常に表舞台に上げられる。作品は十全な形で公開されるべきであるという「原則」がそこにはある。

「現実のたてる音」という展覧会は、こうした「原則」の逆を行く数々の「反則」で成立している様に思えた。しかし「現実」は「反則」(「原則」的ではないもの)としてしか存在しない。「気まぐれな天気」というものは原理上あり得ないのである。

「反則」を排除する事で「原則」的に成立するのが「美術」というフォーマルであるとすれば、当然逆説的にこの「反則」だらけの展覧会は極めてフォーマリスティックである。何故ならばそれはフォーマルの存在を言及的に認めているという点でフォーマリスティックであり、その上でその崩れによって〈現実のたてる音〉を見せるという話法に徹頭徹尾則っているからだ。

しかし繰り返すが、「原則」が「現実」に見えている我々が〈現実のたてる音〉を意識化する為の、それは「求められなければならない倒錯」というものなのである。

【了】

パレ・ド・キョート

承前

イベントについて

 

VOXビル全体を使って、展覧会最終日である11月23日、深夜0時から夕方まで同時多発的に複数の出来事が発生する。それはフランスにある美術館パレ・ド・トーキョーの一時的なインストールになると思うので、タイトルを「パレ・ド・キョート」とする。

 

「現実のたてる音/PALAIS DE KYOTO」公式サイト
http://palaisdekyoto.jp/

 

「パレ・ド・キョート」が「抜け目の無い」タイトルである事は確かだ。それはフランス映画 “Emmanuelle(邦題「エマニエル夫人」)"に対する日活なりの「インストール」である「東京エマニエル夫人」の様にも、“The Beatles" に対する木倉プロなりの「インストール」である「東京ビートルズ」の様にも、アメリカ映画 “The Kentucky Fried Movie(邦題「ケンタッキー・フライド・ムービー」)”に対する赤塚不二夫なりの「インストール」である「下落合焼とりムービー」の様にも「抜け目が無い」。

「東京エマニエル夫人」配給の日活による同映画の解説、「ただし、西洋人と日本人の性意識の相異等の視点からも描き、本家『エマニエル夫人』以上に内容の濃度を強め、よりファンタジックにエロスの世界を展開していく意欲作!!」といった、「本家」を(括弧付きではあっても)「本家」として認め、それに対して言及的な形で存在しているという共通性と同時に、"Tokyo" =「東京」(第一次世界大戦戦勝国である「日本」を象徴するものとしての「東京」。即ちそれは「奠都」から半世紀=1918年にして最早「京都」ではない)への地域的対抗感情が極めて簡単なアナグラムとして仕掛けられている事も否応無く感じられるタイトルである。

果たして同イベントが「パレ・ド・キョート」というタイトルで無かったら――例えばそれこそ「現実のたてる音」というタイトルであったとしたら――、果たしてそれは「パレ・ド・キョート」とは些かなりとも違ったものとして認識されたのであろうか。それとも全く変わらずであったのだろうか。

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いずれにせよ「パレ・ド・トーキョー」と「パレ・ド・キョート」両者の間には大きな差異がある。それは「エマニエル夫人」と「京都エマニエル夫人」、又は「世界」の「中心」の一つであるヨーロッパ/フランスの首都(「国際社会」を揺るがすテロの格好の標的にすらなってしまう)と「世界」の「辺境」の東アジア/日本の地方都市(「国際社会」的には極めて無視し得る対象であるが故に平和な町)、或いは「官」(或いは「官」が主体)と「民」というレベル以上に感じられるのは、前者が「美術」の展示に特化した天井の高い「美術館」である一方で、後者が飲食店が主体になっている、ゲームのダンジョンタワーの如き「商業ビル」(そのテナントの一つとしてしか「美術」が存在していない)である事であろう。

今回の「パレ・ド・キョート」なるイベントを、全体として成功したものであるとした上で言うならば、その成功の鍵の一つはそれが行われた場所が「ARTZONE」をはみ出して(当然「パレ・ド・トーキョー」でもなく)「河原町VOXビル」(=「商業ビル」)全体を使って行われた事にある様に思える。それは同イベントの「双子」の片割れである「展覧会」=「現実のたてる音」にも当て嵌まるものだ。仮に「パレ・ド・キョート」が(何かの間違いで)「京都市美術館」(それは性格的な意味で「本家」である「パレ・ド・トーキョー」と近似した空間である)で行われた事を想像してみれば判る。

ここで「河原町VOXビル」という建物を「御浚い」してみる。

会社名 株式会社 鹿六
本社所在地 〒604-8031 京都市中京区河原町通三条下ル大黒町44 河原町VOX
TEL(075)255-0081 FAX(075)255-1592
代表社名 代表取締役 小谷 賢
設立年月日 昭和38年2月1日
資本金 1,000万円
主な事業河原町VOX」(商業ビル)を中心に、学生の街京都を代表する若者たちへ、健全な若者の生活文化を「衣」「食」「住」「遊」を提供する多角化事業の運営。
MEDIA SHOP
和・洋書籍、レコード、CD、ポスター、カード、雑貨などの小売りおよび卸売り。
■SCALE
輸入家具・雑貨
カプリチョーザ河原町VOX店
カプリチョーザ河原町OPA店
イタリアン・レストランの運営。
■DEN-EN
ビア・パブの運営
■PARTY SPACE
パーティースペースの運営
■SEAGULL,SEAGULL jr,ALPHA,DENVER
グレージング、パブの運営
■VOX HALL
ライブハウス、スタジオの運営
従業員数 126名(正社員16名、契約社員7名、アルバイトクルー110名)
主な取引銀行 京都中央信用金庫本店、池田銀行京都支店

VOX「会社概要」
http://vox.co.jp/?page_id=39

 鹿六(株)による「学生の街京都を代表する若者たちへ、健全な若者の生活文化を「衣」「食」「住」「遊」を提供する多角化事業原文ママ)」というコンセプトの賜物が「河原町VOXビル」という「商業ビル」である。この文章中の「健全な若者」という語が、恐らく「現実のたてる音/パレ・ド・キョート」というイベントの性格の一部を表している様に思える。ここには「悪辣な人物」は恐らく一人もいない。

 

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11月23日(祝)0時から始まった「パレ・ド・キョート」。22日の昼間の動物園詰め、及び行き帰りの大渋滞の疲れが出た為に22時から仮眠を取った後、午前2時(本来は23時に起床する予定であった)に自転車で出発し、午前3時過ぎに河原町三条に到着した。とは言え、すぐさま「河原町VOXビル」の人にはならなかった。それではこの時間にここまで自転車で来た甲斐が無さ過ぎる。夜中の町程面白いものは無いからだ。

そのまま木屋町通まで自転車で行き、それから三条通へ出て再び河原町通。それから再度「河原町VOXビル」の前を通り過ぎ、また木屋町通という左回りの旋回を、時速3キロ程度の自転車で30分程繰り返していた。その円環の6時方向にある「河原町VOXビル」の中からは大音量の楽器の音が聞こえて来る。しかしそれも十数メートルも離れれば聞こえなくなる。

木屋町通から三条通に掛けては様々な人がいた。白い肌の人がいた。黒い肌の人もいた。黄色い肌の人は勿論日本人ばかりではないだろう。それらの人の年齢構成もまた様々だ。様々な人が様々な事を様々な言語で様々なレイヤーで語っている。「善人そう」な人もいるし「悪人そう」な人もいる。木屋町通のそれぞれの店からは、それぞれの大音量が聞こえ、それぞれに「楽しそう」な人達が出入りしている。「同時」の「多発」。しかし「同時」の「多発」こそが世界の真理の一面というものではあるだろう。その「楽しそう」な多様な人の集まる店の一つにふらふらと入りかけたものの、流石にそれは自重した。

逍遥をしながら、この日の昼間の動物園(滞在時間「たったの」3時間)の事を思い出していた。動物園もまた「同時多発」である。動物園に於ける「演者」であるライオンは吠え続け、アジアゾウは泥浴びをし、アカゲザルは子供が猿山に落とした靴を舐め回し、カイウサギやヤギは子供に撫で回される。その一方で「檻」の外の幼児はベビーカーで眠りこけ、黒い肌の人達はセルフィーをし、来園者が食べたうどんや焼きそばやフライドポテトの残骸を求めに飼われていない鳩が付近をウロウロ徘徊する。動物園というものは全く以って「同時」に「多発」ではある。しかしここで見る事の出来る「多発」は、それぞれの「演者(動物)」相互の隔離、そして「演者」と「来園者」相互の隔離によって多くが生じているとも言える。ライオンの檻を外し、アジアゾウの檻を外し、アカゲザルの進入路を開け、カイウサギやヤギの柵を外して園内を全く一つの空間にしてしまい、そこに剥き出しの「来園者」が入れば「同時多発」なるものの様相はそれまでとは全く異なったものになるだろう。

自転車による逍遥を終えて「河原町VOXビル」に入る。予想通り「パレ・ド・キョート」では、この日のこのビル内にいる人達の平均年齢の倍以上の人になってしまった。ここで出されている音などに合わせて「今風」に(無理して)ノッてみたりすれば、それは傍からは「イタいジジイ」にしか見えないし、その一方でここで「ALWAYS 三丁目の夕日」よりも前に生まれた自分の身体に忠実な体の動きを(無理して)表出したらしたで、それはやはり「イタいジジイ」にしか見えない。どれもこれもが何処かで自分に対して「無理強い」である。だから会場では微笑だけをして、おくれ蝉の声を聞いていた。自分の人生の夏の時期(1970年代)にはこうした蝉の声をしばしば聞いていた事を思い出しながら。

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朝食を作りに帰る関係上(そして24時間スーパーで朝食の食材を買って帰る関係上)、「パレ・ド・キョート」には1時間程度しかいなかった。再度ここに訪れる予定は無い。逍遥をしなければ1時間半という事にはなるものの、この日の夜中の逍遥はしたかった事の一つだった。

自分が「パレ・ド・キョート」の一時間で見たものは、「本番」に向けてスタンバイする「飼われている鳩」と、「川俣正」と現象的な照合をされ勝ちな何かと、寝る人と、寝る人と、数百キロメートルの移動に適した形にトランスフォームした「多和圭三」と、ビルの外まで聞こえる大音量のソースである楽隊と、ごついプリマと、440Hz であり続ける人と、ortofon 等が据え付けられた Technics の複数ターンテーブルと、リクリット・ティラバーニャを思い出してしまったりする人もいるだろう何かと、屋上の小屋――そこには1970年代に自分が東京・調布の多摩川沿いの日活や大映のスタジオの「周り」で「遊んで」いた事を思い出させる映像が流れていた――の中の寝る人等であった。

「パレ・ド・キョート」の17時間では色々な事があったらしい。

「パレ・ド・キョート/現実のたてる音」togetter
http://togetter.com/li/904795

この togetter で様々な人から報告されている17時間分の「プログラム」の殆どを、「たったの」1時間の人間(しかも一処に平均数分ずつしかいなかった)である自分は見逃している。従って「プログラム」単位で、あれが面白かった、これが面白かったという事を書く資格が無いと言われればその通りとしか言い様が無い。3,000円也(午前3時段階での「現実のたてる音」分を引いた価格)を払って見たものは、それぞれに断片であったり、準備中であったり、そもそも行われていなかったりで、その断片や準備中を以って何かを言う事しか出来ない。1時間よりも2時間、2時間よりも7時間、7時間よりも17時間の方が定量的に「勝っている」というのなら、そうした見方に異を唱えるつもりは無い。

現場で一瞥=一時間瞥をして、それから「若い人」達(40歳未満を「若い人」とする)のリポートの数々をツイッターで間欠的に追い、また togetter を見る限りでの「パレ・ド・キョート」の印象は「楽しい」だった。

「楽しい」は全く悪い事ではない。但しその「楽しい」を体験した者が、ここに来ていなかった誰かに「楽しい」の何かを何らかの形で手渡して、初めてその者の「楽しい」は完成する。「回転する LED を見ました」「鳩が飛んだところを見ました」「屋上で金属を鳴らしました」、そしてまた「楽しみました」「記憶に残りました」で自己完結し、そのまま墓場に持ち込んではならないのだ。

ここに来た「若い人」が、数十年後に腰の曲がったジジイやババアになった時、傍らの童子にその「パレ・ド・キョート」の「楽しい」を手渡し、その童子もまたその「楽しい」を自らの「楽しい」として共有する事が出来るか否か。単なる年寄りの思い出話ではなく、それが上手い形で手渡されれば、今度はその童子がジジイやババアになった時に、傍らの童子にその「楽しい」を手渡せるだろう。「楽しい」の手渡し。それは「パレ・ド・キョート」の「楽しい」を体験した者全員に科せられた、飽くなき手渡しの技術開発を伴う責務なのである。

全く以って「入鄽垂手」ではないか。さても、あの夜見た事をこのジジイは子供にどう話したら良いものか。

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【続く】

現実のたてる音/パレ・ド・キョート「序」

【長過ぎる枕】

尋牛序一

從來不失 何用追尋    
由背覺以成疎 在向塵而遂失 
家山漸遠 岐路俄差   
得失熾然 是非鋒起

I Looking for the Cow

She has never gone astray, so what is the use of searching her? We are not on intimate terms with her, because we have contrived against our inmost nature. She is lost, for we have ourselves been led out of the way through the deluding senses. The home is growing farther away, and byways and crossways are ever confusing. Desire for gain and fear of loss burn like fire, ideas of right and wrong shoot up like a phalanx.

第一に牛を探す まえがき

 はじめから見失っていないのに、どうして探し求める必要があろう。覚めている目をそらせるから、そこにへだてが生じるので、塵埃に立ち向かっているうちに(牛を)見失ってしまうのだ。故郷はますます遠ざかって、わかれみちでたちまち行きちがう。得ると失うとの分別が、火のように燃えあがり、是非の思いが、鋒のほさきのようにするどく起こる。


返本還源序九

本来清浄 不受一塵
觀有相之榮枯 處無為之凝寂
不同幻化 豈假修治
水緑山青 坐觀成敗

IX Returning to the Origin, Back to the Source

From the very beginning, pure and immaculate, he has never been affected by defilement. He calmly watches growth and decay of things with form, while himself abiding in the immovable serenity of non-assertion. When he does not identify himself with magic-like transformations, what has he to do with artificialities of self-discipline? The water flows blue, the mountain towers green. Sitting alone, he observes things undergoing changes.

第九にはじめに帰り源にたち還る

 はじめから清らかで、塵ひとつ受けつけぬ。仮りの世の栄枯を観察しつつ、無為(涅槃)という、寂まりかえった境地にいる。空虚な幻花とは違うのだ、どうしてとりつくろう必要があろう。川の水は緑をたたえ、山の姿はいよいよ青く、居ながらにして、万物の成功と失敗が観察される。

廓庵師遠/慈遠「十牛図」(英訳:鈴木大拙/現代日本語訳:柳田聖山)

 

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伝 周文作:相国寺

 

平櫛田中の代表作とされるものの一つに「尋牛」がある。岡倉天心(覚三)を会頭とし、平櫛田中、米原空海、山崎朝雲、加藤景雲、滝沢天友、森鳳声の6名が、1907年(明治40年)10月に結成した木彫研究団体「日本彫刻会」の第5回展に出品された高さ50センチに満たない小品である。

「日本彫刻会第5回展」が行われた1913年(大正2年)9月には、その「日本彫刻会」の会頭であった岡倉天心が死去している(1913年9月2日)。同作に伝えられるエピソードとして、その原型――田中の「彫刻」は、まず塑像原型を作り、それを石膏型に起こした後に、星取法で木材に写して木彫とする――を見た天心がそれを高く評価し、「フランスの若い彫刻家に見せたい」と言ったとも伝えられている。井原市立田中美術館の作品解説に拠れば、田中は「尋牛」をテーマとした事について「何年も彫刻を業としているが、いまだに真の彫刻が分からない私自身の姿だ」と言ったともされている。

言うまでも無くこの「尋牛」は、中国宋代の臨済宗楊岐派の禅僧・廓庵師遠とその弟子の慈遠によって書かれた禅籍である「十牛図」に由来している。日本で「十牛図」と呼ばれているものは、例えば「未牧」 「初調」 「受制」 「迴首」 「馴伏」 「無礙」「任運」「相忘」 「獨照」 「雙泯」から成る太白山普明禅師の「牧牛図頌」等のそれではなく、この臨済宗楊岐派の廓庵和尚/慈遠和尚によるものを指している。こうした廓庵による「十牛図」の事実上の標準化は、数ある「仏教国」の中でも極めて例外的であり、その一事を以ってのみ「外国文化」である仏教受容史的な側面も含め「日本特有」である。

「十牛図」は “Ten Bulls(Der Ochse und sein Hirte)" として「西洋」社会にも知られてはいるものの、その「作者」が中国語読みの “Kuòān Shīyuǎn” ではなく “Kaku-an" という日本語読みで通っているのは、偏に鈴木大拙氏等の日本人の翻訳紹介によるものである。事実上「日本特有」が「世界標準」になったのである。

この「日本特有」の廓庵/慈遠「十牛図」の受容のされ方は、そのまま「日本特有」の――少なくとも或る時代までの――精神的バックボーンの一部を形成してはいるだろう。嘗ての日本の知識人の知的常識/素養として――「寺」という機関に代表される「仏の教え」が、永く日本に於ける精神形成装置の重要な一つであったが故に――漢籍や仏典は位置していた。

当然「古来」的な日本人である平櫛田中の頭の中には「十牛図」の「説話」の全てが入っていただろうし、同様に現代日本人に比すれば相対的に漢籍や仏典に親しかった岡倉天心もまた、「尋牛」のタイトルを以ってその全体を想像した事であろう。両者ともそうした「教養」の中にあったのである。

小平市平櫛田中彫刻美術館の「音声解説」では事実上「十牛図」全十図の内の第六の境位である「騎牛帰家」までしか触れられてはいない。そこでは「この作品には肝心の牛の姿はありませんし、山も草も表現されてはいません。けれどもその分、わたしたちが造像力を働かす事によって、作品の世界は無限に広がって行きます。皆さんも是非その様に鑑賞してみて下さい」としているが、そもそもが「十牛図」に於ける「尋牛」が、「牛」を彫刻的な形で表す事の不可能な境位――谷岡ヤスジ氏の「尋牛」の様な次元を跨いだ表現も彫刻には不可能――である事は、田中にしても天心にしても「常識」であった事だろう。

「十牛図」は「自己実現」の書であるとも言われる。「牛」に見立てられているのが「真の自己」、それを探し求める「牧人」が「真の自己とは何であるかという問い」であるとも言われる。但しその「真の自己」は、巷間言われるところの所謂「自分探し」に於ける「本当の自分」を(直ちに)意味するものではない。

「十牛図」に於いて「真の自己」を表しているのは、「牛」と「牧人」が共に画面から消えた第八「人牛倶忘」、第九「返本還源」、第十「入鄽垂手」の三つの境位になる。即ちここでの「真の自己」とは、何も描かれないもの、川のほとりの花の咲いた木、老人が童子に話して聞かせる事の三態になる。「何者かになる事/何者かであろうとする事」を目指す現代の多くの――通勤電車の戸袋で広告している様な――「自分探し」では、こうしたものを「本当の自分」とする事はまず無いだろう。

「十牛図」が三次元表現される場合、伝統的には第六「騎牛帰家」、即ち(人から見て)牛の背中に乗って笛を吹きながら/(牛から見て)笛を吹く人を背中に乗せながら、元いた場所へ帰る姿を表現する事が多い。それを「彫刻」に当て嵌めれば、「彫刻家であろうとする事」と「彫刻の何たるか」が一体となった様という事にはなるが、田中はそれを避けて「彫刻の何たるか」を探し求める最初の段階である「尋牛」に留まり続ける。

況してや「彫刻の何たるか」を消す(第七「到家忘牛」)事も、「彫刻家であろうとする事」と「彫刻の何たるか」の双方を消す(第八「人牛倶忘」)事も、「彫刻家であろうとする事」と「彫刻の何たるか」を消す事でその「背後」の「現実」が顕現する(第九「返本還源」)事も、手をぶらりとさせて何もせずに子供と話す(第十「入鄽垂手」)事も、田中は自らの姿としては表現し得なかった。それは偏に田中が近代に「目覚め」させられた「彫刻家であろうとする」病に罹患した者だったからであり、また凡そ近代以降の芸術家の多くが「芸術家であろうとする」者であるとすれば、「芸術家であろうとする事」と「芸術の何たるか」を共に消し去らない境位に留まらねばならない。何故ならば、近代以降の芸術家というのは「芸術家であろうとする事」と「芸術の何たるか」の分裂から生じる緊張状態に留まり続ける事を制作の原動力とする遅延(「いまだに真の彫刻が分からない」)の別名だからだ。

それに対して観者は「芸術」に属さない者であるが故に「芸術の観客であろうとする事」から自由になれる可能性を持つ。また「芸術の何たるか」からも自由になれる可能性も持つ。従って「芸術家であろうとする」者の「先」を行く事も可能だ。但しそれは何らかの形で「芸術」を経た上での話ではある。芸術展に行って――多かれ少なかれ何らかの形で「芸術の何たるか」を追い求めに行き(「尋牛」)――そこで「芸術の何たるか」の「跡」や「姿」を「対象」として発見する(「見跡」「見牛」)も、「芸術の何たるか」を自分のものにしようと悪戦苦闘する(「得牛」)も、「芸術の何たるか」を己のものとしたと感ずる(「牧牛」)も、「芸術の何たるか」と己が一如となったと思い込んで家路に就く(「騎牛帰家」)も良しである。しかしその一方で、芸術展で「芸術の何たるか」や「芸術の観客であろうとする事」を敢えて消し去る(「到家忘牛」「人牛倶忘」)も、「現実」の中に「芸術の何たるか」がそのまま存している事を見る(「返本還源」)も、傍らの子供とずっと話している(「人牛倶忘」)も良しなのである。

「現実のたてる音」という芸術展のタイトルを目にして頭に思い浮かべたのは、「十牛図」に出て来る数々の音である。例えば「尋牛」の「頌」に登場する音は「晚蟬吟(秋のおくれ蝉の声)」である。

頌曰
 茫茫撥草去追尋 水闊山遙路更深
 力盡神疲無處覔 但聞楓樹晚蟬吟

Alone in the wilderness, lost in the jungle, he is searching, searching!
The swelling waters, far-away mountains, and unending path;
Exhausted and in despair, he knows not where to go,
He only hears the evening cicadas singing in the maple-woods.

頌って言う
 あてもなく草を分けて探してゆくと、川は広く山は遥かで、ゆくてはまだまだ遠い。
 すっかり疲れ果てて、牛の見当もつかぬようになって、あやしい楓の枝で鳴く、秋のおくれ蝉の声が、耳に入ってくるばかり。

(英訳:鈴木大拙/現代日本語訳:柳田聖山)

 

あのマルティン・ハイデガーは、ドイツ語訳された「十牛図」に関心を示し、特に第九「返本還源」がアンゲルス・シレジウスの詩を彷彿させるとしている。

Die Rose ist ohne Warum. 

Sie blühet, weil sie blühet.
Sie achtet nicht ihrer selbst,
fragt nicht, ob man sie siehet.

薔薇は何故無しに有る、
それは咲くが故に咲く。
それは自分自身に気を留めないし、
ひとが自分をみてゐるか否かと、問ひはしない。

Angelus Silesius “Der cherubinische Wandersmann"
アンゲルス・シレジウス「ケルビンの如き遍歴者」(辻村公一訳)

 

「現実のたてる音」展へは、秋のおくれ蝉の声を聞く様に聞きに行こうと思った。秋のおくれ蝉は何故無しに鳴く。秋のおくれ蝉は鳴くが故に鳴く。それは自分自身に気を留めないし、ひとが自分をみてゐるか否かと、問ひはしない。

「パレ・ド・キョート」イベントもまた、秋のおくれ蝉の声の様にも秋の虫の音の様にも、或いは降り続く雪の音の様にも騒がしいものかもしれない。しかしその複雑な騒がしさは、虹色に回折する静けさに通じるのだろう。

念為だが、これは「芸術家であろうとする」者の話ではない。翻って「芸術に勤しもうとする」者の話でもないのである。

 【長過ぎる序了】

 

 【続く

躱す

馬鹿もほどほど いい加減にしろよ

オケが終っても歌っています
あること無いことはじからポイポイ
口先だけでゴロだけ合わせ
あたしゃ歌手です いい加減にしろよ......
お風呂の加減はいかがです?
いい加減です

 

所ジョージ「いい加減にしろよ」

 

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展示室に入ると早速「躱す」をされてしまった。会場である CAS の展覧会情報に掲載されている椎原保氏や谷中佑輔氏の作品のイメージを抱えて行くと、果たしてそこにあったのは(取り敢えず現象的には)それらとは全く異なるものであった。全く以って「躱す」である。

但しその当該ページには、それぞれの作家が「躱す」事が予め書かれてはいる。

谷中は自身の身体と自らがつくりだす彫刻とに向き合い、よじ登り、食べ、叫ぶ。 他方、椎原は、丹平写真倶楽部のメンバーであった父・椎原治(1905-1974)と向き合う。 亡き父が残した散逸しつつある資料の整理と、自身の日常との重なりのなかで、向き合う。

CAS は「CAS」と「CAS Annex」で構成されているらしい。本展は入口入ってすぐの「本館」が谷中佑輔氏のエリア、左に折れた「別館」が椎原保氏のエリアになっている。

極めて大雑把な上っ面で言えば、「本館」は粘土の部屋であり、「別館」は写真の部屋である。昇降機の無いこのビルの3階のギャラリーに1トンの粘土を運んだという事が、この展覧会に興味のある人間の間では話題になっていたりもする。

果たして1トンの粘土で何が作れるだろうか。横綱白鵬の実物大原型ならぎりぎり6体は作れる。しかし換言すればたったの6体しか作れないとも言える。現役時代の六代目小錦八十吉(最高位東大関)ならば、4体を作る事は出来ない。アパマンショップの店頭に設置されている青い小さな象=「住む象くん」の原型を、1トン程度の粘土で作れるかどうかは極めて怪しい(以上それらを「無垢」で作るという前提に於いて)。

「1トンの粘土」に親しんだ事の無い人間は、「1トンの粘土」という字面を前にして「ええええっ! 1トンも!!!」となるであろうし、その一方で粘土まみれの人生を送っている人間なら「ああ、1トンぽっちか」と思ってしまう物理量である。「1トン」という数字は「多」と「少」のダブル・ミーニングを有している。因みに自分は後者の側にいる。

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粘土と写真(機材)というのは、極めて妖しい誘惑を放つものだ。全くそれらは「うずうず」させられるメディアなのである。
 
人は粘土の前に立つと何かを作らねばならない気にさせられてしまう(これは幼児期から特に教えた訳でもないのにそうなる)。「創世記第二章」には「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった(ז וַיִּיצֶר יְהוָה אֱלֹהִים אֶת-הָאָדָם, עָפָר מִן-הָאֲדָמָה, וַיִּפַּח בְּאַפָּיו, נִשְׁמַת חַיִּים; וַיְהִי הָאָדָם, לְנֶפֶשׁ חַיָּה.)」とあるが、その人は「土のちり」に水を含ませた粘土的な土で出来ているのかもしれない――神にとってはそれが最も造形し易い。アダム(אָדָם)という名もまた「土」と「人」のダブル・ミーニングである。何だろうか。かたどり(形象)へと誘惑する粘土の放つこの人類史的な妖しさは。であればこそ、少なからぬ芸術家は、その妖しい「うずうず」から何とか距離を取ろう(躱そう)と悪戦苦闘するのである。
 
カメラもそうだ。カメラを渡されれば何かを写して残さねばならない気にさせられる(幼児にスマートフォンを渡せば、すぐさまカメラアプリでホームボタンを押し、その結果を確かめる)。何だろうか。かたどり(形・撮)へと誘惑するカメラの放つこの妖しさは。であればこそ、少なからぬ芸術家は、その妖しい「うずうず」から何とか距離を取ろう(躱そう)と悪戦苦闘するのである。
 
「いたずらに殺気を帯び凄気を浮かべ(「受難の村正」柴田南玉:「講談全集」大日本雄弁会講談社:1928-29)」ているが故に「斬る」という思念(邪念)を吸い、それを持てば人を斬らずにはいられなくなる刀を「妖刀」と称したりもするが、「妖かし」という点では粘土もカメラも「妖刀」と違わぬ、「作る/撮る」という思念(邪念)を吸って人を狂わせるマテリアル/メディアなのである。「躱す」展の「鑑賞」ポイントの一つは、芸術家のこれら「妖かし」への抗いであろう。

「形」の誘惑から逃れようとする粘土がある。しかし何をどうやってもそれは「形」になってしまう。1歳児位しかそこからスマートに逃れる術は知らない。身体を持たない筈の神(即ち神に於いては彫刻は身体性と関わりが無い)ですら「形」の誘惑を逃れられない。彫刻という邪念を振り払うにはどうすれば良いのか。粘土に於けるこの会期は一種の「修行」を見せるものである。そして確かに「修行」は「形」を見せるものではない。結跏趺坐(例)は外から鑑賞する為の「形」ではない。

本展の会期中、粘土には様々な意味の不純物が混ぜられる。極めて現実的に言って「形」を作る為の造形材料の扱いとしてはかなり乱暴に思えたりもする。それは水彩画家が絵を描きながら、そのパレットに唾を吐き続ける様なものかもしれない。そして唾を混ぜた絵具を、紙に移して行くという因業は止む事は無い。水彩画家はまずは「描かねばならない人」なのだ。粘土に於いても同断である。

しかし粘土は水彩絵具とは異なる。通常の場合、型取りまでの中間項でしかない粘土には再生の儀式がある。会期中に1トンの内の数キログラムは「乾燥」という形で失われて行く。粘土に対して特別の関心が無い者ならそのままにしておいても全く平気だが、粘土に人生の首根っこを掴まれた者は、そのカチカチになってしまった粘土に水を含ませ、粘土練り機に通す事を殆ど反射的にしてしまう。何故ならばカチカチの状態では「形」を作るのに不適だからだ。全く以って因業な話ではないか。そしてその因業がまるまる会場で見られるのである。

そうした因業は、壁の十字やモーター仕込のものからも現れる。乾燥によってひび割れた粘土の奥から、その「形」を保持する為の角材(粘土彫刻の極めて悲しき内骨格)が見え始めて来てしまうのだ。そしてその因業をまるまる受け入れつつ、この「修行」は行われ続ける。

全能の神ならば、「形」と「粘土」との間にある関係に決着を付ける為に、「呪われし粘土よ 地上から去れ」と言いつつ、地上から全ての「造形」に適した粘土を瞬時に消し去ってしまう(或いは全ての粘土を業火によって「焼き物」にしてしまう)かもしれない。この地上から一切の粘土が無くなれば、或る種の彫刻はそこで全て終わるからだ。しかし因業にこそ生きる全能ならぬ人間は、「造形」に「使える」粘土を、再度「造形」に「使える」様にと、粘土を練る事でそれを細々と再生する道を採ったのである。

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「別館」にあるのは、インフォメーションの「椎原保」作品とは異なり、作家の父親である「椎原治」氏(1905〜1974)の写真の関連である。そこは恰も「椎原治記念館」の趣すらある。

その展示室内には椅子が3つ程置かれている。これらに座って大いに腑に落ちる気になれるのであれば、その人は大いに腑に落ちれば良いだろう。

ベスト判という懐かしいフォーマットが見える。木製の引き伸ばし機の電源コードは袋打ちでプラグは丸型。コンタクトプリントの中のパフォーマンスの様な事をする美大生は今は相対的に少ない。しかしノスタルジーに陥ってはならない。それでは「別館」が「浪花千栄子」の貼ってある「昭和酒場」になってしまう。この「別館」への入口付近には、そうしたノスタルジーを戒める文言が貼ってあったりもする。そしてそれは写真の因業論としても読める。1976年中に書かれただろうその全文を引用する。

福野輝郎

 

 1930年代の一人の作家の、ここに現前している営為の痕跡は、ともすれば、記憶にしまわれた映像が引きずり勝ちの、あの懐かしさと云う萎えたロマンティシズムをそれ自身が断罪している。見る者は、殊更、時代背景としてのシュルレアリズムや、それが前衛と云われたかも知れない手法の奇矯さに関心を寄せる必要もない。その目新しさを、「失われた時」に限定する権利はいまなおわれわれにはなく、知られざる世界の構成に向けて、あらゆる領域の詩的言語がようやく孤独な作業を始めたと云うこの「現実の時」の中で、その映像はやはり新しいのである。
 事物を写しとる機械は、この作家にあって文字通りの写実の道具とはならなかった。写す行為は事物を巧妙に写しとることによって完結すると云う、あの自然主義の傲慢さはそこには一切ない。眼はそのような完結への計略に開かれてはいず、ただ事物のもつ存在の抽象性に集中している。
 この抽象性への透視こそ、終りのない運動の持続として、何よりもこの作家の写す行為を支えているのだ。決して眼に淫することのないその視線は誠実であり、恣意的な、いわゆる抽象への誘惑からも自由である。
 埋蔵さながらに、日々絶えざる腐蝕にさらされた物質としての紙片の表層から、ちょうど印画紙があの暗闇の液体の中で次第にその画像を鮮明にしてゆくように、覗かれ、あるいは覗かれてしまっていた世界は、いま半世紀を経て、見る者の前にこの上もなく明るく立ち現われている。

 

「眼はそのような完結への計略に開かれてはいず、ただ事物のもつ存在の抽象性に集中している。この抽象性への透視こそ、終りのない運動の持続として、何よりもこの作家の写す行為を支えているのだ。決して眼に淫することのないその視線は誠実であり、恣意的な、いわゆる抽象への誘惑からも自由である」。妖かしへの抗い。そしてこれは隣室の粘土に向けられた言葉の様にも読める。「交わす」。

上掲引用文は、1977年の「椎原治回顧展」(1977年1月6日〜29日)の三つ折パンフレットの中葉に印刷されているものだ。その左に1940年の「椎原治」氏の言葉が記されている。

 繪畫と同じ道を寫眞は何時までも進んでゆくべきではない。繪畫の影響に依って進歩した寫眞は、最早繪畫と違った別の、寫眞としての、軌道にのるのが本當ではないか。

 道具――あらゆる藝術を表現する手段又は方法はマテリアルを決定する。偉大なる藝術作品の上にはこれは確定的なものではないが、又道具を適當に使ふ事は偉大なる藝術作品を作成する根源となり素材と道具を最もよき條件に置く事がその作品の價値を高める。以上の様な意味で寫眞のゆくべき道は決定され、よりよき理想に向かって邁進する時代は既に現代でなければならぬ。

 

丹平写真集 “光” 昭和15年6月発行より

 

この文章を会場でつらつらと読んでいたら、その中頃に回転軸が見付かった。「適當」という単語である。この時代に於けるこの文章中の「適當」は、「 ある状態目的要求などにぴったり合っていること。ふさわしいこと(スーパー大辞林)」の意味で用いられている筈だ。しかし今ではそれを「テキトー」と書ける様な、実に高田純次的な意味として流通する事が多い。「いい加減」と同様のダブル・ミーニング。

この昭和15年の文章の「適當」を「テキトー」に置き換えてみると、その文章の全体の意味が180程も変わってしまう。「道具をテキトーに使ふ事は偉大なる藝術作品を作成する根源となり素材と道具を最もよき條件に置く事がその作品の價値を高める」。後段の「最もよき條件」が「テキトー」によって、確定的な「点」としてのものではなくなる。高田純次の「テキトー」もまた「躱す」芸なのであり、それは障害物によって発生する回折的なゆらぎとして現れる。

かいせつ【回折】

(名)スル
〔 diffraction 〕
波動の伝播が障害物で一部さえぎられたとき,障害物の影の部分にも波動が伝播してゆく現象。障害物の大きさと波長が同程度のとき顕著になる。音波電磁波光 X 線のほか,電子線中性子線などの粒子線でも,その量子力学的な波動性のために回折が起こる。

 

スーパー大辞林

 

粘土の「適當」やカメラの「適當」を、粘土の「テキトー」やカメラの「テキトー」にし続ける。それが一番「楽」なのではないだろうかと「修行」を見ていて思った。「簡単」ではないが。